二十七、大仏造営の布陣
平城京に戻った聖武帝は仏教に没頭し、のめり込んでいった。遷都迷走と共に大仏建立の地も模索をしていた。
平城京に還都した聖武天皇は外京の東の山裾に有った金光明寺(金鍾寺(きんしゅじ))である。
もともと夭折(ようせつ)した聖武の皇子の冥福を祈るための建立された山房である。この地に大仏造立に向け歩み出すのであった。
大仏造立の廬舎那仏(るしゃなぶつ)への影響は河内の知識寺(ちしきじ)で拝んだことにあると伝えられ、聖武は早くより華厳(けごん)の教義に惹かれていたようだ。
廬舎那仏の教えは事々無礙(むげ)・重々無尽の法界で、梵網経が描く世界が大仏の台座の蓮弁に線刻されている。一枚の弁に上・中・下の三段の仏界に別れ、上段に釈迦を中心に左右、各十一体の菩薩が集まり釈迦の頭上か発せられる十二本の光明に数体ずつの化仏が居て、中段は無色界、色界、欲界の三階に別れ描かれ、下段は須弥山を中心とした仏界が描かれ、弁一枚に気宇壮大な仏教の世界を描かれているものである。
大仏と総国分寺の仏教による鎮護国家への先例は、隋・唐に有った一洲ごとの一寺を置いては第三代高宗の妃則天武后(そくてんぶこう)に習ってのことだった。
知識寺の仏像から大仏への発想は玄や吉備真備などの遣唐使の見聞による影響は窺える。
巨大な像物は中国の敦煌・竜門・雲崗などを朝廷は聞き大きな刺激と影響が有ったと思われる。日本には石仏を造る場所も地域も見当たらず、金銅の仏像に辿り着いたに過ぎない。大仏造立には膨大な資金と物資と人員が必要とされ、諸国より徴発された。
東大寺大仏造立には行基と良弁の貢献は大きい。聖武帝の思いは民衆の「一枝の草一把の土を持ち寄って民衆の協力」が理想であった。
この理想の実現には行基とその集団であった。紫香楽に大仏造立の詔が出された四日後には多くの弟子たちを引き連れ勧進活動を続けた。
また後の東大寺別当で根本僧正と呼ばれた良弁が支えた存在を忘れてはならない。
木材や資材に5万五九〇人・役夫百六十六万五千七十一人・鋳造等に三十七万人・鋳造役夫五十一万四千九百一人・米五千石・鋳造(ちゅうぞう)に使用する材木は途方もない量で示された造立必需品は断片的であり、何より巨大仏像大仏を納める大仏殿には播磨国から巨木を50本を瀬戸内海、木津川を遡って奈良にその苦労も偲ばれる。
それにも増して鋳造技術は大陸より招かれたと思われ、前例のない国家大事業となった。
大仏完成前にして聖武帝の頭痛は大仏に塗装する金がない事であった。折しも陸奥国から黄金が産出した知らせが届いた。
年号を感謝の意を著すために「感宝」と改められた。
完成間近になるにつけ聖武帝の体力は衰え始め、宮中で千人の僧を得度させたり、天下に恩赦を与えたりして聖武帝の健康を祈願した。
その頃にようやく聖武帝の皇女の阿倍内親王を即位させた。大仏の本体鋳造が出来、後は塗金を施すだけであった。
大仏の本体の重量250トン、弁座30トン、金色に輝く大仏が出来上がった。
天平勝宝四年(752)三月十四日に開眼供養が執り行われた。
開眼の九日の当日は菩提を導師に元聖武帝・光明皇后・孝謙女帝の三人は大仏殿に布を敷いた板殿に座し居並ぶ公家、重鎮官人と僧侶ら静まったなか菩提の手に持った筆が大仏の眼精に点ずる、その手に持った紐が長く伸び聖武らの手に繋がっていた。
読経に雅楽に舞にあでやかに、はでやかに開眼供養は執り行われた。
★良(ろう)弁(べん)(689~773)東大寺の僧、出自は近江国の百済氏とも相模国の漆部(ぬりべ)氏(し)ともいう。義淵に師事し新羅の僧審祥に華厳を学ぶ、神亀五年(728)某王の供養の為に金鐘寺となる山房が建立されたが良弁は智行僧として怕言ったと思われる。
ここを舞台に講師として六十華厳を講義し活躍をする。少僧都となって翌年の大仏開眼供養には東大寺別当に任命される。
★行基(668~749)この大仏造立に貢献した人物に行基がいる、河内国大鳥(おおとり)郡(ぐん)蜂(はち)田(た)(現家原寺)に生れ、父は渡来人、母は蜂(はち)田首(たおびと)虎(とら)身(み)。十五歳で出家し、大和国葛城上郡の金剛山山腹で修業し、山林修行者として各地を廻ったが、その後山林暮らしを止め故郷の家原寺に帰った。
三階教に出会ってからは民衆宗教の活動に変更、布施行、布施屋、船屋や架橋、ため池作り、土手や道作りなどの社会事業に、民衆の信仰の寺院を建立、再建もした。
こう言った社会事業に不審を受け、制圧や叱咤を受けた。その内、行基の社会奉仕を理解され活動は許され、大仏造立事業に協力し大僧正に任じられ、行基の建立した寺院は四十九院と呼ばれ、開創または仏像の行基制作を伝承とする寺院は七百七十箇所を数える。生存中から菩薩と呼ばれた。晩年平城京は喜光寺で暮らし没した。
◆華厳宗*南都六宗の一つ『大方広仏華厳経』『華厳経』それに関連する諸経、本山は東大寺。全世界は毘廬舎那仏の顕現、森羅万象、一見無関係と思われる相印(そういん)相関(そうかん)関係(かんけい)があると思われている。天平八年(736)来朝した唐僧道璿(どうせん)のように精通しいて影響を受けた。河内国の知識寺には信徒による六丈の廬舎那仏が安置され後に東大寺建立の機縁となった。
※律義で気まぐれな聖武帝は仏教に深く帰依し大仏殿造立について、その発心は民と共に造ることが重点に置かれ、鎮護国家の心で国を思い祈願して建立に心身共に傾けた。東大寺は総国分として、諸国に国分寺の配布をすることに国家の命運をかけた。
仏教への影響は、六十華厳による壮大な廬舎那仏(るしゃなぶつ)の世界の教えに従って、中国の則天武后にある仏教による国を治めるにある。
平城京に戻った聖武帝は仏教に没頭し、のめり込んでいった。遷都迷走と共に大仏建立の地も模索をしていた。
平城京に還都した聖武天皇は外京の東の山裾に有った金光明寺(金鍾寺(きんしゅじ))である。
もともと夭折(ようせつ)した聖武の皇子の冥福を祈るための建立された山房である。この地に大仏造立に向け歩み出すのであった。
大仏造立の廬舎那仏(るしゃなぶつ)への影響は河内の知識寺(ちしきじ)で拝んだことにあると伝えられ、聖武は早くより華厳(けごん)の教義に惹かれていたようだ。
廬舎那仏の教えは事々無礙(むげ)・重々無尽の法界で、梵網経が描く世界が大仏の台座の蓮弁に線刻されている。一枚の弁に上・中・下の三段の仏界に別れ、上段に釈迦を中心に左右、各十一体の菩薩が集まり釈迦の頭上か発せられる十二本の光明に数体ずつの化仏が居て、中段は無色界、色界、欲界の三階に別れ描かれ、下段は須弥山を中心とした仏界が描かれ、弁一枚に気宇壮大な仏教の世界を描かれているものである。
大仏と総国分寺の仏教による鎮護国家への先例は、隋・唐に有った一洲ごとの一寺を置いては第三代高宗の妃則天武后(そくてんぶこう)に習ってのことだった。
知識寺の仏像から大仏への発想は玄や吉備真備などの遣唐使の見聞による影響は窺える。
巨大な像物は中国の敦煌・竜門・雲崗などを朝廷は聞き大きな刺激と影響が有ったと思われる。日本には石仏を造る場所も地域も見当たらず、金銅の仏像に辿り着いたに過ぎない。大仏造立には膨大な資金と物資と人員が必要とされ、諸国より徴発された。
東大寺大仏造立には行基と良弁の貢献は大きい。聖武帝の思いは民衆の「一枝の草一把の土を持ち寄って民衆の協力」が理想であった。
この理想の実現には行基とその集団であった。紫香楽に大仏造立の詔が出された四日後には多くの弟子たちを引き連れ勧進活動を続けた。
また後の東大寺別当で根本僧正と呼ばれた良弁が支えた存在を忘れてはならない。
木材や資材に5万五九〇人・役夫百六十六万五千七十一人・鋳造等に三十七万人・鋳造役夫五十一万四千九百一人・米五千石・鋳造(ちゅうぞう)に使用する材木は途方もない量で示された造立必需品は断片的であり、何より巨大仏像大仏を納める大仏殿には播磨国から巨木を50本を瀬戸内海、木津川を遡って奈良にその苦労も偲ばれる。
それにも増して鋳造技術は大陸より招かれたと思われ、前例のない国家大事業となった。
大仏完成前にして聖武帝の頭痛は大仏に塗装する金がない事であった。折しも陸奥国から黄金が産出した知らせが届いた。
年号を感謝の意を著すために「感宝」と改められた。
完成間近になるにつけ聖武帝の体力は衰え始め、宮中で千人の僧を得度させたり、天下に恩赦を与えたりして聖武帝の健康を祈願した。
その頃にようやく聖武帝の皇女の阿倍内親王を即位させた。大仏の本体鋳造が出来、後は塗金を施すだけであった。
大仏の本体の重量250トン、弁座30トン、金色に輝く大仏が出来上がった。
天平勝宝四年(752)三月十四日に開眼供養が執り行われた。
開眼の九日の当日は菩提を導師に元聖武帝・光明皇后・孝謙女帝の三人は大仏殿に布を敷いた板殿に座し居並ぶ公家、重鎮官人と僧侶ら静まったなか菩提の手に持った筆が大仏の眼精に点ずる、その手に持った紐が長く伸び聖武らの手に繋がっていた。
読経に雅楽に舞にあでやかに、はでやかに開眼供養は執り行われた。
★良(ろう)弁(べん)(689~773)東大寺の僧、出自は近江国の百済氏とも相模国の漆部(ぬりべ)氏(し)ともいう。義淵に師事し新羅の僧審祥に華厳を学ぶ、神亀五年(728)某王の供養の為に金鐘寺となる山房が建立されたが良弁は智行僧として怕言ったと思われる。
ここを舞台に講師として六十華厳を講義し活躍をする。少僧都となって翌年の大仏開眼供養には東大寺別当に任命される。
★行基(668~749)この大仏造立に貢献した人物に行基がいる、河内国大鳥(おおとり)郡(ぐん)蜂(はち)田(た)(現家原寺)に生れ、父は渡来人、母は蜂(はち)田首(たおびと)虎(とら)身(み)。十五歳で出家し、大和国葛城上郡の金剛山山腹で修業し、山林修行者として各地を廻ったが、その後山林暮らしを止め故郷の家原寺に帰った。
三階教に出会ってからは民衆宗教の活動に変更、布施行、布施屋、船屋や架橋、ため池作り、土手や道作りなどの社会事業に、民衆の信仰の寺院を建立、再建もした。
こう言った社会事業に不審を受け、制圧や叱咤を受けた。その内、行基の社会奉仕を理解され活動は許され、大仏造立事業に協力し大僧正に任じられ、行基の建立した寺院は四十九院と呼ばれ、開創または仏像の行基制作を伝承とする寺院は七百七十箇所を数える。生存中から菩薩と呼ばれた。晩年平城京は喜光寺で暮らし没した。
◆華厳宗*南都六宗の一つ『大方広仏華厳経』『華厳経』それに関連する諸経、本山は東大寺。全世界は毘廬舎那仏の顕現、森羅万象、一見無関係と思われる相印(そういん)相関(そうかん)関係(かんけい)があると思われている。天平八年(736)来朝した唐僧道璿(どうせん)のように精通しいて影響を受けた。河内国の知識寺には信徒による六丈の廬舎那仏が安置され後に東大寺建立の機縁となった。
※律義で気まぐれな聖武帝は仏教に深く帰依し大仏殿造立について、その発心は民と共に造ることが重点に置かれ、鎮護国家の心で国を思い祈願して建立に心身共に傾けた。東大寺は総国分として、諸国に国分寺の配布をすることに国家の命運をかけた。
仏教への影響は、六十華厳による壮大な廬舎那仏(るしゃなぶつ)の世界の教えに従って、中国の則天武后にある仏教による国を治めるにある。