歴史の足跡

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歴史は語る・34・承和の変

2014-10-26 05:24:17 | 例会・催事のお知らせ
三十四、承和(じょうわ)の変(へん)

光仁十四年(823)四月十六日嵯峨天皇は譲位し、代わって異母兄弟の大伴親王皇太子は淳和天皇として即位した。この即位と同時に正良親王に決められた。
その次を考えてみれば自分の子の恒貞親王に譲位の暗黙の見返りを予測しての譲位が皇太子正良親王への擁立に有った。
桓武天皇の後継者には平城天皇、次に嵯峨天皇、そして次に淳和天皇と異母兄弟が弟に続けて譲位していったが、ここに自分の皇子に継がせたい思いが過ぎって生じたのが、承和の変である。
承和九年(842)嵯峨上皇が五十七歳で死去し、淳和上皇の方が、それより早くその二年前の五十五歳で没した。
嵯峨上皇の死後直後の春宮坊帯刀伴健岑(とうぐうぼうたちかきとものこれみね)と但馬権守橘逸勢が皇太子恒(つね)貞(さだ)皇太子(こうたいし)を奉じて挙兵し、仁明天皇を廃する計画を立てそれが発覚をした。
発覚した原因は伴健岑が平城天皇の皇子阿保親王を謀反に誘ったが阿保親王は前回の薬子の事件で懲りて、ここが挽回とばかりに藤原義房に手渡し良房が仁明に知らせ露見した。
建岑、逸勢に至っては流罪、大納言藤原愛発、中納言藤原吉野等は退けられ淳和天皇の近臣者は排除された。直ちに恒貞親王の皇太子が廃され、良房の甥で仁明天皇の皇子の道康親王が皇太子になった。
仁明天皇はこれまで両統迭立されてきた状態の断ち切るに絶好の機会を得た感じである。結果藤原の良房の天皇家と姻戚関係を造った面で勝利した。
この良房後が摂政時代の先駆けと成った。
承和の遣唐使は親政三代に渡り唐風追随の平安に入って二回目となる遣唐使は一定の成果を収め、参議藤原常嗣が大使に弾正少弼篁副使によって唐の医、陰陽、雅楽、天文、暦などと唐の情勢を知った。
桓武天皇系に平家が誕生したように、嵯峨は多数の皇子に源朝臣の氏姓を与えた。

★恒貞親王(825~884)淳和天皇の第二子。母は皇后正子。嵯峨太上天皇が没すると、承和の変が発覚すると皇太子が廃された。その後は出家し恒(ごう)寂(じゃく)と称し貞観18年に創建された大覚寺の開祖となる。
★藤原良房(804~872)平安の公卿、父は北家の冬嗣、母は南家真作の女。妻は嵯峨天皇の皇女。三十一歳で参議に、翌年権中納言、三十六歳で中納言になった。
承和の変では伴健岑・橘逸勢を謀反罪で捕え、皇太子恒貞親王を廃し、道康親王を皇太子に立て、大納言、右大臣に昇進した。
翌年文徳天皇が没すると、惟仁親王が九歳で即位し、外戚として政務を摂行した。良房が摂関家を不動の基にした。
◆「承和の変」承和九年(842)七月に「承和の変」が勃発した。藤原良房による。伴健岑(ばんこわみね)、橘逸勢らの排斥事件。嵯峨太上天皇の死をきっかけに春宮坊帯(とうぐんぼう)太刀(たちはぎ)の伴健岑、但馬権守の橘逸勢が皇太子恒貞親王を奉じて謀反が計画されていると仁明天皇に上奏があった。
恒貞親王は皇太子を廃し、両者は流罪に処された。この事について父淳和太上天皇は再三固辞したが、許されなかったと言う。
承和の変が発覚すると皇太子は廃された。この事件は裏に嵯峨・仁明派の官人と淳和・恒貞派の官人の対立を利用して藤原良房陰謀説がある。

※藤原良房の画策に承和の変が誘発され、反良房の淳和天皇の皇子恒貞親王が謀反と判定され皇太子を廃し、出家をする、平安時代の前半の摂関時代の先駆けとなる藤原北家の時代に移って行く、良房の女明子(めいし)の生んだ惟(これ)仁(ひと)親王が即位し外戚として権勢を振る形が良房から始まる。
生まれた惟仁親王は皇太子になり、文徳天皇の思いは紀氏所生の第一子惟(これ)喬(たか)親王を皇太子にしたい思いも良房への遠慮で出来なかったと言う。





歴史は語る・33・平安京の新都の陰影

2014-10-24 05:13:40 | 例会・催事のお知らせ
三十三、平安京の新都の陰影

桓武天皇には平安遷都をしても、拭い切れない、暗い影を秘めながら政務と皇位の方向性を定めなければならなかった。
皇位継承の皇太子安殿親王の心身不調の蔭に、早良親王の誤った処遇の悔いと怨霊に心痛める日々に、重ねて井上内親王の事が増幅させた。
早良親王は桓武の弟、自分の皇子に継がせたい思いが冷遇し謀反の疑いも成り行きに任せ非業の死に、その報いを恐れ天皇の称号を追悼した。
また井上内親王も他戸親王と共に闇に葬られた。改めて光仁天皇の皇后と復した。桓武天皇は後継については慎重にならざるを得なかった。
延暦二十五年(806)安殿親王は大極殿に於いて即位をした。元号を大同と改め、平城天皇とした。同時に皇太子に同母弟十二歳の賀美能親王が立太子をした。
そんな折り、伊予事件が起きた。大同二年(807)藤原宗成なる男が、桓武天皇の皇子の一人である伊予親王が謀反を企てていると聞き知って、大納言藤原雄友が右大臣藤原内麻呂に相談をして明るみに出た。
危険を知った伊予親王は先に宗成が謀反を勧めたことを天皇に奏上した。所が宗成親王こそ主犯者だと弁解をした。
これを聞き受けた天皇は伊予親王と母藤原吉子を大和国の河原寺に幽閉をした。食事を止められること十日間、運命を悟った二人は毒をあおって自害をした。
その後平城天皇は呵責(かしゃく)の念で、怨霊に際悩まされ、風病(躁鬱病(そううつびょう))にかかって譲位の意を示し東宮に移ってしまった。
これを受けて践祚(桓武天皇より践祚の時より別の日に行うことが常例となった。)即位式を挙げた嵯峨天皇は平城天皇の弟、この時には嵯峨天皇には皇子が無く、平城天皇の高岳親王が皇太子になった。
平城上皇は寵愛していた藤原薬子らや多数の官僚と共に平城故宮に移った。ここに平安京と平城京の二元政治が始まり、それぞれ主権をかけて発令を下した。
この頃平城京で薬子の兄の仲成が平城宮改修に二千五百人の雇夫達と立ち働いていた。薬子の勅令に関わる職責についていたが、こう言った勅令は嵯峨天皇の不意打ちに行われ。
遂に嵯峨天皇は薬子の職を解任、薬子の兄仲成を逮捕監禁で対決姿勢が鮮明になってきた。この事件が「薬子の変」と呼ばれておる。
上皇は東国に入り再起を図ったが、坂上田村麻呂らに行く手を阻まれて出家、薬子も毒を飲んで自殺をした。その後平城上皇は五十一歳まで生き天長元年(824)に没した。

★平城天皇(774~824)平安初期の天皇。在位三年間。桓武天皇の第一の皇子。母は式家の藤原良継の娘。皇后乙牟漏(おとむろう)。藤原種継暗殺事件に連座し皇大弟の早良親王失脚後に立太子した。藤原薬子と密通し桓武天皇の死の際に践祚。即位して大同に改元した。
治世は短く情緒不安定なうえ鬱病に侵されていた。伊予事件では親王と母藤原吉子を死に至らしめ、薬子の変では遷都を強行しょうとして失敗、出家をした。
★嵯峨天皇(786~842)在位十四年間。父桓武天皇、平城天皇とは同母弟、兄の平城天皇の病気の後二十四歳で践祚。政治は桓武天皇を継承し、天皇の権力を強化した。淳和天皇に譲位した後も上皇として君臨をしていた。
★伊予(いよ)親王(しんのう)(?~807)桓武天皇の第三子、母は藤原是公の娘吉子(きっし)、桓武宇天皇は伊予親王を寵愛し、桓武天皇没後は藤原宗成によって謀反の首謀者とされ、伊予親王と母吉子は川原寺に幽閉され食を絶たれ、毒を仰いで死去した。

◆薬子(くすこ)の変*薬子の変平城天皇の寵愛する藤原薬子とその兄藤原仲成らによるクーデター事件。病気で退位した平城上皇が嵯峨天皇から政権奪取を目指して挙兵。平城京遷都を企てた。所が平城天皇の平城京遷都と「人心騒動」「二所朝廷」に賛同は得有られず、仲成は逮捕殺害、上皇は出家、薬子は自殺に終わった。

※またしても皇位継承に暗い影が覆う、平城天皇の異質な振る舞いに平城京へ遷都とそれに加わった仲成都薬子事件は軽率な振る舞いだった。伊予親王事件でも明らかに陰謀と窺える事件にも手を差し伸べなかった。

まだまだ平安京は不安定な状況であったようである。

『歴史研究会』第30回全国福井若狭大会

2014-10-19 12:48:22 | 例会・催事のお知らせ
『歴史研究会』創立56周年記念・第30回全国大会が平成26年10月17日から19日に福井県はユアーズホテルフクイで
盛大に開催された。
★と  き 平成26年10月17日(金)・18日(土)・19日(日)=二泊三日
★第一日目 式典・記念講演・祝宴=[会場]ユアーズホテルフクイ
★第二日目 見学会①中世の越前・福井を体感する=一乗谷朝倉氏遺跡(復原町並)、養浩館庭園ほか
★第三日目 見学会②古代の若狭・福井を歩く=国宝・明通寺、若狭三方縄文博物館ほか
●19日式典当日は各種団体の御代表の祝辞の後、記念講演が行われた・「幕末福井伝~松平春嶽をめぐる人々~」角鹿尚計先生(福井県立郷土歴史博物館副館長)・「越前から皇位に就いた継体天皇の伝説ロマン」青木豊昭先生(元福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館館長)記念式典の後、アトラクション「馬鹿ばやし」が地元馬鹿ばやし保存会の皆様で行われた。
●■見 学 会
【二日目】見学会①=10月18日(土)貸切バス=ユアーズホテルフクイ前集合・出発→一乗谷朝倉氏遺跡(復原町並)(記念撮影予定)→福井市立郷土歴史博物館→養浩館庭園→福井の文化「魚屋」で昼食→丸岡城(日本最古の天守閣)→称念寺(新田義貞公墓所)→大安禅寺(越前松平家菩提寺)など→ユアーズホテルフクイ(午後6時着予定)
【三日目】見学会②=10月19日(日)貸切バス=ユアーズホテルフクイ前集合・出発→(北陸道・7月全線開通の舞若道)→国宝明通寺→熊川宿→三方五湖近くの「水月花」で昼食→若狭三方縄文博物館→水月湖など
→解散①=敦賀駅(午後4時30分着予定)→解散②=福井駅(午後5時30分着予定)

 福井県は、日本海に面する越前国と若狭国の両国をもって県域としています。越前国は越の国と呼ばれた古代から数多くの歴史の舞台になりました。中でも福井が最も輝いた時代が継体天皇と幕末の時代です。
 継体天皇は50年あまりを越の国で過ごした後、57歳で都に上り第26代天皇として即位しました。即位するまで越の国では越前漆器の奨励や福井平野の治水、笏谷石採掘に貢献するなど数々の伝説を残しました。
 また、激動の幕末維新期において徳川家門筆頭であった越前福井藩の第十六代藩主松平春嶽(慶永)は、橋本左内、横井小楠、由利公正などを指導者として人材登用、殖産興業にいち早く取組み藩政改革に成功するなど福井藩は「雄藩・智藩」として知られ、将軍継嗣問題で安政の大獄に散った橋本左内の「近代国家構想」は坂本龍馬など多くの志士にも影響を与えました。
 若狭国は古くから神に供え天皇に捧げる食物である「御贄(みにえ)」を供給する「御食国(みけつくに)」であったことから奈良や京都との繋がりが深く多くの古社寺・仏像があります。また鯖街道をはじめとした若狭の食に関する歴史・伝統・文化に触れることができます。縄文人のタイムカプセルといわれた三方五湖周辺の鳥浜貝塚や水月湖の湖底堆積物「年縞(ねんこう)」なども注目です。魅力たっぷりの福井県への歴史探訪がご満足いただけるよう努め、心より歓迎申し上げます。

歴史は語る・平安遷都と蝦夷征伐

2014-10-16 05:44:43 | 例会・催事のお知らせ
三十二、平安(へいあん)遷都(せんと)と蝦夷(えぞ)征伐(せいばつ)

延暦十三年(794)十月二十二日、桓武天皇新京に移る。十一月山背国を山城国に改め、新京を平安京と名付ける。
新京誘致に秦(はた)氏(し)の影響が語られている。そう云えば平安朝には多くの渡来人の活躍を見ることが出来る。桓武天皇の母が高野新笠で渡来人の出自で、長岡京で活躍した種継の母も、蝦夷征伐の坂上田村麻呂も菅原道真も渡来系を祖先に持つ人々であった。
新天地の平安京には新勢力として渡来人の活躍できる土壌が有ったのかも知れない。誘致の提案者は、あの道鏡を追放に尽力をした和気清麻呂が主唱者と言われている。
平城京の時には恭仁宮、紫香楽宮、難波宮と国民は疲弊しきっていた、今回も長岡京から平安京への遷都に不満を恐れた朝廷の気遣いが有った。回は長岡京から平安遷都は桓武の強い指導力によって国民の同意を得たようであった。
延暦十四年(795)郡臣達は正月には「新京楽、平安楽土、万年春」と言って歌い踊ったと言う。政権の治世は右大臣神王、大納言壱志濃王と言う二人の皇族を中心とした布陣であった。
この頃東北政策はどうであったか、遷都も間にも動きがあった。光仁天皇即位後の宝亀十一年(780)伊治呰麻呂の乱が起き、蝦夷出身の呰麻呂が反乱を起こした。
延暦七年(788)朝廷は陸奥国按察使(みちのくこくあぜち)多治(たじ)宇美(うび)を鎮守将軍に、安倍猿島墨縄を副将軍に任命をした。此の兵の徴発を坂東だけではなく、東海道。東山道他諸国より広く徴発の対象となった。
兵力は五万二千八百人翌月三月に多賀城(たがじょう)集結(しゅうけつ)を目指して膨大な物資の調達と兵站線の確保の基地が設置された。予定通り多賀城に集結した大軍は征夷大使の指揮のもと胆沢を目指して北進をした。
伊治呰(いじあざ)麻呂(まろ)お反乱以来、当地の情報に暗く側道からの襲撃や渡河作戦で多大な被害を被った。地理に熟知していた酋長弖流爲(しゅうちょうあてるい)の作戦に穏弄され、惨憺たる被害に戦意を喪失をしてしまい、帰郷を決意長岡京で天皇に節刀を返上した経緯があった。
桓武天皇は東北作戦では大きな目標を胆沢に置いていた。胆沢の地は豊かな水量と肥沃な土壌で豊かな動力で開墾されて、蝦夷人の別天地であった。
先住民族の蝦夷征伐は後発の大和人に対して必死の抵抗が見られた。そんな誇り高き朝廷軍は敗退は屈辱なことであった。
第二次蝦夷征伐は詳細には分っていないが大伴弟麻呂を征夷整体将軍大将軍として節刀を受け、副将軍に田村麻呂らもとに十万の兵を持って攻めたが大きな成果もなく田村麻呂の奮戦が目立って評価されたが、胆沢は攻略はできなかった。
延暦十年(791)平安京遷都から一年後、坂上田村麻呂を最高責任者として作戦は立てられた。
この時に坂上田村麻呂三十九歳であった。
田村麻呂の家系は東漢と言う有名な帰化人であった。
四代前の老は壬申の乱で大海人皇子方の味方に付いて功績をあげ、その後の家系は坂上家を起こすために奮闘し武人揃いであった。
父苅田(かりた)麻呂(まろ)は藤原仲麻呂も乱に際立った活躍を残し、称徳死後も時勢を読み巧みに家系の活路を見出していった。
苅田麻呂は伊治城を築かれると陸奥鎮守府将軍になり親子二代に渡り蝦夷征伐に参画している。数々の英雄伝説を残した田村麻呂は矢継ぎ早に蝦夷攻略の手を打っていった。
玉造塞と伊治城との間に駅を造ったり、東国の農民を九千人を移住させたりした。阿弖流爲ら酋長のゲリラ戦に次々撃破、伊治呰麻呂の反乱屈辱を晴らすが如く怒濤の如く蝦夷地の別天地胆沢を占領をした。阿弖流為は更に奥地に逃げ込んだ。
この肥沃(ひよく)な胆沢の地に入植させるべく陸奥国府に浮浪人を送らせた。胆沢陥落後しばらく頑固に抵抗していた首長大墓公阿弖流為・盤具公母礼等は配下の五百人を引き連れて田村麻呂に降伏を申し出てきた。
田村麻呂は二人の投降者を平安京に引き連れて帰り、天皇にそのことを報告した。捕虜として引き連れて帰った二人に助命を嘆願したが聞き入れられず、河内の杜山でふたりの首長を斬首にした。
田村麻呂の評価は東北を制圧したことに大将軍として絶賛をした。

★坂上田村麻呂(728~786)奈良時代の武人、坂上苅田麻呂の子。延暦十年(791)蝦夷征伐の為に副使に任命される。成果を上げ昇進し五年後陸奥守、鎮守府将軍を兼務、実質的な陸奥支配の責任者。
797年に征夷大将軍に任命され、戦線を北上させ胆沢城を築城した。多賀城に有った鎮守府をこの地に移転させた。蝦夷の首長阿弖流為・母礼を降伏させた。
これらを伴って平安京に凱旋し、二人の助命を嘆願するが受け入れられず、斬首された。
★阿弖流為(?~802)平安初期の蝦夷の族長。蝦夷討伐軍と戦い強力な抵抗戦を指導し多大な損害を与えた。結果敗北し、母礼と共に500人が降伏し平安京に連行され田村麻呂の助命願いも聞き入れられず河内は枚方市で処刑された。
◆平安京*延暦十三年(794)から形式的には明治二年まで続いた日本帝都。桓武天皇は長岡京から平安京に遷都を決意、藤原葛野麻呂に新京に宅地を班給させた。山背国を山城国に改めて新京、平安京と号した。
◆秦氏*古代の渡来系有力氏族。天武朝に忌寸に改姓し、応神朝に渡来した。秦始皇帝の末裔と称し、朝廷の蔵の管理を司り、大蔵官に任じられた。(一説には百済系、新羅系と言う説もある)

※平安遷都で『平安楽土』と期待をした民衆に公家、貴族は長岡京から平安京に遷都で平穏を願っていたに違いない。奈良時代から平安時代に移っても内外の課題は、東北政策と百済・新羅が大きな課題に変わりはない。
大和朝廷の勢力範囲を北へ北へと北上に平定を急いだようだ。新羅、百済は小康状態の中、国内の政権の皇位継承でつまずきは許されない事情があった。
行政の官僚も奈良から京都へ、仏教も移転を模索、桓武帝は新都、平安京には一定の制限を加え、新時代を切り開こうと思っていただろう。

歴史は語る・31・長岡遷都

2014-10-14 06:32:34 | 例会・催事のお知らせ


三十一、長岡遷都

延暦三年(784)桓武天皇は山城国乙訓郡長岡に視察を命じた。長岡京遷都をめざし動き始め、翌年はこの地で朝賀を迎えたいと慌ただしい。
視察には藤原小黒麻呂と藤原種継と同行に官僚と警備の者を連れての視察であった。
早速、突貫工事が始められた。この宮のへの造営のために動員された諸国の百姓は三十一万四千人と言われている。
取り敢えず、その年の内に天皇の遷(せん)居(きょ)が行われた。この時に華々しく采配し活躍したのが種継ぐと言われている。
その後十年かけて造営がされたが結果打ち切られて平安京に向けて変更された。
長岡京については本格的遷都ではなく平安京への復都として陪都(中国では別に都が造られた)であると見解が分かれ、規模にしては平城京や平安京より小さく、立地条件も芳しくない。
そんな長岡京造営の最中、延暦四年(785)九月二十三日、夜造営中の陣頭指揮に当っていた中納言式部卿の藤原種継が、体に二本の矢を射ぬかれて翌日死去する事件が起きた。
種継は藤原家式家の孫、清成の子であった。天皇の信任厚く内外の事皆決めると言われるほどの寵愛ぶりであった。その時桓武天皇、娘朝原内親王の伊勢神宮に斎宮として向かい、その途中の平城京まで見送りに行って、付近で狩りを楽しんでいた所、急遽長岡京に引き返した。
犯人は大伴継人。継人は鑑真和上を日本に連れ帰る功績があった。連座して直前に死した中納言大伴家持(おおとものやかもち)も死後除名と言う屈辱な仕打ちを受けた。
事は継人と共に佐伯(さえき)高成(たかなり)の自白に寄れば、そもそも家持が大伴、佐伯氏の糾合し早良皇太子の了解を経て起きた事象であった。
早良親王と種継は普段から仲が悪く、この事件で早良の責任は免れず、東宮を出た早良は9月二十八日の夜中、乙訓寺に幽閉され、自ら食事を絶ち十日間ご淡路島に移送される途中に絶命をした。実際は食事も出さず衰弱死したと言う。
そ の後、長岡京では安(あ)殿(て)親王が皇太子に、同母弟の神野親王(後の嵯峨天皇)が誕生し、同年に藤原旅子を母として大伴親王(後の淳和(じゅんな)天皇(てんのう))が誕生した。
所が長岡京は中途半端な形で未完成な状態に追い打ちをかけるように、延暦十一年(792)六月と八月に風水害に見舞われ、その洪水に皇太子安殿新王まで病床に伏し、その前に旅子、新笠、乙牟漏など続けて無くなって、不吉な兆候として早良親王の祟りとささやかれ、長岡京に見切りをつけ平安京への遷都を模索するのであった。

★藤(ふじ)原種(わらたね)継(つぐ)(737~785)宇合の孫、清成の子。母は秦忌(はたのいみ)寸(き)朝元(あさもと)の女。仲成、薬子の父。各役職を歴任し四十七歳にして中納言、造長岡京使に任ぜられ、造営を主導した。
その功に正三位に叙せられた。桓武帝が行幸中に、右大臣藤原是公と共に造営長岡京で留守中の夜中に大伴継人に・竹良に箭(や)を射られて負傷し翌日死去した。尋問の結果早良親王も関与していたことが露見し皇太子が廃されて憤死(ふんし)した。
◆長岡京*延暦三年(784)から10年間。山城国乙訓郡・京都府長岡市・大山崎町に営まれた。遷都の理由に「水陸の便」とされ桂川・木津川・宇治川の合流地点で、淀川に注ぐ、桓武天皇の妃高野新笠が渡来人と意識し、皇統正当化のために、積極的に中国の思想を取り入れた。
遷都は反体制直を抑え込む為に、計画的に執り行われた。和気清麻呂を摂津(せっつ)太夫(だゆう)に任命し、後期難波宮を解体し、新都を公表し、直後に造長岡使を任命をした。
難波宮を移築し、翌月には大極(だいごく)殿(でん)で朝賀の儀式をするほどの速さで進められ、造長岡使長官に藤原種継ぐが暗殺されるほど抵抗が強かった。
平城京の宮城門が移築される頃には一段落したが後期造営直後から夫人、皇太后、皇后の死から、早良親王の祟りを恐れるに及んで廃都を決定し、建設から10年後平安京に天皇は移る。造営工事に費やされた延べ人数は31万4000人が和雇(わこ)された。

※桓武天皇の遷都は平城京の天武系の払拭と、心機一転の思いがあった。それに井上内親王から高野新笠へ皇后が変わっての抵抗も見逃せない。早良親王、他戸親王と恨みを残す皇位継承の柵(しがらみ)があって、桓武は長岡京で渡来人の協力を得ようと試みた。
桓武天皇の遷都の協力者の藤原種継の暗殺は何より遷都反対の根強さの現れであった。桓武帝は早良親王の怨霊と言う幻想に怯えながら、更に平安京に向かって秦(はた)氏(し)の協力を求めて遷都を模索する桓武天皇であった。

歴史は語る・30・桓武天皇即位

2014-10-11 06:55:10 | 例会・催事のお知らせ
三十、桓武天皇即位

天武系以外の天皇が一世紀ぶりに誕生した。
折しも宝亀二年(771)光仁天皇の擁立の立役者の左大臣の藤原永手の突然の死によって平城京の政変が起きた。皇后井上内親王が光仁を呪詛したとして廃され、三カ月後、他戸親王が皇太子の地位を追われる。
これは井上内皇后・他(た)戸(と)親王(しんのう)と、高野妃と山部親王・早良親王の主権争いである。
皇后井上内親王・他戸親王は光仁天皇姉の難波内親王の死去にかこつけて呪詛したと嫌疑がかけられて、大和国宇智郡に幽閉され翌年の同じ日に死去している。少なくとも陰謀と粛清に他ならない。
替わって他戸の兄の三十七歳の中務卿の山部親王が皇太子になったが、この立太子は異例中の異例、母の高野新笠は百済からの血を引く皇太子で、この擁立に裏面から支えたのは藤原良継・百川兄弟であった。良継の娘は山部皇太子の妃になっており計算づくの擁立であった。
光仁天皇在位十一年間の間の記録は余り多くは残されていない。宝亀十一年(780)三月に陸奥の国に起こった叛乱である。
桃生城・伊治城などの造営に蝦夷の強い反発を呼び、陸奥国の海道の蝦夷が蜂起し桃生城を襲い、これを契機に三十八年間の動乱の時代が始まった。
天応元年(781)山部皇太子は病気の父光仁天皇から譲位し桓武天皇が誕生する。
この藤原良継の娘と桓武天皇(山部親王)の間に次の天皇になる平城・嵯峨天皇が生まれることになる。
桓武天皇には天武系の払しょくと、一庶民で渡来系の血筋を持つ母のコンプレックスの即位で平城京には未練も思い入れもなかった。
また旧来の皇族からの一新に又とない機会でもあった。しかしその旧来のしこりが噴出、一波瀾が有った。氷上川継の乱である。平城京で後継者の一候補になった塩焼王の子で天武の曾孫に当たる。
母は井上内親王の姉妹で血統から言えば桓武と遜色はない。
その従者が武器を持って乱入、捕獲された。捕えられて自白した所に寄れば、平城宮に押し入り、新帝桓武を廃し、川継を皇位に就けようと計らった。
そこで桓武は川継を逮捕したが光仁天皇の没後一年も満たないからという理由で死罪を免れて伊豆に配流された。
この事件で本当に川継が謀反を企てたと言う説と仕組まれた桓武側の陰謀とする説がある。
こうして平城京の柵を経て桓武は即位し母親の高野新笠は皇太夫人となった。また同時に同腹兄弟の早良親王が皇太子に立てた。
この後、早良皇太子に暗い影が忍びつつあった。宝亀五年(774)この頃には既に桓武の皇子の安積親王が生まれていた。

★光仁天皇((709~781)白壁皇子・在位十一年間、天智天皇の孫、志貴皇子の子。母は紀(き)橡(とち)姫(ひめ)。宝亀元年(770)称徳天皇が没すると、藤原永手・百川らによって擁立された。
井上内親王を皇后とし、翌年に他戸親王を立太子としたが、翌々年の772年に呪詛(じゅそ)の罪を問われ。皇太子を廃し、773年に高野新笠との間に生まれた山部親王を皇太子として、781年に病を理由に譲位した。
★桓武天皇(737~806)在位25年間。父は光仁天皇、母は高野新笠。当初は山部親王と称したが、称徳天皇が没し、父白壁の皇子が光仁天皇になって、井上内親王が皇号になって、その皇子の他戸親王が皇太子になった為に山部の皇子は官僚などしていたが、藤原百川の謀略によって、それまでの皇后、皇太子が廃され、山部親王が皇太子になった。
そして弟の早良親王が皇太子になったが、藤原種継の陰謀によって廃太子となった。変わって安殿親王が立太子したが病弱であり、無実で死んだ早良親王の怨霊と桓武天皇の心を悩ませた。
★藤原(ふじわら)永手(ながて)(714~771)房前の次男。母は牟漏女王。長岡大臣の号。藤原仲麻呂の乱の功績で昇進し、大納言、左大臣に転じ称徳天皇が没すると、藤原百川らと図り、白壁皇子を擁立した。
★早良親王(750~785)光仁天皇の皇子。母は高野(たかの)新笠(にいがさ)。桓武天皇同母弟。若くして東大寺に出家し,大安寺に住持した。藤原種継射殺事件で捕えられた大伴継人らの自白により、早良親王を君主にする大伴家持らの計画が露見して乙訓寺に幽閉させられた。10日余り食物を絶ち移送される途中で、河内国で没し、屍は淡路に送られ葬られた。
★藤原(ふじわら)良(よし)継(つぐ)(716~777)公卿,宇合の次男。母は石上麻呂の娘、初めは藤原宿奈麻呂と言ったが、良継と改めた。広嗣の乱に連座して伊豆に流され、復帰し越前・上総・相模・上野守を歴任。仲麻呂の乱に功があって昇進、その後内大臣に称徳が没すると白壁皇子を擁立した。藤原乙牟漏が桓武天皇の皇后となると外祖父として厚遇された。

※時代が変わっても皇位継承には粛清、淘汰が生じるのは古今東西、歴史の摂理か朝廷はそんな忌まわしい事柄や悪しきことに嫌気がさして新天地を目指すもの、桓武天皇も平城京を捨てて新京を目指すのである。
またもや桓武天皇に皇子も生まれ、摩訶不思議な藤(ふじ)原種(わらたね)継(つぐ)の射殺事件は出家した弟の早良親王に降りかかって行きあらぬ嫌疑(けんぎ)がかけられ、大伴家持らの自白で言い訳のできない状態に追い込まれ、幽閉され移送されて謎の死を遂げた、遺体は淡路島に送られ葬られ、早良親王の疑獄は闇の中に消えて行った。
その後は怨霊(おんりょう)を恐れ、御霊神社で魂を慰霊する皇族、公家、公卿の良心の呵責(かしゃく)だった。


歴史は語る29道鏡と宇佐八幡の宣託

2014-10-08 05:55:39 | 例会・催事のお知らせ





二十九、道鏡と宇佐(うさ)八幡(はちまん)宣託(せんたく)事件(じけん)

神護景(じんごけい)雲(うん)三年(769)事実上天皇に近い行動をしていた法王道鏡は、後は形式的手順を踏むだけになって行った。
そんな時に大宰府の祭祀を担当する官職にある習宜(すげの)阿曾(あそ)麻呂(まろ)が「道鏡を天皇にしたならば天下泰平になるだろう、と宇佐八幡神が言っている」と道鏡に触込んだ、これ幸いと真に受けた道鏡は、早速称徳に報告した。
これを聞いた称徳は輔(ふじ)治(じ)能(の)清(きよ)麻呂(まろ)(後の和気清麻呂)に「託宣を下したいことがあるから尼の法(ほう)均(きん)(和気清麻呂の姉)を寄こすように、と云う八幡神お告げがあった。」遠路の為に法均に替わって宇佐八幡に赴くように命じた。
所が清麻呂の持ち帰った内容は意に反するもので神は「わが国では国家始まって以来ずっと君臣の秩序が定っている。臣が君になったことは一度もない。
皇位には必ず天皇家の血筋を引く者を立てよ」との託宣し、道鏡排除のための協力を約束したと言う。
当然称徳、道鏡は納得したわけでもなく、道鏡は内心激怒をしただろう。
二人はこの託宣を捏造と決めつけ、清麻呂に因幡(いなば)員外(いんがい)介(すけ)に降格し左遷して大隅に配流、法均は還俗させ別部狭虫として備後に配流したのである。
誰が見ても清麻呂は宇佐八幡の神託をそのまま伝えただけで、誰かが仕組んだ罠にはまっただけに過ぎない。
その後、称徳は反省をしたのか「自分から皇位を願っても、諸聖、天神地祇の御霊が定めたものでなければ、かえって身を滅ぼすと・・・・・」道鏡への戒めの言葉を投げかけたと同時に自分にも戒めているような言い回しである。
称徳は由義宮に行幸し、此処を西京とする。由義宮は弓削行宮した時に整備されたものと思われ、規模は河内国大県・若江・高安三郡にまたがる位の大規模なものと考えられる。
神護景雲四年(770)由義宮に行幸した称徳はにわかに体調を崩した。
平城京に帰ったものの以後政務を見ることはなく、女官の吉備由利だけが病床の称徳のその意思を取り次いでいた。
この時点で道鏡の発言力や権威はなく、一切表に出ることが無い、称徳依存の地位だった。左大臣藤原永手が近衛府、外衛府、左右兵衛府を、又右大臣の吉備真備は、中衛府、左右衛士府の統率を担当し、万が一の体制がとられた。七七〇年八月四日、称徳は平城京の西宮の寝殿で死去した。時に五十三歳であった。
称徳の死を知った重臣たちは前後策を模索した。皇位継承者の人選に入り天武の孫の文室浄三とその弟の文室大市を指す吉備真備と永手、宿麻呂が推す天智の孫の白壁王の三人に絞られ、永手が称徳の遺詔を読み上げ決着した。その後、吉備真備は致仕して新しい時代の到来となった。
その日の内に白壁王は立太子し、称徳の高野山陵に埋葬を済ませた。道鏡は下野薬師寺に左遷、弟の浄人は土佐に配流された。
白壁王は即位し光仁天皇の誕生となった。天武系の長きに渡る政権の移譲は、皇位継承者の失墜に注がれてやがて後継者不足に迫ったことは誠に皮肉なことで、飛鳥浄御原宮から平城京の終焉を持って天智系の孫白壁王に以上されたことも歴史の不変則の摂理を垣間見る思いがする。
また王権に見向きも興味も示さない姿勢と、貫き終始、自ら酒におぼれる道化に扮した白壁王に朝廷の王権が負託されたのである。

◆宇佐八幡宮神託事件*宇佐八幡は伊勢神宮に次ぐ第二の祖廟。日本最初の神仏習合の官寺。祭神は誉田(ほむた)別(わけ)尊(みこと)・比売大神・大帯姫命。縁起によれば欽明朝から大神比義が広幡八幡麻呂の神託によって和銅五年(712)鷹居社を建

立した。『記紀』によれば宇佐国造がいて高魂(たかむすび)命(みこと)を祀っていたが九州で最初に大和朝廷に服属したと言う。

※この時期宇佐八幡者の神託がもたらされたかは定かではないが、朝廷と宇佐の関係は続いていたのか、神功皇后の九州に発した応神天皇の関係から深い結びつきがあったのか、穿った見方すれば朝廷の仕組んだ道鏡落としの罠であったかもしれない。
何れにせよ称徳の失った道鏡は糸を切られた風船の様なもの、下野薬師寺に左遷され同寺で生涯を閉じた。


歴史は語る27孝謙天皇と仲麻呂政権時

2014-10-04 17:25:18 | 例会・催事のお知らせ
二十七、孝謙天皇と仲麻呂政権時代(恵美押(えみおし)勝(かつ))

聖武の容態は実母の太后の宮子の死去から徐々に悪くなり、病床の聖武は光明・孝謙を伴って難波行幸した後、河内の六カ寺を廻って天平(てんぴょう)勝(しょう)宝(ほう)八年(756)五十六歳で死去した。
天平感(てんぴょうかん)宝(ほう)元年(749)聖武天皇の皇女阿倍内親王は平城京は大極殿において即位した。
孝謙天皇の誕生である。
聖武の死去後に即日に人事が行われ、参議に藤原仲麻呂が大納言に昇格し橘諸兄の子橘奈良麻呂なども参議に入った。
その後、橘諸兄が引退し天皇の身の回り雑事、世話をするする内豎(ないじゅ)の淡海三船(大友皇子の曾孫、三十五歳)誹謗(ひぼう)の罪で拘禁され、暗い影が見え始めた矢先に今度は聖武天皇の死の間際に仲麻呂に言い残した後継者に道祖王への指名に、未来を予測してか、聖武の遺言に背いたならば天地地祇の災い身に降りかかると予言をした。
天平宝字元年(757)橘奈良麻呂の乱が勃発し、孝謙天皇と仲麻呂政権の蜜月期に橘奈良麻呂は多治比、大伴、佐伯の各氏らは計らい、塩焼(しおやき)王(おう)、安宿王、道(ふなど)祖王(おう)の中から皇嗣を出そうと計画を立てたが左大臣の父橘諸兄の死、大炊王の立太子を機に実行に移そうとするが山背王(長屋王の子)、巨勢堺麻呂などの密告によって未然に捕獲された、この乱で反藤原勢は一掃された。
橘奈良麻呂の血脈は父橘諸兄、光明と父は異父兄妹、母は藤原不比等の娘、敵対する仲麻呂は従兄に当たり、複雑な人間関係であった。
この橘(たちばな)奈良(なら)麻呂(まろ)の乱で謀反の疑いの奈良麻呂の処遇は明記されていないが、おそらく獄死をしたのだろうと思われている。
奈良麻呂の乱から一段と発言力が高まった藤原仲麻呂の強権体制は大炊(おおだき)王(おう)の天皇擁立である。
孝謙天皇は皇太子の大炊王に譲位し、淳仁天皇が誕生した。淳仁天皇に時代に入って大きく変わったことは、役所名を変えたことで、これは強権仲麻呂の示唆によるもので仲麻呂は中国の国家体制に関心を寄せていたのでそれを実行に移した。また自ら名前を藤原仲麻呂から藤原恵美朝臣と改めた。
政権の支配者は実質的には孝謙天皇と恵美義勝で何事も淳仁天皇は孝謙の太皇太后にお伺いを立てねば物事が進まない傀儡政権(かいらいせいけん)であったようである。
事態が大きく変わったのが恵美押勝の叔母光明が亡くなって大きな後ろ盾を失ったと言うことである。
逆に孝謙はかねがね大炊に即は快くは思っておらず半ば恵美押勝に押されに譲位した形が、母の光明と言う箍(たが)が外れた状況は皇権の逆襲に出た。
この頃、天皇の王権の象徴として「鈴印」が有った。天皇の命令を伝える「鈴令」と天皇が認めた時に押す「印」が必要、「鈴印」争奪戦が始まった。
先に仕掛けたのは孝(こう)謙(けん)太上(だじょう)天皇(てんのう)の方だった。少納言の山村王を派遣して淳仁天皇の許に有った鈴印の奪取を試みた。鈴印奪取に気付いた押勝は淳仁に近侍していた子の訓儒(くす)麻呂(まろ)に鈴印を奪い返した。
訓儒麻呂は一旦、山村王から奪い返すことに成功したが、授(じゅ)刀(とう)少尉(しょうい)坂上(さかうえ)苅田(かりた)麻呂(まろ)と授刀将曹(じゅとうしょうそう)牡(お)鹿嶋(おじかしま)足(たり)(じゅとうしょうそうおじかしまたり)を急行させた。
ここからまるで喜劇映画を見るような活劇が始まる。場所は法華寺と中宮院と結ぶ線上の平城京内、内裏から県犬養門に至る宮内近辺と思われる。
この戦いで訓儒麻呂は弓で射殺された。鈴印は再び山村王に手に移った。押勝は鎮国衛将監(ちんくにえしょうげん)矢田部(やたべ)老(おゆ)に山村王を追わせ再度鈴印を山村王の手から取り返そうとするが、矢田部老は授刀舎人紀船守に刺殺されて、山村王から鈴印は孝謙の手に戻された。
鈴印が孝謙の手許に戻ったことからこう言った行為は謀反の行為に当たると見なされた。
孝謙は直ちに押勝の大師(以前は大臣だったが押勝が官僚の名前を変えた)を解任、位階を解き、資産の全てを没収した。
一方押勝はその夜の内に、外印(太政官印)を持って近江国に向かった。
近江国は琵琶湖を擁した要所で、代々藤原氏の政治基盤の国司を務めた所で藤原氏の領地が点在し、東海道を行けば伊勢国、東山道を行けば壬申の乱の美濃国は押勝の子が守を命じられた所で少しでも追手を逃れれば勝ち目はない事は無い分けでもなかった。
そこで最大の難関、瀬田川を渡らなければならない。孝謙方は瀬田川の勢多橋を焼き落とした。
止む無く押勝は琵琶湖の西岸を北上した。
孝謙側は押勝に阻害されていた吉備真備が孝謙方の参謀となって東山道からと琵琶湖北上軍との挟み撃ちにあって、吉備真備の術中に嵌ってしまった。
押勝の子も殺され、最早勝ち目はなく湖上に逃れ船に乗って鬼江に浮かぶ所で捕獲され処刑された。押勝の死は平城京を離れ二日後のことだったと言う。
この勝利の知らせが孝謙に知らされ即日、押勝に左遷されたりしたものの復権がなされ、押勝の兄藤原豊成が右大臣として復帰した。
孝謙は早晩に淳仁の決着をつけるために、数百の兵を出して中宮院を包囲し淳仁天皇を廃し、大炊王として馬で淡路島に向かわされて幽閉された。
押勝によって変えられた官名や仕組みを元に戻されたと言う。

★孝謙天皇(718~770)在位九年間、重祚で称徳天皇在位六年間、女性天皇で聖武天皇の皇女。母光明皇后。女性として初の立太子。実際の政治は光明皇后と恵美押勝の負う所が多く、母の影響で仏教の帰依深く、752年に父聖武天皇の東大寺大仏の開眼供養を行ない、754年には大仏殿の前で戒壇院を設け来朝した鑑真に父母と共に菩薩戒を受けた。
756年に父聖武天皇が没すると、仲麻呂の意向を受けて大炊王を即位させ淳仁天皇として即位させた。その後病気になって道鏡に病を治療され、道鏡を重用し仲麻呂らと不仲になって、再び天皇に重祚をした。
★藤原(ふじわら)仲麻呂(なかまろ)(706~764)奈良時代の官人、藤原武智麻呂の第二子。母は安倍貞吉。叔母光明皇后の信任を得て、政権を把握した。756年聖武天皇は道(どう)祖(そ)王(おう)を立太子として遺詔を残して死去するが、道祖王を偽って廃し、自分が後見人になって大炊王を擁立した。
その後橘奈良麻呂の乱を鎮圧、仲麻呂傀儡政権の淳仁天皇と孝謙太上天皇と対立し、ついに仲麻呂、淳仁天皇は敗北し、逃亡の末近江の琵琶湖上で斬殺された。
★淳仁天皇(733~765)奈良後期の天皇。在位六年間。父は舎人親王、母は当麻山背。池田王・船王の兄。仲麻呂との関係深く、仲麻呂の顕彰(けんしょう)し、恵美義勝の名を与える。
孝謙大上天皇と不仲になり藤原仲麻呂の乱の後、廃帝された。

※藤原四兄弟が亡くなっても、その子らが平城京に影響を及ぼすものである。藤原宇合の子の広嗣は反乱を引き起こし、仲麻呂は専制政治で淳仁天皇の傀儡政権で孝謙太上天皇と紛争を起こし、遂に仲麻呂の乱の末斬殺された。
強権恵美押勝も光明皇后と言う叔母の後ろ盾を失って、失墜し逃亡の身に、其の追手に冷遇された吉備真備は俊敏な仕返しに仲麻呂も成す術がなかった。
橘奈良麻呂の乱で反仲麻呂の一掃も何の意味もなさなかった。辣腕を振るった仲麻呂も遂に琵琶湖の湖上の露と消えた。
天智系から天武系に時代が移っても皇位後継に問題がつきものであった。
この仲麻呂の乱は鈴印の争奪戦は活劇を見るような展開である。


歴史は語る26大仏造営の布陣

2014-10-03 06:30:28 | 例会・催事のお知らせ
二十七、大仏造営の布陣

平城京に戻った聖武帝は仏教に没頭し、のめり込んでいった。遷都迷走と共に大仏建立の地も模索をしていた。
平城京に還都した聖武天皇は外京の東の山裾に有った金光明寺(金鍾寺(きんしゅじ))である。
もともと夭折(ようせつ)した聖武の皇子の冥福を祈るための建立された山房である。この地に大仏造立に向け歩み出すのであった。
大仏造立の廬舎那仏(るしゃなぶつ)への影響は河内の知識寺(ちしきじ)で拝んだことにあると伝えられ、聖武は早くより華厳(けごん)の教義に惹かれていたようだ。
廬舎那仏の教えは事々無礙(むげ)・重々無尽の法界で、梵網経が描く世界が大仏の台座の蓮弁に線刻されている。一枚の弁に上・中・下の三段の仏界に別れ、上段に釈迦を中心に左右、各十一体の菩薩が集まり釈迦の頭上か発せられる十二本の光明に数体ずつの化仏が居て、中段は無色界、色界、欲界の三階に別れ描かれ、下段は須弥山を中心とした仏界が描かれ、弁一枚に気宇壮大な仏教の世界を描かれているものである。
大仏と総国分寺の仏教による鎮護国家への先例は、隋・唐に有った一洲ごとの一寺を置いては第三代高宗の妃則天武后(そくてんぶこう)に習ってのことだった。
知識寺の仏像から大仏への発想は玄や吉備真備などの遣唐使の見聞による影響は窺える。
巨大な像物は中国の敦煌・竜門・雲崗などを朝廷は聞き大きな刺激と影響が有ったと思われる。日本には石仏を造る場所も地域も見当たらず、金銅の仏像に辿り着いたに過ぎない。大仏造立には膨大な資金と物資と人員が必要とされ、諸国より徴発された。
東大寺大仏造立には行基と良弁の貢献は大きい。聖武帝の思いは民衆の「一枝の草一把の土を持ち寄って民衆の協力」が理想であった。
この理想の実現には行基とその集団であった。紫香楽に大仏造立の詔が出された四日後には多くの弟子たちを引き連れ勧進活動を続けた。
また後の東大寺別当で根本僧正と呼ばれた良弁が支えた存在を忘れてはならない。
木材や資材に5万五九〇人・役夫百六十六万五千七十一人・鋳造等に三十七万人・鋳造役夫五十一万四千九百一人・米五千石・鋳造(ちゅうぞう)に使用する材木は途方もない量で示された造立必需品は断片的であり、何より巨大仏像大仏を納める大仏殿には播磨国から巨木を50本を瀬戸内海、木津川を遡って奈良にその苦労も偲ばれる。
それにも増して鋳造技術は大陸より招かれたと思われ、前例のない国家大事業となった。
大仏完成前にして聖武帝の頭痛は大仏に塗装する金がない事であった。折しも陸奥国から黄金が産出した知らせが届いた。
年号を感謝の意を著すために「感宝」と改められた。
完成間近になるにつけ聖武帝の体力は衰え始め、宮中で千人の僧を得度させたり、天下に恩赦を与えたりして聖武帝の健康を祈願した。
その頃にようやく聖武帝の皇女の阿倍内親王を即位させた。大仏の本体鋳造が出来、後は塗金を施すだけであった。
大仏の本体の重量250トン、弁座30トン、金色に輝く大仏が出来上がった。
天平勝宝四年(752)三月十四日に開眼供養が執り行われた。
開眼の九日の当日は菩提を導師に元聖武帝・光明皇后・孝謙女帝の三人は大仏殿に布を敷いた板殿に座し居並ぶ公家、重鎮官人と僧侶ら静まったなか菩提の手に持った筆が大仏の眼精に点ずる、その手に持った紐が長く伸び聖武らの手に繋がっていた。
読経に雅楽に舞にあでやかに、はでやかに開眼供養は執り行われた。

★良(ろう)弁(べん)(689~773)東大寺の僧、出自は近江国の百済氏とも相模国の漆部(ぬりべ)氏(し)ともいう。義淵に師事し新羅の僧審祥に華厳を学ぶ、神亀五年(728)某王の供養の為に金鐘寺となる山房が建立されたが良弁は智行僧として怕言ったと思われる。
ここを舞台に講師として六十華厳を講義し活躍をする。少僧都となって翌年の大仏開眼供養には東大寺別当に任命される。
★行基(668~749)この大仏造立に貢献した人物に行基がいる、河内国大鳥(おおとり)郡(ぐん)蜂(はち)田(た)(現家原寺)に生れ、父は渡来人、母は蜂(はち)田首(たおびと)虎(とら)身(み)。十五歳で出家し、大和国葛城上郡の金剛山山腹で修業し、山林修行者として各地を廻ったが、その後山林暮らしを止め故郷の家原寺に帰った。
三階教に出会ってからは民衆宗教の活動に変更、布施行、布施屋、船屋や架橋、ため池作り、土手や道作りなどの社会事業に、民衆の信仰の寺院を建立、再建もした。
こう言った社会事業に不審を受け、制圧や叱咤を受けた。その内、行基の社会奉仕を理解され活動は許され、大仏造立事業に協力し大僧正に任じられ、行基の建立した寺院は四十九院と呼ばれ、開創または仏像の行基制作を伝承とする寺院は七百七十箇所を数える。生存中から菩薩と呼ばれた。晩年平城京は喜光寺で暮らし没した。
◆華厳宗*南都六宗の一つ『大方広仏華厳経』『華厳経』それに関連する諸経、本山は東大寺。全世界は毘廬舎那仏の顕現、森羅万象、一見無関係と思われる相印(そういん)相関(そうかん)関係(かんけい)があると思われている。天平八年(736)来朝した唐僧道璿(どうせん)のように精通しいて影響を受けた。河内国の知識寺には信徒による六丈の廬舎那仏が安置され後に東大寺建立の機縁となった。

※律義で気まぐれな聖武帝は仏教に深く帰依し大仏殿造立について、その発心は民と共に造ることが重点に置かれ、鎮護国家の心で国を思い祈願して建立に心身共に傾けた。東大寺は総国分として、諸国に国分寺の配布をすることに国家の命運をかけた。
仏教への影響は、六十華厳による壮大な廬舎那仏(るしゃなぶつ)の世界の教えに従って、中国の則天武后にある仏教による国を治めるにある。


歴史は語る25聖武帝の遷都と橘諸兄の政権時代

2014-10-01 18:01:01 | 例会・催事のお知らせ
二十五、聖武帝の遷都と橘諸兄(たちばなもろえ)政権(せいけん)時代(じだい)

全盛時代を迎えた藤原四兄弟時代はあっけなく天然痘で相次いで没し幕切れとなった。
次ぎに登場するのが、橘諸兄と、長屋王の変で失脚した残った人々の復権であった。
一般に橘諸兄の起用については、光明の強い意志が働いていたのだろうと思われているが、また長屋王の王家の残された人々の復活も、聖武、光明の判断の誤りで、後に悔いと償いの意味を込めての処遇でもあるが、いずれにせよ藤原四兄弟が健在だとすれば、まずこれらの話は不可能だったと思われる。
橘諸兄は光明の異父兄弟の兄で橘三千代の子で、同じ異父兄弟の藤原四兄弟を失った今となっては心の支えになっていたのは間違いのないところである。
天平八年(736)葛城(かつらぎ)王(おう)を改め、橘諸兄が皇籍を離れ、臣籍に降り、橘宿禰(たちばなすくね)の姓を祝う宴が開かれたと言う。
葛城王は敏達天皇より五代目の王族で父美努王と母県(あがた)犬養(いぬかい)橘(たちばな)三千代(みちよ)の間に生まれたが、弟の佐為王の王族も際立った存在ではなく、参議兼左大弁の地位だった。
天平十年(738)武智麻呂右大臣の死去の後に、橘諸兄が成ったことはひとえに母橘三千代の威光と後ろ盾が有っての事だろう。
諸兄も左為王も自ら願い出て臣籍を得たと言う、橘政権を示唆したのは光明である事は誰もが推測する事で、光明の身内で固めたい思いは当然の事だったのだろう。
そして贖罪で失脚した長屋王の弟の鈴鹿(すずか)王(おう)が参議から知太政官事になり、隆盛を極めた藤原四兄弟の子からは武智麻呂の長子豊成が参議になった位なものだった。
藤原四兄弟の子たちはまだまだ若く政権に参画できるほどに成人して居らず、した積みの時代にあった。
藤原広嗣の乱の最中その対策も、留守居に任せ、聖武天皇は遷都探しの行幸に出た。御共に同行したのは、元正前天皇・光明天皇他右大臣の橘諸兄ら重臣と、藤原仲麻呂と紀麻呂の率いる騎馬兵四百を前後に平城京を出発した。
伊賀、伊勢、美濃、近江を行宮や郡衙に泊まり巡り山背国相楽郡の甕(みかのはら)原宮に着いた時は一カ月半は過ぎていた。右大臣橘諸兄は天皇の行く先々に廻って準備を整えた。
聖武天皇が廻った順路は丁度、天武天皇が壬申の乱に吉野を出て、近江に攻撃をかける時に進んだ順に廻った形で、その地を「恭仁宮」と名付けられ、直ぐに平城から官人などを呼び寄せて官庁を移転させた。
恭仁宮の場所は平城京の真北にあって、早く言えば木津川を挟んで直ぐ側の場所、聖武天皇の遷都の決意の要因は、天然痘の忌まわしい禍からの払しょくと、長屋王の変の後味の悪さからの払拭とも言われている。何か深い迷いが有ったのかも知れない。
更に聖武天皇は近江国甲賀郡の信楽村(しがらきむら)に行幸し、恭(く)仁宮(にのみや)造営中(ぞうえいちゅう)の造営(ぞうえい)卿(きょう)智(ち)努(ぬ)王(おう)に紫香楽宮の造営を任命した。
聖武帝は留守居の平城宮に恭仁宮の大極殿で朝賀を受けたり、新都に行ったり来たり往復をした。こうして紫香楽宮が進める中、大仏造営の詔を出した。
かねてより河内は知識寺(ちしきじ)の廬舎那(るしゃなぶつ)仏(ぶつ)を見て感銘を受けて造立を決意をしていた。そんな中、聖武帝は難波の宮に向かった。難波宮は孝徳天皇の跡地で副都として活用しようと思っての計画だったろう。
聖武は官人を朝堂に集めて、恭仁宮と難波宮の何れを都にすべきかと問い意見を述べよと言った。答えは恭仁宮に多くの官人は答えた。
聖武天皇の決意は定まっていて平城京から「天皇の大権の証」駅令と内印を難波宮に運ばせていた。そんな中、聖武の唯一の皇子の安積親王が死去した、時に十七歳になっていた。その皇位後継者とみられた安積親王の死にはその後も多くの謎が残されている。
その後、紫香楽宮での大仏造営に転々とした新都造立に疲弊(ひへい)し切った民に山火事が多発し、聖武帝は難波行幸から還都を決意、六年に渡る遷都の継続断念の引き換え条件に平城京に大仏造立を新たに決意したのである。
★橘諸兄(たちばなもろえ)(684~757)奈良時代の公卿、父は美努王、母は県犬養橘三千代。奈良麻呂の父。始め葛城王と称していたが、左大弁など経て参議に、天平三年(731)佐為王の弟と共に上表し、母が忠誠を賞されて元明天皇から与えられた橘姓を名乗ることを請い、許されて橘諸兄と改名をした。
藤原四兄弟の亡き後、大納言、右大臣となって政界の中心的存在になった。しかし唐から帰った吉備真備や玄の重用に藤原氏の反発を買い、その後台頭する藤原仲麻呂に権勢の強まりに、諸兄の影響力は低下、756年に致仕した。
◆恭(く)仁(に)京(きょう)*京都府(きょうとふ)相楽郡(そうらくぐん)加茂町(かもちょう)、山城町、木津町にまたがる所在の古都宮都。740年より744年までの暫定的な都。藤原広嗣の乱の引き金となって、再び平城京に戻るまでの間、聖武天皇は恭仁をはじめ紫香楽、難波と転々とした。

※聖武天皇の迷想遷都の旅は果てしなく続き、臣下は疲弊を余儀なくされたのであるが、しかもその少し旅に出ると言って都を後にして、伊賀、伊勢、美濃、近江を行宮や郡衙に泊まり巡り山背国相楽郡の甕(みかのはら)原宮に着いたのは一カ月半は過ぎていた。
右大臣橘諸兄は天皇の行く先々に廻って準備を整えた。丁度その行程は壬申の乱で天武天皇が廻った行程をなぞるように、しかも落ち着いた所は平城京の真北の直ぐ側の地点、何の思い出で巡行したかについては明白に語れていない。
夢多き帝の思いは臣下には到底理解しがたいものであるが、大仏建立と言い、新都の謎想に模索と言い、理想化の反面、写経に見る繊細で律義な性格は民の疲弊は気にも留めなかったようである。