大阪歴史探訪

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『歴史の憧憬』(11)仏教伝来と古神道

2014-06-24 17:02:27 | 例会・催事のお知らせ
『歴史の憧憬』(10)仏教伝来と古神道
ある説で「日本歴史の三大要因に島国であったこと天皇がいたこと仏教が伝来したこと」と言ったことに記憶がある。
仏教伝来は日本史において、日本人の精神文化に風土風習と思想・志向に重要な影響を与えた。今から2550年前にインドで生まれた釈尊の仏教は約500年掛かってインド中に伝播し、更に500年ほど掛かって中国中に伝播し、更に100年程して日本に伝来をした。仏教の伝来はアジア諸国の時代の趨勢と言ってよい。インドの精神文化の到来であった。東南アジアから伝わった仏教は大乗仏教として、日本は中国・朝鮮半島から伝わった仏教を大乗仏教であった。それぞれ国の事情で伝わり方、受け留め方と、その対応は違っていたのは言うまでもない。日本への仏教の伝播は渡来人の王らが頻繁な時代、密かに持ち込まれたことは言うまでもない。日本への仏教公伝となれば朝廷・天皇への伝来が公式な伝来と考えられる。西暦545年に日本の天皇に送った説など諸説がって定かではない。何れにせよ仏教推進派の蘇我氏と仏教排斥派の物部氏の軋轢は有ったことは確かである。何故蘇我氏が仏教推進派の筆頭になって導入に朝廷に働き掛けたのか、もともと渡来系の豪族として仏教に対する知識が豊富に加えて、物部氏の旧来からの古神道への新興勢力の蘇我氏の対抗意識から時代の先取りに積極的であったのかも知れない。結果蘇我氏は聖徳太子(厩戸皇子)を取り込むことによって、物部氏の排除と仏教導入に大きな指導権を得ることになった。その後の倭国(日本)は仏教に偏ることなく、古神道と融和をしていくのである。中国などは仏教に鎮護国家を目指さなかった。当時の倭国(日本)の人々は大自然を対象とした山や海や信仰を旨とした。仏教に伝来によって偶像崇拝、漢字による経文に呪文のようにその神通力を解くのには当時の倭国(日本)の人々は戸惑いを感じたのだろう。仏教対神道との戦いを表面だって起らなく日本の歴史上神仏習合が確立されていくのであった。※神仏習合は日本人の叡智と融通・応用の判断能力の成せる術である。仏教によって古神道が失われることなく、明治時代に起きた神仏分離令後にも伝統的な神道・仏教が伝承されていった。



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『歴史憧憬のエッセー』(9)埴輪が語る古墳の世界

2014-06-18 05:46:58 | 例会・催事のお知らせ
『歴史憧憬のエッセー』(9)埴輪が語る古墳の世界
埴輪の説話に古代に登場する「土師氏」が古墳時代の墓造りの氏族として知られている。その祖先にあたる野見宿祢が大王・天皇の墓埋葬に殉死者の救済として埴輪でその代用を提案し、その発案に功名を得たと伝える。日本がまだ弥生時代に中国の秦始皇帝陵に埋められた世紀の発見に兵馬俑がある。秦始皇帝は死後の世界でも殉死者でなく膨大な数の埴輪の焼き物で身辺を警護させたい意思で造られたと思われている。秦始皇帝の二大事業は万里の長城と22歳にして即位し、同時に造らせた自分の御陵である。その規模驚異的で中でも兵馬俑は千社百車、兵馬600騎、兵士8000人の等身大の埴輪は空前絶後の墳墓である。弥生時代の前期に大量の人口流入が日本の古墳時代の埴輪に何らかの影響を与えたとしても不思議はない。ヤマト王朝の成立と同時に古墳時代の到来と共に埴輪が普及する。権力を誇示するが如く、より大きくその支配を強調すると同時に、ヤマト王朝独自の墳墓が「前方後円墳」と共に近畿地方を中心から広まるが、埴輪の起源と形成には吉備地域の埴輪が一歩先んじていた。また中国から受け取っていた三角縁神獣鏡と埴輪の出土が一致しない(同時に出土しない謎)ことに学者・研究家に障壁となっている。古墳時代と共に進化していた埴輪は初期の壺、円筒形の円筒埴輪から形象埴輪の家形から家畜の犬、馬、鶏から武人などに変化をしていった。これらの古墳時代の生活様式を知るが上にも、家、人物、家畜の形式が当時の様子を知るが上に大切な資料となっている。それにしても古墳時代をするための埴輪の形を見る限り、決して原始的成果活用式ではなく、武人や楯を持つ人、琴を弾く人、衣食住は大陸の影響を受けた高度なものであったのではと思われる。ただ大きな疑問を感じるに文字類の発見は無い点、中国からの文字の到来は無かったのか不思議に思われる。埴輪の造られた意味に於いては、葬送儀礼のために、穢れや聖域、不吉な物、死後の世界への葬送者への貢物、死後の世界への贈り物、持参品など推測が出来る。また葬られるものの権力誇示や権威を知らしめるために、古墳の大小で序列を表したり、いろんな意味を持っていたのかも知れない。それらの埴輪と古墳の形式の関連性はまだ解明されていない。※人型土偶と埴輪は区別をされている。土偶は縄文人の人形でしかも女性に限られていて聖霊を表現をして造られたとされている。また年代的にも古墳時代より更に年代を遡る。ともかく古墳時代の埴輪を見る限り、当時の人々の生活形式や制作方法にも特徴が有ったり、美的感覚からの観点からも単なる儀式用から写実的に現実に近い形に工夫を凝らした点も現代人からそうかけ離れたものではないと感じられる。
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『歴史エッセー』(8)古墳時代の不思議

2014-06-15 07:43:05 | 例会・催事のお知らせ
『歴史エッセー』“古墳時代の不思議“
古墳時代は弥生時代から3世紀半から7世紀の大和朝廷成立までの約400年間とされている。日本の古墳、墳墓はエジプトと並んで規模の大きな王墓である。しかし日本の古墳が何時どのように誰の墳墓か実態が解明されていない。日本の史記である『記紀』に、その記述が残されていない。中国の史記に照らし合わせ検証しようにも西暦266年から413年にかけ倭国の記述が欠落し「空白の4世紀と言われている。我が国の古墳時代には「前方後円墳」大部分を占め、ヤマト王権と深く関連性があると思われている。年代別は古墳時代前期・中期・後期・末期に分類できる。前期には大和古墳群の中に卑弥呼と目される『箸塚古墳』(280M)他柳本古墳群の『西殿塚古墳』『行燈山古墳』などがある。地方の首長の古墳に甲府・岡山・広島にも存在をする。古墳中期には大阪府の仁徳天皇陵(大仙古墳)486M・応神天皇陵(誉田御陵山古墳)420M・岡山の造山古墳360Mなどがある。古墳時代後期には大阪府は今城塚古墳190M・河内大塚山335Mなどがある。日本の起源を探る上でも、こう言った古墳を形成されていた時代が大和朝廷・大和王朝の成立と考え良いかもしれないが、巨大な仁徳陵を造成した時代の人口はどの位日本列島に暮していたのかと考える場合、正確な国勢調査をしたわけでもなく、地域も確定されている訳でもないので確実な根拠・資料に欠け、諸説があるが、一般学者の推測ではじき出された人口は縄文時代末期で6,7万人に位、弥生時代で60万人くらい飛鳥時代で450万人くらいとして考えた場合、2,300万人くらいと考えても良いのではと思はれる。勿論畿内を中心とし九州までの地域とした人口と考えてよいだろう。そんな場合世界でも巨大墓の類に入る仁徳陵(大仙陵)486Mの古墳を国力を結集し造られた理由と仁徳天皇陵とされているが大王の祭祀は誰なのか、何故このような巨大古墳を造らなければならない理由何か、中央とされるヤマトから河内地域に何故作られたのか、謎は残る。年代別に卑弥呼と比定される「箸塚古墳」大和中心の古墳から、古墳中期の河内から岡山・群馬などの地方の首長まで、大和王朝の支配の拡大を示すものとして、巨大古墳は国力の誇示と権力の威厳を表わすものと考えられる。何万人の工事に従事する人員の徴用を出来、支配者の絶大な権力を確立されたことを表わしている。また3世紀末から7世紀前期までとされている古墳造成から、今日の世紀まで400M近い古墳の丘陵が崩れずに存在する工事工法が如何に優れていたことを教え伝えるものである。こう言った造成工事を技術は大陸の大量流入によってもたらされて日本の風土・地理土壌に合ったものに培われた。墳墓も独自の前方後円墳が造らされた。しかしそれらに関する記述などは詳細に残されておらず学者・研究者の推測ばかりが先行するのが日本の古代世界社会の考古学である。



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『歴史憧憬のエッセー』(7)『倭の五王『と『記紀』

2014-06-07 20:02:44 | 例会・催事のお知らせ
『歴史憧憬のエッセー』(7)『倭の五王』と『記紀』
「倭の五王」とは中国の記述で倭国の王の記載名で、『宋書』夷蛮伝倭国条に出てくる倭王の事で、倭王の名は「讃王」・「珍王」・「済王」・「興王」・「武王」になっている。またもや『魏志倭人伝』と同様に日本の史書『古事記』『日本書紀』の記述と符合しない状況が生じ学者・歴史研究家の解釈で論議の的になっている。邪馬台国の所在地、卑弥呼の特定同様、統一見解の出ない要因に五王の特定に決定的な違いが生まれ、讃・珍・済・興・武をどの天皇に当てはめるかが問題である。
何故にこうも漢字表記の日本も大陸での表記が異なる要因は中国の『史書』は独自の名前を表記し相手国の表記を無視する傾向がある。卑弥呼も「卑しい」とか野蛮な種族として、蔑視をした表現を当てはめる。下記の各王朝の記述も従属民族としての扱いが「朝貢」と取らえている。倭の五王の年表に拠れば下記の通りになっている。
◇413年、東晋王朝に「倭王讃」が安帝に貢物を献ずる。「晋書」安帝紀。◇421年、宋王朝に「倭王讃」朝献し武帝より「倭王讃」除受を受ける。「宋書」倭国伝。◇425年、宋王朝に「倭王讃」司馬の曹達を遣わし、貢物を献ずる。「宋書」倭国伝。
◇430年、宋王朝に「倭王讃」貢物を献ずる。「宋書」倭国伝。◇438年、宋王朝に「倭王珍」記述による「倭王讃」が没し、弟珍が立つ、自ら「使持節都監倭・百済、新羅、任那、秦韓、慕韓の六国緒持安東大将軍倭国王」と称し、聖史記任命を求める。四月「倭王珍」安東将軍国王と認める。「宋書」倭国伝」◇443年、宋王朝に「倭王済」宋・文帝に朝貢をして「安東将軍倭国王」とされる。「宋書」倭国伝。◇451年、宋王朝に「倭王済」7月、安東大将軍を進号する。「宋書」倭国伝。◇460年、宋王朝に「倭王済」12月、孝武帝へ遣使、貢物する。◇462年、宋王朝に「「倭王興」孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。「宋書」孝武帝紀、倭国伝。◇477年、宋王朝に11月、遣使して貢物する。「宋書」順帝紀。これより先、興没し弟の武が立つ、武自ら「使持節都督倭・百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国の大将軍倭国王」とする。「宋書」順帝紀。◇478年、宋王朝に「倭国王」上表し、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国の緒軍事安東大将軍倭王」とする。「宋書」順帝紀・◇479年、南斉王朝に「倭王武」高帝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍に進号。「南斉書」倭国伝。◇502年、粱王朝に「倭国武」4月梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。
日本の比定される天皇としては「応神天皇」、「仁徳天皇」、「履中天皇」、「反正天皇」、「允恭天皇」、「雄略天皇」、「雄略天皇」である。中国の呼び名から日本の天皇名に類似する点、和号の称号でも接点を見つけることは出来ない。
時代考証から推測するに「日本書紀」には天皇の系譜から「讃」=履中天皇、「珍」=反正天皇、済=允恭天皇、「興」=安康天皇、「武」=雄略天皇の説が有力視される。この内、「済」「興」「武」は一般的に一致すると思われているが、「讃」応神天皇・仁徳天皇・履中天皇・「珍」仁徳天皇・履中天皇と意見が分かれる。◎この頃の日本の王朝はヤマト王朝から拠点を大和盆地の北辺りの佐紀古墳群の辺りから古市、百舌鳥古墳群のある河内王朝へと移しつつあると所かと思われ、邪馬台国から空白の150年が日本の支配権が、目下有力視されている纏向遺跡辺りの大和王権初期の地点で「箸塚古墳」卑弥呼の墓と推定するならば、大陸に交流を持って外交で朝鮮半島に支配を求めるヤマト王朝の安定したこと、ヤマト王朝が達成されて、尚内紛か権力争いで河内に活路を見出す新王朝の出現も視野に入れて、倭の五王を考えなければならない。◎「魏志倭人伝」による日本の支配は「邪馬台国」の女王卑弥呼が記載されていて、その後150年を経て中国の史書に倭の五王の遣使が国交を始める。貢物、朝貢と接触を図り、朝鮮半島への中国の王朝に承諾を得るためにの思惑があった。413年から502年までに東晋、宋、南斉、梁王朝に対等な関係の国交を臨んだが中国の高麗国などの覇権を巡り日本の思惑通りには行かず、八十年間余りで国交が消滅する。倭の五王は代が変わっても遣使を送り、朝鮮半島への影響力と支配を認めさせようと画策した。「使持節都督倭、百済、新羅、任那、秦韓、慕韓六国緒軍事安東将軍倭国王」と言う肩書きを貰ったが、実際は百済、新羅より格下の将軍称号で、最後まで百済への支配を認めなかった。
◎150年振りに中国への外交を開始した倭の五王は倭国の王名、天皇名、「記紀」の掲載名で呼ばれていなかったのか、呼ばれなかったのか、名乗っても中国風呼び名に改名され扱われたのかもしれない。◎中国での天皇の和風諡号を何故使用されず、讃、珍、済、興、武と呼ばれたか、倭国も中国の時の王朝が使い、代々受け継がれてきたと思う。◎しかも侮蔑した名をつけて日本を従属国の扱いをしょうとした。邪馬台国、卑弥呼も「邪」,「卑」の名称も目下の扱いしたようだ。◎一方的な中国の記述なので遣使との遣り取りを詳しく述べられておらず、各王朝の史書の記述も信頼性に乏しく、なかなか合致する項目がない。
※『魏志倭人伝』にしろ、『倭の五王』にしても日本の『記紀』には中国の王朝の名前すら記載されず、日本の外交は朝鮮半島に限られている。しかも、新羅や百済の朝貢を受けた記述があっても朝貢をした記述が無い。日本の王朝が大陸の王朝に朝貢する事こそ屈辱的なものと受け取られ、従属を意味するものと思われ、敢えて『記紀』に記載をしなかったものかも知れない。しかも宋王朝は日本の使者が名乗った王朝の名前を採用しなかった。それにしても讃、珍、済、興、武の文字を使った根拠は何かと考えた場合、深い意味はなく場当たり的に付けたかもしれない。『魏志倭人伝』にせよ『倭の五王』も深読みすぎで他の国の朝貢を倭国と表記したことも考えられる。問題は中国の史記を絶対視しての考察にも問題があるのではないかと思われる。








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『歴史憧憬のエッセー』(5)”縄文時代と弥生時代の光景”

2014-06-05 06:46:25 | 例会・催事のお知らせ
『歴史憧憬のエッセー』“縄文時代と弥生時代の光景”
日本の考古学・歴史学の中で関わりの少ない「縄文時代と弥生時代」を規定するならば、縄文時代が1万6500年前から西暦前300年の弥生時代の出現までとされている。また弥生時代は縄文時代の末期から西暦300年の古墳時代までとされている。縄文時代の名前の由来については土器に縄を巻き縄の模様を形を付ける土器を制作した時代に由来すると言う。縄文遺跡ついては「山内丸山遺跡」「亀ヶ岡遺跡」「尖石遺跡」から千葉県・神奈川県・愛知県・岡山県に「貝塚」が点在する。「弥生」の名前の由来については東京の弥生町の貝塚で発見された土器の特徴を弥生時代の制作として「弥生」と名付けられた。弥生遺跡には青森の「砂沢遺跡」東京の「弥生遺跡」静岡の「登呂遺跡」佐賀の「吉野ヶ里遺跡」などがある。日本人のルーツを探る場合、遺伝的にも顔や体格、骨格などを見ても縄文人と弥生人と現代人へと繋がって行ったかの推測・推定については北方から南下する土着民族と、南方方面より海流によって北上する漂着民族が長きに渡って先住民族として、縄文人として形成をしていたが、大陸での戦乱か何らかの理由・都合で、後発の弥生人となる民族の移動が大陸から朝鮮半島より大量に流入し、縄文人が飲み込まれていったのではないかとするのが、一般的である。縄文から弥生への従属者、征服者の熾烈な戦いの跡に人骨の破損や集落の破壊後を窺い知れる。1万6500年から住み続けた縄文人は北へ北へと移動を余儀なくされ、「記紀」に出てくる地方の豪族に天孫降臨の末裔によって征服されていくさまの光景が縄文遺跡から、弥生遺跡から窺い知れるものである。
しかし縄文人と弥生人の戦いによる征服だけでなく、融和・同化を繰り返しながら、大陸から離れた日本列島の位置条件が独自の民族風土文化を形成されていったのであろう。





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『歴史憧憬のエッセー』”史論を二分させる魏志倭人伝とは”

2014-06-04 06:11:45 | 例会・催事のお知らせ
『史論を二分させる魏志倭人伝とは』
「魏志倭人伝」は「三国志」の中の「魏書」の中に東夷伝の中に倭人、倭に付いて書いてあるものを「魏志倭人伝」呼称しているものである。
全文約二〇〇〇文字からなっていて、著者は西晋の陳寿、西暦280年から297年までの間、呉の滅亡から陳寿の没年までの間、書かれている。
※「魏志倭人伝」において倭国への呼び名は中華思想により、他国の国名、人名は篾字を表記する。
○「魏志倭人伝」には朝鮮半島の帯方郡から倭国に向かっての、行程と国々30カ国と地形、国々の位置と戸数を記されている。
○倭国に至るには帯方郡(韓国)から水行、南へ東へ、7000余里で狗邪韓国、更に1000余里で対馬国、山険しく400余里四方1000余戸、そこから南に1000余里渡り一大国300余里四方で森林が多く3000家族、次ぎに海を1000余里渡り未廬国、4000余戸、海産物多く、皆潜る。それより東南500里陸行で更に陸行、伊都国に着く、1000余戸あり。世、王が居るが女王に属する。更に東南に100里進む、奴国に至る。二万余戸が有る。そこから100里行くと不弥国に至る。1000家族が有り、そこより南へ水行20日で投馬国に付く五万戸余り、更に南へ水行10日と陸行一月で女王の都、邪馬台国に至る推計七万戸。
○その他に斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、鳥奴国、奴国。
☆上記の行程はいくつかの地理上の矛盾をはらんでいて、『魏志倭人伝』にある邪馬台国が畿内、九州説の、我が国の二分する両説にも該当しない矛盾した設定である。
☆魏国の使者、随行員は何名くらいで、何日間くらい、滞在したか移動だけでも往復半年はかかり、推測として滞在を含めて一年間の倭国親善訪問隊だったか謎は残る。 
☆この時代で大和王国に対抗できる国として「出雲国」「吉備国」の記述が「魏志倭人伝に」残っていない。
☆航海術は未発達時代、帆船、手漕ぎ合わせ季節、派遣人の規模は不明であるがそれによって行動範囲が推測される。
☆魏志倭人伝に出てくる地名に『記紀』の地名が合致・符合する地名が無い
◆日本の歴史学者の『魏志倭人伝』への強い信頼性で『記紀』不一致にも矛盾に疑念を持とうとしないのは何故か、倭国の史記より古代中国の史記の方が優れ信頼性が高く、その固定観念が、仮想邪馬台国が日本各地にまで出現するまでになって行った。畿内説か九説か加熱する邪馬台国・卑弥呼伝説に一拍於いて冷静に考えてみてはどうかと思う。











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『歴史エッセイ―』”古代政変・磐井の乱”川村一彦

2014-06-01 08:22:03 | 例会・催事のお知らせ
『歴史憧憬エッセイ―』(4)“古代政変・磐井の乱”
西暦527年継体朝に古代最大の国内反乱が起きた。それが磐井の乱である。場所が朝鮮半島だけに九州と新羅・南加羅が関連する外交含みの叛乱であった。磐井の乱に関して諸説があって真偽説が古来より根強く囁かれていた。
詳しい記述が語られているのが『日本書紀』で『筑後風土記』には「官軍が急に責めてきた」とか『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼があったので殺した」と簡単に語られているだけで、詳細な『日本書紀』の記述には脚色されて信頼性が欠ける説など様々である。その『日本書記』に基づいて経緯を辿れば、ヤマト王権の近江毛野は6万の兵を率いて新羅に奪われた南加羅・㖨己呑を取り戻そうと任那に向かった。この計画を知った新羅は筑紫の豪族、筑紫国造磐井に内通し、ヤマト軍の進路を妨害するように要請した。磐井は挙兵し付近の火の国、豊の国を制圧、倭国と朝鮮半島の海路を封鎖、ヤマト軍と抗戦をした。ヤマト王権は更に援軍の物部麁鹿火を将軍として派遣された。反乱が起きて翌年には物部麁鹿火が率いるヤマト軍と磐井軍が筑紫三井郡で交戦し、激しい戦いの内に磐井軍は敗北、磐井は麁鹿火に斬殺されたと言う。この磐井の乱の起った要因に朝鮮半島への出兵に地元の豪族への負担に不満が噴出、また派遣先の朝鮮半島の新羅にとってヤマト軍の進行の歯止めを掛けたい思惑が一致したためと思われている。ヤマト王朝にとって国内平定と朝鮮半島の両局面の対応が大きな課題であったようである。

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