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歴史は語る⑳元明天皇と平城京への道

2014-09-17 19:50:00 | 例会・催事のお知らせ
二十、元明天皇と平城京への道

慶(けい)雲(うん)四年(707)文武の葬儀が終わって、気運は平城京に向けられた。
この頃武蔵国の秩父に和銅が献上されて、これを祝って和銅と改められた。和銅の産出は精錬の入らない使い勝手の良い純度の良い自然銅である。
和銅(わどう)改元(かいげん)は元明と不比等とによって進められる平城遷都に向けての銭貨「和同開珎(わどうかいちん)」の発行である。
貨幣については実際に流通していたかは疑問であるが、貨幣への認識はあったのか、勿論庶民にはその認識はなかったろうが、朝廷の中枢などは粟田真人の唐からの帰国によって周知していただろう。
和銅元年(708)平城京への遷都の詔が出された。その後の八年間は遷都に明け暮れていたと言われ、現在のような整地されていなく、平城山から延びる丘陵があって、その間に南から入り組んだ谷合があったらしい。平城京遷都への建設は地ならしから始まり、大極殿、内裏、東院など主要な建造物が建てられていった。『続日本紀』に依れば和銅三年に平城に遷都をする。
平城京の規模様子は南北に九条の通りがあって、北の中央に平城宮、その中央の門、朱雀門があって南に下り羅(ら)城門(じょうもん)の左右にそれぞれ四坊の筋があって、東北に外京に東宮に東大寺や興福寺などの寺院が置かれ、外京を除き東西4,3KM・南北4、8KMと言う規模の中に約10万人の人が住んでいた。
新都造営と政情不安が伝えられ、多くの民の労役が徴用されたようである。
この平城今日においては女帝が目立つことになる。藤原京においては持統天皇の主導もとに行われたが、平城京は元明女帝が積極的に進められた。
皇位継承者に血筋に適合した者が居ない場合、また候補がいても天武系の持統の長子の草壁が早世し、文武も天皇の地位に就くが病弱で亡くなって、次の首皇子の継承までの間の中継ぎの天皇に止む無く祖母の元明が成っても仕方のない所で、天皇家の主流を成す者の継承を優先した観がある。
707年に文武が病死した翌月、元明は即位をした。例によって皇位に就いた正統性とその理由を「宣命」形にして「地祇(ちぎ)天神(てんじん)のしずめし神の天皇の勅命、臣、公民のもろもろの聞こえる宣による・・・」と謳っている。
本来なら当時九歳の首皇子が文武の皇子として継ぐべき所、皇継から外れた祖母の皇位に継ぐに当たり廻りの者に気を使ったものである。
元明天皇のように天皇系の嫡子でないものの即位は一応特異な例と言える。しかも女帝であるが八年後の715年に娘の氷高皇女の皇位を譲り、個々に二代続いて女帝が誕生し、本格的男子の皇位までの「仲(なかつ)天皇(すめらぎのみこと)」としての皇位である。
氷高皇女が即位をして三十六歳で元正天皇となった。それでも文武天皇の嫡男の皇太子首皇子は幼く、それまでは元正は政務を執らなければならなかった。
元正天皇の即位時には首皇子は十五歳であったが、祖母の老女帝元明にはまだまだ不安があって、首皇子を
立太子させた。異母姉の持統は孫の文武天皇の譲位をさせるのに、五年間後見人の様な立場であったが、今自分も同じように首皇子の後見人の様な立場で見守らなければならかった。
持統の子の草壁皇子にしても、元明の文武皇子も病弱であった。何故なら生物学的にも近親結婚は病弱な子どもが生まれやすいらしい。
元正天皇の重職の布陣も随分と様変わりをして、左大臣の石上麻呂が亡くなって、代わりに臣下の筆頭は右大臣に不比等が成り、次男の房前が三十七歳で参議に就任、着々と藤原景が朝廷の重職に就くようになって来た。
元明と不比等の二人三脚も、710年の平城京遷都の五年後に元明は没した。
一方不比等は藤原家の基礎を築き、興福寺を建立の完成前の養老四年(720)に没した。その影響力は大きく文武の妃に娘の宮子を嫁がせ、聖武天皇には光明子を嫁がせて朝廷への盤石(ばんじゃく)な影響力を有して功績を残した。

★元正天皇(680~748)女性天皇、在位九年間、父は草壁皇子、母は元明天皇、文武天皇・吉備内親王姉、二品から一品に叙せられる。首皇子は幼少の為に元明天皇から即位をした。藤原不比等から長屋王が首班になって重要な政策を実施「三世一身法」などを施行。元明在世中は元明が実権を握り、没した三年後は「聖武天皇」(首皇子)に譲位し中継ぎの役を果たした。
★藤原宮子(?~754)文武天皇の夫人、不比等の娘、大宝元年(701)に首皇子(聖武天皇)を生んだ。聖武天皇が即位すると母宮子を尊び大夫人とする勅令が出された。ところが長屋王らの指摘によって撤回され,皇太夫人に、この事件で長屋王は失脚をした。
長年宮子は病の為に聖武天皇に会えず天平九年に玄の看護により会えたと伝える。
◆平城京、八世紀の古代都城。京域の大半は現在の奈良市にあり、西南の一部は大和郡山市に含まれる。藤原京から遷都の動きはすでに文武天皇の時に在り、慶雲四年(707)には諸王臣に五位以上の者に遷都の事を論じさせた。
翌年に元正天皇は遷都の詔を出し、「四禽図に叶い、三山、鎮を作す」と指摘されている。藤原京から平城京への発起と思いの要因は粟田真人や遣唐使が間近に見聞した長安の大明宮含元殿をわが国にも取り入れたい思いもあった。平城京に作られた大極殿は含元殿が類似している点にある。
京域は朱雀門と羅生門を結ぶ朱雀大路を中心に、東が左京、西が右京で、それぞれ東西の方向を大路には中央の羅生門を左右に一坊から順に外に向かって増え外京は別に増えて行く、南北に大路があるが南北には一条から九条に、条里制に基づくもので、坊と坪と里と条里制は班田図によって表現される。
平城京の人口は10万人位と予測され、もともと京内に居住し官職を持っている上級官人、地方から赴任してくる官人、京外に住み生活必需品の供給する人、人口十万人の首都平城京は当時としては大変な賑わいであったろう。
◆和同開珎*日本最古の銭貨。本朝十二銭の最初の銭貨。銀銭と銅銭がある。和銅元年(708)発行の。銭文「和銅」には年号、調和を表わす吉祥句(きちじょうく)の両方の意味が含まれている。律令国家が重点をおいた銅銭で、高い法定価値を付与して支払に用い、銭貨発行の収入を得た。
銀銭は、和同開珎の発行以前に存在をしていた地金(じかね)の銀の貨幣機能を銅銭に受け継がせようとするための媒介物として発行された。
このため銅銭が流通する存在意義は減少し、銀銭禁止令が出された。現在にある記念硬貨的色彩と銭貨発行による収入源も見込めたが貨幣としての流通は程遠いものがある。

※この頃の藤原京から平城京への人物上の大きな動きと詳細な記述はなく、二官八省など律令国家ついて述べられている。皇位継承に首皇子への引き継ぎに元明・元正女帝思いが遷都と「和同開珎」の発行で機運を高めるための意図が窺える。



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1 コメント

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Unknown (omachi)
2018-05-11 17:55:54
歴史探偵の気分になれるウェブ小説を知ってますか。 グーグルやスマホで「北円堂の秘密」とネット検索するとヒットし、小一時間で読めます。北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。 その1からラストまで無料です。夢殿と同じ八角形の北円堂を知らない人が多いですね。順に読めば歴史の扉が開き感動に包まれます。重複、 既読ならご免なさい。お仕事のリフレッシュや脳トレにも最適です。物語が観光地に絡むと興味が倍増します。平城京遷都を主導した聖武天皇の外祖父が登場します。古代の政治家の小説です。気が向いたらお読み下さいませ。(奈良のはじまりの歴史は面白いです。日本史の要ですね。)

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