歴史の足跡

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歴史は語る・42・紀貫之と大和絵

2014-12-18 17:12:04 | 例会・催事のお知らせ




四十二、天才歌人紀貫之(きのつらゆき)と大和絵

平安文化に和歌に大和絵があった。互いあいまって格調高い和歌を通して、平安文化を伝え残した貴重な伝統は大和絵が一層深め、王朝絵巻そのもの優雅な貴族の遊び心と、文学表現の極地の世界でもあった。
その見識は『古今和歌集』に窺えると言う。
宮廷では歌会(うたかい)が頻繁(ひんぱん)に行われ、水を得た魚のように、その才能は如何なく発揮され、公家社交界の綺羅輝く和歌の名家になった。
そこで醍醐天皇(だいごてんのう)は大内記(だいないき)の紀友則(きのとものり)、御書所(ごしょじょ)預(よ)の紀貫之(きのつらゆき)、前甲斐(まえかい)小目(しょうもく)凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑(うえもんふせいみぶただみね)に勅(ちょく)を下した(くだした)。
『万葉集(まんようしゅう)』以後(いご)の本格的古今の歌集集成を命じた。
この編纂の指揮指導者は紀貫之だと言われている。和歌研究家で和歌史に精通していた紀貫之は自分の和歌百二首を『古今和歌集』に織り交ぜ全巻で千百首をから成っていて、古今と言っても、今を寛平時代以後の重点的に選歌されている。
中には「読み人知らず」の群れの中に多く見出すことが出来る。(読み人知らず)は作者不明の事である。
*この読み人知らずは、当時は歌人の選別し作者の記述保存が未成熟だった、また膨大な数に整理し後世に残す取り組みが出来なかったのを醍醐天皇が紀貫之らに命じて『古今和歌集』を作成した意味は大きい。

また紀貫之と言えば『土佐日記』は代表作で平安時代の傑作である。
『土佐日記』平安初期の仮名の代表的な日記文学『土佐日記』とも呼ばれ「とさの日記」(恵慶集)とも呼ばれ冒頭に「男もするな日記というものを女もしてみむとてすむなり」とありあくまで語り手を女性とする。
女性から見た視点で描かれ、延長八年(930)土佐守に任じられた紀貫之が任期を終えて土佐の国府を発って今日の自宅までの間の虚構を基本としての紀行文風の道中記、船旅の不安、海賊への怯えと不安、船上の人間のやり取り、土佐でなくした愛児への嘆きなどを生への回想、感情の解放など紀行文学としての意味も大きく、文学的意義は評価されている。

もう一つ平安時代の宮廷を描いた「大和絵」がある。和歌と大和絵とが一体になって文化芸術を成している。
大和絵と言えば『源氏物語絵巻』『伴大納言絵詞』『信貴山縁起絵巻』『鳥獣人物戯画』が代表である。
大和絵は唐絵に対する言葉で、初めは「倭絵」と言われていた。
日本絵は朝鮮の影響を受け、法隆寺の壁画は飛鳥時代から唐絵と違いがないほどに制作され、中国の絵画の遠近感や立体化を補完する意味で倭絵が進化していき、平安貴族の要請を受けて宮廷絵師が描く屏風の画題に対して用いられた。
藤原道長が「冷泉院・神泉苑」甚だ優美と称賛をした。
*鎌倉以降は土佐派など優美な画風、金銀を散りばめた大和絵屏風が作られるようになった。

★紀貫之(?~945)平安中期の歌人。紀貫之出生年月日は不明で平安時代の代表的歌人で三十六歌仙の一人。貞観十二年くらいと思われている、父親は紀(き)望(もち)行(ゆき)。
母は妓女、遊女とも言われる説もある。大学寮で文章道を学んだとも言われ、御書所領で
ある、以後、大内記、右京亮、土佐守などを歴任、従五位上、木工権頭(もくのごんのかみ)に至り、天慶八年九月以降に没した。代表作『土佐日記』が有名である。
貫之の祖先は大納言船守の末流、古来の名家の藤原家から疎外され、応天門事件以来、一族は深刻な打撃を受けて陽の目を見ることが無かった。
さらに期待の紀氏の女の腹に生れた惟喬親王が皇嗣に立てられず、父の代で受領になるのが精一杯であった。紀氏の一支流にあった貫之にその才能を発揮させる和歌への道が開けた。
貫之は作歌だけでなく漢詩文にもその才覚は発揮され素養があった。
★紀友則(生没不詳)『古今和歌集』の一人。三十六歌仙の一人で。紀有友の子で貫之の従兄。四十才までは無官で延喜四年(904)内記をへてその後数々歌合に参加し、宇多院歌合などに出詠した。
★凡(おお)河内躬(こうちのみね)恒(つね)(生没不詳)『古今和歌集』の撰者、三十六歌仙の一人。父は利。丹波権大目、和泉権掾を歴任、当代きっての歌人と言われ、紀貫之に劣らない高い評価を受けた。宮中の歌合わせに参集し和歌に連なって序文を作った。屏風歌も多い。
★壬生忠岑(みぶただみね)(生没不詳)『古今和歌集』撰者。36歌仙の一人。父は安綱。右衛門府生を歴任し、宮中歌合に参集。
◆『古今和(こきんわ)歌集(かしゅう)』最初の勅撰和歌集。善二十巻1100首。延喜五年(905)醍醐天皇の下命で「紀友則」「紀貫之」「凡河内躬恒」「壬生忠岑」に万葉集に次ぐ「古」「新」歌の編纂が始められ、延喜十三~十四年に完成した。部位は春上下・夏・秋上下・冬・賀・離別・羇(き)旅(りょ)(旅の歌)・物名・恋・哀傷・雑上下・雑体・旋頭歌・俳諧(はいかい)・神遊歌・大歌所・催馬楽・東歌である。作者の内訳は、読み人知らず450首。上位は紀貫之102種・岑津60首・友則46首・忠岑36首・業平30首・伊勢22首・敏行19首・小町18首・遍照・深養父・興風17首など。

※紀貫之の評価は『古今和歌集』の編纂に携わったことに在って、1100首の内、102首も選択されている。古代の史実を知るが上に記述編纂が無ければ現代に存在しない。
そう言ったうえで『古事記』『日本書紀』『万葉集』が古代を知るが上にも書くことのでき記述あり、記録である。『古今和歌集』に450首も読み人知らずが450首もあって、もしこの編纂が無ければ闇に消えてしまうものであった。
平安時代の36歌仙の一人でもある紀貫之は平安時代にも現代と通じる役人の赴任生活と心境や行く先々の人間模様が浮き彫りにされている。
また平安時代に「倭絵」から「大和絵」として進化した絵は宮中絵巻にも登場する当時を物語る歴史資料で芸術的にも大きな価値を有している。特に『源氏物語』『信貴山縁起絵巻』『鳥類(ちょうるい)人物(じんぶつ)戯画(ぎが)』などは歌と共鳴しながら表現したり、それまでの古代絵画から「倭絵」から手法的にも写実的に表現され、深みと陰影を取り入れたものになっている。



歴史は語る・41・時平と道真

2014-12-17 16:29:03 | 例会・催事のお知らせ
四十一、時平(ときひら)と道(みち)真(ざね)

関白(かんぱく)基経(もとつね)が死去(しきょ)し宮廷内(きゅうていない)はある種の鬱積(うっせき)から解放され、若い宇多天皇は何も発言できず、内心親政を望み天皇の政治上の権限が復活をした。
皇継に女御胤子との間に生まれた敦仁親王を定め、基経の直系から外れ、基経の従兄の藤原高藤にあたる。
基経の子の時平を参議の座に据え同時に仁明の孫の源興基を据え同様に起用した。中納言以上の布陣としては左大臣に源融(とおる)(72歳)右大臣に藤原良世(72歳)大納言に源能有(50歳)中納言に源光(48歳)同藤原諸葛(もろかつ)(68歳)同藤原時平(23歳)の均衡(きんこう)のとれた朝廷人事であった。
菅原道真845年生まれで、早くからその才能は発揮され、その台頭はその出自にあった。祖父三代儒官として重きを成し、基礎を築いていた祖父清公以来菅家を名実ともに確立をした人物である。
正室は父の門人の島田忠臣の娘宣来子である。十一歳にして漢詩を読み、十五歳に元服。その後文章業生方略試の中上で及第し正六位上に叙せられた。
父是善は貞観十四年(872)道真が二十八歳、少内記の時に参議に加えられている。道真も少内記に叙せられ、五位下になり文人としては異例の栄達をした。ついに兵部・民部・式部・各少輔を経て元慶元年(874)に文章博士になった。
多くの願文を草文し活躍し藤原(ふじわら)良房(よしふさ)、基経(もときょう)とも親交も深く仁和二年(886)には国守として讃岐に赴任をした。二年後帰京し「阿衡(あこう)事件(じけん)」で調停し努力し、これまで家柄に応じた職に就いていた道真は、宇多天皇に信任を得た。
宇多天皇は摂関家には内心快く思ってはおらず、菅原道真の起用は摂関家に牽制をするが上にも都合の良い存在であった。
その後基経の死後、蔵人に、894年には遣唐大使に任ぜられたが国情により停止された。一説よれば道真の建議によって停止が進められたと言う。
『日本(にほん)三代(さんだい)実録(じつろく)』の編纂をし、多くの国の重要な国史や記述の編纂に参画した。また中納言に昇格し民部卿になり、長女の衍子を入内させ、右大臣に就任をした。道真の右大臣就任に三善清行反発もあって辞任の勧めもあったらしい。その要因に宇多天皇の道真寵愛が少なからず宮廷にあった。
延喜元年(901)道真を廻る形勢は逆転し、時平は大納言源光を味方に引き入れて、天皇に対して道真追放の工作を開始をした。
道真は天皇を廃し、弟帝で自分の娘婿である斎世親王を皇位に付けようとしておりますと告口をし、宇多法皇も同意をしていると言った。
時平は年少の天皇の不安を掴み巧みに自分の言い分の正しさを進言した。直ちに天皇は道真の陰謀と判断を下したが、しかもこの時には宇多法王に事の次第を正そうとはしなかった。
すぐさま天皇は詔を出して道真に非難を加え、大宰府権師とした。同時に源光を右大臣に任じ、定国に道真が兼任をしていた右近衛大将を兼務させた。
全て時平一味の企ては成功し、道真を助けるべく宇多法王は天皇に会う為に皇居に赴いたが門は閉ざされ、官人以下衛士に阻止させられた。
宮中から宇多法王が引き上げた日に道真は護衛を付けられ大宰府への旅路に着いた。
大宰府に流された道真の怨念か、次々に都に起こる不吉な出来事に都人は恐れおののき、呵責(かしゃく)の年に際悩ませることになるのである。
*菅原道真の出生地については、奈良市にある喜光寺の寺伝によれば、奈良市は菅原町周辺で生まれた説。
*京都市下京区、菅大臣神社説。
*京都市上京区、菅原院天満宮説。*奈良吉野、菅生寺説。
*島根県松江市、菅原天満宮説。
こう言った菅原道真の出生については、行った事ない島根県まで多様に伝説が生まれている。

★菅原道真(すがはらみちざね)(845~903)公卿・文人・父は是(これ)善(よし)、母は伴氏。文章家(もんじょうけ)としての基礎を築いたのは祖父清公以来、菅家を名実ともに確立した人物である。
十一歳で初めて漢詩を学び、日夜がくぎょうに勤しんだと言われている。十五歳で元服し十八歳で文章試に及第し、二十二歳にして文章(ぶんしょう)得業生(とくぎょうせい)、その後少内記など文人にしては異例の昇進を重ね、兵部・民部・式部の各少輔をへて三十二歳にして文章博士になった。
また多くの願文を草案し活躍した。その間藤原良房・基経親子とも親交を深め、四十二歳にして讃岐に国守として赴任した。この間に起こった阿衡事件で調停し宇多天皇に信任を得て、宇多天皇の下で蔵人頭になり、その後は『日本三代実録』の編纂に加わり、遣唐使についての進止について議定を奏言し、停止が決まり、入唐はしなかった。長女衍子を入内させ、自ら正三位になった。その直後、讒言によって、藤原時平の手によって大宰府権に左遷させられた。
★藤原(ふじわら)時平(ときひら)(871~909)藤原北家基経の長子。母は仁明天皇の皇女。右近衛権中将・蔵人頭・参議と血筋の良さで昇進、基経没後、宇多天皇の親政が進められ、菅原道真が重用されが、三人の関係は比較的平穏、その後中納言・右大将などを務め宇多天皇が譲位した時には醍醐天皇に与えた訓戒には、道真と時平に信頼をおくべし、左大臣時平、右大臣道真の頃は多少の対立はあったらしい。
延喜元年(901)天皇廃止の企ての疑惑に寄り、菅原道真は大宰府権に左遷せられた。この道真・時平の対立ばかりが強調され政策は課題に載らないが荘園整理令など一連の新制を行なった。また『日本三代実録』の撰上の貢献は大きい。三十九歳で没した。

◆「阿衡事件」*平安初期の事件藤原基経を廻る政治事件。「阿衡の紛議」とも言われ、宇多天皇の即位に伴い仁和三年(887)基経に出された関白の任命について、基経の辞退の上表に対する勅答(ちょくとう)があった。
「よろしく阿衡の任を持って卿(けい)の任と成すべき」と言う文言について「阿衡」は実権のない名誉的な地位を意味するとして基経は政務を行なわず渋滞し、翌年に改めて勅書を出し直すことによって正常に戻った。
この事件の背後には勅書の起草者、橘広相と藤原佐保世とも対立があった。結果天皇が折れて臣に従ったと藤原家の驕りに嘆いた言葉が残されている。
“朕遂に志を得ず、枉(ま)げて大臣に随う”この天皇と藤原氏の関係で道真が基経を諌めた手紙は文章家の実態を知るが上に重要である。
◆『日本三代実録』日本六国史の最期の史書。史書『三代実録』とも云う。藤原時平・大蔵善行により五〇巻。清和・陽成・光孝天皇の実績を叙述。

※菅原道真の大宰府左遷の秘話・伝説・説話は増幅拡大し、諸国にその伝説は点在する。一公卿で大臣の失脚に日本に後世にこれほど大きな影響と説話を残した人物は他にはいない。それだけ日本人に愛され共感を持たれている。
当時の朝廷内でも異常な事態で策略によって大宰府に流されたことに理不尽を感じていたのだろ。その後陰陽道や末法思想と相まって京都に不吉な出来事が続き、祟り、怨念と恐れ萎縮していき、魂を鎮めるべく神社を建立し、また道真の聡明さに「あやかりたい」学徳の功徳を受けたい心情が道真信仰に広まって行った。
悪役にされた藤原時平も『日本三代実録』の編纂作成に寄与している。三十九歳と言う若さで早世しているものあまり知られていない。



歴史は語る・40・平安の文人在原業平

2014-12-07 08:12:08 | 例会・催事のお知らせ
四十、平安の文人在原業平(ありはらなりひら)

平安初期の多恨、多情の歌人在原業平は平城天皇の皇子阿保(あぼ)親王(しんのう)と桓武天皇の皇女伊登親王を父母として誕生をした。
七歳上の兄の行平がいた。天長三年(826)臣籍に降下された時にこれらの兄妹は在原朝臣の氏姓を与えられた。
業平は五男にして、後に右(う)近衛権(このえごん)中将(ちゅうじょう)に在五中将と言われた。古代でも名前を省略して通称として「在五中将」と呼ばれていたことになる。血筋的には申し分ないが、皇統外であったので比較的自由な立場で行動でき、振る舞うことが出来た。
父親王はあの承和の変で異常な密告者として、その後わずか三カ月後に世を去った。その時には業平は十八歳、さぞ肩身の狭い思いをしただろう。
この事件を境にして藤原良房は権勢を振るう様になった。嘉祥二年(849)ようやく業平は従五位に叙せられたのが二十五歳になっていた。
時は仁(にん)明帝(みょうてい)が亡くなって、文徳が即位し、良房が孫惟仁親王が皇太子になって、外戚として権勢を振るう中、対立候補の惟(これ)喬(たか)親王(しんのう)の生母静子が業平の妻の父有常の妹で、紀家と業平は惟喬親王が立太子になる事を望んでいただろうが、その望みも絶たれた。
業平の希望は断ち切られ、その後は貴公子業平として『日本(にほん)三代(さんだい)実録(じつろく)』の伝える所に寄れば「業平体貌閑麗、放縦拘わらず、略才学有り、善く倭歌を作る」と人物を評している。
好色で、放浪的で、秀でた和歌の天性を表していているのではないだろうか。
また時の権勢を誇った基経の妹高子とのロマンスは宮廷の噂になったのだろう。高子は清和天皇の妃であり、際どい恋ではなかっただろうか。
その他業平と伊勢の斎宮との恋にも浮名を流したと言う。業平の伝説には貴賎に関わらず情を交わした話が筆者の母の在所の河内地方にも語り残され大和から河内へと峠を越えて通う業平の伝説は残されている。「業平の河内通いの小提灯」が残されている。
平安時代の貴族の恋は通い夫で、摂関の女御の必須条件は帝に自分の娘に通って皇子を生ませることに懸っていたように、一夫多妻制の貴族世界では業平にとって都合の良い制度であったのは確かである。
基経の妹の高子との色恋沙汰は一種の計算づくであって、官人のとしての役職は「応天門事件」の前年で右馬頭の職位で十一歳年下の基経は四十才にして右大臣左近衛大将を堀川弟の祝いの席で
「さくら花ちりかいくもれ老いらくのこむちうなるみちまがふに」とやるせない心情を詠っている。
やがて官職の座から疎外され、五十三歳仁して右近衛中将となって、佐賀権守、美濃権守を兼任したが、他の兄弟とは差が付いたものであった。
生涯参議には付けず、世俗にまみれることになって行った。だが残された歌の数々は後世に広く影響と感銘を与え五十六歳の生涯を閉じた。
★在原業平(825~880)平安時代の歌人。三十六歌仙の一人。平城天皇の皇子阿保親王の五男、母は桓武天皇の皇女伊都内親王。天長三年(826)兄行平と共に在原姓を名乗る。官人としての出世は遅く、歌人としての道を歩む、最終官職は右近衛権中将で業平の事を「在中将」と呼ばれた。
紀名虎の娘を妻とし文徳天皇皇子で名虎の女所生の惟(これ)喬(たか)親王(しんのう)に親近、源融嵯峨源氏とも親しんだ。情深く、色を好んだのは有名、公家から一般庶民の女性まで色恋沙汰の伝説は多い。享年56歳である。

◆六歌仙
*在原業平
*僧正遍昭で父は桓武天皇の皇子良岑安世。蔵人頭に官職を務めたが、仁和元年(885)天皇の死に従い出家。比叡山で円仁・円珍に師事し僧正に上り詰めて七十賀(しちじゅうじゅうが)を賜る。
*文屋(ぶんや)康(やす)秀(ひで)、三十六歌仙の一人。二条后高子のもとで詠作や小野小町との交遊が知られる。
*喜撰(きせん)は宇治に隠遁したと言うこと以外詳細は不明。
*小野小町は小野宰相常詞の娘、小野常澄の女と言う説もある。
*柿本(かきのもと)人麻呂(ひとまろ)、時期としては草壁皇子没時の挽歌。明日香皇女没時の挽歌。宮廷儀礼などの専門歌人。*山部赤人(やまべのあかひと)、下級官人聖武天皇の行幸に伴う作が多い。

※西行や一休のように好胤説もあるが、両親とも血筋の良い業平は出世に不遇、持って生まれた歌人としての才能を発揮した。また多くの女性と関係を持ち「色男的存在」まるで源氏物語の主人公の光源氏のように、女性から女性に渡り歩き、叙情を優先させる詠風が「その心余りて言葉たらず。しぼめる花の色なくして匂い残れるが如し」と高い評価をうけた。






歴史は語る・39・宇多天皇

2014-12-01 05:11:02 | 例会・催事のお知らせ

三十九、宇多(うだ)天皇(てんのう)の時代

宇多天皇は基経に「阿衡(あこう)」の称号を送って、覆されて飾りだけの天皇として、その無力をいやというほど知らされた。
他の兄妹と同様に父光孝天皇の威光によって臣籍に降下され源定省になったことへの負い目を持っていた。
しかし寛平三年(891)基経が五十六歳で死去し、例の「阿衡」で宇多天皇の面目を潰された広相の報復の左遷をして溜飲を下げた。
それもそのはず基経が光孝天皇の死の直前に天皇の意を受けた基経の推挙によって立太子になって、皇位に就いた経緯上、基経に頭が上がらないのは当然のことだった。
その一方讃岐から菅原道真を呼び戻し蔵人頭に任じた。更に道真は佐中弁に任じられ、太政官の中枢の事務機構に入り出世コースを歩む、その年の内に佐大弁に昇進をしている。
同時に春宮坊の長官たる大夫は基経の長男時平が任じられ、この時に両者は宇多天皇は道真と時平を託そうとしていた。
「寛(かん)平(ぴょう)の治」、宇多天皇は国政の面で国史長官の受領化(本来は、国司の交替に際し、後任の国司から職務を引き継いで完了した修了書を称する証の文書を前任から国司が受け取ること)に地方支配の再建の成果。
古代平安以降現地に赴いて国史の最高責任者守が遙任の時は権守や介が受領となった。受領以外の国司は任用国司と言う。
本来律令国司制度は四等官全員が国政に当ることになっていたが、八世紀以降、徴税や裁判などの権限や責務が集中する様になった。)を進めた。
宇多朝は藤原良房・基経親子に王権を骨抜きにされつつあって、天皇の政治的な面で主導権を取り戻そうする施策が目立った。
宇多天皇の治世には、天皇主催の歌合わせを盛んにし、和歌の復権顕著になった。
その宇多天皇は寛平九年(897)在位中最後の除目で、筆頭公卿藤原時平を大納言に昇格すると同時に、中納言菅原道真を権大納言に昇進させた。
その直後に皇太子敦(あつ)仁(ひと)親王(しんのう)に元服を挙行し、即日皇太子に譲位してしまう早業である。こうして醍醐天皇が登場する。
宇多天皇の詔は醍醐(だいご)が幼少だから時平と道真に関白のような働きをするように命じているように、この二人の支えによって醍醐の治世がなされると踏んでいたと思われる。
言わずもがな、宇多天皇は藤原家流の摂政をさせないような計らいと意図が窺われて、外祖父や外戚による干渉に嫌気をさしていた。女御をさせない仕組み作りから妃を妹爲子内親王を廃し、藤原氏らが入れないように手配をした。
ところが爲子が昌泰二年(899)に内親王勧子を残し死んでしまった。
この好機を逃す時平ではなかった。
早速妹の穏子を女御(天皇の寝所に侍した高官の女官。主として摂関の娘がなり、平安中期から女御から皇后を立てるのが例となった。)やがて醍醐と穏子と間に保明親王が生まれると、延喜四年(904)この親王を立太子にしてしまった。
その後道真の後ろ盾の宇多天皇は出家をしてしまう。出家と言っても本格的な仏門に入ってしまい、昌泰四年(901)正月、道真は宇多天皇を欺き、醍醐天皇を廃し、自分の娘婿斉世親王を即位させようとした罪を着せられて、大宰権師に左遷されてしまった。
道真の警戒心が無く不用意だった。道真の急進的な出世に反感をもつ者も多かった。この知らせを受けた宇多上皇は内裏に馳せ参じたが、内裏の門が閉ざされ、宇多上皇の威光も無く皇権は醍醐天皇の一本化されたのと時平が全権を把握したことを内外に知らしめた。

★光孝天皇(830~887)在位三年間、仁明天皇の第三子。母は贈太政大臣藤原総継(ふさつぎ)の女、贈皇太后沢子(たくこ)。承和十二年より加冠。四品から三品(さんぼん)に、更に二本品に一品(いっぽん)と進み、太政大臣の藤原基経によって陽成天皇が廃された後を受けて、五十五歳で即位(践祚)した。
天皇は事実上、関白とし皇太子を立てず、皇子を臣籍に下したが天皇が危篤になると、皇太子として皇子を立てた、その皇子が宇多天皇である。幼少期から聡明の評判があって、来朝した渤海大使は「天子の相あり」述べたと言う。
★宇多天皇(867~931)在位十年間。光孝天皇の皇子時康親王。班子女王の子。臣籍に降って源定省(さだみ)と称したが、父の光孝天皇の死の直前に基経の推挙で立太子から天皇に、その後「阿衡事件」で威信は失墜した。基経の死後は親政(天皇自ら政権を担う)菅原道真を抜擢した。
その後は時平によって道真は左遷され抵抗を試みるが失敗し隠遁生活に入る。

※藤原基経の強権によって、光孝天皇も宇多天皇も基経の意向で皇位に就けた。両天皇は最も頭の上がらない重臣で政策面でも基経の朝廷内を牛耳る実力者であった。