二十五、聖武帝の遷都と橘諸兄(たちばなもろえ)政権(せいけん)時代(じだい)
全盛時代を迎えた藤原四兄弟時代はあっけなく天然痘で相次いで没し幕切れとなった。
次ぎに登場するのが、橘諸兄と、長屋王の変で失脚した残った人々の復権であった。
一般に橘諸兄の起用については、光明の強い意志が働いていたのだろうと思われているが、また長屋王の王家の残された人々の復活も、聖武、光明の判断の誤りで、後に悔いと償いの意味を込めての処遇でもあるが、いずれにせよ藤原四兄弟が健在だとすれば、まずこれらの話は不可能だったと思われる。
橘諸兄は光明の異父兄弟の兄で橘三千代の子で、同じ異父兄弟の藤原四兄弟を失った今となっては心の支えになっていたのは間違いのないところである。
天平八年(736)葛城(かつらぎ)王(おう)を改め、橘諸兄が皇籍を離れ、臣籍に降り、橘宿禰(たちばなすくね)の姓を祝う宴が開かれたと言う。
葛城王は敏達天皇より五代目の王族で父美努王と母県(あがた)犬養(いぬかい)橘(たちばな)三千代(みちよ)の間に生まれたが、弟の佐為王の王族も際立った存在ではなく、参議兼左大弁の地位だった。
天平十年(738)武智麻呂右大臣の死去の後に、橘諸兄が成ったことはひとえに母橘三千代の威光と後ろ盾が有っての事だろう。
諸兄も左為王も自ら願い出て臣籍を得たと言う、橘政権を示唆したのは光明である事は誰もが推測する事で、光明の身内で固めたい思いは当然の事だったのだろう。
そして贖罪で失脚した長屋王の弟の鈴鹿(すずか)王(おう)が参議から知太政官事になり、隆盛を極めた藤原四兄弟の子からは武智麻呂の長子豊成が参議になった位なものだった。
藤原四兄弟の子たちはまだまだ若く政権に参画できるほどに成人して居らず、した積みの時代にあった。
藤原広嗣の乱の最中その対策も、留守居に任せ、聖武天皇は遷都探しの行幸に出た。御共に同行したのは、元正前天皇・光明天皇他右大臣の橘諸兄ら重臣と、藤原仲麻呂と紀麻呂の率いる騎馬兵四百を前後に平城京を出発した。
伊賀、伊勢、美濃、近江を行宮や郡衙に泊まり巡り山背国相楽郡の甕(みかのはら)原宮に着いた時は一カ月半は過ぎていた。右大臣橘諸兄は天皇の行く先々に廻って準備を整えた。
聖武天皇が廻った順路は丁度、天武天皇が壬申の乱に吉野を出て、近江に攻撃をかける時に進んだ順に廻った形で、その地を「恭仁宮」と名付けられ、直ぐに平城から官人などを呼び寄せて官庁を移転させた。
恭仁宮の場所は平城京の真北にあって、早く言えば木津川を挟んで直ぐ側の場所、聖武天皇の遷都の決意の要因は、天然痘の忌まわしい禍からの払しょくと、長屋王の変の後味の悪さからの払拭とも言われている。何か深い迷いが有ったのかも知れない。
更に聖武天皇は近江国甲賀郡の信楽村(しがらきむら)に行幸し、恭(く)仁宮(にのみや)造営中(ぞうえいちゅう)の造営(ぞうえい)卿(きょう)智(ち)努(ぬ)王(おう)に紫香楽宮の造営を任命した。
聖武帝は留守居の平城宮に恭仁宮の大極殿で朝賀を受けたり、新都に行ったり来たり往復をした。こうして紫香楽宮が進める中、大仏造営の詔を出した。
かねてより河内は知識寺(ちしきじ)の廬舎那(るしゃなぶつ)仏(ぶつ)を見て感銘を受けて造立を決意をしていた。そんな中、聖武帝は難波の宮に向かった。難波宮は孝徳天皇の跡地で副都として活用しようと思っての計画だったろう。
聖武は官人を朝堂に集めて、恭仁宮と難波宮の何れを都にすべきかと問い意見を述べよと言った。答えは恭仁宮に多くの官人は答えた。
聖武天皇の決意は定まっていて平城京から「天皇の大権の証」駅令と内印を難波宮に運ばせていた。そんな中、聖武の唯一の皇子の安積親王が死去した、時に十七歳になっていた。その皇位後継者とみられた安積親王の死にはその後も多くの謎が残されている。
その後、紫香楽宮での大仏造営に転々とした新都造立に疲弊(ひへい)し切った民に山火事が多発し、聖武帝は難波行幸から還都を決意、六年に渡る遷都の継続断念の引き換え条件に平城京に大仏造立を新たに決意したのである。
★橘諸兄(たちばなもろえ)(684~757)奈良時代の公卿、父は美努王、母は県犬養橘三千代。奈良麻呂の父。始め葛城王と称していたが、左大弁など経て参議に、天平三年(731)佐為王の弟と共に上表し、母が忠誠を賞されて元明天皇から与えられた橘姓を名乗ることを請い、許されて橘諸兄と改名をした。
藤原四兄弟の亡き後、大納言、右大臣となって政界の中心的存在になった。しかし唐から帰った吉備真備や玄の重用に藤原氏の反発を買い、その後台頭する藤原仲麻呂に権勢の強まりに、諸兄の影響力は低下、756年に致仕した。
◆恭(く)仁(に)京(きょう)*京都府(きょうとふ)相楽郡(そうらくぐん)加茂町(かもちょう)、山城町、木津町にまたがる所在の古都宮都。740年より744年までの暫定的な都。藤原広嗣の乱の引き金となって、再び平城京に戻るまでの間、聖武天皇は恭仁をはじめ紫香楽、難波と転々とした。
※聖武天皇の迷想遷都の旅は果てしなく続き、臣下は疲弊を余儀なくされたのであるが、しかもその少し旅に出ると言って都を後にして、伊賀、伊勢、美濃、近江を行宮や郡衙に泊まり巡り山背国相楽郡の甕(みかのはら)原宮に着いたのは一カ月半は過ぎていた。
右大臣橘諸兄は天皇の行く先々に廻って準備を整えた。丁度その行程は壬申の乱で天武天皇が廻った行程をなぞるように、しかも落ち着いた所は平城京の真北の直ぐ側の地点、何の思い出で巡行したかについては明白に語れていない。
夢多き帝の思いは臣下には到底理解しがたいものであるが、大仏建立と言い、新都の謎想に模索と言い、理想化の反面、写経に見る繊細で律義な性格は民の疲弊は気にも留めなかったようである。
全盛時代を迎えた藤原四兄弟時代はあっけなく天然痘で相次いで没し幕切れとなった。
次ぎに登場するのが、橘諸兄と、長屋王の変で失脚した残った人々の復権であった。
一般に橘諸兄の起用については、光明の強い意志が働いていたのだろうと思われているが、また長屋王の王家の残された人々の復活も、聖武、光明の判断の誤りで、後に悔いと償いの意味を込めての処遇でもあるが、いずれにせよ藤原四兄弟が健在だとすれば、まずこれらの話は不可能だったと思われる。
橘諸兄は光明の異父兄弟の兄で橘三千代の子で、同じ異父兄弟の藤原四兄弟を失った今となっては心の支えになっていたのは間違いのないところである。
天平八年(736)葛城(かつらぎ)王(おう)を改め、橘諸兄が皇籍を離れ、臣籍に降り、橘宿禰(たちばなすくね)の姓を祝う宴が開かれたと言う。
葛城王は敏達天皇より五代目の王族で父美努王と母県(あがた)犬養(いぬかい)橘(たちばな)三千代(みちよ)の間に生まれたが、弟の佐為王の王族も際立った存在ではなく、参議兼左大弁の地位だった。
天平十年(738)武智麻呂右大臣の死去の後に、橘諸兄が成ったことはひとえに母橘三千代の威光と後ろ盾が有っての事だろう。
諸兄も左為王も自ら願い出て臣籍を得たと言う、橘政権を示唆したのは光明である事は誰もが推測する事で、光明の身内で固めたい思いは当然の事だったのだろう。
そして贖罪で失脚した長屋王の弟の鈴鹿(すずか)王(おう)が参議から知太政官事になり、隆盛を極めた藤原四兄弟の子からは武智麻呂の長子豊成が参議になった位なものだった。
藤原四兄弟の子たちはまだまだ若く政権に参画できるほどに成人して居らず、した積みの時代にあった。
藤原広嗣の乱の最中その対策も、留守居に任せ、聖武天皇は遷都探しの行幸に出た。御共に同行したのは、元正前天皇・光明天皇他右大臣の橘諸兄ら重臣と、藤原仲麻呂と紀麻呂の率いる騎馬兵四百を前後に平城京を出発した。
伊賀、伊勢、美濃、近江を行宮や郡衙に泊まり巡り山背国相楽郡の甕(みかのはら)原宮に着いた時は一カ月半は過ぎていた。右大臣橘諸兄は天皇の行く先々に廻って準備を整えた。
聖武天皇が廻った順路は丁度、天武天皇が壬申の乱に吉野を出て、近江に攻撃をかける時に進んだ順に廻った形で、その地を「恭仁宮」と名付けられ、直ぐに平城から官人などを呼び寄せて官庁を移転させた。
恭仁宮の場所は平城京の真北にあって、早く言えば木津川を挟んで直ぐ側の場所、聖武天皇の遷都の決意の要因は、天然痘の忌まわしい禍からの払しょくと、長屋王の変の後味の悪さからの払拭とも言われている。何か深い迷いが有ったのかも知れない。
更に聖武天皇は近江国甲賀郡の信楽村(しがらきむら)に行幸し、恭(く)仁宮(にのみや)造営中(ぞうえいちゅう)の造営(ぞうえい)卿(きょう)智(ち)努(ぬ)王(おう)に紫香楽宮の造営を任命した。
聖武帝は留守居の平城宮に恭仁宮の大極殿で朝賀を受けたり、新都に行ったり来たり往復をした。こうして紫香楽宮が進める中、大仏造営の詔を出した。
かねてより河内は知識寺(ちしきじ)の廬舎那(るしゃなぶつ)仏(ぶつ)を見て感銘を受けて造立を決意をしていた。そんな中、聖武帝は難波の宮に向かった。難波宮は孝徳天皇の跡地で副都として活用しようと思っての計画だったろう。
聖武は官人を朝堂に集めて、恭仁宮と難波宮の何れを都にすべきかと問い意見を述べよと言った。答えは恭仁宮に多くの官人は答えた。
聖武天皇の決意は定まっていて平城京から「天皇の大権の証」駅令と内印を難波宮に運ばせていた。そんな中、聖武の唯一の皇子の安積親王が死去した、時に十七歳になっていた。その皇位後継者とみられた安積親王の死にはその後も多くの謎が残されている。
その後、紫香楽宮での大仏造営に転々とした新都造立に疲弊(ひへい)し切った民に山火事が多発し、聖武帝は難波行幸から還都を決意、六年に渡る遷都の継続断念の引き換え条件に平城京に大仏造立を新たに決意したのである。
★橘諸兄(たちばなもろえ)(684~757)奈良時代の公卿、父は美努王、母は県犬養橘三千代。奈良麻呂の父。始め葛城王と称していたが、左大弁など経て参議に、天平三年(731)佐為王の弟と共に上表し、母が忠誠を賞されて元明天皇から与えられた橘姓を名乗ることを請い、許されて橘諸兄と改名をした。
藤原四兄弟の亡き後、大納言、右大臣となって政界の中心的存在になった。しかし唐から帰った吉備真備や玄の重用に藤原氏の反発を買い、その後台頭する藤原仲麻呂に権勢の強まりに、諸兄の影響力は低下、756年に致仕した。
◆恭(く)仁(に)京(きょう)*京都府(きょうとふ)相楽郡(そうらくぐん)加茂町(かもちょう)、山城町、木津町にまたがる所在の古都宮都。740年より744年までの暫定的な都。藤原広嗣の乱の引き金となって、再び平城京に戻るまでの間、聖武天皇は恭仁をはじめ紫香楽、難波と転々とした。
※聖武天皇の迷想遷都の旅は果てしなく続き、臣下は疲弊を余儀なくされたのであるが、しかもその少し旅に出ると言って都を後にして、伊賀、伊勢、美濃、近江を行宮や郡衙に泊まり巡り山背国相楽郡の甕(みかのはら)原宮に着いたのは一カ月半は過ぎていた。
右大臣橘諸兄は天皇の行く先々に廻って準備を整えた。丁度その行程は壬申の乱で天武天皇が廻った行程をなぞるように、しかも落ち着いた所は平城京の真北の直ぐ側の地点、何の思い出で巡行したかについては明白に語れていない。
夢多き帝の思いは臣下には到底理解しがたいものであるが、大仏建立と言い、新都の謎想に模索と言い、理想化の反面、写経に見る繊細で律義な性格は民の疲弊は気にも留めなかったようである。