歴史の足跡

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『歴史研究』霊場札所巡りと歴史的意義・川村一彦著・寄稿文掲載

2015-04-04 20:56:35 | 例会・催事のお知らせ


霊場札所巡りと歴史的意義      川村一彦
筆者の歴史好きになった動機・要因が札所巡りに端を発している。四十年前に長男が生まれるに当たり、その時に内孫とあって母親は喜び、安産を祈願し中山観音に腹帯を受けに行くことを勧め、妻と三人で参拝した。中山寺と言えば西国三十三カ所の札所、腹帯を受けたのが昭和五十二年五月十五日、これを機に西国巡拝に廻りたいと言い出した。それでは皆で廻ろうと決まって、中山寺で朱印帖・掛け軸・巡拝用品を買い揃え、以後時間を見つけては家族で廻ることになった。西国観音巡拝への動機は切実な「祈願」や「願掛け」などは無く、家内安全・商売繁盛位の願いで、半ば観光に物見遊山の思いが有ったと思う。両親も一定の年齢に達し西国観音三十三所巡拝に巡り廻って観音菩薩の御利益の功徳に授かりたい気持ちもあって、当初は住まいの大阪近辺から廻り始めた。古来日本には聖地巡礼として、お伊勢・高野詣でに熊野詣が平安・鎌倉時代に掛けて形成され、西国・四国の遍路が普及していった。聖地・霊地巡礼は古今東西、キリスト教・イスラム教・ヒンズー教など宗旨が変わっても国々の風習や形態が変わってもあるものである。日本も時代が変わっても聖地霊地巡礼・巡拝は連綿として伝播され伝承されて来た。中でも四国遍路と西国巡拝は時代が変わっても伝わって広まって行った。観音信仰は来世利益の阿弥陀信仰と違って、現世利益として観音菩薩が三十三の姿、化身を持って衆生を救済すると言う教えの元に、宗派を超えて信仰されている。観音信仰は東国まで広まって“坂東観音三十三所”“秩父観音三十四所”巡拝となって日本百観音へと広まって行った。鎌倉時代から江戸時代に諸国を廻る巡礼・巡拝は四国から西国、東国へと朝野を問わず広まって、無暗に地方を行き来が出来ない時代に容易に諸国を見聞でき、情報文化の交流の要と成し、庶民の異郷文化の憧憬を満たすことになった。時代が変わっても巡拝・巡礼の風習文化は伝播、伝承されて交通手段の便利さに加え一般庶民まで普及した。