歴史の足跡

フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」の会」もよろしく。

歴史は語る・30・桓武天皇即位

2014-10-11 06:55:10 | 例会・催事のお知らせ
三十、桓武天皇即位

天武系以外の天皇が一世紀ぶりに誕生した。
折しも宝亀二年(771)光仁天皇の擁立の立役者の左大臣の藤原永手の突然の死によって平城京の政変が起きた。皇后井上内親王が光仁を呪詛したとして廃され、三カ月後、他戸親王が皇太子の地位を追われる。
これは井上内皇后・他(た)戸(と)親王(しんのう)と、高野妃と山部親王・早良親王の主権争いである。
皇后井上内親王・他戸親王は光仁天皇姉の難波内親王の死去にかこつけて呪詛したと嫌疑がかけられて、大和国宇智郡に幽閉され翌年の同じ日に死去している。少なくとも陰謀と粛清に他ならない。
替わって他戸の兄の三十七歳の中務卿の山部親王が皇太子になったが、この立太子は異例中の異例、母の高野新笠は百済からの血を引く皇太子で、この擁立に裏面から支えたのは藤原良継・百川兄弟であった。良継の娘は山部皇太子の妃になっており計算づくの擁立であった。
光仁天皇在位十一年間の間の記録は余り多くは残されていない。宝亀十一年(780)三月に陸奥の国に起こった叛乱である。
桃生城・伊治城などの造営に蝦夷の強い反発を呼び、陸奥国の海道の蝦夷が蜂起し桃生城を襲い、これを契機に三十八年間の動乱の時代が始まった。
天応元年(781)山部皇太子は病気の父光仁天皇から譲位し桓武天皇が誕生する。
この藤原良継の娘と桓武天皇(山部親王)の間に次の天皇になる平城・嵯峨天皇が生まれることになる。
桓武天皇には天武系の払しょくと、一庶民で渡来系の血筋を持つ母のコンプレックスの即位で平城京には未練も思い入れもなかった。
また旧来の皇族からの一新に又とない機会でもあった。しかしその旧来のしこりが噴出、一波瀾が有った。氷上川継の乱である。平城京で後継者の一候補になった塩焼王の子で天武の曾孫に当たる。
母は井上内親王の姉妹で血統から言えば桓武と遜色はない。
その従者が武器を持って乱入、捕獲された。捕えられて自白した所に寄れば、平城宮に押し入り、新帝桓武を廃し、川継を皇位に就けようと計らった。
そこで桓武は川継を逮捕したが光仁天皇の没後一年も満たないからという理由で死罪を免れて伊豆に配流された。
この事件で本当に川継が謀反を企てたと言う説と仕組まれた桓武側の陰謀とする説がある。
こうして平城京の柵を経て桓武は即位し母親の高野新笠は皇太夫人となった。また同時に同腹兄弟の早良親王が皇太子に立てた。
この後、早良皇太子に暗い影が忍びつつあった。宝亀五年(774)この頃には既に桓武の皇子の安積親王が生まれていた。

★光仁天皇((709~781)白壁皇子・在位十一年間、天智天皇の孫、志貴皇子の子。母は紀(き)橡(とち)姫(ひめ)。宝亀元年(770)称徳天皇が没すると、藤原永手・百川らによって擁立された。
井上内親王を皇后とし、翌年に他戸親王を立太子としたが、翌々年の772年に呪詛(じゅそ)の罪を問われ。皇太子を廃し、773年に高野新笠との間に生まれた山部親王を皇太子として、781年に病を理由に譲位した。
★桓武天皇(737~806)在位25年間。父は光仁天皇、母は高野新笠。当初は山部親王と称したが、称徳天皇が没し、父白壁の皇子が光仁天皇になって、井上内親王が皇号になって、その皇子の他戸親王が皇太子になった為に山部の皇子は官僚などしていたが、藤原百川の謀略によって、それまでの皇后、皇太子が廃され、山部親王が皇太子になった。
そして弟の早良親王が皇太子になったが、藤原種継の陰謀によって廃太子となった。変わって安殿親王が立太子したが病弱であり、無実で死んだ早良親王の怨霊と桓武天皇の心を悩ませた。
★藤原(ふじわら)永手(ながて)(714~771)房前の次男。母は牟漏女王。長岡大臣の号。藤原仲麻呂の乱の功績で昇進し、大納言、左大臣に転じ称徳天皇が没すると、藤原百川らと図り、白壁皇子を擁立した。
★早良親王(750~785)光仁天皇の皇子。母は高野(たかの)新笠(にいがさ)。桓武天皇同母弟。若くして東大寺に出家し,大安寺に住持した。藤原種継射殺事件で捕えられた大伴継人らの自白により、早良親王を君主にする大伴家持らの計画が露見して乙訓寺に幽閉させられた。10日余り食物を絶ち移送される途中で、河内国で没し、屍は淡路に送られ葬られた。
★藤原(ふじわら)良(よし)継(つぐ)(716~777)公卿,宇合の次男。母は石上麻呂の娘、初めは藤原宿奈麻呂と言ったが、良継と改めた。広嗣の乱に連座して伊豆に流され、復帰し越前・上総・相模・上野守を歴任。仲麻呂の乱に功があって昇進、その後内大臣に称徳が没すると白壁皇子を擁立した。藤原乙牟漏が桓武天皇の皇后となると外祖父として厚遇された。

※時代が変わっても皇位継承には粛清、淘汰が生じるのは古今東西、歴史の摂理か朝廷はそんな忌まわしい事柄や悪しきことに嫌気がさして新天地を目指すもの、桓武天皇も平城京を捨てて新京を目指すのである。
またもや桓武天皇に皇子も生まれ、摩訶不思議な藤(ふじ)原種(わらたね)継(つぐ)の射殺事件は出家した弟の早良親王に降りかかって行きあらぬ嫌疑(けんぎ)がかけられ、大伴家持らの自白で言い訳のできない状態に追い込まれ、幽閉され移送されて謎の死を遂げた、遺体は淡路島に送られ葬られ、早良親王の疑獄は闇の中に消えて行った。
その後は怨霊(おんりょう)を恐れ、御霊神社で魂を慰霊する皇族、公家、公卿の良心の呵責(かしゃく)だった。