歴史の足跡

フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」の会」もよろしく。

[『歴史憧憬のエッセー』”箸塚古墳と卑弥呼”

2014-05-30 19:40:27 | 歴史エッセイ―
『歴史憧憬のエッセー』(3)“箸塚古墳と卑弥呼”
日本の起源を探る邪馬台国の所在についての論争は江戸時代にさかのぼり、畿内説、九州説に別れ国論を二分してきた。近年、邪馬台国、卑弥呼論争で畿内、九州説と白熱を帯びる中、箸塚古墳と卑弥呼の関連性が邪馬台国の大和説に比重が片寄りつつあるように思われる。
中でも脚光を浴びてきたのが、中でも日本の古墳時代にいち早く形成していった纏向遺跡の古墳群の盟主的古墳の箸塚古墳が邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかと古くから囁かれてきた。放射能炭素測定でも、近年新たに年輪の測定にも魏志倭人伝の時代に合致、符合され、邪馬台国論争に議論が巻き起こっている。宮内庁により陵墓として管理されていて、学者、研究者の立ち入り調査は許されてはいない。陵墓の祭祀は『記紀』によれば崇神天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命である。
その倭迹迹日百襲姫命についての説話に『日本書紀』には「三輪山伝説」がある。倭迹迹日百襲姫命は三輪明神の神、大物主神の妻となったが、夫の昼には会うことが無く、何時も夜間でその訳を問うと、姫の言うのももっともと、明朝には姫の櫛箱の中に入っている、決して見て驚かぬように、約束をして姿を消した。夜が明け、姫が箱を開けて驚いた。一尺位の美しい子蛇が一匹が入っており、姫が驚き泣きわめいたので子蛇は素の麗しい男に戻り「姫は私との約束も守らず恥をかかした」と言って三輪山の方に姿を消した。姫は深く後悔し耐え切れず「ほと」(陰部)を突いて亡くなった。また姫が驚いて箸で「ほと」に突き刺さって死んだ説もある。ともかく大物主神(国津神)の妻で崇神天皇の皇女、説話には卑弥呼にはあまり接点はないが、倭迹迹日百襲姫命の名前に何か秘められた鍵はないだろうかと、推測する次第である。
※邪馬台国論争になると我を失い、自制も効かず、誹謗中傷まで飛び出すのは残念、歴史を楽しむ意味では互いの理解が必要である。


『歴史エッセー』”散髪脱刀令”

2014-05-26 20:49:08 | 歴史エッセイ―
『歴史エッセー』「散髪脱刀令」
明治4年(1871)に散髪脱刀令なるものが公布された。こんな当時の流行歌があった。
「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」と言って散髪は文明開花を受け容れようとする者、頑として髷、刀を外す事を拒む者、明治9年(1876)軍人、警察官以外の帯刀を禁じた。また長年日本人に馴染んだ丁髷は切らず、逃げ回って拒否、手本として明治天皇が率先して髷を切った逸話がある位、近代日本への明治維新は髷と帯刀に苦慮したらしい。