歴史の足跡

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「古事記が紡ぐ一ノ宮の神々

2015-05-27 18:17:24 | 例会・催事のお知らせ
◎わが著書を語る。“『古事記』が紡ぐ一ノ宮の神々“川村一彦著
『古事記が紡ぐ一ノ宮の神々』を著すにあたり、古事記に出てくる神話の世界の神々が、一国一宮に鎮座する神社と祭神が古代の地域の過去を物語り、地域を代表する氏族と神社と祭神に深い関係と関わりを以て、古来より日本の津々浦々に神社と祭神に特別な神々として祀られる所以に、古代世界の謎を解く鍵が込められていると思われる。先住氏族の祖神から、渡来する神々と、海洋を移動し土着の氏族の祖神、大和朝廷の成立の過程に融合しながら、戦いと融和の痕跡を見ることが出来る。著者紹介 かわむらかずひこ   
1943年東大阪生まれる。地域の歴史研究会などに活動。全国誌「歴史研究会」に古代史や仏教史を投稿掲載し発表。全国歴史研究会本部会員・主な著書・歴研出版「平安僧兵奮戦記」月刊誌「歴史研究」特別研究四四六号“行脚三名僧の足跡”特別研究六〇三号“「古事記に見る神々の分布と世界観」・在野史論に多数発表・自費出版で『古代史群像の標榜』『芭蕉紀行世情今昔』『戦後日本の群像』『古事記が語る古代の世界』『古事記が描く説話の憧憬』『一ノ宮祭神の分布』『中世仏教立宗開花伝』他、発表する。平成27年6月1日著者・発行川村一彦・“『古事記』が紡ぐ一ノ宮神々“Å5・239頁@1600円 送料振込料当方持ち・著書注文の場合・ハガキ・〒536-0003大阪市城東区今福南4-9-7-1407。
TEL/FAX06-6935-3322・    hikosann_3926@1.zaq.jp   hikosann3926@docomo.ne.jp 郵便振替口座00980-9-207267名義人川村一彦

『家系研究』4月号掲載『文楽の由来と戦後史』川村一彦著

2015-05-03 16:54:52 | 例会・催事のお知らせ
文楽」の由来と戦後史                 川村一彦
大阪を基盤とする『文楽(ぶんらく)』(人形(にんぎょう)浄瑠璃(じょうるり))がここに来て存亡の危機に直面をしている。大阪市が市の財政の負担軽減の為に文化団体への補助金を削減又は廃止に向かった政策で『文楽』にその矛先が向けられた。文楽の自立を促すために打ち切りを示唆、これを機に人間国宝の竹本(たけもと)住(すみ)太夫(だゆう)氏(し)89歳が文楽再興の為に奔走の最中脳(のう)梗塞(こうそく)で倒れた。再起不能と思われたが執念の奇跡の回復を遂げたが、引退を決意、今行われている引退興行は連日満員であるが、本人の文楽に掛ける思いは並々ならぬものがあって、NHKの『文楽の鬼・執念の引退公演~人間国宝 竹本住太夫~』で紹介された。衰退する文楽の現状に舞台演技の文楽の戦後史に、筆者の文楽への接点と重ね合わせ検証してみたいと思う。文楽・人形浄瑠璃、歌舞伎の成り立ち 文楽の名称の由来は天明・寛政(1781~1800)の頃、淡路島生まれの植村文楽軒が大坂に出て高津(たかつ)新地(しんち)に人形芝居の座を設けた。
文楽軒が亡くなると二代が難波新地に移し「「いなりの芝居」として、明治になって三代目は大坂松島新地に、その間に江戸時代に浪速に出現した演劇作家近松門左衛門によって発達し「歌舞伎」「浄瑠璃」は大きく変化し、舞台演技の歌舞伎、浄瑠璃は進化し、浄瑠璃に対して、艶やかな歌舞伎は江戸へと広まって上方、江戸と展開し、京の浪速の「坂田藤十郎」の“和事(わごと)”に対して江戸の「市川団十郎」の“荒(あら)事(こと)”と対照的な立役が確立され大阪道頓堀の中の芝居、角の芝居に対して江戸日本橋の中村座、市村座、森田座の興行で上方、江戸の歌舞伎が形成されていった。
一方文楽の原流は義太夫(ぎだゆう)節(ぶし)・常磐津(ときわず)節(ぶし)・清元(きよもと)節(ぶし)など8流派から端を発している。それが人形が加わって人形浄瑠璃へと変わって行った。江戸中期頃、竹本義太夫(1651~1714)が浪速は道頓堀に竹本座を開設することで、義太夫節を公演しから浄瑠璃に新たな時代を開かれた。
この頃出現した文作者の近松門左衛門と結ぶことによって一段と熟成し進化、古浄瑠璃から脱皮し義太夫節と人形浄瑠璃の組み合わせが出来た。その後義太夫の弟子豊竹若太夫も座付作者として、道(どう)頓(とん)堀(ぼり)豊竹座(とよたけざ)を創設し、竹本座・豊竹座西東二流の競い合いによって元禄以降140年間に渡って人形浄瑠璃は隆盛を極めたと言う。明治時代に入って浄瑠璃九流派の名を残し、①大薩摩曲(おおさつまきょく)②河東節③文弥(ふみや)節(せつ)④一中節⑤歌澤節⑥常磐津(ときわず)・富本節⑦清元⑧新内(しんない)節(ぶし)⑨義太夫が残った。その後現在では義太夫節に常磐津(ときわず)節(ぶし)、清元節に一中節、宮薗節に上方地歌の系統をひく荻江節を加えた八種である。
この内義太夫節にのせた操り人形で物語る伝統芸能が人形浄瑠璃(文楽)なのである。「文楽」の形成と成立(三位一体)文楽は男だけで演じられる。太夫・三味線・人形遣いの「三業」で成り立ち三位一体の演芸である。☆大夫(だいふ)・浄瑠璃語りごと。一人で物語を語るのは基本で、情景描写や登場人物の語り分けを一人で演じるが長文の作品は別の太夫と変わることもある。複数の掛け合いが並ぶ、文楽では義太夫節が用いられる。戦後間もなく太夫を大夫と表記されるようになった。
☆三味線太棹の三味線を使い、座り方は正座であるが、膝を広げその間に尻を落としている。
☆人形遣い古くは一つの人形遣いが操っていたが江戸中期に3人使いが考案された。主遣いが頭と右手、左使いが左手、足使いが腰を操る。足腰を操る者は顔を隠して演じる。◇演目“時代物“・芦屋(あしや)道(どう)満(まん)大内(おおうち)鏡(かがみ)(葛の葉)・伊賀(いが)越(ごえ)道中(どうちゅう)双六(すごろく)(伊賀越)・一谷嫩(いちたにふたば)軍記(ぐんき)(一の谷)・妹背山(いもせやま)婦女(おんな)庭訓(ていきん)(妹背山)・絵本(えほん)太(た)功記(こうき)(太功記)・奥州(おうしゅう)安達(あだち)原(はら)(安達原)・近江(おうみ)源氏(げんじ)先陣館(せんじんやかた)(近江源氏)・加賀見山(かがみやま)旧錦絵(きょうにしきえ)(鏡山)・仮名(かな)手本(でほん)忠臣蔵(ちゅうしんぐら)(忠臣蔵)・鎌倉(かまくら)三代記(さんだいき)(鎌三)・鬼一法(きいちぼう)眼(げん)三略巻(さんりゃくまき)(鬼一法眼)・祇園(ぎおん)祭(さい)礼(れい)信仰記(しんこうき)(信仰記)・傾城(けいせい)反魂(はんごう)香(こう)(孝吃)・源平(げんぺい)布引(ぬのびき)滝(たき)(布引)・恋女房(こいにょうぼう)染分(そめわけ)手綱(てつな)(重の井子別れ)・国性爺(くにせいや)合戦(かっせん)(国性爺)・御所(ごしょ)桜(ざくら)堀川(ほりかわ)夜討(ようち)(御所桜・弁慶上使)・生(しょう)写(うつし)朝顔話(あさがおばなし)(朝顔日記)・新薄雪(しんうすゆき)物語(ものがたり)(薄雪)・菅原(すがはら)伝授(でんじゅ)手習(てならい)鑑(かがみ)(菅原)・摂州(せっしゅう)合邦(がっぽうが)辻(つじ)(合邦)・壇(だん)浦(うら)兜(かぶと)軍記(ぐんき)(阿古屋琴責め)・花(はな)上野(うえの)誉(ほまれ)碑(いしふみ)(志渡寺)・ひらかな盛衰記(せいすいき)(盛衰記)・平家女(へいけにょうご)護(の)島(しま)(俊覚)・本朝廿四(ほんちょうにじゅうひろし)孝(こう)(二四孝)・嬢景(むすめかげ)清(きよ)八景(はっけい)日記(にっき)(嬢景清)・加羅先代(めいぼくせんだい)萩(はぎ)(先代萩)・義経(よしつね)千本(せんぼん)桜(ざくら)(千本桜)・良(ろう)弁(べん)杉(すぎ)由来(ゆらい)。“世話物“桂川(けいせん)連理(れんり)柵(しがらみ)(桂川)・碁(ご)太平記(たいへいき)白石(しらいし)噺(はなし)(白石噺、碁太平記)・心中(しんじゅう)天網(てんあみ)島(じま)(天網島)・心中(しんじゅう)宵(よい)庚申(こうしん)(お千代半兵衛)・新版歌(しんばんうた)祭文(さいぶん)(お染久松)・曽根崎(そねざき)心中(しんちゅう)(お初徳兵衛)・近頃(ちかごろ)川原(かわはら)の達引(たてひき)(お俊伝兵衛)・壺坂(つぼさか)観音(かんのん)霊験記(れいげんき)(壺坂)・夏祭(なつまつり)浪花(なにわ)鑑(かがみ)(夏祭)・艶(あで)容女(すがたおんな)舞(ま)衣(い)(酒屋)・双蝶々曲(ふたつちょうちょうきょく)輪(くるわ)日記(にっき)(双蝶々)・堀(ほり)河波(かわなみ)の鼓(つづみ)(波の鼓)・冥途(めいど)の飛脚(ひきゃく)(梅川忠兵衛)明治42年(1909)には文楽座は松竹の経営になり、松竹が文楽の興行を行うことになった。文楽座はのちの御霊神社の境内に移転した。昭和初期には四ツ橋に新築移転をした。戦後の文楽昭和20年(1945)に大阪大空襲によって焼失した。翌年には復興した。昭和41年(1956)道頓堀弁天座跡に新築移転をした。※復興に際し細井幾太郎が戦火を逃れた人形を求めて四国を廻り収拾した。その貢献を認められ「黄綬褒章」を授与された。昭和20年(1945)GHQは東京劇場で上演中の『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段を、反民主主義として中止を通達する。昭和23年(1948)文楽は松竹との待遇改善を廻り、会社派の「文楽因会」と組合側の「文楽三和会」に分裂した。こう言った内紛もあって戦後の文楽興業は低迷した。
昭和30年(1955)文楽は文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定された。昭和38年(19639文楽は松竹の経営から離れ文楽座も朝日座と改名した。新たに大阪府・大阪市を主体に文部省(文部科学省)NHKの後援を受けた財団法人文楽協会が発足し二派に分かれていた文楽会は統一された。昭和31年(1956)元々の豊竹座・弁天座の戦災で焼失した跡地に客室1000席の近代劇場・道頓堀文楽座が開設。人形浄瑠璃が本格的に道頓堀に復帰したが、以前より分裂した「因会」と「三和」はそのままで「因会」だけの公演では人手が足りず、互いに低迷に歯止めが効かなかった。昭和35年(1960)「因会」「三和」は互いに歩み寄り、合併の機運が高まり人形浄瑠璃の再統一が可能になった。昭和37年(1962)松竹は興行権を放棄を宣言し、翌年大阪府・市や国の支援を受けて財団法人文楽協会へ結成された。8月には文楽座は「朝日座」に改称された。昭和59年(1984)道頓堀朝日座は閉館され、代わりに日本橋に国立文楽劇場が開場された。平成15年(2003)またユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の「傑作の宣言」がなされ、事実上無形文化遺産として認められた。平成21年(2009)9月に正式に第一回登録で正式に登録された。☆戦後の文楽は吉田文五郎の弟子らによって、人形遣いが前面に活躍し、中でも桐竹紋十郎の人形遣いの存在の向上に寄与した。文楽は大夫の語り手が主導的な存在であった。竹本・豊竹系の家元が代々引き継ぎ継承されてきた。次に三味線は鶴澤・竹澤・豊澤・野澤の家元のように継承されている。人形遣いは吉田・桐竹によって引き継がれている。戦後の文楽の主導的立場は人形遣いの主導的立場にあった桐竹紋十郎氏は秀でた才能と活躍で特別な存在だったようである。松竹の処遇問題で会社側と組合側に別れ袂を分かった「因会」と「三和会」の分裂した「三和会」の結成の会長で新進気鋭の秀でた才能の旗手が二代目の桐竹紋十郎であった。
☆桐竹(きりたけ)紋(もん)十郎(じゅうろう)(1900~1970)大阪府堺市生まれ。本名磯川佐吉。子供の頃に千日前の常盤座に身に行ったのを機に文楽に興味を覚える。 明治42年(1909)4代目吉田文五郎に弟子入りするが背丈が小さいと断られたが、その心意気に「子ども心でやろうと気があるのは面白い、成るかならんか分らんがなんかの縁」と弟子入りが許されたと言う。初名は吉田小文。
初舞台は堀江座で舞台を踏むが、春日座にて壮士芝居の県妻吉の所に入る。春日座が火事になって元の師匠に帰った。大正5年(1915)初代中村鴈次郎の仲介で文楽座に移った。
その後竹本春太夫の仲介で近松座に、また京都は京極の竹豊座に入って吉田文昇と改名した。
大正8年(1918)東京から北海道まで巡業した。昭和2年(1927)には二代目桐竹紋十郎に襲名した。戦後には松竹の組合員派の「三和会」を結成した。昭和35年(1960)の合同まで幹部として活動し、日本の各地を巡業し、海外にもカナダ、アメリカ、ヨーロッパまで公演に参加した。昭和40年(1965)人間国宝に4年後には文化功労者になった。昭和45年(1970)に死去した。☆桐竹紋十郎さんと我が家の接点・昭和30年位だったと思う、ぼろ家、あばら家の我が家に桐竹紋十郎さんと弟子の人たちがやって来た。しかも夜間、子供の私は隣の部屋に待機させられ、只ならぬ気配と「先生、先生」と父の気の使いようは尋常ではなかった。
しかし後日談でその一行の方々は人形遣いの先生と、三味線弾きと大夫などの師匠の先生、しかも愛想よく気さくでべたべたの大阪弁の人は「人間国宝」の桐竹紋十郎さんと知った。
用件はその一行の中に父の従兄の叔父さんが三味線弾きで、当時戦災で文楽の小道具が焼失し、また「三和会」の分裂で人形作りに奔走されていて、我が家の猫の額ほどの庭に糸瓜が植えてあった。
それが成りも大きく桐竹紋十郎さんが人形に使用できないか見に来られた。そんな縁で洋服の仕立てをしていた父を知って、先生の背広を作ることになった。その後に三度ほど粗末な我が家に気さくに来られ、親しくして頂き、公演の招待を受け知り合いの人を同行し父は鼻高々であったことを覚えている。気さくな先生の会話でこんな会話を耳にした。「わしは堺の生まれ、幼友達に近所に手におえない腕白、やんちゃな奴がいていた。それが渋谷天外や」当時の腕白話をされた。
推測すると8歳で道頓堀の文楽に身を投じられた桐竹紋十郎さん、一方渋谷天外先生は二代目で親が楽天会の創設者、8歳で喜劇に身を投じ浪速のどこかで接点があったのかも知れない。あの有名な松竹新喜劇の”喜劇王渋谷天外“と幼友達と知って感銘を受けた我が家の家族だった。※親会社の松竹は興行としての『文楽』に明治から昭和初期までは収益が見込めたが、戦後は歌舞伎に対しての文楽の復興は遅れ、経営側と組合側に別れ紛争分裂をした。そんな文楽に松竹は文楽から手を引いて大阪府、大阪市などとNHKや国の「財団法人文楽協会」を結成した。その時に分派していた二派が統一されたが経緯上弱体化は避けられなかった。伝統文化(伝承芸能)の展望日本には古来より、伝わる神楽・雅楽・琴、三味線・尺八などと、能・狂言、歌舞伎・文楽の古典芸能は、伝統文化に支えられた伝承芸能がある。厳しい修練に引き継がれ次世代に伝承する文楽もその一つである。伝統の継承「歌舞伎」も「文楽」もその由来も形成も類似している。演目を見ても歴史的価値は十分窺えるものがある。近松門左衛門の出現から舞台で演じる物語は歌舞伎で男が物語を演じ、口上して物語が進められるが、人形所瑠璃は人形に所作させて大夫が三味線に合わせ物語を語り進めて行く点で人形浄瑠璃人形浄瑠璃と歌舞伎と大きく違う。人間が演じる役者と人間が操る人形が演じるには歴然と差が出来、語りを主体とした大夫の技法に人気を博する文楽と歌舞伎の役者人気に江戸、浪速の庶民の娯楽として受け継がれた。歌舞伎と文楽とを比較して継承者、伝承者の状況を仕組みを考察すれば、歌舞伎は世襲が重要な要因となっていて、後継者の一般人の参入を難しくしていて、閉鎖的な伝統芸能である。それに対して文楽は引き継ごうとする者の入門や取り組みは可能で、実力本位で定期的な研修者募集で補充し次世代に引き継ぐことが容易になっている。
 文楽の芸能を絶えることなく次世代にその技法を伝え残さなければならない。文化遺産価値
文化遺産はまさしく民族の歴史文化の財産であり誇りであり、存在の証明である。人形浄瑠璃は世界に数ある中で特異な形態し、しかも人形と三味線と歌いの三者一体で物語を演じる。人形に深い情愛や悲哀を演じさせる技は日本の文楽ならでの伝統芸能で長い何月に培われた伝承技法と庶民の娯楽とを兼ね備えていた誇るべき日本文化である。歴史価値・歴史的に見ても『時代物』で見る江戸時代の庶民に演目を見ても理解できるが、源平合戦・秀吉の太閤記・奥州事変・近江源氏・忠臣蔵・鎌倉の三代・仇討もので時代しり・『菅原伝授手習鑑』は道真の身辺について知ることが出来る。文楽に演じられる演目は日本の歴史教育に大きく貢献し、庶民まで寺子屋に行かなくても歴史を知ることが出来た。◇『伊賀越え道中双六』は日本三代仇討の一つである。近松半二他の合作。荒木又右衛門と義兄弟河合又五郎を伊賀・鍵谷の辻で仇討を取りという話である。人情仇討ち話、生き別れの親子の遭遇と忠義との板挟みの葛藤、義理人情の芝居である。◇『一谷嫩軍記』源平合戦で平氏は安徳天皇を戴き都落ち、義経は兄の命を受け追討する、追討する義経に平氏の抵抗と交渉と福原京、兄との板挟みに一の谷の合戦に舞台は移って行き、平氏の大将敦盛の心情の様子、後白河上皇・建礼門院などの登場人物は歴史書を見るが如く描かれている。堀川御所の段・北野天神の段・経盛館の段・一谷陣門の段・須磨浦の段・組討の段・菟原の里林住家の段・弥陀六内の段・御影の松原の段・熊谷桜の段・熊谷陣屋の段・五段鎌倉御所の段・まで分けて描かれている。
◇『妹背山婦女庭訓』人形浄瑠璃歌舞伎、明和8年(1771年)1月28日より大坂竹本座にて初演。近松半二・松田ばく・栄善平・近松東南・三好松洛の合作。史実とは異なる部分があるが、天智天皇の壬申の乱を描いたものである。入鹿も蝦夷も登場する。主人公の天智天皇は盲目の人なっている。◇『絵本太功記』は、江戸中期の人形浄瑠璃および歌舞伎の演目。・通称『太功記』(たいこうき)。太閤記を模して作られたので主人公は豊臣秀吉と本能寺で主君を討ち三日天下の明智光秀を描いたもの、羽柴秀吉を真柴久吉に、明智光秀を武智光秀に名前を変えて脚色し面白く描いている。◇『仮名手本忠臣蔵』とは、人形浄瑠璃および歌舞伎。寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演。元禄赤穂事件を題材としたもの。通称「忠臣蔵」。江戸城松の廊下で吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭は切腹、浅野家はお取り潰しとなり、その家臣大石内蔵助たちは吉良を主君内匠頭の仇とし、最後は四十七人で本所の吉良邸に討入り吉良を討ち、内匠頭の墓所泉岳寺へと引き揚げる。文楽三大傑作のひとつ。◇『菅原伝授手習鑑』1746年大坂竹本座で初演された。平安時代の菅原道真の失脚事件を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描く。歌舞伎では寺子屋を中心に描く。上演回数では最も多く代表的演目である。菅原道真をモデルに菅丞相を右大臣として、藤原時平を左大臣として筋書きは史実により忠実に表現されている。◇『義経千本桜』人形浄瑠璃、歌舞伎共に演じられる人気演目である。1747年に大坂竹本座にて初演。源平合戦後、義経を冷遇する頼朝、九郎判官義経は吉野に逃れるが、やがて奥州藤原氏に見寄せるが藤原氏に襲われ自害、悲運の義経と弁慶を描く代表的演目である。※数々ある演目の中、抜粋し述べて見たが、こう言った時代物を江戸時代に教育の未成熟なのか文楽を通じて国民に歴史を周知させた貢献度は大きいものがある。文楽は昨今本拠地大阪で市の支援を打ち切られ自主独立を促されているが、それは本末転倒、歴史や伝統文化の知らない無知の成せる言葉である。事、伝統文化に営利を目的として自主独立性を求めるならば、伝統文化の踏襲、次世代に残すことは不可能である。無形文化遺産だから普遍的に永続的に伝えなければならない責務を負っておるのである。世界無形文化遺産に指定された所以がそこにあるのである。営利を目的とするような事態が、日本民族の「文化遺産」にさらされるならば、形骸化された「不毛の文化」だけが残されてしまう恐れがある。国家を挙げて日本人の足跡と軌跡の保護と保全を、伝承と文芸、芸能の継承を記述の記録を怠ることは、それは祖先、先人への大きな背信行為である。※筆者紹介・『平安僧兵奮戦記』他多数の著書・寄稿文・活動状況はホームページ『川村一彦の歴館』に掲載中・