大阪歴史探訪

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歴史は語る・38関白藤原基経

2014-11-25 09:55:12 | 例会・催事のお知らせ


三十八、関白藤原基経

藤原良房の外戚と言う摂政に嫌気をさしたのか、清和天皇は二十七歳と言う若さで子の貞明親王皇太子に譲位をした。
九歳になったばかりの即位の天皇は陽成天皇で、幼少の天皇に補佐するために摂政となったのが藤原基経で良房一門の権力の「たらい回し」の様なものであった。二十七歳とまだまだ若い年齢にも関わらず隠居の身になった清和天皇は半ば政務を投げ出した感じである。
清和天皇の詔で基経が摂政となった。基経は良房の継養子になり兄妹の高子は清和天皇の妃に当り即位した陽成天皇の母に当るので摂政には申し分のない血筋である。
基経の出現は三十七歳、基経は良房の兄の長良の三男で良房に見込まれて継養子になった。良房には文徳の后になった明子の他に実子がいなかった。
良房は自分の身内の優れた男子を模索し、基経が良房の目に適った人物で時によっては実の子より養子の方が家を盛り立てる場合も多い。基経はその良い例であった。
所がこの陽成天皇の評判は芳しくなく、宮中で乳母の子を殴り殺したと噂があると言う。即位してからも素行は悪く暴行事件を起こしたりして、また基経と陽成天皇の相性も良くなかったらしい。陽成天皇が十七歳、即位八年後譲位させられた。
こうなれば摂政の基経の思いもまま、次に担ぎ出した天皇は仁明天皇の子、時康親王で当時すでに五十五歳に達していた。光孝天皇は自分を天皇に即位させてくれた基経にある意味の恩義の様なものが背負わされた感じであるが、見返りか、基経はこの時、太政大臣である。
この基経の職責として、関白の前段の前振りに、天皇は基経に対して「今日から官庁はについて、万政を司り、入っては天皇を補弼し、出ては百官を指揮せよ、全ての事を下命すべきことはし、必ず基経に諮問せよ」といった命令を出した。
即位を光孝天皇の即位僅か三年後に死期が迫ったので次の天皇を模索しなければならない。急遽決められたのは第七子の源定省であるが、臣籍に降っていたが定省を直ちに親王に復された。そして皇太子、即位とわずか二日間で宇多天皇である。
基経と宇多天皇の相性は決して良くなかったようで、基経の妹の当時は後宮に大きな勢力と発言力を持っていた藤原淑子が熱心に源定省を指した。
その見返りとしてか基経に「阿衡(あこう)」と言う中国の殷に時代の称号を与えられたと言う。この称号は諸葛孔明のように三度は辞退をするのが礼と言う。
その前に天皇からこれだけの権力を委ねられ、お墨付きをもらった基経は次に仕えた宇多天皇では「関白」の称号が付けられた。
どうやらこの「阿衡」は橘広相の発案らしく、小難しい称号はかえって基経の反感を買ったらしい。結局広相は不適切な表現を基経に詫びなければならなかった家毗なければならなかった。
この時期に学界を巻き込んで起こった論争を、都を追われ讃岐の守の任にあたっていた傍観をしていた学界の旗手、菅原道真であった。
道真はいたたまれず上京し、この不毛の論争を基経に訴える。何故なら広相と藤原佐世は道真の父是善の門人であった。
以後菅原道真は十年余りで、右大臣に上り詰めて、藤原時平に相対立し策略にはぶれ、大宰府に左遷されるのである。

※摂政の代表的強権を発揮したのは基経であろう。皇位継承の不安定に加え安定をした親政の天皇の出現が無かった。
また幼少の天皇即位の為に努力を発揮する機会を失われ摂関の制度自体に嫌気をさして譲位をする。次の継承する皇位継承者は成人が選ばれない仕組みは摂関の為の皇位継承の体成していたことは明白であった。
源氏、平氏の臣籍降下は皇籍に身を置いても公卿としての役職にも重職に活路が無かったのではないかと思われる。
道真も摂関の一角に参入すべく能力を発揮し右大臣にまで上り詰めても、摂関家の基盤の切り崩すことはできなかった。そう言った意味では「藤原家の天下」であった。
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『歴史の憧憬』古墳時代の不思議

2014-11-16 09:28:21 | 例会・催事のお知らせ
『歴史エッセー』(8)“古墳時代の不思議“
古墳時代は弥生時代から3世紀半から7世紀の大和朝廷成立までの約400年間とされている。日本の古墳、墳墓はエジプトと並んで規模の大きな王墓である。しかし日本の古墳が何時どのように誰の墳墓か実態が解明されていない。日本の史記である『記紀』に、その記述が残されていない。中国の史記に照らし合わせ検証しようにも西暦266年から413年にかけ倭国の記述が欠落し「空白の4世紀と言われている。我が国の古墳時代には「前方後円墳」大部分を占め、ヤマト王権と深く関連性があると思われている。年代別は古墳時代前期・中期・後期・末期に分類できる。前期には大和古墳群の中に卑弥呼と目される『箸塚古墳』(280M)他柳本古墳群の『西殿塚古墳』『行燈山古墳』などがある。地方の首長の古墳に甲府・岡山・広島にも存在をする。古墳中期には大阪府の仁徳天皇陵(大仙古墳)486M・応神天皇陵(誉田御陵山古墳)420M・岡山の造山古墳360Mなどがある。古墳時代後期には大阪府は今城塚古墳190M・河内大塚山335Mなどがある。日本の起源を探る上でも、こう言った古墳を形成されていた時代が大和朝廷・大和王朝の成立と考え良いかもしれないが、巨大な仁徳陵を造成した時代の人口はどの位日本列島に暮していたのかと考える場合、正確な国勢調査をしたわけでもなく、地域も確定されている訳でもないので確実な根拠・資料に欠け、諸説があるが、一般学者の推測ではじき出された人口は縄文時代末期で6,7万人に位、弥生時代で60万人くらい飛鳥時代で450万人くらいとして考えた場合、2,300万人くらいと考えても良いのではと思はれる。勿論畿内を中心とし九州までの地域とした人口と考えてよいだろう。そんな場合世界でも巨大墓の類に入る仁徳陵(大仙陵)486Mの古墳を国力を結集し造られた理由と仁徳天皇陵とされているが大王の祭祀は誰なのか、何故このような巨大古墳を造らなければならない理由何か、中央とされるヤマトから河内地域に何故作られたのか、謎は残る。年代別に卑弥呼と比定される「箸塚古墳」大和中心の古墳から、古墳中期の河内から岡山・群馬などの地方の首長まで、大和王朝の支配の拡大を示すものとして、巨大古墳は国力の誇示と権力の威厳を表わすものと考えられる。何万人の工事に従事する人員の徴用を出来、支配者の絶大な権力を確立されたことを表わしている。また3世紀末から7世紀前期までとされている古墳造成から、今日の世紀まで400M近い古墳の丘陵が崩れずに存在する工事工法が如何に優れていたことを教え伝えるものである。こう言った造成工事を技術は大陸の大量流入によってもたらされて日本の風土・地理土壌に合ったものに培われた。墳墓も独自の前方後円墳が造らされた。しかしそれらに関する記述などは詳細に残されておらず学者・研究者の推測ばかりが先行するのが日本の古代世界社会の考古学である。
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歴史の憧憬』仏教伝来と古神道

2014-11-14 07:44:21 | 例会・催事のお知らせ
『歴史の憧憬』(10)仏教伝来と古神道
ある説で「日本歴史の三大要因に島国であったこと天皇がいたこと仏教が伝来したこと」と言ったことに記憶がある。
仏教伝来は日本史において、日本人の精神文化に風土風習と思想・志向に重要な影響を与えた。今から2550年前にインドで生まれた釈尊の仏教は約500年掛かってインド中に伝播し、更に500年ほど掛かって中国中に伝播し、更に100年程して日本に伝来をした。仏教の伝来はアジア諸国の時代の趨勢と言ってよい。インドの精神文化の到来であった。東南アジアから伝わった仏教は大乗仏教として、日本は中国・朝鮮半島から伝わった仏教を大乗仏教であった。それぞれ国の事情で伝わり方、受け留め方と、その対応は違っていたのは言うまでもない。日本への仏教の伝播は渡来人の王らが頻繁な時代、密かに持ち込まれたことは言うまでもない。日本への仏教公伝となれば朝廷・天皇への伝来が公式な伝来と考えられる。西暦545年に日本の天皇に送った説など諸説がって定かではない。何れにせよ仏教推進派の蘇我氏と仏教排斥派の物部氏の軋轢は有ったことは確かである。何故蘇我氏が仏教推進派の筆頭になって導入に朝廷に働き掛けたのか、もともと渡来系の豪族として仏教に対する知識が豊富に加えて、物部氏の旧来からの古神道への新興勢力の蘇我氏の対抗意識から時代の先取りに積極的であったのかも知れない。結果蘇我氏は聖徳太子(厩戸皇子)を取り込むことによって、物部氏の排除と仏教導入に大きな指導権を得ることになった。その後の倭国(日本)は仏教に偏ることなく、古神道と融和をしていくのである。中国などは仏教に鎮護国家を目指さなかった。当時の倭国(日本)の人々は大自然を対象とした山や海や信仰を旨とした。仏教に伝来によって偶像崇拝、漢字による経文に呪文のようにその神通力を解くのには当時の倭国(日本)の人々は戸惑いを感じたのだろう。仏教対神道との戦いを表面だって起らなく日本の歴史上神仏習合が確立されていくのであった。※神仏習合は日本人の叡智と融通・応用の判断能力の成せる術である。仏教によって古神道が失われることなく、明治時代に起きた神仏分離令後にも伝統的な神道・仏教が伝承されていった。



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歴史は語る・37・入唐八家らの求法の旅

2014-11-10 05:15:47 | 例会・催事のお知らせ

三十六、入唐八家らの求法の旅

最澄・空海より更に深める、求法の道。円仁と円珍の入唐の旅は大陸文化、宗教の探究に有った。
円仁は延暦十二年(793)下野国生まれ、比叡山に登り最澄に師事した天台僧で日本初めての大師諡号を受けた僧である。
円仁が延暦寺に弟子入りした時には最澄は桓武天皇の庇護を失い、空海から密教経典を借りて写し低迷の頃、最澄の後をついで天台教学を深めるべく志を立てていた頃、承和元年(834)実に三十年ぶりに遣唐使が派遣されることになった。
大使藤原常嗣、副大使小野篂と言う陣容、発表された。
遣唐使として難波を出帆、しかしこの年、翌年と逆風で失敗、三度目で渡海で成功した。
円仁から遅れる事十九年、円珍四十三歳、入唐は請益僧と言う資格である。唐への入国はまず国情を経てからで大宰府に来る唐人から情報を得ていた。
承和の遣唐使も延暦の遣唐使も長安を目指し、朝賀に参列している。入唐に関してそう簡単には果たせないが仏教界だけは例外で入唐八家と言われ最澄、空海、常暁、円行、円仁、円珍、宗叡はそれぞれ貴重な経典などを持ち帰り、朝廷にその目録を提出している。
承和の遣唐使には真言請益僧の円行、三輪留学僧常晩の空海の弟子、円仁、天台留学僧の円載ともに最澄の弟子、そして法相請益僧の戒明らと従僧である。
まだまだ入唐に志した僧は真言僧の真然や真済などが居たが唐に着かず対馬などに漂着をした。
最澄、空海らの船団も四船の内二船は海の藻屑と消えていて、如何に大陸に渡ることは至難の業と窺い知れる。
承和の遣唐使の場合、第三船に乗船した船頭以下140人余りは、舵は折れ、人溺れ、波に漂い、生き残った者は疲労困憊、口もきけず惨憺たる有様で、真然と真済位なものであったと言う。
この記録を見ても如何に渡航は危険が伴うかを窺い知れ、真言僧二人の乗った渡航は縁起が悪く「真言僧の絶対に乗せてはならない」と言う命令を下し真言教団は取り消すように懇願をしたと言う。こうして真言、天台僧は求法の道を先争って旅立っていった。
求法の唐での記録をきめ細やかに当時の様子を記述が円仁の「入唐求法巡礼記」が良く伝えていて紀行の貴重な記録である。実はこの巡礼記日本より海外での方が理解されていると言う。
またこの『入唐求法巡礼記』は複雑な行程と当時の政治理由で前に進めなかった円仁の忍耐強い意志を持って帰国した物語である。かいつまんで述べると円仁は請益僧だから遣唐使と共に帰国をしなければならない条件付き渡航であった。
また渡航には三回目で成功した。また入唐しても許可が出ない限る身動きが取れない。危険を冒して渡航しても入唐後、唐王朝が許可をしないので、機会を待って足止め喰う。
揚州府に到着をすると天台僧の憧れの聖地天台山を目指したが、時の揚州監督の李徳裕は管轄外なので勅許が下るまで不可能との返事、長安との文書のやり取りに日数がかかるので気が気でなかった。
中国の国民性か役所気質で円仁の出した許可もなかなか進まず、目的の天台山には登れず、他の一行真言僧の円行の長安入京は許された。
天台山巡礼への夢を絶たれた円仁の真骨頂で、一旦間を置き新羅人に身を置いたが見破られ遣唐使船に乗せられたが逆風に遮られ、出航に失敗、文登県清寧郷赤山村で滞在をした。
滞在の中ひたすら機会を待ち、幾度も巡礼許可願いを出しても下りず、通行願しか出してくれなかったが、即位した天子武宗から巡礼許可が出たが、この許可を出した武宗こそ、その五年後の仏教弾圧を加え行く先々で円仁は阻まれるのである。
円仁は目的の天台山より五台山に行く教示を得て五台山から、長安に入れて感動の一瞬であった。長安では金剛界、胎蔵界、蘇悉地の三大法を各寺院を転居しながら会得し、中国の著名な僧やインド僧まで知り合うことが出来た。
円仁は一定の成果を得て帰国を決意したが時期が悪かった。武宗の仏教への締め付けが厳しくなって、行動は制限され還俗をさせられた。その内直ちに出国命令が出され、赤山まで戻って帰国の機会を待って十年ぶりに帰国が出来たのである。
この円仁の後に続くものに円珍がいる、円珍は最澄の直弟子ではなく二代座主義真の弟子で、入唐を志し文徳天皇の勅許を得て、円珍は円仁より遅れる事十九年、円仁が帰国する前年の仁寿三年(853)に新羅の交易船に便乗し出航し、唐の福州に着いた。
その後、開元寺へ赴き天台山に上がった。さらに天台山に、そこから越州は開元寺に戻り、長安の青龍寺に、そこで法全に受法し書写、多くの経典を持ち帰り天安二年に(858)帰国をした。帰国後は清和天皇に御覧に供した。
その後円珍は天台座主として二十年余り勤めて多くの門弟を育て、円仁派、円珍派の対立を生む人脈が生じた。

★円仁(794~864)天台僧、下野国都賀郡(つがぐん)生まれ、父は都賀郡の三(み)鴨(かも)駅長首(えきちょうおび)麻呂(まろ)・地元の大慈寺の広智に師事し、天台宗に触れる。広智に伴われ比叡山に上がり、以後最澄のもとに修行する。最澄の東国巡(とうごくじゅん)錫(しゃく)の同行、上野国で最澄に伝法灌頂を受け、故郷の下野国の大慈寺で円頓菩薩戒を授けられた。
その後延暦寺で菩薩大戒を受け教授師となった後に天台宗の布教に尽力した。承和二年(835)請(しょう)益(えき)僧(そう)として渡航する。後世に貴重な記録『入唐求法巡礼行記』が残されている。
★円珍(814~891)天台僧、讃岐国那珂郡(なかぐん)、父は宅也、母は空海の姪にあたる佐伯氏、叔父の仁徳に従って延暦寺に上がり、義(ぎ)真(しん)に師事し、得度し籠山12年間、若くして真言学頭になる。
853年に新羅商人の帰国船に便乗し出帆し福州に到着したのち、開眼寺から台(たい)洲(しゅう)の天台山に行き更に長安の青龍寺では、法全より受法し、多くの経典などを書写し、帰国後右大臣に召されて謁見し清和天皇に御覧に供した。その後園城寺の別当になり、天台座主になった。

※求法入唐の僧の往来は平安末期から鎌倉に掛け続出し、禅宗の栄西や東大寺再建の重源などの高僧が入唐し、又逆に中国からの渡来僧も頻繁に来朝するようになった。
それに伴って芸術・美術などの工芸技術から中国の多彩な文化ももたらしたことは確かである。こう言った文化交流は仏教に通じる交流から
端を発した。その意味で日本仏教のさらなる発展に寄与した功績は大きい。
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院政の政僧「信西」家系研究協議会・会誌(川村一彦)

2014-11-06 05:14:44 | 例会・催事のお知らせ
「院政の政僧“信西(しんぜい)“」
平安時代は大きく分けて摂関時代と院政時代に分けられる。
摂関(せっかん)時代は藤原良房・基経から忠平・実頼・伊伊・頼忠・兼家・道長・頼通と摂関家によって引き継がれていった。
一方、院政は後三条天皇に端を発し、白河・堀河・鳥羽・崇(すとく)徳・後白河・二条・高倉らの上皇・法王らによって引き継がれていった。
こう言った引き継がれた王権と権力継承には血縁と、複雑な人間関係と主従関係の絡みの中で権力構造が形成され、事変に展開されて行った。
また登場する一人一人の人物像に、柵に生きた数奇な運命の物語に、平安時代と言う時代の趨勢(すうせい)に生きた人間像が浮かび上がってくる。
そんな院政末期の後白河院政に総師として権力に中枢にあって辣腕(らつわん)を振るった政僧「信西(しんぜい)」の特異な生き方を綴ってみた。
総師信西
保元元年(1156)保元の乱に勝利した後白河天皇は『保元新制』と呼ばれる新制を発令をした。王土思想を強調した宣言の新制は荘園(しょうえん)整理令(せいりれい)を主たる内容としていた。
要は鳥羽院政では荘園の乱発に加え管理が不十分で各地で国務遂行に支障が生じ紛争が多発していた。
この荘園整理令はその混乱を収拾し、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図としたもので、荘園の公領制の成立の大きな契機となった。
平安期には荘園制度は何度も荘園整理令が出された。寄進地(きしんち)系(けい)荘園(しょうえん)が諸国に点在し、しかも税金逃れに貴族たちや開発領主たちは寺社に寄進し管理を任せた。寺社領地には免税処置があって、国衙、国司の税金を逃れる隠れ蓑になった。特に興福寺などは全国に寺領は点在し大和一国とまで言われた。
特に後白河天皇は南都の興福寺や北嶺(ほくれい)の延暦寺の肥大化し寺院に僧兵を持って傲訴(ごうそ)で朝廷に狼藉(ろうぜき)の限りを尽し翻弄(ほんろう)をさせた寺領に快くは思っていなかった。南都の興福寺、北嶺の延暦寺の僧兵はそれぞれ三千人を有し豊かな財源で支えられていた。
その豊富な財源を絶つにも信西は思い切った荘園整理令を出し公領を増やさなければならなかった。
後白河天皇の思いのまま成らないもの一つに僧兵と嘆き検非違使を手もとから手放せなかったと言う。
また開発領主や貴族の朝廷より受けた恩賞などは転売されたり、寄進を装って国衙に税収されない事態に、荘園公領制に立案・推進したのが後白河天皇の側近の信西でった。
信西は改革実現に、記録書を設置ために長官に上卿には大納言・三条公教を就任させ、実務を担当する弁官からは右中弁に藤原惟方(これかた)・左少弁に藤原俊(とし)憲(のり)(信西の嫡子)が起用された。
その下で二十一人の寄人らが荘園領主から提出された書面を審査し本所間の領主間の紛争や度重なる転売で、その所有者の判定をしたり、荘園主と荘官(しょうかん)、国衙領(こくがりょう)への公領への査定を厳しく行った。
信西の言葉に後白河が「暗主」であると言う、記録所の寄人の一人だった清原頼業が後日九条兼実に語ったと言う。
信西は後白河の威光の許に強権を発動してた節があった。そして老朽化した内裏にも着手して保元二年(1157)に再建したり、新制三十箇条を出して、公事・行事の整理・官人の綱紀粛正に積極的に取り組んだ。
この間の信西の一族の台頭は目覚ましく、高階重仲の女を母とする信西の子俊憲・貞憲は弁官として「紀二位」(後白河の乳母)に成憲・修憲は受領になった。
信西自身は保元の乱で敗死した藤原頼長(よりなが)の所領を没収し自らも蓄財を確保した。
では何故このような信西が強権を後白河から信頼と負託されたかについては、出自と後白河天皇の関係を考察すると理解が出来る
信西に出自
信西は嘉承元年(1106)平安末期の貴族・学者・僧侶で信西は出家後の法名、号は円空で俗名藤原通(ふじわら)憲(みちのり)又は高階通(たかしな)憲(みちのり)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言が彼の出自である。
通兼(信西)の家系は曽祖父は藤原実範以来、学者一家(儒官)の家系で祖父の藤原季綱は大学頭であったが、父が蔵人所で急死し通憲は七歳で縁戚の高階家に養子に入った。高階家は摂関家の家司として諸国の受領を歴任した。
通憲は祖父譲りの学業の才能を積み重ね、保安二年(1121)には高階重仲の女を妻としている。通憲は鳥羽上皇の第一の籠臣である藤原家成と親しい関係にあり、家成を介して平忠盛・清盛父子とも交流があった。
通憲の官位の初見は天治元年(1124)の中宮少進(中宮藤原璋子は鳥羽天皇の皇后、白河天皇の母)に仕え鳥羽院の近臣として通憲は頭角を現し、後白河天皇と通憲の信頼関係がこの頃より築かれていった。
長承二年(1133)頃から鳥羽上皇の北面の伺候(しこう)(そばについて奉仕する)するようになって評判は当世無双の博識と見識と称されその才知を生かして院殿上人・院判官代と地位を昇格させていった。
通憲の願いは曽祖父・祖父の様な大学頭・文章博士・式部大輔を志したが、世襲化の当時は高階家に入ったことがその道を閉ざしてしまった。
これに失望した通憲は無力感から出家を考えるようになった。その通憲の出家の噂を知って止めさせようと書状を送り、数日後には対面し、その才能を惜しみ「ただ敢えて命を忘れず」と涙流したと言う。
鳥羽上皇は出家を引き留めるために、康治二年(1143)正五位下を与え、翌年には藤原姓を許し少納言に任命をし、更に子に文章博士・大学頭に就任する資格を与えた。
それでも通憲の意志は固く出家し信西と名乗った。
しかし信西は俗界から身を離れることなく「にぎかふる衣の色は心をそめぬことをしぞ思ふ」心境を歌に詠んでいる。
鳥羽上皇の政治顧問が死去すると信西はそれに取って代わるように奪取し下命を受けるなどして信任を強固なものして行った。
そして後白河天皇の近臣者として采配を振るようになった信西は、国政改革の為に以前からの馴染みの平清盛を厚遇をする。
平氏一門は北面武士の最大の兵力を有していた。保元の乱後は清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介と四ヵ国の受領を占めていた。
またその役割は,荘園整理、荘官、百姓の取締、神人・悪僧(僧兵)の統制で戦乱で荒廃した京都の治安維持に平氏は不可欠であった。
だがここにもう一つの別の政治勢力が存在していた。美福門院を中心とした二条親政派である。美福門院は鳥羽上皇から荘園の大半を引き継ぎ大荘園主となっていた。
美福門院は養子・守仁の即位を信西に要求し、止む得ず後白河天皇は二条天皇に即位しここに「後白河親政派」と「二条親政派」が生まれ新たな軋轢が生じて行った。二条親政派は藤原経宗・藤原惟方(これかた)が中心となって美福門院を背景に後白河の動きを抑圧した。
これに対して後白河即位は近衛天皇の急死によって継承した都合上、頼れるのは信西のみであった。
※美福門院は藤原得子の流れを汲む勢力、藤原得子は鳥羽上皇の譲位後の籠妃。近衛天皇の生母。女御。皇后。藤原北家未茂流の生まれ、父は中納言・藤原長実、母は左大臣源俊房の女、院号は美福門院。
信西と信頼の確執
しかし美福門院派の巻き返しに抗するためにも、また二条親政派に対抗するためにも信西だけでなく、ここに後鳥羽上皇は近臣の育成に抜擢起用したのが武蔵守藤原信頼であった。
信頼は保元二年(1157)に右近権中将、蔵人頭・参議・皇后宮権亮、権中納言、検非違使別当と矢継ぎ早に昇進し、元々信頼一門は武蔵・陸奥を知行国として関係が深く、源義平が叔父義賢を滅ぼした武蔵国大蔵合戦にも活躍し、保元三年(1158)後白河院庁が開設されると、信頼は軍馬を管理する馬別当に就任する。
源義明も宮中の軍馬を管理する左馬頭で両者の関係が深まり、信頼にとって武力の切り札を得たことなる。
また義明と信頼とは親戚として婚姻のやり取りで固く結ばれていたと言う。
反信西の結成
ここに、信西一門・二条親政派・後白河親政派と平氏の武士集団と複雑に人間関係が絡んできた。
信西と信頼の確執の要因に、信頼が近衛大将を望んだがそれを断ったにあると言われ、反信西派の結成は強権総師の信西の反発の結成で、二条親政派も後白河院政派も一致していた。
そんな不穏な動きに最大の武力集団の平氏清盛は中立的立場を守っていたと言う。折も折、清盛が熊野詣に赴いていたその時を突いて、反信西派は決起した。
平治元年(1159)十一月九日に信頼とその一派の軍勢は院御所・三条殿を襲撃し後白河上皇と上西門院を拘束し、三条殿に火を放ち、逃げる者容赦なく殺害をした。警備の大江家中・平康史ら官人や女房が犠牲になった。
これを知った信西一門は身の危険を感じ逃亡していた。拘束した後白河上皇・上西門院には丁重に「すゑまいらせて」と信頼は一本御書所に擁したと言う。後白河上皇を乗せた御車には源重成・光基・季実らの護衛が付き、美福門院の家人らが関わって二条親政派の同意があってのことと推測され、信西の子ら俊憲・貞憲・成憲・修憲らは逮捕全員配流された。
一方信西は山城国田原に逃れたが源光保の追手を振り切れず、郎党藤原師光に命じて自らの遺体を地中に埋めさせること命令し自害をした。
信西の自害を知った源光保は遺体を地中から掘り起し首を切り落とし、京に持ち帰り首は大路に棟木につるされ獄門にさらされたと言う。
何故に執念を持って信西の遺体を掘り起こし首を切り落とし都大路の獄門にさらし首にしたかについて、保元の乱の処理・処遇に多くの公家・武将に反感を生んだことにある。
① 雅仁親王(後白河天皇)即位擁立には雅仁親王を養育していた信西の策動があった
② 後白河天皇擁立に立太子しないままに即位は無理がった。美福門院の反発は根強かった。
③ 鳥羽上皇の葬儀は信西が取り仕切った。
④ 薬子の変後公的死罪を復活させた。
⑤ 荘園整理令に反感を持つ荘園主がいた。
⑥ 信西は自分の子息に要職に就け、旧臣に反感を持たせた。

平治の乱とそのその後
清盛は、紀伊で京の異変を知って、動転し九州に逃れることも考えたが紀伊の武士・湯浅宗重・熊野別当の協力で帰京できた。
その後の京の軍事の均衡は乱れ、義明の軍勢は少数に過ぎず、信頼の威信は崩れ後白河院院政派にも二条親政派にも信西を排除した今は、信頼は無用の長物で御用済みはあからさまにであったが、清盛は信頼とは姻戚関係を結んでいたので、恭順の意を示した。
二条天皇も内裏を脱出し、清盛邸のある六波羅蜜に行幸した。後白河上皇も仁和寺に脱出した。この状況を藤原成頼が京中に触れ回り、公卿・諸大夫や武士集団が続々集結し、信頼・義明に追討の宣下が下された。
信頼軍は源義明・重成・光基・季実・光保の源氏を中心とした兵力と清盛を中心とした平氏軍と六波羅合戦が始まり、信頼混成軍は敗北、藤原信頼・成親は仁和寺の覚性法親王の前に出頭し、清盛の前に引き出され、信西殺害・三条殿焼打ちの罪で処刑された。
摂関時代は藤原家の身内同士の覇権を廻って幼少の天皇の後見人なるための女御を持って天下の政治を執った。
院政派は幼少の天皇に即位することに於いて後見人として、上皇、法王の身分で天下政治を執った。
院政末期には平氏・源氏の台頭で武士の起用なしでは政治の運営が出来なくなって、武士の発言力に武力に朝廷と藤原家の衰退が顕著になって平安時代は終末に向かって、武士の時代、武布へと移って行き、頼朝の天下創設の幕が開かれた。
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歴史は語る・35・平安仏教の最澄と空海

2014-11-05 06:23:25 | 例会・催事のお知らせ
三十五、平安仏教の最澄(さいちょう)と空海

平城京から平安京へ遷都されて仏教は大きく様変わりをした。奈良仏教の南都七大寺などの東大寺や興福寺などの朝廷への影響力は薄れ南都仏教の新都平安京への移転が認められなかった。
平城京では道(どう)鏡(きょう)や玄によって王権を脅かすような僧の横暴を阻止できなかった悔いからか、新都への移転を除外し僧へ出家への規制と戒律を厳しく制限をしたのが、授戒は東大寺、筑紫(つくし)観音寺(かんのんじ)、下野(しもつけ)薬師寺(やくしじ)と定めた。
そこで平安仏教の旗手として台頭したのが最澄の天台と空海の真言であった。まず最初に現れたのが最澄であった。
最澄は神護景(じんごけい)雲(うん)元年(767)生まれで、近江は古市郷の生まれ、渡来系の末裔である。幼少より諸学を学び、近江の国分寺僧として得度した。
延暦四年(785)東大寺で授戒、突如比叡山に登り、山林修行に入り、唐から来日した鑑真の影響を受けたとみられ、教学を治め比叡山の経籍の拡充に積め、その後高雄山で天台教義を論じた。この教義に桓武天皇と皇太子も祝辞を寄せた。
かねがね入唐を思っていた最澄は弟子の入唐の請願書を出したが、最澄自身も入唐の下命を下した。
平安時代で遣唐使は二度しか派遣されていない。最澄らが渡航したのは延暦二十四年(804)で同じ船団に空海も学問僧として乗船をしていた。
空海は宝亀五年(774)讃岐は多度郡生まれ、父は佐伯氏、母は阿刀氏、延暦七年(783)に上京し叔父の阿刀大足に学び、諸国を遊学、四国を廻り吉野に修行し、三教指帰を著した。延暦二十四年(804)に最澄と同じ船団に乗船、唐を目指した。
一方第二船に乗った最澄は明州に到着した。最澄には唐語に精通した弟子の義真が同行し天台山への巡礼へと旅立ち、巡礼に成功をおさめ、円頓戒と言う天台宗の戒を受けた。帰りには越州龍興寺、明州の開元寺にも密教の教えを受けた。
一方空海は渡航当時三十四歳、唐は福州に漂着をした。早々に大使葛野麻呂のための地方官への書簡を代作したことが功を奏して、人数制限の厳しい中、長安行きを手にした。大使以下福州から一行は強行軍で長安の長楽駅に着き元日の朝賀に間に合った。
一行は空海ら橘逸勢らを残し帰国をしてしまった。空海は青龍寺の高僧(こうそう)恵果(けいか)から真言の教義の『大日経(だいにちきょう)』と『金剛(こんごう)頂(ちょう)経(きょう)』を中心としる密教を学び胎蔵界、金剛界の両部曼荼羅を受けた。この功績で一挙に弟子たちの代表となって帰国をした。
先に帰った最澄は桓武以下の脚光を浴び一躍注目される時の人となったが、後から帰国する空海の密教の前に色あせたものになる事を知る由も無かった。
“天台宗と真言宗”
天台も真言も南都仏教から見れば新興宗教、当初は大きな仏教対立は無かった。
奈良仏教は衰退の一途をたどり、平安京への移転を試みるが桓武帝はこれを許さず、平安京は新時代仏教の展開となり、中国の仏教の流れと並走するような宗派が立宗して行くのである。
最澄の天台教義は法華教学に沿った「一乗思想」で全てのものは成仏で救われる大乗仏教であった。最澄は南都の僧たちを招き法華八講を行なった時も南都は参加をしていていた。
一方真言宗は真言密教の伝授は、自ら神秘的体験から、密教の奥義を確信するもので、教義を重ねて会得するものではないと空海は確信していた。
こうした密教を唐から持ち帰った空海の正統な最新版の経典が当時は最も新しい仏教として目を引き、朝廷から貴族や仏教界に支持を得られていた。
これらを知った最澄は止む無く、これらを借り受けては真言密教を理解しょうとした。
最澄は真摯に愚直に弘仁三年に挙行された高雄山寺では空海が最澄に灌頂を授けることになって空海が優位になったことを内外に知らしめることになった。
二人の対立は宗派対立より南都の対応に有ったらしい。最澄は三輪論や法相宗は古い教義つぃて格下に見ていたようで、
一方空海は南都とは協調路線を進め、一時空海は東大寺の別当にも就任をしている。
最澄の朝廷からの処遇は桓武帝が没してからは、ますます真言宗との扱いに差が生じてきた。
最澄の愛弟子まで空海の下に走った泰範に向かって、二人とも苦労した日々を思い出し二世を契りした者同士ではないか、師弟と言うより自分を捨てた恋人のように心情を露呈し「法華一乗と真言一乗に何の優劣あらんや」との天台と真言の優劣の無い協調論で説得した泰範への手紙に、代筆した空海は真言と天台とは違うことで一蹴している。天台の最澄と真言の空海の劇的なやり取りは、やがて天台と南都の対立へと変わっていった。
一方空海は東大寺を拠点に灌頂道場を設立し、京都では嵯峨(さが)天皇(てんのう)から空海に東寺(教(きょう)王(おう)護国寺(ごこくじ))が下賜された。
天台宗にとって僧侶の資格を得るためには東大寺の戒壇院で授戒しなければならなかった。南都と対立する延暦寺にとって、快いものではない。何度となく戒壇院(かいだんいん)の設置の願いを出されたが聞き入れなかった。
弘仁十三年(822)最澄の死後七日後、延暦寺に大乗戒壇の勅許が下りた。この間空海は高野山に金剛峰寺を開山することが出来たが、その後天台と南都の対立は激化、宮中(きゅうちゅう)御斎会(ごさいかい)などの主導権を廻って熾烈な争いが繰り広げられ、僧兵を持っての争いに進んで行くのである。

★最澄(766~822)日本の天台宗の開祖。諡号は伝教大師。近江の国滋賀郡古市郷の生まれ、父は三津首氏百枝。
三津首氏は後漢の孝献(こうけん)帝(てい)の末裔と称する渡来系氏族。地元の三津寺を氏名とし、幼少の時から陰陽道・医術など秀でて崇福寺の行表に師事し、14歳にして国分寺僧として得度、その後東大寺で授戒し、19歳にして比叡山に上り山林修行に入り修行した。
804年の遣唐使の第二船に乗船した。台州に赴き天台山修禅寺座主の道邃に師事天台の法門と菩薩戒を受けた。翌年帰国し唐から持ち帰った典籍230部460巻も及んだ。最澄を待ち受けていたものは唐で受けてきた金剛界灌頂であった。
ここに最澄によって天台宗が開創された。その後密教の趨勢に最澄は後れを取り空海に教えを乞うたがやがて決別した。818年に最澄は大乗(だいじょう)戒壇院(かいだんいん)を建立する決意をしたが、実現したのは没後七日目のことだった。
★空海(775~835)平安初期の僧。真言宗の開祖。諡号は弘法大師・法号は遍照(へんじょう)金剛(こんごう)。讃岐国多度郡屏風浦の出身、父は佐伯(さえき)氏(し)、母は阿(あ)刀(とう)氏(し)、同族から真(しん)雅(が)、甥の真(しん)然(ぜん)・円珍(えんちん)ほかに実(じつ)恵(え)・道雄(どうゆ)など延暦七年(788)上京し叔父阿刀大足に儒教・文章を学び、ついで大学明経学など諸学を学び、伊予石鎚山、土佐室戸崎、阿波大滝岳、吉野金峰山等で修行、三教指帰を著して仏門に帰す。
804年の遣唐使船に最澄と共に入唐し身分は就学僧・留学生であった。唐では長安青龍寺の恵果が没ずるまでに胎蔵界(たいぞうかい)・金剛界(こんごうかい)の両部と伝法阿闍(でんぽうあじゃ)梨(り)の灌頂(かんちょう)を受け遍照金剛の蜜号を授かる。
恵果の没後に帰国を決意、新訳密教の経典を持ち帰った。帰国後の半年は大宰府の観世音寺止住し、ついで和泉国の槙尾山に止住、809年に入京し高雄山寺を拠点に活動した。
その後最澄と交流を始めたが最澄の弟子が空海に走ったことで亀裂が起きた。816年に高野山金剛峯寺を創建し、翌年には真言宗密教専修寺院とした。その後は京都で東寺を受領し、日本真言密教を形成して行った。

※平安仏教の幕開けは804年遣唐使船に、乗船を果たした最澄と空海に懸っていた。二人の目指し唐の仏教は台州に漂着し天台山をめざし、『妙法蓮華経』の天台法華経学と唐代に盛んな一乗思想を指標とし円密一致を主張した。
一方空海は福州に漂着し長安青龍寺に恵果に学び、当世盛んな真言密教を会得した。二人の入唐し開宗した天台と真言は大きく日本の仏教界を変えた。
天台からは浄土宗宗派・禅宗系宗派・法華経宗派など多岐にわたって高僧が排出され、立宗宗派が誕生した。一方空海は真言密教に大日如来を通じて「金剛界・胎蔵界」の両部をもって不動信仰と観音信仰を普及させ、古義・新義真言宗の広まりは空海の壮大な大日の世界に通じるものである。また日本初の祖師信仰の『大師信仰』を確立した。
何れにせよ今日の仏教は二人の存在なくして仏教はなしで成しえなかった。基本中の基本を形成した源脈である。




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