歴史の足跡

フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」の会」もよろしく。

歴史は語る24広嗣の叛乱と吉備の真備

2014-09-27 06:18:25 | 例会・催事のお知らせ
二十四、広嗣(ひろつぐ)の乱と吉備真備(きびまび)”

藤原一族に取り逆風であった。とりわけ宇合の子の、広嗣の事件が起きた。
広嗣は性格と素行が悪く、大宰府に左遷されてしまった。天平十二年(740)聖武天皇に大宰府の少弐藤原広嗣から上表文が届いた。災害が続くのは政治が悪いからで、それは僧正玄と右衛士監の下道真備の重用が要因である。
聖武天皇、これは謀反であると判断、討伐(とうばつ)の兵を指示した。
その事がから、事件が勃発、大宰府の隼人を巻き込み、反乱軍と成った広嗣軍と、大将軍に任命された大野東人の広嗣征伐軍とが関門海峡を挟み、繰り広げられたが、政権に就いて間もない橘諸兄(たちばなもろえ)は直接指揮を取った様子もなく、聖武の敏速な指令で、あっさり広嗣が捕らえられ処刑されたが、政権の不安定さは否めなかった。
事の経緯はこうである。広嗣は、大和朝廷の不満をそのまま九州の隼人の民衆に潜在しているのを目に付け、不満を煽りたて自分の大宰府の兵と合流させ蜂起したが、大和の官兵諸国より一万七千を徴兵、広嗣軍の隼人とを分断させるため、畿内よりの隼人を派遣し戦力を弱める作戦を取った。
戦局は関門を渡り、板櫃川を挟んでの決戦となった。
広嗣は北周りの鞍手道から大隈、薩摩、筑前、豊後の五千の兵を広嗣の弟綱手が率いて進む予定が政府軍の豊前掌握に綱手軍が進路を絶たれが、結局、北へ遠賀川付近で広嗣軍、綱手軍が合流、そして板櫃川へと向った、官軍六千に対して広嗣軍、綱手軍総勢一万とが板櫃川を挟んで対峙した。
此の時の時の様子を、こう記されている。
官軍方の隼人から、広嗣軍の隼人へ動揺させ分断させる為に巧みな心理作戦の呼びかけに、裏切り、寝返るもの続出、広嗣の正当性のない反乱軍は、逆賊広嗣の陰謀が、陣営内にも暴露され九州各地より結集した郡司達も政府軍に帰順する者余々に増え、統制の利かない広嗣軍は西へ敗走、五島列島から、済州島付近まで行ったが、強い西風に拭き戻され、五島列島の宇久島で捉えられて、大宰府へ護送される途中で処刑された。
何故無謀な反乱を企てたのか、身内からも疎外され九州に左遷され、孤立感から、玄、下道真人への妬みは藤原一門への腹いせにあったのか、無名に近い二人は唐国に十七年も大陸の文化物品、備品、仏教の経典は新鮮なものだったに違いない、そして何より聖武や光明に取り求めたものは唐の情報が欲しかったに違いない。
大陸の情勢や、政治文化も気に成っていただろうし、また聖武の母の宮子の病気の怪しげな祈祷まで買って出た、益々聖武は玄を信じ切っていった。
異例の抜擢、成人に成るまで会えなかった母宮子の病を手懸け、効果が有ったか無かったは定かではないが、野心満々な政僧玄はたちまち政治の中枢に参入していった。
処がその後の政変で失脚した。天平十七年(747)九州は筑紫の観世音寺に左遷、翌年栄華を極めた玄は没した。
一方下道真人は出身の吉備の名を取り、吉備真備と改め、常に政治の中枢に有って、節目、節目に登場し重要な役割であり続け、孝謙の時代まで朝廷を支え続けた。

★藤原広嗣(?~740)奈良前期の貴族、宇合(うまかい)の長子。
藤原広嗣の乱の首謀者。大養(やまと)徳(の)守(かみ)に任じられたが素行が悪く評判は芳しくなく、大宰府に左遷された。藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の没後、藤原勢力の復興を図り、橘諸兄、玄に対立し孤立した。
玄、吉備真備を除外することを上表し、大宰府に挙兵し敗れ逃走し捕えられ惨殺された。
★吉備真備(695~775)奈良時代の政治家、父は下道朝臣圀(くに)勝(かつ)、母は渡来系。下道真備と言う。阿倍仲麻呂の玄ら遣唐使と一緒に入唐し滞在17年にも及ぶ、藤原四兄弟しご橘諸兄政権下から重用され、称徳天皇の信任厚かった。
その後の仲麻呂政権下では冷遇され二度目の遣唐使帰国後は大宰府で地方官として十数年間不遇の時代を送り、再び帰京後は造東大寺長官として活躍、恵美押勝の乱では敵の退路を断ち一気に壊滅させた。
★玄(?~746)法相宗の僧、俗性は阿刀氏。義淵に師事し、養老元年に入唐、天平七年(735)帰国、経典仏像持ち帰る。聖武天皇・光明皇后の信任を受けて僧正となり、内道場に供奉(くぶ)した。朝廷も橘諸兄も玄を重視した。
その野栄華も長続きせず広嗣の乱の五年後の筑紫ニ左遷させられた。翌年に配所に死ぬが広嗣の霊に殺されたという。

※問題の発端になった吉備真備(きびまび)は(695~775)政治家で父は右衛士少尉下道道朝臣、母は渡来系、養老元年(717)遣唐使に留学生として安倍仲麻呂や玄と共に入唐し。滞在17年にも及び、儒学、礼儀、律令、軍事などを諸般の多くの学問の書物を持ち帰った。
帰国後、孝(こう)謙(けん)天皇(てんのう)に重用され学士になった。以後この女帝に厚遇され、藤原四兄弟死後の橘諸兄にも登用された。九州大宰府の藤原広嗣の名指しで追放を掲げて反乱された。
その後、仲麻呂政権下では冷遇され、嫌われて西海道に左遷されるが、再び遣唐使で唐に渡るが帰国後も帰京は許されず地方の役人として十数年を過ごした。
天平(てんぴょう)宝(ほう)字(じ)八年(764)造東大寺司の長官として戻り、恵美押(えみおし)勝(かつ)の乱(藤原仲麻呂)では率先し敵の退路を断ち活躍した。
その後、弓削の道(どう)鏡(きょう)政権(せいけん)下では異例の出世をした。七十二歳の高齢で右大臣に上り詰め、七十七歳で右大臣を辞し、四年後八十一歳で生涯を閉じた。吉備真備ほど長きに渡り時代の節々に活躍した人も稀で、唐との文化導入の橋渡しの功績は大きい。



歴史は語る23・聖武帝・光明皇と平城京

2014-09-25 04:59:16 | 例会・催事のお知らせ
二十三、聖武帝・光明(こうみょう)皇后(こうごう)と平城京

養老七年(723)左京から両眼の赤い白亀が献上され、祥瑞の亀の出現によって、神亀と改元された。
それを期に大極殿において満を持しての皇太子首皇子の即位である。
天武、持統、直系の皇子草壁、文武天皇を若くして亡くし、耐えて仲継ぎの女帝元明、元正と血脈の粛清をも越え、聖武天皇が即位し、同じ齢の光明を妃、皇后と、その間多くの有力皇族は消えた。
今や藤原一門を背景に事が進んでいく時代に成っていた。
期待の皇子の誕生に元明は孫の首皇子に対する思いは、帝王学は並々ならぬものがあった。母宮子は病弱で、会えたのは聖武が成人してからのことだった。
幼い頃より、祖母元明に、伯母に元正に帝王学を教育され国内の博士、学者による、仏教の書経、唐の儒学など諸学を徹底的に教え込まれた。
聖武の出した勅の随所に出てくる言葉に。
「朕(ちん)と民(たみ)」「国に納める、朕の徳」処々に出てくる、大仏発願にも国を治める君主の心がけが、所々に出てくる。
君主としての振る舞い、気品、決して暴君ではない、信心深い面、理想を求め、気まぐれではあるが、律儀で博識で繊細である。それに対して光明は十六歳で聖武に元に来て、常に行動的で活発な面があった。
平城京を二人三脚で歩んだ面は否めない。
光明子の性格は父不比等より、その気丈さは母県犬養橘三千代の影響の方が大きい。
聖武の人柄についての記述は無いが、光明について、「幼い頃より、総慧、敦く仏道を崇み、仁慈にして、志、物を救う」と評価は良い。
母の三千代は天武、持統、元明の四代の天皇に仕えた内命婦(高級女官)で天皇、皇后の身回りを世話する者である。
その功績に橘宿禰の姓を賜った、平城京の門に「県犬養門」があるそんな由緒ある姓を賜ったのは、敏達天皇の五代目の美怒王に嫁ぎ、葛城王、佐為王、牟漏女王を生んだ。
不比等に見初められて、再婚して生まれたのが光明子であった。特に県犬養三千代は聖徳太子に深い信仰を持っていて、法隆寺の三千代の「橘持(たちばなじ)念仏(ねんぶつ)」が残されている。
そんな光明子の運命は十六歳で聖武と結婚し、十七歳で阿倍内親王が生まれて、二十七歳で待望の皇子、基皇子が生まれたが、一年後没し、その後は継子に恵まれなかった。
基皇子を失った後、二人は益々仏教に引かれて行ったが、やがて写経に没頭し、写経所を造り、国を上げ組織的に行われたようだ。
専門の写経する教師、校正、装潢生といった人達の集団が生まれ、仏典の一切教と言って全ての教を網羅して写経すると言うことに徹した。
写経についても、聖武直筆による、仏教関連の「雑集」は仏教による功徳を説いたもので、その書体からは律儀で、几帳面で純粋に仏教への求道心が窺い知れる。
これに対して光明の筆跡は男性的で、積極的な書体でその性格が顕著に表している。
特に光明は興福寺の寺院の拡充に力を注ぎ、堂塔の東金堂、建立に天平二年には薬師寺の東塔、四月には興福寺の五重塔、天平五年には母三千代の供養に西塔を建立している。
聖武天皇は光明皇后より早く仏教に帰依していた。後々にその仏教への没頭ぶりは大仏建立へと続くが、この時点では一切経の書経を早くより内裏で開始をしていた。
光明皇后は藤原家の氏寺への献身的な供養、建立が顕著にみられ、特に母の供養に熱心であった。聖武天皇は身の回りの重臣等が相次いで天然痘で没し、そのための供養に大仏建立に拍車をかけた。
これに対して邸宅を伽藍として法華寺を建立し、東大寺に対して寺名に総国分尼寺で法華(ほっけ)滅罪之寺(めつざいのじ)に由来する。
★聖武天皇(701~756)在位二十五年間、父文武天皇。母は藤原不比等の女、宮子。
聖武天皇の子の継嗣に恵まれず、
☆光明皇后に阿倍内親王・某王。
☆県犬養広刀目に井上内親王・不破内親王・安積親王。聖武天皇には継嗣に恵まれず、不比等の女の☆安宿媛夫人に某王が生まれて立太子するが翌年死亡した。
光明子や藤原一族は県犬養広刀目の安積親王の皇位継承を恐れた、そのため光明子の立后で邪魔な長屋王を除外し策略で失脚させた。そ
そして阿倍内親王を立太子させた。王族でない光明子の立后も女性の立太子も異例で藤原四兄弟の強権によるものであった。
★光明皇后(701~760)聖武天皇の皇后。なは安宿媛、光明子、藤原不比等の三女、光明皇后は永谷王排斥の後仏教に大きな影響をもたらし、興福寺の五重塔や西金堂、新薬師寺、法華寺など建立に務め皇后宮職に施薬院、悲田院を設け救済事業お行なった。
また国分寺、国分尼寺の造立を聖武天皇に勧めた。今日の東大寺の正倉院が現存する功績が大きい。
★県(あがたい)犬養(いぬかい)橘(たちばな)三千代(みちよ)(?~733)藤原不比等の妻、父は県犬養東人。美怒王との間に葛城王(橘諸兄(たちばなもろえ))佐(さ)為(い)王・らがいる。
天武天皇から元明天皇まで仕えた功績を称えられ橘宿祢姓を与えられた。元明太上天皇の病気祈願ため出家。没後正一位が贈られた。

※平城京の君主、聖武天皇は藤原一族に支えられ政務は執り行われた。また光明子の性格も母県犬養橘三千代の影響が強く表れ、気丈な面が表に出て聖武天皇をしばしば先行する。
また複雑な血脈関係はその後の橘諸兄と仲麻呂時代に移って行く序奏に他ならない。




歴史は語る22藤原四兄弟と宇合の東征

2014-09-23 06:20:23 | 例会・催事のお知らせ
二十二、“藤原四家の台頭”と藤原宇合(うまがい)の東征

不比等が没し、代わって政権に就いた長屋王は八年で失脚、その後の政界を牛耳ったのは藤原四兄弟だった。
長男武智(むち)麻呂(まろ)、次男房前(ふさまえ)、三男宇合(うまがい)、四男麻呂(まろ)の兄弟であった。不比等が没する前には、それぞれ四人の息子には政治の中核に要職に就けてあって、自分の没後を考えて次の布石は打ってあって、抜かりが無かった。
平安を通して藤原家の隆盛は留まる所が無く、全ての要職は藤原一門で占められていたが、その基礎にあったのが、奈良時代の藤原四兄弟の活躍が無ければなしえなかったものである。
この四兄弟が朝政の重職に名を連ね、長屋王失脚から八年間その隆盛に時代が続いた。
光明とは異母兄弟に当たり、聖武に取っても母の兄弟になり血縁関係で深く結ばれていた。
安定した八年間は、国内、国外の目だった事件は起こらなかった。
ただ朝鮮半島の高句麗が滅んだ後は、突如出現した渤(ぼ)海国(っかい)が国書を携えて使節がやって来た。

“天然痘(てんねんとう)大流行(だいりゅうこう)”
神亀二年(725)八月に、九州の大宰府管内で西海道諸国で疫病が大流行し始めた。
「続日本記」には天然痘と呼ばず「豌豆瘡」と呼んでいた。
勿論外国との交流の多い地区は当然そんな危険はついて回る。処が天然痘は治まるどころか、山陰道、山陽道を東上して、全国的な広がりを見せ、朝廷も何とか食い止めるべく、天然痘の進入を防ぐために「道饗祭」と言った祈祷、呪いをするしか方法が無かった。
そんな祈祷が効いたのか一時小康状態なったが、此の時に皇族や貴族、官僚などが倒れて言った。
中でも天武の子新田部皇子、舎人皇子も亡くなった。
聖武、光明が熱心に写経する経典の収集するために、遣唐使が持ち帰った多数の貴重な経典の、見返りに厄介な天然痘を付いてくる側面を見せ付けられた。
天然痘の大流行で国家の機能がマヒし混乱をきたすようになっていった。
聖武、光明は天然痘の猛威を、またそれで亡くなった人達の供養に拍車が掛かったことは,云うまでもない。
天平八年(736)六月、聖武、光明は即位後三回目の芳野行幸に旅立つが、それがどんな意味を持つか定かではないが、十六日間も何を考えてか、天武系の蜂起した時の思い出の地で、疫病の苦悩の払拭のためか。
翌年一月、参議、兵部卿藤原麻呂が持節大使として、陸奥国に向け派遣されることになった。

「東北政策と四兄弟の病死」
この頃東北は蝦夷の動きが不穏な動きの、気配が伝えられて来た。
東北政策はその拠点造りと、民の移動させる事に大和政権の長年の摩擦で、一挙に解決できず、一進一退を繰り返していた。
柵から、城塞(じょうさい)へと地道に北上していったのであるが、融和政策と強行突破とを織り交ぜながら、開拓、入植と蝦夷の分断、硬軟政策を講じなければならなかた。
物資の確保は、往路の整備に多くの人員を投入しなければならなかった。
この頃の大和朝廷の東北への支配勢力圏は多賀柵から、出羽柵までの最短路の往路を確保に途中に、雄勝村に拠点を造り、群家を置き、民の移動させるのに、陸奥按察使(鎮守将軍)の大野東人から混乱を鎮圧する為の要請があった。
騎兵千人を配置、前線の大野東人に精鋭隊(せいえいたい)百九十六人、玉造柵、新田柵、牧鹿柵など四百五十九人を配置、多賀柵に残る麻呂に三百四十五人を預け、その他陸奥国兵士や服従蝦夷の総勢六千人をもって色麻柵を出発した。
その頃都では、あの忌まわしい天然痘が再流行をしだし、麻呂の兄の参議、房前が天然痘で病死、次々と重職官人や貴族まで、感染し亡くなる事態に打つ手無く、政治の機能化に影響を与える程になってきった。
それは一般庶民、民、百姓まで感染し、世情が不安定になっていった。
最早、麻呂に取り東北遠征所ではなくなって来た。
急遽、都に引き返した時には、大宰府弐小野老、中納言多冶比県守が亡くなり、帰郷して兄の見舞いに行って感染した麻呂は、七月に死亡四十三歳だった。
直後に、長男武智麻呂までもが天然痘で死去、そして続いて三男宇合までが死亡、四十四歳であった。
皇族の天智皇女、水主内親王までこの世を去った。
朝廷は諸神社に弊帛捧げ、宮中の十五カ所で僧七百人に大般若経と最勝(さいしょう)経(きょう)を講読させ祈祷せた。
あの隆盛を極めた、藤原四兄弟の相次ぐ死亡で、藤原政権はあっけなく消滅、意外な幕切れとなった。

★藤原武智麻呂(680~737)奈良前期の公卿、不比等の長子、母は蘇我連子(らじこ)の女娼子。豊成・仲麻呂・乙麻呂・巨摩麻呂らの父、藤原南家の祖。邸宅が平城宮の南に有ったので南卿と称されている。大学頭など学問に関わり歴任し皇太子首皇子の教育に当たった。
藤原四兄弟時代を作った。右大臣に昇進したが、当時大流行した天然痘に侵され没した。
★藤原房前(ふじわらふさまえ)(681~737))次男として生まれ、不比等の第二子。母は蘇我娼子。北家の祖で北卿と称された。一歳上の武智麿とり早く朝政に入り要職に就いた。
参議、議政官に上がり、長屋王との親交が深く、武智麿呂の南に対して北に住んでいたので北家と呼ばれていた。やはり疫病「天然痘」で他の兄弟同様に病死をした。
★藤原宇合(ふじわらのうまかい)(694~737)藤原不比等の三男として生まれ母は娼子、田麻呂・百川・蔵下麻呂の父。行動的な人柄で、霊亀二年(716)遣唐使として唐に渡り、帰国後常陸守になり、兄の式部卿の後任に、蝦夷の反乱の制圧に、持節大将軍になり、遠征しこれを納めた。
参議、議政官に加わり、文武両面を持ち合わせ、長く式部卿を務めたので,式家と呼ばれるようになった。
西暦727年に兄弟は天然痘で病死した。
★藤原(ふじわら)麻呂(まろ)(695~737)、四男、母は鎌足の女五百重娘という。浜成・百能らの父。京家の祖、京職太夫に任じられことによって京家と称された。左右京大夫(京職)を務め、主として平城京の行政を受け持ち、参議から、議政官に加わった。

※平城京で栄耀(えいよう)栄華(えいが)を誇った藤原四兄弟も天然痘であっけなく全員病死、死去した。藤原四兄弟に依存をした朝廷の落胆は如何ばかりか計り知れなく、10万人の人口で二割や三割の人口は消滅したか定かではないが、東北地方を襲う飢餓(きが)疫病(えきびょう)で四分一の人口が亡くなり盆の回向は伝統となって続く事例があって、一時平城京の衝撃は大きかった。聖武天皇は仏教に傾斜していく要因に身の回りの者の供養、回向の思いが拍車をかけたとされている。






歴史は語る21長屋王から藤原四兄弟

2014-09-20 19:39:29 | 例会・催事のお知らせ
二十一、長屋王から藤原四兄弟

“長屋(ながや)王(おう)の頭角(とうかく)”
時代は不比等から長屋王へと変わって行った。元正が没した。
養老五年(721)政権は不比等に変わり、長屋王が就いた。本来なら皇族の重要な地位でもあったが、あえて皇籍を降り、臣籍と成っての政権だった。
天平元年(729)栄光から悲劇の失脚までの、謎の多い八年間を平城京の政権を担った。本来なら天武の長子高市皇子の王子として後継の有力候補として、皇族の中枢でいるはずが、高市皇子の母方の血筋が九州豪族の娘と言うことで身分の低さから父と同様皇権から外されていた。
だが高市皇子は壬申の乱の折には若干十九歳にして、勝利に導く働きの功績は大きかった。その後持統五年(690)持統在位中では八年間太政大臣として、朝廷を支えた。
妃には天智の皇女御名部皇女が向けられた、元明天皇の上の姉に当たる。
草壁皇子に継ぐ存在だったが享年四十三歳で没した。御名部皇女の間に三人の皇子と三人の皇女が生まれた・父高市皇子と違い長屋王は母が天智女である以上最も王権に近い存在だった。
だがもし長屋王が王権に意欲を見せていたならば、政争に巻き込まれて、排除されて、抹殺されていた可能性は、否定できない。
父はそんな事を察知しいち早く、臣籍の道を歩むことを、選択したに違いない。
まして首皇子が誕生した以上は全ての皇族は、皇権に意欲のないことを示さなければ、身の安全は無ことは熟知していたかも知れない。
運命の選択は父の生き方を、知った上の官人として登り詰めて行った。
“北宮(きたみや)王家(おうけ)と木管(もっかん)“
長屋王自身その生き方に臣籍に活路を求めた。
長屋王については、謎が多かったが、奈良市の大型建築物の基礎工事で元長屋王の住居跡から長屋王の関係する、多くの木管が出土し、その権力と、その暮し振りや様子が解明されつつある。
長屋王 天武五年(676)飛鳥で高市皇子の長子として生まれた、母は御名部皇女である。
☆妃に吉備内親王、草壁皇子と元明天皇の内親王で三人の王子が生まれている。*膳夫王、葛木王、鍵取王。
☆石川夫人には王子が一人。*桑田王。
☆安倍大刀自夫人に一人の女王。*加茂女王。
☆藤原不比等の娘の長我子の間に四人の王子。*安宿王、黄文王、山背王、教勝?
☆他に分かっているだけで六人の女王。三人の王子。*円方女王、紀女王、忍海部女王、珎努女王、日下女王、栗田女王、林王、小冶田王、太若?
なかでも吉備内親王の血縁は深く微妙である。
それが北宮王家(高市皇子、長屋王)という特別な存在だった。あたもかも、聖徳太子の上宮王家を彷彿とさせるものがある。
首皇子の誕生以降は皇位継承からも外されてからは、その代償として、特別な処遇であった。
政治家の道を選択した長屋王は、父同様にその才覚を発揮したのではないだろうか、平城京遷都から失脚する十九年間、長屋王邸宅は正殿と脇殿と建つ、床面積三百六十平方メートルという、天皇の次に観られる大きな邸宅である。
上記の家族構成に充分住居としても、特別扱いだった。
その機能やシステム構造は宮殿を少し小さくしたもので、政所、務所、(事務所)主殿司、(殿舎管理)大炊司、(食料庫)膳司、(調理)菜司、(野菜所)、酒司、主水司、(水酒の管理)染め司、(染色工)工司、(職人所)鋳物司、銅造司(金物の製造)嶋造司、(庭園所)仏造司、斎会司、(仏事)薬師処、馬司、犬司、鶴司、など多岐に渡りあって、あって一国の王宮のまかないのに相当するものである。
これらの長屋王の関係する人々の従事する人数は数百人に及んだだろうと思われる。
邸宅は北門の二条大路に面し、大路には本来門を開いてはいけないのに、表通りに開く北門があって、広大な邸には、妃、夫人と、それぞれの家族に王子、女王が、区割りされた処に住み長屋王の一族を成していた。
そんな大勢の人々の暮しを守るだけの、物資、資金を考えた場合、奈良の大型デパートの建設の折り、たまたま長屋王の邸跡だった。
出土された、多くの木簡は、奈良時代と長屋王の謎を解く鍵として、大量に出てきたのである。
木管は長屋王のその暮し振りと、当時の情景や、情報が膨大に出てきたのである。
しかも途方もない作業であった、木管は長さ二十センチ位で、幅三センチ位、厚さ四ミリ、紙の代行で諸国を流通する、貴重な木札であった。役割は書簡、命令書、明細書、荷札,連絡書など多彩である。
木といっても貴重である、決して使いすではない。削って再利用するのである。その削りカスを、一つ一つ広げて、判読するのである。
三万五千点に及ぶ木管を解明しつつある。
実に気の遠くなるような話である。そんな中から当時の長屋王の日々暮らしを見ることができる。
領地から送られてくる数々の品は、その豊かな食卓を物語るものであるが、荷札の木管からは、父の領地、遠くは高市皇子の母方の宗像(宗形)から送られた物があり九州からの結びつきを物語る、封戸四千五百戸分に相当する。
諸国父高市皇子から受け継いだものを入れ三十七カ国にも及ぶ、摂津国の塩漬け鯵、伊豆国の荒鰹、上総国のゴマ油、越後国の栗、阿波国の猪なで、近郊から野菜など、夏には奈良の山手の氷室から氷まで、その豊かな美食が窺い知れる。
長屋王の取り巻く家族はそれぞれの夫人の王子や女王に加え、妃や夫人の背景をも巻き込み、北宮王家として存在していた。
北宮王家についての呼称の由縁は、藤原京時代に父高市皇子が京の北側に住居したのが始まりという。
そういえば藤原四家も北家、南家も藤原京の方角に住んでいたからだと言われている。

“長屋王政権”
不比等から長屋王へ、やがて藤原四兄弟の台頭、不比等が長屋王に全権を委ねる見返りに、わが子の抜擢を促すが如く、長子武智麻呂の妻に長屋王の妹竹郎女王を嫁がせ関係を深める。
養老四年(721)十二月元明太上天皇が没し、十二月に右大臣長屋王が誕生し、打ち出した政策は、農業振興政策で、良田百万町の開墾政策で、遷都十年平城京の米などの消費に生産が追いつかず、増産するために開墾を奨励する政策である。
次に出した政策に「三世一身法」で開墾と道、水路を整備したものには、三世代に渡りその土地の占有を認めるということである。
聖武天皇(首皇子)父文武天皇・母藤原宮子・皇后藤原光明子・五六歳没・在位二六年間・
養老八年(724)天武、持統、草壁の、直系の期待の首皇子が万を辞して、大極殿に於いて即位した。
平城京の申しの皇子、聖武天皇の誕生である。
元明、元正と仲継ぎの天皇十七年にも及ぶ女帝を経ての天皇誕生には皇族内に安堵があっただろう。
異例と云えば皇位継承に、皇族を母に持たない天皇は初例であった。
“長屋王の変“
それが、その後の長屋王の問題に成っていったのであるが、大夫称号事件が起きた。
皇族でない藤原宮子は、天皇の母のその処遇に当初は大夫人と呼ぶ勅をだしが。そこで長屋王は、勅に従っていれば問題が無かった。
所が長屋王は聖武に大夫人とは「令」に照らし合わせても呼ぶことが出来ないと発言した、 
皇を上に加えれば可能と進言、「令」を出して宮子の名を聖武に云ったことには悪意は無かったが、宮子に「皇」の一字を付けることで威光を持たせたかったのが本心だったろうが、律儀と言えば律儀、返って聖武天皇、光明皇后の威信を傷つける結果となった。
結局、長屋王の意見が通り「皇大夫人」となったが、口頭では「大御祖」と呼ぶことで落ち着いた。
天皇の発言に異を唱えたことの重大さに長屋王は気がついていなかった。
神亀三年(726)この頃より元正は体調を崩し、災害が起こり、信心深い聖武は写経や仏に寺院建立に励む日々であった。
翌年には待望の皇子の誕生に、宮廷の官人までが、明るく一変し祝賀に庶民まで恩恵を受け、税や免除が、物が振舞われた。
処が翌年、生後一年で皇子は世を去り、聖武、光明の落胆は計り知れないものだった。
この頃より益々、聖武、光明は仏への信心は深まり、大きく仏教へ傾いていくのである。
仏教への深まりは光明の影響から、余々に光明の発言力の強さへと変化していった。
鎮護国家への道は聖武と光明に取り最早、長屋王は邪魔な存在でしかなかった。
それもなんの予告も無く、突如神亀六年(729)二月十日の夜、六衛府の兵が長屋王の邸を取り囲んだ。
兵を指揮していたのは、藤原四兄弟の三男の宇合と次官であった。
手順として逃亡の恐れありと、地方の兵の混乱を避けるために、固関(こげん)が実施された、三関(鹿関、不破関(ふわせき)、愛発関(あらちぜき))これからの起こる政変に備えてである。
皇族からは、舎人親王、新田部親王、他、大納言、中納言、藤原武智麻呂などが長屋王の罪状を問うために門を叩いた。
その嫌疑は国家(こっか)転覆(てんぷく)罪(ざい)、左道を持って天皇を呪詛したという疑いで取調べを受けた。
密告者は下級役人三人で、明らかに冤罪であるが、抗弁、弁明しても、覆るものではない。
長屋王は翌日には自決享年五十四歳のことだった。
自決の前に、妻子、吉備内親王と三人の子、膳夫王、葛木王、鉤取王と、石川夫人の子桑田王に毒を飲ませて絞殺、こうして長屋王家、北王家は悲劇の結末で滅亡した。
一族は生駒山の麓の平群に葬られ、吉備内親王には罪がないと理由でその葬を賎しくしてはならないと長屋王の他の夫人、王子、女王には一切罪は問わない勅が下された。
★長屋王(684~7299奈良時代の左大臣。高市皇子の子で天武天皇の孫。母は天智天皇の女。妻は元明天皇の子の吉備内親王。天平元年(729)左道を学び国家を傾けようとしているとして訴えられ、吉備内親王や膳夫(かしわで)・葛木王らと共に自殺し滅亡した。
長屋王邸が宮城の北側にあったことから「北宮王家」と言われている。
◆左(さ)道(どう)*①不正な道、邪道、転じて、不都合、不謹慎の意。②粗末の意。

※長王の変で解るように皇権に近い長王は臣籍に降下して政権を担ったが、聖武帝を取り巻く皇族や重臣にとって目障りな存在でしかなかった。
新興勢力の藤原四兄弟の台頭が相まって長屋王の突き落としに一役買ったかもしれない。とりもなおさず藤原宮子、光明子の立場や存在を否定するものではないが、皇位継承保持者の存在は除外に他ならない。


歴史は語る⑳元明天皇と平城京への道

2014-09-17 19:50:00 | 例会・催事のお知らせ
二十、元明天皇と平城京への道

慶(けい)雲(うん)四年(707)文武の葬儀が終わって、気運は平城京に向けられた。
この頃武蔵国の秩父に和銅が献上されて、これを祝って和銅と改められた。和銅の産出は精錬の入らない使い勝手の良い純度の良い自然銅である。
和銅(わどう)改元(かいげん)は元明と不比等とによって進められる平城遷都に向けての銭貨「和同開珎(わどうかいちん)」の発行である。
貨幣については実際に流通していたかは疑問であるが、貨幣への認識はあったのか、勿論庶民にはその認識はなかったろうが、朝廷の中枢などは粟田真人の唐からの帰国によって周知していただろう。
和銅元年(708)平城京への遷都の詔が出された。その後の八年間は遷都に明け暮れていたと言われ、現在のような整地されていなく、平城山から延びる丘陵があって、その間に南から入り組んだ谷合があったらしい。平城京遷都への建設は地ならしから始まり、大極殿、内裏、東院など主要な建造物が建てられていった。『続日本紀』に依れば和銅三年に平城に遷都をする。
平城京の規模様子は南北に九条の通りがあって、北の中央に平城宮、その中央の門、朱雀門があって南に下り羅(ら)城門(じょうもん)の左右にそれぞれ四坊の筋があって、東北に外京に東宮に東大寺や興福寺などの寺院が置かれ、外京を除き東西4,3KM・南北4、8KMと言う規模の中に約10万人の人が住んでいた。
新都造営と政情不安が伝えられ、多くの民の労役が徴用されたようである。
この平城今日においては女帝が目立つことになる。藤原京においては持統天皇の主導もとに行われたが、平城京は元明女帝が積極的に進められた。
皇位継承者に血筋に適合した者が居ない場合、また候補がいても天武系の持統の長子の草壁が早世し、文武も天皇の地位に就くが病弱で亡くなって、次の首皇子の継承までの間の中継ぎの天皇に止む無く祖母の元明が成っても仕方のない所で、天皇家の主流を成す者の継承を優先した観がある。
707年に文武が病死した翌月、元明は即位をした。例によって皇位に就いた正統性とその理由を「宣命」形にして「地祇(ちぎ)天神(てんじん)のしずめし神の天皇の勅命、臣、公民のもろもろの聞こえる宣による・・・」と謳っている。
本来なら当時九歳の首皇子が文武の皇子として継ぐべき所、皇継から外れた祖母の皇位に継ぐに当たり廻りの者に気を使ったものである。
元明天皇のように天皇系の嫡子でないものの即位は一応特異な例と言える。しかも女帝であるが八年後の715年に娘の氷高皇女の皇位を譲り、個々に二代続いて女帝が誕生し、本格的男子の皇位までの「仲(なかつ)天皇(すめらぎのみこと)」としての皇位である。
氷高皇女が即位をして三十六歳で元正天皇となった。それでも文武天皇の嫡男の皇太子首皇子は幼く、それまでは元正は政務を執らなければならなかった。
元正天皇の即位時には首皇子は十五歳であったが、祖母の老女帝元明にはまだまだ不安があって、首皇子を
立太子させた。異母姉の持統は孫の文武天皇の譲位をさせるのに、五年間後見人の様な立場であったが、今自分も同じように首皇子の後見人の様な立場で見守らなければならかった。
持統の子の草壁皇子にしても、元明の文武皇子も病弱であった。何故なら生物学的にも近親結婚は病弱な子どもが生まれやすいらしい。
元正天皇の重職の布陣も随分と様変わりをして、左大臣の石上麻呂が亡くなって、代わりに臣下の筆頭は右大臣に不比等が成り、次男の房前が三十七歳で参議に就任、着々と藤原景が朝廷の重職に就くようになって来た。
元明と不比等の二人三脚も、710年の平城京遷都の五年後に元明は没した。
一方不比等は藤原家の基礎を築き、興福寺を建立の完成前の養老四年(720)に没した。その影響力は大きく文武の妃に娘の宮子を嫁がせ、聖武天皇には光明子を嫁がせて朝廷への盤石(ばんじゃく)な影響力を有して功績を残した。

★元正天皇(680~748)女性天皇、在位九年間、父は草壁皇子、母は元明天皇、文武天皇・吉備内親王姉、二品から一品に叙せられる。首皇子は幼少の為に元明天皇から即位をした。藤原不比等から長屋王が首班になって重要な政策を実施「三世一身法」などを施行。元明在世中は元明が実権を握り、没した三年後は「聖武天皇」(首皇子)に譲位し中継ぎの役を果たした。
★藤原宮子(?~754)文武天皇の夫人、不比等の娘、大宝元年(701)に首皇子(聖武天皇)を生んだ。聖武天皇が即位すると母宮子を尊び大夫人とする勅令が出された。ところが長屋王らの指摘によって撤回され,皇太夫人に、この事件で長屋王は失脚をした。
長年宮子は病の為に聖武天皇に会えず天平九年に玄の看護により会えたと伝える。
◆平城京、八世紀の古代都城。京域の大半は現在の奈良市にあり、西南の一部は大和郡山市に含まれる。藤原京から遷都の動きはすでに文武天皇の時に在り、慶雲四年(707)には諸王臣に五位以上の者に遷都の事を論じさせた。
翌年に元正天皇は遷都の詔を出し、「四禽図に叶い、三山、鎮を作す」と指摘されている。藤原京から平城京への発起と思いの要因は粟田真人や遣唐使が間近に見聞した長安の大明宮含元殿をわが国にも取り入れたい思いもあった。平城京に作られた大極殿は含元殿が類似している点にある。
京域は朱雀門と羅生門を結ぶ朱雀大路を中心に、東が左京、西が右京で、それぞれ東西の方向を大路には中央の羅生門を左右に一坊から順に外に向かって増え外京は別に増えて行く、南北に大路があるが南北には一条から九条に、条里制に基づくもので、坊と坪と里と条里制は班田図によって表現される。
平城京の人口は10万人位と予測され、もともと京内に居住し官職を持っている上級官人、地方から赴任してくる官人、京外に住み生活必需品の供給する人、人口十万人の首都平城京は当時としては大変な賑わいであったろう。
◆和同開珎*日本最古の銭貨。本朝十二銭の最初の銭貨。銀銭と銅銭がある。和銅元年(708)発行の。銭文「和銅」には年号、調和を表わす吉祥句(きちじょうく)の両方の意味が含まれている。律令国家が重点をおいた銅銭で、高い法定価値を付与して支払に用い、銭貨発行の収入を得た。
銀銭は、和同開珎の発行以前に存在をしていた地金(じかね)の銀の貨幣機能を銅銭に受け継がせようとするための媒介物として発行された。
このため銅銭が流通する存在意義は減少し、銀銭禁止令が出された。現在にある記念硬貨的色彩と銭貨発行による収入源も見込めたが貨幣としての流通は程遠いものがある。

※この頃の藤原京から平城京への人物上の大きな動きと詳細な記述はなく、二官八省など律令国家ついて述べられている。皇位継承に首皇子への引き継ぎに元明・元正女帝思いが遷都と「和同開珎」の発行で機運を高めるための意図が窺える。



歴史は語る⑲文武即位と藤原不比等の台頭

2014-09-15 17:35:33 | 例会・催事のお知らせ
十九、文武即位と藤原不比等の台頭
中継ぎの持統天皇は子の草壁皇子と妹元明との間に生れた孫の皇太子軽皇子に譲位をするために、草壁の遺児の、軽皇子の即位の年齢まで待たなければならなかった。
軽皇子(かるみこ)十五歳に達するのを待って万を期しての譲位であった。文武天皇として即位後も、五十三歳の持統老女帝と孫の文武の二人三脚の治世であった。
この頃太政大臣であった高市皇子は前年に死去し、右大臣に多治比(たじひ)嶋(しま)に加え、大神高市麻呂が任じられ、文武の配偶者に、藤原不比等の娘宮子が夫人になった。
藤原不比等は表面的には出ないが、裏方で代々引き継がれた皇室の特別な存在として支えた。持統系の後継を引き継ぐためには重臣の協力なければ治世は難しく、父の鎌足同様裏方で支え続けた。
ただ不比等には文武の夫人に宮子を嫁がせることによって皇族の外戚となる事が出来るのは、蘇我一族と同じであった。
やがて藤原一族の朝廷中枢支配の足掛かり人っていくのである。鎌足の死から持統朝の三十一歳で官職に着くまでの履歴は明確でなく、鎌足の二男で長男の定恵は僧侶の道に入って、あの道照と同じ道を歩んだが若くして亡くなった。
父鎌足が死去した時には十一歳の少年であった。
大宝二年(702)持統太上天皇は死去した、天武没後から十六年間政務を執り、律令国家建設に尽力を尽くした。
持統の没後を支えたのは、草壁の兄弟の刑部(あやべ)親王(しんのう)が知太政官事に任じられた。右大臣に阿倍御主人(69歳)、大納言に石上麻呂(64歳)藤原不比等(46歳)紀麻呂(45歳)の三人。その後刑部親王が死去、阿倍御主人が死去し、知太政官事に天武の子、穂積(ほずみ)親王(しんのう)が任じられた。
その内、粟田真人が帰国、唐国の長安から持ち帰った長安の都城の情報に藤原京も参考にされた事だろう。
しかし文武天皇は病弱で707年二十五歳の若さで死去した。
この時には文武の子、首皇子は八歳、健在の舎人親王(とねりしんのう)、新田部(にいたべ)親王(しんのう)ら天武の皇子たちをさしおいて即位できる年齢ではなかったが、中継ぎの天皇として、その母阿閇皇女であった。
天智天皇を父として、草壁皇子の妃として、氷高内親王(元正天皇)、吉備内親王(長屋王の妃)、軽皇子(文武天皇)を生んだ。
阿閇皇女が即位して元明天皇となった。元明が即位をした正統性は、草壁皇子の皇子文武への継承であり、持統太上天皇と治めてきた。
文武天皇は自分が病気の身、治療に専念するためにあなたが天下を治めてくださいと譲られた。だが私はその器でないと断ったが、文武が死の際に譲位の意思を表明したので「命に承ます」と答えて皇位を継いだ説明がなされた。
元明天皇の即位後、孫で幼少の首皇子(聖武天皇)までの中継ぎとして祖母元明は即位をした。

★元明天皇(661~721)中継ぎの女性天皇。在位八年間、阿閇(あへい)。持統とは異母妹で草壁皇子の妃、元正天皇・文武天皇・井上内親王の母、慶雲三年(706)病身の文武天皇から即位を要請されたが辞退した。
翌年に文武天皇が病死し遺(い)詔(しょう)により即位をした。これは直系の男子の首(おびと)皇子は幼少にある為で、先帝皇后の即位は異例としての即位と思われている。
在位中は藤原不比等らの政権を中心に平城京遷都など重要な懸案を相次いで行って言った。
八年後の首皇子(聖武天皇)を皇太子としたがまだ幼少の為に霊亀元年(715)に元正天皇に譲位した。その後も太上(だじょう)天皇(てんのう)として実権を把握していた。
★藤原不比等(659~720)奈良時代の官人、鎌足の二子。母は車持君国子の女、兄定恵は出家ご夭折しており、鎌足が賜った藤原姓をただ一人の男子が継承した。
長女宮子を文武天皇の夫人として送り込み、その生まれた皇子に首皇子(聖武天皇)には三女の安宿媛を妃として皇室に深く結びつけた。
中納言から大納言に、そして右大臣に上り詰めた。藤原京の遷都事業は不比等中心に進められたと思われる。遷都と同時に山(やま)階寺(しなじ)(厩坂寺(うまやさかてら))を平城京に移し興福寺の建立を進めたが生前に間に合わなかった。
★粟田(あわた)真人(まひと)(?~719)7世紀から8世紀にかけての官僚。天武朝に小錦下を授けられ、朝臣姓となって筑紫大宰として隼人・174人に衣装を与えた。文武三年(699)に藤原不比等と共に禄を受けた。
その後、遣唐執(けんとうとしつ)節使(せつつか)となって、大宝律令を持って唐に出発、翌年唐に着き則天武后(そくてんぶこう)に謁見した。唐で評価は「好く経史を読み、属文をを解し、容止(ようし)温雅(おんが)」と評された。帰朝し中納言。大宰師、を歴任し正三位を与えられた。

※この時代に活躍した人物に、粟田真人は見逃せない。持統太上天皇が崩御した時には入唐し輝かしい成果を上げ、倭国にその情報をもたらした官人である。また大宝律令の編纂にも加わり大役を果たした。
粟田真人が唐国で見て学んだものの中に長安城は東西九・七キロメートル南北八・六キロメートルとやや長方形の形をして、東西十四条、南北十一条の中に東西二・八キロ、南北一・八キロの宮城がある。人口は約百万人巨大都城である。
因みに平城京が五万人から十万人もないかもしれないがその規模が窺い知れる。このような大規模の都城を見て粟田真人はどう思っただろうか、また建造物はレンガ造りで、日本の様な風土とは全く違った所で律令令が布かれていた。
粟田真人はこの広大な宮殿で臆することなく、則天武后に謁見をしている。
記述は藤原京に付いては詳細な事柄は残されておらず、平城京への思惑の方が優先されているようである。


歴史は語る⑱持統天皇と藤原京

2014-09-14 08:09:34 | 例会・催事のお知らせ
十八、持統天皇と藤原京

天武天皇の皇位継承については、波瀾が有った。年齢的に長子の壬申の乱でも活躍した高市皇子(長王の父)は血筋で母親が北九州の豪族で胸形君徳善の娘の尼子娘であったので皇位継承は無理であった。
これは壬申の乱で悲運の大友皇子もそうであったように、母方の血脈がもの言う。次に最も有力な草壁皇子と大津皇子の二人は一つ違いで大津皇子が上で、母方が姉妹であった。
皇位継承の筆頭の二人には鸕(うの)野(の)賛(さら)良(ら)皇女(こうじょ)(持統)の皇子は草壁皇子で影が薄く、評判も芳しくなく体も脆弱であったらしい。
それに対して一歳年下の大津皇子は文武両道に長けていて、資質も文句なし評され、天武帝生存中は両者同対等な立場で登場するが、天武帝の没後から大津皇子の身辺が急変する。
天智帝の殯宮(もがりのみや)葬儀が執り行われている最中、大津皇子の謀反が発覚する。四日間取り調べの後に、捕えられて自邸で死を賜った。
この事件で連座して三十人が逮捕されたが結局、大津皇子に謀反を進めた新羅からの渡来僧行心が謀反を進めたと言う配流されたが、これは明らかに冤罪で持統らの仕組んだ策略と思われる。
こう言った王族内の粛清に似た、抹殺を危惧して天武帝が吉野の会盟が死後何の意味も持たないことと、天武帝の予測が的中した形だった。
持統天皇の在位中に夫天武帝がかねがね意としてた、「飛鳥浄御原令」を編纂するに至り、二十二巻、作成には難航を極め、中国唐律に大きく依存し影響されたものになった。
主として中央集権の構築するために、八色の姓等など豪族統制策が盛り込まれた。
次に「庚寅年籍」戸籍について。次に課役について「賦役令(ふえきれい)」「調・田令・課戸・計帳」「」などが大宝律令まで効力を発した。

★持統天皇(645~702)称制四年、在位十二年長きに渡り天皇不在の中継ぎの女帝、父は天智天皇、母は蘇我石川麻呂の女遠智娘。天武天皇の皇后なり草壁皇子を生んだ。壬申の乱後夫大海人皇子と行動を共に支え続けた。
★草壁皇子(662~689)天武天皇の第一皇子、大津皇子と同様に筑紫に娜(な)の大津で誕生、母は鸕野皇女、吉野で盟約を行い、翌々年に立太子した。天武が病の中、皇后と共に天下事を委ねられたが即位しないままに没した。
★大津皇子(663~686)天武天皇の皇子、母は天智天皇の皇女で大田皇女。大津皇子は百済救援戦争に筑紫に向かう途中に誕生した。壬申の乱の時も最後まで祖父の天地天皇ところに留まっていた。これは天智帝が有能な後継者として期待してた結果だろうと思われている。

※七年前のことで、天武と持統は天武の皇子四人と天智系の御子二人を集め、互いに裏切ることなく千年の誓いを地祇天神に盟約をした。持統の目した寵愛の皇子は皇位を継ぐことなく、若くして亡くなった。
こうして次期皇位継承者の出現までの中継ぎとして、持統即位し藤原京に着手、これは亡き夫の天武帝の願いでもあった。
最近の発掘で藤原京の造営計画は天武帝の病気祈願の頃から定めら、我が国初の本格的都城の藤原京が造営されることになった。
勿論都城は中国の都城に刺激されてのことだったろう。この藤原京造営と天武帝没後の四年後に正式皇位を継承、即位をしたのが六九〇年で二年後に地鎮祭が執り行われた。
大藤原京の規模は諸説があって、東西五・二キロメートル、南北五・二キロメートと考えており、南北十条、東西十坊と想定され、その中央に藤原京が周囲一キロメートルと思われている。
現在地としては奈良県橿原市(かしはらし)付近で北に耳成山、西に畝傍山(うねびさん)、南東に香久山の大和三山に囲まれていて、藤原京の周囲には掘立柱を塀の大垣で囲まれている。
外堀(外濠)の幅五メートル、東西南北面に三カ所の門が開き、中央に朝堂院と正殿として大極殿のある堂々たる藤原京であった。


歴史は語る⑯天武天皇の天皇像

2014-09-12 05:23:23 | 例会・催事のお知らせ
十七、天武帝の天皇像

天武天皇(大海人皇子)は兄天智天皇(中大兄皇子)と共に乙巳の変より一心同体、兄、弟は結束して難局を乗り越えて、飛鳥時代の一大功労者である。
六七二年(天武元年)九月十二日、壬申の乱に勝利した大海人皇子は。飛鳥古都に凱旋をした。岡本宮の横に宮室を建て、大海人皇子は此処に即位をする。
武力による王権の奪還の成功はわが国始めてである。「壬申の乱」の後に論功行賞が行われ、乱後の皇族の団結と秩序を回復するために「吉野の会盟」が吉野宮行幸の際行なわれた。
この吉野の会盟こそ天武系の争いを絶つための天武の固い思いがあった。
天皇は皇后及び草壁(くさかべ)皇子(みこ)・大津(おおつ)皇子(おうじ)・高市(たかいち)皇子(みこ)・河嶋(かわしま)皇子(みこ)・忍壁(おしかべ)皇子(みこ)・芝基(しき)皇子(みこ)を召して「自分はお前たちと共に朝廷を盟約し、千年の後まで継承の争いの無いように図りたい」と問われ、それに答えて「我ら兄弟(きょうだい)長幼(ちょうよう)合わせ十余人は同母であろうとなかろうと天皇の言葉に従って争い事は致すまい」と誓われたと言う。
蘇我氏の台頭で仏教の導入で進められた反面、王権を危うくする蘇我氏を「乙巳の変」で王権の確立に、今度は王権内の粛清後、日本は半島や唐との関係を半島三国と倭国,唐国の派遣を巡る戦いの中でも、大化の改新を進めて来て、新しい国家体制を築こうとし、また唐に見習い都作りにも本格的王都を造りに取り組み始めた途端に、孝徳から斉明に重祚された。
「行きつ戻りつ」の倭国の変化であった。この波瀾の政変と外交を目の当たりに見ていた天武帝は冷静沈着に国家形成に律令体制への指針を示した。
まず国体と成す律令国家への施策として、諸国に配置していた官人の起用を畿内出身者の創出など、官人制など機内重視、その後冠位などと八姓の姓はそれまであった、
臣・連・君・直・造・史から整理し真人・朝臣・宿祢・忌寸・導師・臣・連に改めたことなど律令国家への施策である。この律令は天皇の権力の地位を高め、中央集権政治を確実化され、それを明確にした点にある。更に飛鳥浄御原令施行までかかったとされる。
天武天皇のもう一つの側面は、敬虔な仏教信望者であった。川原寺の一切経の写経であり、大官大寺、飛鳥寺は共に官寺として栄え、この仏教への理解がその後の平城京の聖武天皇に受け継がれていく。
天武朝のもう一つの貨幣作りで無文銀銭と富本銭で流通したかは疑問である、祭事や儀式に使われたのではと思われるが、銅銭の鋳造技術が有って、また近年鋳造跡が発見された。
天武九年(680)皇后の鸕野賛良皇女が病気の祈願をして薬師寺を建立した。その後、天武は飛鳥浄御原宮で五十六歳で死去した。二日後に、殯宮(もがりみや)が執り行われた。

※飛鳥浄御原令は天皇は律令を制定して方式を改めるように詔を出した。唐の律令を基に作られたと思われる。
律令と言っても今日のような義務と権利でなく、罰則と命令で構成されているが、法として造られた意味は大きい。
天武天皇の功績は国家形成作りで、律令国家の求めるものは、豪族蘇我氏の台頭で王権が脅かされる事態の経緯を一部始終目の当たりにした天武帝の経験に寄るかも知れない。


歴史は語る⑮近江大津宮の滅亡と”壬申の乱”

2014-09-10 18:25:30 | 例会・催事のお知らせ
十六、近江大津宮の滅亡と“壬申(じんしん)の乱(らん)“

近江大津宮に遷都して天智天皇と大海人との関係が微妙(びみょう)にずれが生じ始めた。
「乙巳の変」より時代の変化の節々に、中大兄と大海人は一体になって政局を乗り越え、男子の継嗣に恵まれなかった。
天智天皇の次の皇位は大海人が継ぐ、それは暗黙の了解事項になっていた。
天智紀にも大海人を「大皇弟」と呼ばれている。また天武紀には天智天皇即位時には、大海人は東宮(皇太子の居所と同時に皇太子を指す)に立てられた。
その後の経緯についてはどの参考資料も同じことが記されている。
天智帝には後継の皇子には恵まれず、三人の皇子がいたがどの皇子も母方の身分も血筋も良くはなかったが、中でも伊賀の采女(うねめ)の宅子郎(やかこのいらつめ)女の母とする大友皇子は仁徳に優れ、評判も良く来朝した唐使劉徳高が「この皇子、風(ふう)骨(こつ)(風格(ふうかく)と容貌(ようぼう))世間の人に似ず、実に国の分に非ず」と称賛した。
手元において大友皇子にますます寵愛をされていく中、思ってはならないことが思うのが人情、大友皇子に皇位を継がせたい。そんな欲望が老いて体力、気力の衰えた天智帝によぎった。
669年に苦肉を共にし、補佐をしてきた、側近中の重臣鎌足の病が重くなり、天智自ら足を運び見舞いに行った。更に容態が重くなると大海皇子を派遣し、最高位の大織冠と大臣の位を授けた。更に「藤原」と言う姓を与えた。鎌足はその翌日に亡くなった。
天智十年(669年)には太政大臣を新設して大友皇子をその任に就かせた。同時に左右大臣、御史大夫を任命し、大友皇子を首班とする政権を樹立をした。
大海人皇子はその時点では太子の地位に留まっていたが、微妙な立場に立たされ、大海人皇子の立場が無くなってきた。やがて天智帝の容体が悪くなるにつれ、大海人皇子を蘇我安藤麻呂に呼びに行かせた。
この時使者となった蘇我安藤麻呂は「心してお答えください」と大海人皇子に進言をした位だから、中大兄が今まで皇位継承者を何人罠にはめて粛清したかを熟知しての進言であった。
大海人皇子はその一部始終を目の当たりにしていて、熟慮して天智帝に会った。
大海人皇子が天智帝の枕もとに行くと「後事は全てお前に任せたい」と切り出し大海人の心を探った。
大海人皇子は答えて「私は病を抱えた身です、とても天下を執れることはできません」とそつなく答え、皇位は倭姫さまに譲られて、そのもとに大友皇子に立太子にされて、政務を譲られるがよいともいます、自分は出家して陛下のために仏道に励みます」答えて、出家に許しをもらった大海人皇子はすぐさま、吉野に発った。
人々はその有様を見て「虎に翼を付け野に放つようなもの」と称したと言う。
十二月三日、天智帝は四十六歳の生涯を閉じた。
翌五月に吉野に戻った大海人皇子は舎人が近江方の不穏な動きを伝えてきた。その者が美濃に使いに行った所、朝廷は天智天皇の山陵を造営の為と言って美濃・尾張の人夫を徴用させ、武器を持たせていた。
これは吉野を攻撃するに違いがないと言うのである。近江から飛鳥への要所、要所に斥候(せっこう)を置き、途中の宇治川では守橋を置き、吉野に行く荷物のじゃまだだてをして通さないと言う連絡を受けた。
吉野方しては武器も持たず、座して撃たれるより、決起をすることを思い立った大海人皇子は、三人の美濃出身者の美濃(みの)国(こく)宰(さい)を動かして兵士を徴発し、その兵力を美濃と近江の国境の不破道の側に閉鎖する様に命じた。
この作戦はその後の作戦に優位に動いた。二日後には大海人は大胆な行動に出て、近江朝廷が倭京に留守居司に駅鈴を借りようとして失敗をする。
駅鈴の奪取は失敗は直ぐに近江方に通報される。当時は大海人の家族がまだ近江に半ば人質のような状態で有ったので、大海人は妃の鸕野皇女と王子の草壁(くさかべ)・忍壁(おしかべ)・舎人二十人余りを引き連れて吉野を発って美濃を目指した。当時は高市皇子・大津皇子が近江宮にいたので密使を送り脱出を指示し、一行は菟田を経て伊賀の隠(なばり)に入り、途中で日が暮れたので道脇の家の垣根を壊して日の灯りにして進み続けた。
その時は無防備でもし追手の、近江の兵に見つかれば致命的な状態だった。途中で従者に出会い徒歩から馬に乗り換えて、途中にまた美濃王や漁師に出会い伊賀評の官人ら数百人が大海人に帰順し隊が整い,行軍をし続けた。
夜通しで行軍し積殖(つむえ)(三重県伊賀)辺りで近江から脱出した高市皇子・大津皇子らに合流することが出来、さらに進んで伊勢の鈴鹿に着き、力強い味方の守、宰、介を得た。
ここで五百の兵で近江に通じる道を封鎖させ、三重の評家(こおりけ)に婦女子を家一軒をもやし休息し、その後迹太川畔に着き、伊勢神宮を遥拝した。三重の朝明けに来た時に評三千人を率いて不破の道を封鎖した。その内、東海道・東山道方面に使者を送り更なる動員の要請をした。
尾張からも二万の兵の動員を受けた。一方近江方は動揺が広まり直ぐに騎兵隊を派遣して大海人を討つべし、進言が有ったが大友皇子はこれを退け、みすみすのうちに機会を逃してしまった。
後手、後手に回った大友皇子は、東国・大和・吉備・筑紫へ使者を送り派遣の要請を送った。
東国への使者は不破道で吉野方に捕まって一人だけが逃げられた状態、反対の大海人皇子は日々帰順する兵の数が増え、近江方の徴兵に成功したのは河内地方だけになった。
何より近江人皇子の力良い味方は高市皇子であった。先頭に立って兵を率いて進めて行った。河内で蜂起した近江方は吉野方に変じ、合わせ数万の兵が大津宮を目指した。
一方近江方の防衛戦線も数万の兵で迎え撃ち、瀬田川を挟んで最後の決戦となった。やがて近江方の総崩れが生じ、大友皇子、左右大臣らがばらばらに逃走した。逃げる宛のない大友皇子は、大津の長等で自決をした。

★大友皇子(648~672)伊賀宅子郎女。天智朝の最有力の皇子、天智十年(671)我が国初の太上大臣に任じられ、天智天皇の後近江朝廷の中心になった。
壬申の乱では叔父大海人皇子に敗れ、大津は山前の長(なが)等山(らやま)で自害をした。妃に天武天皇の皇女十市皇女がいる。
◆評家*七世紀の地方行政組織。評(ひょう)とも言う。大宝元年(701)から群制に変わる。
評家は地域の官人の長。

※大津宮で大友皇子が即位をしたかしなかったについて、紆余曲折があって江戸時代から徳川光圀『大日本史』は即位していたが『日本書紀』は大友皇子を倒して即位した天武天皇の正統性を強調するために即位しなかったと記されている。
明治天皇は弘文天皇の贈り名を持って歴代天皇に数えられている。
この壬申の乱の筋書きの編纂(へんさん)は天武系の人々が携わった以上、天武系の利する展開となっていることは間違いが無く、吉野から近江への行軍の様子が事細やかに書かれていることを見ても明白である。
あくまでも天武天皇の方から見た壬申の乱の記述であることに注意を払わなければならない。それを差し引いても、近江方の緩慢な対応が吉野方に有利に動いたことは間違いがない。
何よりこの物語は天武天皇の正統性を強調するもので、近江方の対応のまずさと、重臣の支持もない事の例を出してみても理解が出来る。
何より老練な大海人の判断と経験がものを言い、日頃の豪族、氏族らと馴染みが、軍勢に加わった評、宰(役人)の多さが要因になった。
近江方の失敗の要因は若さゆえの経験不足、人臣の把握に欠け、文人であっても武人でなかった弱さであった。


歴史は語る⑭近江遷都と天智天皇

2014-09-09 06:09:50 | 例会・催事のお知らせ

十四、近江(おうみ)遷都(せんと)と天智(てんち)天皇(てんのう)

中大兄にとって白村江の戦で倭国は危機的な状況に追い込まれた。国内的な動揺と不安定さで内紛が起こりかねないことと、唐からの反撃が倭国本土に及ぶ危機感からか、この後中大兄は遷都を決意したのではないか。
白(はく)村江(そんこう)からの撤退後、国土防衛に強化を図らなければならなかった。まず対馬・壱岐・筑紫などの防人に飛ぶ火、烽火(のろし)台(だい)などを設置である。筑紫の水城を築いたと記され『日本書紀』には大堤を築いて水を貯めた水城を造った。
また敗戦処理として百済からの亡命者を大宰府の南北に一カ所ずつ、長門にも築かせた。
防衛の策として海に慣れた戦いには西日本の兵を起用し、勇猛であるが海に慣れない東日本の兵は内陸部に護らせて、半島攻撃ものこのような策を良い防人制に要所、要所に配備された。
この頃の中大兄は天皇に即位はしておらず、女性関係も複雑であった。中大兄には直ぐに結婚できない事情は、同母妹との仲があって、皇位を継承できるものは大海人以外にはいない状態、大海人には特別に気を使っていたようで、自分の長女の大田皇女を与え、鸕(うの)野(の)皇女も与えた。
年の差は13,4歳のあろう。もちろん先々の布石の政略結婚である。
またもう一つの女性関係で万葉集でも恋の取りざたされた、額田(ぬかた)女王(じょおう)の関係である。額田女王は屈指の歌人でその出生に着いては詳しく分っていない。
その気品のある作風から、皇族に生れた、父親の鏡王とされる出自についても分らない。ただ当初大海人皇子の妃となって十市皇女を生んで、その後に天智天皇に召され、妃になったと言うことで微妙な三角関係と思われている。
この頃には歌が詠まれ当時の人間模様が推測され、貴重な歴史参考記述となっている。
天智六年(667年)中大兄は王都を近江大津宮に遷都した。遷都と同時に中大兄は即位をした。
大和から外に出るには伝説時代とは違って、歴史的にも例外的で既存の大和の豪族や氏族にとって強い抵抗があったのであろうと思われる。
『日本書紀』には遷都の時の様子を「天下の百姓、都遷すこと願わずして、風刺するもの多く、童歌も風刺する者の多し日々毎夜、失火の処多し」と庶民から恐らく臣下まで不満があって不穏な空気が漂っていたのだろう。
また無理をしてまで中大兄は遷都しければならなかったのか、唐の倭国への攻撃を予測し警戒からで、防衛線の強化も余念がなかった。
近江遷都後に翌年中大兄は七年間の称制から即位をする。天智天皇の出現である。
この頃、唐と新羅は和睦を結び親密になって行き、倭国が近江遷都の翌年には高句麗は滅亡し、新羅が勢力を伸ばし、やがて唐国と対立化して行き、俄に新羅が日本に使節を頻繁に派遣されてくる半島情勢であった。
遷都してその冬、鎌足の病状が悪化、天智天皇は親しく見舞われた。
しかし衰弱ははなはだしく、天皇は死に際に際し、何か望む物はあるかと、問われたが、何もなく死にあたって御厄介をかけるので簡素な葬儀をして欲しいと言い残して死去した。
天皇は大臣の称号と藤原姓を下賜された。
その年の暮れには高安城の造営に畿内の田税をそこに集めた。

※中大兄皇子は国情で遷都を余儀なくされたが、孝徳天皇は大和飛鳥から難波宮に遷都へ、結果的に人臣の心は離れ大和の帰ってしまった。
また壬申の乱では大和の豪族が大海人に共感を覚えて、近江を見限った。古代には「大和は国のまほろば」の故郷的郷愁があってなかなか遷都は難しいのではないか、飛鳥から藤原京・藤原京から平城京へと、徐々に都の移動は懸命だったかもしれない。
また中大兄の即位は実妹の入間皇女が亡くなってからのことで、即位せず長き称制の原因は国内的事情もあるが、禁断の入間皇女の関係が無くなって皇位に就くことが出来たと言われている。
近江大津宮に七年間都が置かれた。記述には近江大津宮の有り様を詳しくは伝え残してはいない。
近年、近江大津宮の所在地に徐々に解明されつつあるが、壬申の乱で悉く焼失し灰塵(かいじん)と化したのだろうか。


歴史は語る⑭白村江の戦い

2014-09-07 06:33:54 | 例会・催事のお知らせ

十四、白(はく)村江(そんこう)の戦い

斉明帝の政策は国内の征服に、海外にまで展開し、皇(こう)極(ぎょく)天皇時代の高句(こうく)麗(り)攻略失敗にし、一方新羅は百済攻略の手詰まりに唐の連携を深めて、接近策を取って唐の年号を使用し、唐の着服をして筑紫に来航すると、倭国の心証を悪くし、新羅を討つべし、強硬論まで飛び出した。
こう言った倭国を取り巻く外交は「遠交近攻(えんこうきんこう)」状態であった。唐は高麗と敵対し、攻め倦んでいた。新羅は百済を攻め倭国に救援を求めて来て、倭国は新羅とは険悪な状態で唐服を着て筑紫に来て発覚したわけである。
近い国と戦い、その向こうの国と親交を結ぶ、敵の敵は味方なのだ。こう言った状態は今日の国際情勢に似ていることは、時代が変わっても国交は利害関係で絵に書いたような融和関係が生まれにくいのである。
新羅は唐の高宗(こうそう)に救援を求め、水陸10万の兵を持って百済に進撃を開始した。斉明四年(660年)百済はついに消滅した直後に倭国に使者を送り多数の君臣が捕えられ捕虜になり、残された重臣等は必死に抵抗を続けていた。倭国に援軍を求めて百済の復興をしょうとしていた。
倭国は直ちに援軍の派遣を承諾した。無謀な承諾であった。新羅ならいざ知らず、唐国まで敵に回す国力はない。この時斉明は六十歳になっていた。
斉明天皇は筑紫に拠点を置くことを決意、自ら難波に向かって武器を整えた。翌年老女帝は、正月に中大兄皇太子、大海人皇子と妃の大田皇女・鸕(うの)野(の)皇女の姉妹らを伴って難波を出発した
瀬戸内海を一路西に向かった。途中大伯海(岡山県東の海)まで来た時位に、大田皇女が出産をした、名前を大伯皇女と名付けられ、妻子同伴の従軍は、伊予国の熱田津(にきたづ愛媛県松山市)に寄港に石湯(道後温泉)に行宮(仮宮)出産直後の大田皇女を考えても当然の話、しばらく滞在旅の疲れを温泉の湯で癒したのか、筑紫の博多に三月二十五日に到着をした。
約四カ月の長旅は老女帝の斉明天皇には疲労が目に浮かぶようだ。奥まった朝倉の地に朝倉橘広庭宮が完成したが、不吉なことが連続して起った。宮殿が倒壊し、身の回りの者が病気にかかり死ぬ者が多く出て、神社の木を切った祟りとか疑心(ぎしん)暗鬼(あんき)に陥った。
七月にはとうとう斉明天皇は客死、崩御をした。まるで強権神功皇后の新羅征伐に酷似(こくじ)した、女帝斉明の新羅征伐の姿が彷彿とさせる。
斉明天皇が崩御したからと言って百済救援を中止をするわけにはゆかない。倭国の威信に関わる事で、士気を失わせれば、勝てる戦いも敗戦に繋がりかねない。
また斉明帝の老いの一徹が廻りの者にその決意を新たにさせた。
斉明帝の崩御後は、中大兄皇太子は素服(麻製の喪服)のまま称制を行なった。中大兄は直ちに朝倉宮から「水表の軍政」の儀式を行った。
中大兄は女帝の遺志を継いで、安曇比邏夫連(あずみひらふむらじ)・阿倍引田比邏夫臣ら五名を前、後の将軍に任命を志五千の兵を百済に護送させた。
中大兄は百済の援軍の用意を進めて陣頭指揮を執って実行し、十月には、亡き斉明女帝の遺骸を運ぶために海路大和に向かった。翌月飛鳥川の河原で殯を行なわれた。翌年には糸・布・縄など軍需物資を百済復興軍に送った。
一方翌年三月に新たに前・中・後の将軍任命し軍勢を編成し二万七千人の兵力で新羅を討つために増援軍を派遣をした。
しかしこの頃には百済では二人の倭将の豊璋(ほうしょう)と福信が意見の違いで対立し、豊璋が福信を殺してしまった。この分裂を見て唐・新羅軍は一気にたたいてしまおうと水陸から周留城に攻撃をかけた。そして唐の水軍が白江と白村江に陣取っていた。
蘆原君(静岡清水市の国造)に率いる倭の水軍が遭遇した。蘆原君の部隊は周留城が包囲されたので急遽その支援に向かった。この日は倭軍は唐軍の水軍に挑んだが、その堅い守りを破ることが出来ず、退却を余儀なくされた。
翌日再び戦火を交えるが、唐軍の統制の執れた軍船の挟み撃ちにあい、倭軍は大混乱に陥り大敗をした。多くの倭兵は白江に飛び込んで溺死をした。
この時の記述として『旧唐書』「倭の舟四百艘は炎を上げ、火炎は天まで立ち上り、海水まで赤く染まった」と書かれている。
★鬼室(きしつ)福(ふく)信(しん)*(?~663)再興の英雄。百済第30代の武王の甥、660年、百済滅後、遺民と共に百済再興に兵をあげたが民は佐平福信と尊んだ。百済軍は優勢であったが、日本の救援を求め、父、義慈王により人質に送られていた。余豊璋王子を百済王に迎えることを申し出た。
日本は豊璋と援軍とともに送った。ところが豊璋は形だけの王の地位に耐えられず、福信を殺した。新羅は百済に攻め込んだ。唐軍は白村江で日本軍を破り王城は落ちた。福信の死後3カ月後のことだった。

※倭軍はこのような大敗をしたかは、唐軍の百戦錬磨の水軍と陸軍も要因があるが、倭軍は遠く海路を経て兵も静岡など遠方の兵を徴兵し、対馬海峡を渡り疲弊し切っていたのではないだろうか。
それに百済の仲間割れに、倭軍の二派に別れての援軍、地理不案内に敵の作戦の術中に嵌ってしまった感じである。
それに大国唐国の国力の差は歴然としていた。倭国は百済支援の前には阿倍比羅夫の北方遠征に蝦夷から北海道まで勢力を伸ばして実績を上げて、唐に派遣をして、その倭国の属国支配を誇示してきたばかり、百済の勢力下に新羅と凌ぎを削り、唐国と交戦はその時の国際状況が図り切れない部分もある。
それにしても島国の倭軍は小国でありながら、高句麗・新羅・百済の三つ巴に巻き込まれた観があった。斉明帝の百済援軍は朝貢などの親交があっての大義名分が無理承知の援軍ではなかったろうか。





歴史は語る⑫阿倍比羅夫の東北遠征

2014-09-06 08:48:44 | 例会・催事のお知らせ
十三、阿倍比羅夫(あべのひらふ)の東北遠征

飛鳥に都を移して間もない頃、日本海への阿倍比羅夫の大規模な北方の遠征が挙行され、『書紀』に何篇かに渡って記事から、記述に多少の混乱があるようだ。
斉明四年(658)斉明天皇の命を受けた阿倍比羅夫は北伐に向かった。四月に阿倍比羅夫は軍船百八十艇を率いて、すでに服従していた津軽の蝦夷を水先案内にして齶田(秋田)に来航した。鰐田・渟代(能代)の蝦夷は比羅夫軍の軍勢を見て降伏をした。
その行程は越国守阿倍比羅夫が北陸地方の豪族であったので、地域に詳しく関係の深い氏族であった。日本海は、冬は荒れるが春から夏へは波も穏やかで、能登半島の七尾・伏木辺りで集合し、態勢を整えて渟足・磐舟港を前線基地として準備万端をして進軍、征伐隊は順調に顎(あご)田(た)・渟代を押さえた。
組織と戦力に勝る比羅夫軍に蝦夷は何の戦いも組織の無いまま降伏しこれを比羅夫軍は許した。蝦夷は鰐田の浦の神に懸けて朝廷に従うことを誓った。
比羅夫は蝦夷の首領に位を授け、渟代(めしろ)・津軽の二部を郡領に任命をした。最後に有馬浜(津軽半島)に渡り嶋(北海道)の蝦夷を招き、大いに饗応して帰還した。
翌年の三月に、比羅夫は二回目の遠征に出発した。飽田(あきた)・渟代の津軽の蝦夷を三五〇人余りと、胆振鉏(北海道南部)の蝦夷二十人を一カ所に集め大いに饗応して禄を授けた。この年の遠征は北海道まで及んだと思われる。
さらに翌年の斉明六年(660)の三月の三回目の遠征には、粛(しゅく)慎(しん)(あしはぜ)と言う未知の民族と遭遇する。
比羅夫は陸奥の蝦夷を水先案内人と大河(石狩川)の河口付近に着くと、渡嶋の蝦夷千人余りが対岸に集まって仮住まいをしていた。
二人の蝦夷が大声で、川向うから「粛慎の軍船が多数襲ってきて我々を殺そうとしております、朝廷に仕えます、助けてください」と言って助けを求めてきた。
そこで比羅夫は粛慎人と接触を試みるが失敗に終わり、ついに戦闘となった。比羅夫軍に加わった能登臣馬身龍という能登地方の豪族が戦死する。
結局粛慎は破れて自ら妻子を殺したと言う。五月には粛慎人四十七名が来朝し、飛鳥石の都にある須弥山像の下に服従の儀礼を行なった。凱旋をした比羅夫はヒグマの生け捕り二頭とヒグマの毛皮七〇枚を献上した。以上が阿倍比羅夫の北方の遠征の概略である。

また斉明朝時代には活発に外交が展開されて様で、国内的に比羅夫の北方遠征に新羅・百済に使者や唐まで蝦夷らを連れて行き、倭国の属国があって支配地を広く大きく見せたい虚勢が窺い知れる。

★阿倍比羅夫(生没不詳)七世紀の有力豪族、比羅夫の名は貝の名前。比羅夫の阿倍は氏の中でも大和国は磯上(いそがみ)郡辟(ぐんへき)田(た)郷を本拠とする家系の出身であったことを示す。七世紀後半は引田氏が阿倍氏の主流を占め、阿倍氏の主流は後の布勢氏に移って行った。
斉明四年(658)の東北遠征には輝かしい功績を残し、その結果大和朝廷は未知の世界を知ることが出来、一歩東北に勢力を広げた間があるが、その後の東北政策は苦難を極め、平安京に入って坂上田村麻呂の蝦夷征伐まで待たなければならなかった。
◆蝦夷(えみし)*古代の新潟県の北部から東北地方・北海道にかけ居住した先住民族の総称、中国では古代から漢民族が自らの国家・文化が優れたものとものとして世界の中心の中華思想があって、それに影響されて日本の大和朝廷は国家に組み込まれていない東北、北海道・新潟地方の民を夷狄(いてき)(野蛮な異民族)の一つを蝦夷として設定をした。
帝国型国家は地域・人民を天皇支配の内か外かに区別することで化内・化外(けがい)(王家の及ばない所)に分けて夷狄と諸蕃共に化外の属すると考えた。
◆粛(あし)慎(しんはせ)*粛慎(しゅくしん)は中国の古典に見る春秋戦国以前の東北の伝説的民族であるが、実体は「ポルッツエ文化」を担ったバレオ・アジアート系の種族と考えられ、分布範囲は中国東北部からロシア沿海途方に及ぶ。その末裔は粛慎として中国や高句麗と通交した。日本の蝦夷と違う民族集団とみられる。
この間に659年の遣唐使に北海道の蝦夷の男女を同行し皇帝高宗に謁見をさせている。この事は倭国もこのように服従する国々があると言う、アピールであった。興味を持った高宗は蝦夷に何種類の種族があるかと問うたと言う。
遠いものから「都加留・麁蝦夷・塾蝦夷の三種」と答えた。また五穀はあるか?
「ございません、獣を食べて暮らしております」また蝦夷を見た高宗は蝦夷の顔、体つきに興味深く思ったと述べている記述が『新唐書』『通典』に記録が留められていると言うことは、実際に斉明朝の次期に北海度の奥深くまで達していて、日本の記録は間違いがなかったと言えよう。

※粛慎人を見てさぞかし飛鳥人は驚き、ヒグマを見て尚驚いたであろう。
三年連続で蝦夷や粛慎と称される種族を遭遇し交流などを出来たのは、季節的に条件が良かったのと、海沿いを添って北上したことが成功の要因に思える。
飛鳥時代は東北は未知の世界、大和朝廷の支配の及ばない所、勢力圏を拡大したい思惑で阿倍比羅夫は派遣された。行く先々で出遭った未知の先住民と交渉を重ねながら大きな功績を残した。
しかも遣唐使は大国中国に見栄を張って誇らしげに従属民族を示した。歴史は日本一国だけに留まらず中国も絡んで交渉と国交を結んで行ったものである。


歴史は語る⑫女帝斉明の重祚

2014-09-05 05:15:54 | 例会・催事のお知らせ
十二、女帝斉明の重祚
大化の改新後、難波宮の見切りをつけ皇族の主だった者、官人までも飛鳥に引き上げ、孝徳天皇は病死後に、飛鳥に戻った皇極や中大兄は飛鳥板(あすかいた)蓋宮(ぶきのみや)に戻り、そこで再び重祚(ちょうそ)(二度即位する)し即位をした。
名を斉明と替え斉明天皇とした。前回の皇極天皇の時と違って、蘇我の抑圧も気を使うこともない。その後、後世にもその足跡に見るような祭事付きや「石と水の都」と言われる都作りに精力を尽くしたようで、まず後飛鳥岡本宮を造営した。飛鳥は「石と水の都」と言われる様に今も造営物が残されている。
飛鳥に戻って最初の板(いた)蓋宮(ふたみや)が焼失し、岡本宮に宮地を定めたが、その後田身嶺(多武(とうの)峰(みね))の両槻宮、吉野宮の両宮の造営を行った。「興事(きょうじ)」好きは『書紀』にも記されていて、香山(香久山)と石上山の間に渠(運河)を掘り、直線距離20キロはあり、舟200隻で石上から石を運んで宮の山に積んで行った。この運河を「狂心の渠」(たぶれこころ)と呼び石の山丘を作っても作る先から崩れ、有馬皇子が赤兄の口車に乗せられた謀反の話の時に同じことが語られ、そこから見ても狂気じみているように思える興事好きであることを窺い知れる。
この石の丘を造るのに延べ7万人もの人が従事したと言われている。飛鳥寺の北西から石神(いしかみ)遺跡(いせき)から石人像や須弥山石(仏教の世界)が、亀石(かめいし)、酒(さか)船(ふな)石(いし)遺跡(いせき)は謎の石造物・酒船石がある丘陵は『日本書紀』にある両槻宮ではないかと思われている。
亀型、弥勒石など飛鳥に点在し何のために造られたかはいまだに解明されていない。その中に祭事用に、儀式用に作られたと考えられるものも多く、斉明帝は国内外から都に上がってくる使者に謁見をしたであろう。祈祷師(きとうし)や雨乞いの儀式や禊を執り行い、祈願の聖域をかもし出した場所などあらゆる国家祭事が考えられる。
筆者も車で、サイクル自転車の貸し出しを受けて息を切らして廻ったものである。
◆石神遺跡*七世紀から八世紀前半にかけて宮室関連遺跡。奈良県高市郡明日香村飛鳥石神にあって、明治時代に掘り出され、昭和初期の発掘調査で石組溝や石敷きが発見された。
近年調査の結果建造物や塀や石組池、石組溝、石敷き等多数の検出し、斉明朝から天武朝まで五期に渡って作られたことを確認された。
◆両槻宮*斉明天皇が田身嶺に築いた離宮「二月宮」とも記す。調査で酒船石に据わる丘の標高130メートの石垣を廻る、その西正面の四段の石段は天武帝時代に崩落した。

※こう言った飛鳥時代で重祚をした女帝斉明は乙巳の変から大化の改新、難波遷都と時代の変化で、その存在に発言はなく、飛鳥に戻って以後、石の都作りに、その後に展開する蝦夷征伐、新羅への遠征と活発な生き方をしていく斉明女帝は飛鳥時代に時事辺々を積極的に生きた天皇と言えよう。
こう言った斉明天皇の石と水の都の造営の影響は何処から受けたのか、百済・新羅との往来は頻繁に行われ。唐の国の情報も伝わっていたのではと思われる。
運河を張り廻らす中国にも無い分けでもないので、その刺激もあったのかも知れない。また中大兄が初めての漏刻が石神遺跡の近くから発見され、「水落遺跡」である。時計と時間が使われることに大きな進化と進歩であると思われる。
また王権の権威を表すための儀式が須弥山の下に行われた形跡があって、”化外の民“蝦夷や隼人などの服属の儀礼などが有ったのではないかと推測される。







歴史は語る⑪古人大兄・有馬皇子の悲劇の冤罪

2014-09-04 05:19:06 | 例会・催事のお知らせ


十一、古人大兄・有馬(ありま)皇子(みこ)の悲劇の冤罪(えんざい)

大化の改新に難波の宮遷都とめまぐるしく変化を続けている最中に皇族内で暗い出来事が起きた。一つは古人大兄皇子が吉備(きび)笠(かさ)臣(おみ)垂(したる)と言う人物が、古人大兄が蘇(そ)我(が)田口(たぐち)臣(うみ)川(かわ)堀(ほり)らと共謀し謀反を企てていると密告が有った。
中大兄は直ぐに兵を向かわせて吉野に居る古人大兄を討たせた。垂はこの時の功績で昇進し。功田を二〇町もらっている。
古人大兄皇子のついては蘇我入鹿が乙巳の変で打たれる前は蘇我系の御子として皇位継承の一人として優位な地位に立っていたが蘇我滅亡後は後ろ盾を失った。
乙巳の変ご皇位の継承の打診をされたが即座に断り髪をおろして吉野に出家をした。すでに身の危険を感じていた古人大兄は陰謀によって消されてしまった。
ここに蘇我系の御子は消滅をした。
次に悲劇の皇子になったのは、有馬皇子で父孝徳天皇、母は阿倍内麻呂の娘の小足媛で舒明十二年(西暦640年)に生まれた。
西暦654年に父孝徳天皇が難波に宮で皇族らが飛鳥に去って失意のうちに崩御した時は、十五歳の年齢で父孝徳の苦悩を間近で見ていたのが有馬皇子であった。
いわば皇位継承の有力な候補だった。と言っても万が一にも有馬の皇子に皇位を廻ってくるわけではない。
しかし僅かな皇位継承者の芽を摘むのが古代の王権の鉄則、これを中大兄は見逃すわけがなく、中大兄には皇位に直ぐに就かれない事情があったとされている。
同母妹の中が憚れ、禁断の恋であった。その間の皇位継承者の存在は許されない事情があった。もし有馬皇子は皇位に就けば亡き父の仇を討つことが出来るが、その前に中大兄が先手を打った。斉明天皇が重祚して斉明三年に有馬皇子は温泉言って元気で帰ってきた。
その後斉明天皇は牟婁温湯に出かけた。
留守官として残っていて蘇我の赤兄が有馬皇子の所に訪ねて来た。赤兄は石川麻呂を讒訴した日向の弟である。日向が九州に赴いたので蘇我家では長老に地位であった。有馬皇子は快く迎えた。赤兄の用件は謀反を進めることにあった。
「天皇は三つに失政が有ります。一つに多くの倉庫を建て財政を圧迫する事。二つに長い溝・側溝を掘って国費を浪費させたこと。三つに船に多くの石を積んで丘とせんこと。」を挙げて民衆の苦労を訴えた。厳しい徴税などを聞き有馬皇子は大いに喜んで、
「この年になって始めて兵をあげることが出来る時が来た」
孤独な皇子は巧みな赤兄の言葉に共感を覚えた。赤兄も自分の身内が冤罪(えんざい)で恨みを並べ立てて、有馬皇子の心を動かしたのだろう
。皇子は一日置いて、五日に赤兄の所に行って謀反の密議に入った。他に塩屋連小丈・守屋(もりや)大石(おおいわ)・坂合部連(さかいべ)薬(くすり)が同席、皇子の計画では、都の皇宮を焼打ちし、次に五百の兵を持って牟婁の津を封鎖して、軍船を持って淡路と牟婁津を遮断し、天皇、皇太子を動かないように綿密に策を立って、仲間の結束の誓いを立て別れた。
皇子が家に帰って夜半、赤兄は宮を造る人夫を集めて、物部朴井連鮪に引き合わせ、有馬皇子の家を包囲し、一方紀伊の牟婁津に使いを送った。
有馬皇子は見事に罠にはまった。捕えられた皇子は密議を交わした者に捕えられて、紀伊の温湯に護送された。紀伊の温湯で審問を受けた。皇子は一抹の望みとして中大兄の温情に期待していたが、太子の容赦のない詰問が待っていた。
「何故謀反を企てたのか」と問いに、
「天と赤兄が知る、吾は全く解らず」と答えた。
それから三日後に有馬皇子は絞首された。

★古人皇子(?~645)舒(じょ)明天皇(めいてんのう)の皇子、母は蘇我馬子の娘の法提郎女(ほうていいらつめ)。吉野太子・古人太子とも言われ、古人皇子の娘倭姫王が天智天皇(中大兄)の皇后に、上宮王家滅亡後古人大兄にされた。
乙巳の変後、皇位継承に打診されて固持した。身の危険を感じ吉野に隠遁生活、しかし吉野に蘇我蘇我田口臣川堀・物部朴(えの)井連(いのむらじ)椎子(しいのみ)・吉備(きび)笠(かさ)臣(うみ)垂(したれ)らが古人が政権に謀反を企てようとしていると、吉備笠臣垂が自首した。このため古人大兄は家族ともども自殺をした。
★有馬皇子(640~658)孝徳天皇の皇子、母は阿倍内麻呂の娘小足媛、名前については、摂津の有馬温泉の因むと言われる一方、和泉国和泉郡の有真香邑(ありまかむら)に由来の可能性がある。
次期天皇候補の為に意図的に除外された観がある。皇極、中大兄の紀伊の温泉に行き留守中に蘇我赤兄に策略にはめられて抹殺されたのが一般の見解である。
一方有馬皇子の被害者の見解に対し準備周到で大規模な挙兵計画に実際に有ったか可否は断定できない。
★蘇(そ)我(が)赤(あか)兄(え)(生没年不詳)馬子の孫、658年皇極天皇と中大兄が紀伊の温泉に行った折に留守官となったが、有馬皇子に謀反を誘発し、策略に載った有馬皇子を捕えて紀伊の温泉に送った。

※こう言った皇族の粛清(しゅくせい)に皇極は黙認し、何等発言はなかったのか不思議さえ覚えるものである。平城京で天武系の皇系が淘汰粛清されて、ついに無くなって天智系の白壁の皇子に戻ったように、中大兄の皇系の粛清は天智帝の近江宮での大友の皇子の皇位を絶たれた結果に導かれていくのであろう。
また重臣の鎌足などの助言が無かったことにも謎が残るものである。


歴史は語る⑩難波宮遷都と孝徳天皇

2014-09-02 05:32:24 | 例会・催事のお知らせ

十、難波宮遷都と孝徳天皇

孝徳天皇(?~654)で皇極天皇の弟で幼名は軽皇子、即位と遷都の時期については詳しく記述に載っていない。大化の改新の後に皇極女帝が譲位を受けて即位をした。皇極天皇と妃の阿倍小足媛の間に悲劇の皇子、有馬の皇子がいる。
大化の改新の末には難波長柄豊碕宮に遷都をしたと言う。遷都については一挙にせず徐々に進めて難波の地域を行宮し転々として白雉元年(650年)荒田井比羅夫を将作大匠の用い翌年長柄豊碕宮(ながえとよさきのみや)とした。
白雉二年には味経宮において、二千七百余人の僧尼が招かれて朝廷にみちあかしが灯された。大化の改新以来六年の月日を費やされて、長柄豊碕宮に移された。
「その宮殿の状、ことごとく論ずべからず」“筆語(ひつご)に言い難い”と称した。
今の上本町の馬場町あたりで、遺跡は前期(ぜんき)難波(なにわ)の宮、聖武天皇の後期(こうき)難波(なにわ)の宮がある。孝徳天皇の難波の宮は上本町は法円坂から馬場町あたり、瓦が使用されておらず、掘立柱の建造物、驚くべきその規模は、中枢部の朝堂院は東西230メートル・南北260メートル・内部に十四堂以上の朝堂、朝堂院(ちょうどういん)と内裏(だいり)南門(なんもん)の朱雀門(すざくもん)は、平城京の物より凌ぐ規模、八角殿院は例を見ない規模だった。
難波の宮は栄えて朝廷には外交、国内の儀式などを執り行い都としての機能風格を備えていた時に、
突如、中大兄が新宮を捨てて飛鳥に帰ると言い始めた。孝徳天皇はこれを許さなかった。
中大兄について飛鳥へは前天皇の他、大海も孝徳天皇の間人皇后まで一緒に引き連れて強引に飛鳥に帰ってしまった。
しかも公卿・大夫・百官まで飛鳥川の畔の川辺の行宮に移ってしまった。孝徳天皇の衝撃は如何ばかりか、妻まで捨てて飛鳥に向かった失望は例えようがなかった。
臣下の大半が難波の宮を去り失意のうちに、翌年孝徳天皇は難波宮で崩御された。
『日本書紀』には皇太子は天皇が病気で亡くなられたことを聞き、皇極上皇、間人皇后、大海皇子、公卿らを率いて難波に赴かれた。殯宮は南庭に建てた。そして磯長(しなが)陵(りょう)に葬られた。
孝徳天皇の死後、翌年に栄華を誇った難波の宮は焼失し孝徳の夢と共に消え去った。

★孝徳天皇(?~645)皇極天皇と同母兄弟の軽皇子、父は敏達天皇の孫の皇子の子、茅渟王。母は欽明天皇の孫の吉備姫王、皇后は中大兄の妹の間人皇女、妃の阿倍(あべ)小足媛(おたらしひめ)の間に有馬皇子を設けている。
◆難波宮*前期難波宮の歴史は皇極四年(645)乙巳の変後即位した孝徳天皇の難波遷都に始まる。白雉元年(650)孝徳天皇は当初難波付近を行宮を転々としたが、荒田比羅夫を将作大匠に用い、翌年に完成し新宮豊碕宮と名付け完成をした。
孝徳が崩御し都が飛鳥に移されてからは難波を副都として「複都制」を採択し、官人に難波に宅地を求めるように指示した。摂津職大夫を置き羅(ら)城(じょう)などお築き副都として維持管理したようである。

※孝徳天皇の飛鳥から大阪上町台地への遷都の動機と理由として、河内王朝の仁徳天皇の高津宮に誘引されたのかも知れない。
大化の改新の推進者の中心人物で、飛鳥から難波宮遷都はある意味では成功したのではないかと思われるが、中大兄との間の軋轢の違いは何だったのか、中大兄は本格的天皇像に懸念があっての次期皇位継承者が中大兄から孝徳天皇の皇子に有馬皇子に移行すると言う懸念の事前払拭とも考えられる。
中大兄の心中は次期王権候補の有馬皇子の芽は早いうちに摘む、それは中大兄の今後の足跡を見て