二十九、道鏡と宇佐(うさ)八幡(はちまん)宣託(せんたく)事件(じけん)
神護景(じんごけい)雲(うん)三年(769)事実上天皇に近い行動をしていた法王道鏡は、後は形式的手順を踏むだけになって行った。
そんな時に大宰府の祭祀を担当する官職にある習宜(すげの)阿曾(あそ)麻呂(まろ)が「道鏡を天皇にしたならば天下泰平になるだろう、と宇佐八幡神が言っている」と道鏡に触込んだ、これ幸いと真に受けた道鏡は、早速称徳に報告した。
これを聞いた称徳は輔(ふじ)治(じ)能(の)清(きよ)麻呂(まろ)(後の和気清麻呂)に「託宣を下したいことがあるから尼の法(ほう)均(きん)(和気清麻呂の姉)を寄こすように、と云う八幡神お告げがあった。」遠路の為に法均に替わって宇佐八幡に赴くように命じた。
所が清麻呂の持ち帰った内容は意に反するもので神は「わが国では国家始まって以来ずっと君臣の秩序が定っている。臣が君になったことは一度もない。
皇位には必ず天皇家の血筋を引く者を立てよ」との託宣し、道鏡排除のための協力を約束したと言う。
当然称徳、道鏡は納得したわけでもなく、道鏡は内心激怒をしただろう。
二人はこの託宣を捏造と決めつけ、清麻呂に因幡(いなば)員外(いんがい)介(すけ)に降格し左遷して大隅に配流、法均は還俗させ別部狭虫として備後に配流したのである。
誰が見ても清麻呂は宇佐八幡の神託をそのまま伝えただけで、誰かが仕組んだ罠にはまっただけに過ぎない。
その後、称徳は反省をしたのか「自分から皇位を願っても、諸聖、天神地祇の御霊が定めたものでなければ、かえって身を滅ぼすと・・・・・」道鏡への戒めの言葉を投げかけたと同時に自分にも戒めているような言い回しである。
称徳は由義宮に行幸し、此処を西京とする。由義宮は弓削行宮した時に整備されたものと思われ、規模は河内国大県・若江・高安三郡にまたがる位の大規模なものと考えられる。
神護景雲四年(770)由義宮に行幸した称徳はにわかに体調を崩した。
平城京に帰ったものの以後政務を見ることはなく、女官の吉備由利だけが病床の称徳のその意思を取り次いでいた。
この時点で道鏡の発言力や権威はなく、一切表に出ることが無い、称徳依存の地位だった。左大臣藤原永手が近衛府、外衛府、左右兵衛府を、又右大臣の吉備真備は、中衛府、左右衛士府の統率を担当し、万が一の体制がとられた。七七〇年八月四日、称徳は平城京の西宮の寝殿で死去した。時に五十三歳であった。
称徳の死を知った重臣たちは前後策を模索した。皇位継承者の人選に入り天武の孫の文室浄三とその弟の文室大市を指す吉備真備と永手、宿麻呂が推す天智の孫の白壁王の三人に絞られ、永手が称徳の遺詔を読み上げ決着した。その後、吉備真備は致仕して新しい時代の到来となった。
その日の内に白壁王は立太子し、称徳の高野山陵に埋葬を済ませた。道鏡は下野薬師寺に左遷、弟の浄人は土佐に配流された。
白壁王は即位し光仁天皇の誕生となった。天武系の長きに渡る政権の移譲は、皇位継承者の失墜に注がれてやがて後継者不足に迫ったことは誠に皮肉なことで、飛鳥浄御原宮から平城京の終焉を持って天智系の孫白壁王に以上されたことも歴史の不変則の摂理を垣間見る思いがする。
また王権に見向きも興味も示さない姿勢と、貫き終始、自ら酒におぼれる道化に扮した白壁王に朝廷の王権が負託されたのである。
◆宇佐八幡宮神託事件*宇佐八幡は伊勢神宮に次ぐ第二の祖廟。日本最初の神仏習合の官寺。祭神は誉田(ほむた)別(わけ)尊(みこと)・比売大神・大帯姫命。縁起によれば欽明朝から大神比義が広幡八幡麻呂の神託によって和銅五年(712)鷹居社を建
立した。『記紀』によれば宇佐国造がいて高魂(たかむすび)命(みこと)を祀っていたが九州で最初に大和朝廷に服属したと言う。
※この時期宇佐八幡者の神託がもたらされたかは定かではないが、朝廷と宇佐の関係は続いていたのか、神功皇后の九州に発した応神天皇の関係から深い結びつきがあったのか、穿った見方すれば朝廷の仕組んだ道鏡落としの罠であったかもしれない。
何れにせよ称徳の失った道鏡は糸を切られた風船の様なもの、下野薬師寺に左遷され同寺で生涯を閉じた。