大阪歴史探訪

フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」の会」もよろしく。

[『歴史憧憬のエッセー』”箸塚古墳と卑弥呼”

2014-05-30 19:40:27 | 歴史エッセイ―
『歴史憧憬のエッセー』(3)“箸塚古墳と卑弥呼”
日本の起源を探る邪馬台国の所在についての論争は江戸時代にさかのぼり、畿内説、九州説に別れ国論を二分してきた。近年、邪馬台国、卑弥呼論争で畿内、九州説と白熱を帯びる中、箸塚古墳と卑弥呼の関連性が邪馬台国の大和説に比重が片寄りつつあるように思われる。
中でも脚光を浴びてきたのが、中でも日本の古墳時代にいち早く形成していった纏向遺跡の古墳群の盟主的古墳の箸塚古墳が邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかと古くから囁かれてきた。放射能炭素測定でも、近年新たに年輪の測定にも魏志倭人伝の時代に合致、符合され、邪馬台国論争に議論が巻き起こっている。宮内庁により陵墓として管理されていて、学者、研究者の立ち入り調査は許されてはいない。陵墓の祭祀は『記紀』によれば崇神天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命である。
その倭迹迹日百襲姫命についての説話に『日本書紀』には「三輪山伝説」がある。倭迹迹日百襲姫命は三輪明神の神、大物主神の妻となったが、夫の昼には会うことが無く、何時も夜間でその訳を問うと、姫の言うのももっともと、明朝には姫の櫛箱の中に入っている、決して見て驚かぬように、約束をして姿を消した。夜が明け、姫が箱を開けて驚いた。一尺位の美しい子蛇が一匹が入っており、姫が驚き泣きわめいたので子蛇は素の麗しい男に戻り「姫は私との約束も守らず恥をかかした」と言って三輪山の方に姿を消した。姫は深く後悔し耐え切れず「ほと」(陰部)を突いて亡くなった。また姫が驚いて箸で「ほと」に突き刺さって死んだ説もある。ともかく大物主神(国津神)の妻で崇神天皇の皇女、説話には卑弥呼にはあまり接点はないが、倭迹迹日百襲姫命の名前に何か秘められた鍵はないだろうかと、推測する次第である。
※邪馬台国論争になると我を失い、自制も効かず、誹謗中傷まで飛び出すのは残念、歴史を楽しむ意味では互いの理解が必要である。

コメント

『歴史エッセイ』”漢委奴国王印”川村一彦

2014-05-28 07:31:49 | 例会・催事のお知らせ
『歴史エッセイ』“漢委奴国王印“(1)
古代世紀の謎の大発見と言われた「漢委奴国王印」は江戸時代天明年間九州は筑前志賀島村東南部で水田の耕作中に百姓秀治・喜平によって偶然に発見された。
金印は奉行から福岡藩にわたり儒学者亀井南冥に『後漢書』にある金印と判定した。なおこの金印の出土について、贋作説や糸島市の
細石神社に有ったものが江戸時代外部に流失説など謎を呼ぶが重要な文化財品であることは当時から議論を呼んでいたのだろう。昭和6年金印が国宝に指定された。金印についての真偽について諸説が噴出し大きさや金のもたらした意味、文字についての解釈、倭国の誰に下賜されたか「委」について議論を呼んだ。未だ明快な結論を得ていない古代のなどの出土品である。※歴史の解明は長い年月と偶然の発見、発掘によってその謎のベールから顔を覗かせるものである。
コメント

『歴史エッセー』”散髪脱刀令”

2014-05-26 20:49:08 | 歴史エッセイ―
『歴史エッセー』「散髪脱刀令」
明治4年(1871)に散髪脱刀令なるものが公布された。こんな当時の流行歌があった。
「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」と言って散髪は文明開花を受け容れようとする者、頑として髷、刀を外す事を拒む者、明治9年(1876)軍人、警察官以外の帯刀を禁じた。また長年日本人に馴染んだ丁髷は切らず、逃げ回って拒否、手本として明治天皇が率先して髷を切った逸話がある位、近代日本への明治維新は髷と帯刀に苦慮したらしい。
コメント

『記紀と魏志倭人の論点』川村一彦

2014-05-26 05:22:06 | 例会・催事のお知らせ
「記紀」と「魏(ぎ)志(し)倭人伝(わじんでん)」の論点
                          川 村 一 彦

日本の最も古い古書、史書である「古事記」と「日本書記」は七世紀後半に天武天皇の命によって編纂され同時に作られほぼ同時に出来上がった。
「日本書記」は日本六国史として対外向けに編纂されたと言う。
国家事業四十年を費やし「帝記」「旧辞」から中国、朝鮮の史書を参考に作られたと言う。全三十巻系図一巻で川島皇子、忍壁皇子ら六人と官人六人で編纂され、のちに舎人親王によって完成させた。
当初日本の国の成り立ちについては、当初「日本書記」のほうが重きに置かれていたが、天皇家の私史として造られた「古事記」が江戸時代辺りから評価されてきた。
その編纂について諸説はあるが「帝記」「旧辞」が基本となって、稗田阿礼が誦習し、その口述を太安万侶(おおのやすまろ)が書き綴ったと言われている。
「日本書紀」と違って音読みを使った日本文で描かれ二十九年間の誦習し四ヶ月の編纂で完成していると伝わる。上巻、中巻、下巻からなり和銅五年(西暦七一二年)献上されたと記されている。

「魏志倭人伝」は「三国志」の中の「魏書」の中に東夷伝(とういでん)の中に倭人、倭に付いて書いてあるものを「魏志倭人伝」呼称しているものである。
全文約二〇〇〇文字からなっていて、著者は西晋の陳寿、西暦280年から297年までの間、呉の滅亡から陳寿の没年までの間、書かれている。
*「魏志倭人伝」において倭国への呼び名は中華思想により、他国の国名、人名は篾字を表記する。

一、「魏志倭人伝」には朝鮮半島の帯方郡から倭国に向かっての、行程と国々三〇カ国と地形、国々の位置と戸数を記されている。
*倭国に至るには帯方(たいほう)郡(ぐん)(韓国)から水行、南へ東へ、七〇〇〇余里で狗邪韓国、更に一〇〇〇余里で対馬国、山険しく400余里四方一〇〇〇余戸、そこから南に一〇〇〇余里渡り一大国三〇〇余里四方で森林が多く三〇〇〇家族、次ぎに海を一〇〇〇余里渡り未廬国、四〇〇〇余戸、海産物多く、皆潜る。それより東南五〇〇里陸行で更に陸行、伊都国に着く、一〇〇〇余戸あり。世、王が居るが女王に属する。更に東南に100里進む、奴国に至る。二万余戸が有る。そこから一〇〇里行くと不弥国に至る。一〇〇〇家族が有り、そこより南へ水行二〇日で投馬国に付く五万戸余り、更に南へ水行一〇日と陸行一月で女王の都、邪馬台国に至る推計七万戸。
その他に斯(し)馬(うま)国(くに)、己百支(おのれひゃくし)国(こく)、伊(い)邪(よこしま)国(くに)、都支(みやこし)国(こく)、彌(いよいよ)奴国、好古都(よしみこと)国(くに)、不呼(ふこ)国(こく)、姐(ねえ)奴国、對蘇(ついよみがえる)国(こく)、蘇(そ)奴国、呼邑(こむら)国(こく)、華奴蘇(けぬよみがえる)奴国、鬼(おに)国(くに)、爲(ため)吾(われ)国(こく)、鬼(おに)奴国、邪(よこしま)馬(うま)国(くに)、躬(み)臣(しん)国(くに)、巴利国、支(し)惟(これ)国(こく)、鳥奴国、奴国。
* 魏国の使者、随行員は何名くらいで、何日間くらい、滞在したか移動だけでも往復半年はかかり、推測として滞在を含めて一年間の倭国親善訪問隊だったか謎は残る。 
* この時代で大和王国に対抗できる国として「出雲国」「吉備国」の記述が「魏志倭人伝に」残っていない。
* 航海術は未発達時代、帆船、手漕ぎ合わせ季節、派遣人の規模は不明であるがそれによって行動範囲が推測される。

二 邪馬台国の所在論。
邪馬台国の所在地については、魏志倭人伝の行程通りに計算すると太平洋の海上になる。
計算方法や案内の作為的行程で「魏志倭人伝」の行程の距離を狂わせたとか諸説があるが、未だ示された行程では「邪馬台国」を特定できていない。
邪馬台国の所在地については古来より論議、推測や憶測を呼び未だに決定的な立証がされていない。
古くは新井白石も本居宣長も和辻哲郎や多くの学者が機内説、九州説に分かれ、侃侃諤々論争を繰り返したが未だその解決、解明を見ない。温厚な学者もこと両学説になると人格を失ってしまう度、日本人を熱く語る歴史課題である。 
畿内説
言葉発音説では新井白石が「古史通或問」などで「邪馬台国」を「大和」と言う発音語源から大和説を比定している。
機内説には琵琶湖畔から大阪府下などあるが、中でも最近の奈良は纏向遺跡を邪馬台国の都として、次の事項が理由により有力とされている。
年輪年代学で最盛期が弥生終末期~古墳時代で邪馬台国時代と合致する。
また纏向遺跡周辺からは各地より持ち込まれたと思われる搬入土器が出土され、瀬戸内海から吉備、北陸、東海までの交流のあとが窺え、政冶文化の中央の体を成していたのではないかと思われる。
吉備、西四国の勢力の技術によって初期の前方後円墳が大和を中心に分布していった。(卑弥呼の墓とされる箸墓古墳)
全国各地に土器が出土し、纏向から諸国に広まる中心的役割を果たした。
三角縁神獣鏡は機内を中心に分布、古墳より発掘された年輪年代で三世紀に築造され時代が合致。
「日本書記」神功紀では、魏志「後漢書」の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けている。中国の史書において「晋書」帝紀では「邪馬台国」を「東倭」と表現して居る。
だが近年有力な北九州説が後退、「邪馬台国」の時期に遺物が多数出て有利だった九州に対して放射能炭素測定と年輪年代で纏向遺跡の「箸塚古墳」が年代的に「邪馬台国」時代と合致して形勢は逆転し、今尚究明されつつある。
九州説
邪馬台国への行程の位置は九州地方の方が機内より合致し易い。
「邪馬台国」と対立した狗奴国(球磨)の勢力を比定すれば、官「狗古知卑狗」が「菊池彦」と音訳と考えらえる。
「魏志倭人伝」の中で「邪馬台国」の埋葬方法が「有棺無槨」を甕棺が北九州地方に多く出土している事。
九州説の中で「倭の五王」の遣使も九州勢力が独自に行なった。機内王権の関与はないとするが、余り説得力が思われる。大和王朝の時代と五王時代の西暦413年から502年の間が短すぎ説明が付かない。
東遷説
「記紀」に出てくる神武東征を史実として九州で成立した王朝(邪馬台国)が神話と通りに神武東征を高千穂、宇佐、岡田(筑紫国)速吸門、多祁理宮、高島宮、浪速から熊野を越えて大和に東遷した説で、戦前白鳥庫吉や和辻哲郎などが主張したが神話を史実として取り上げるに歴史学上忌避された。
しかし戦後東京大学を中心に支持、発展され多くの学者の賛同を見た。
* 当初自分自身も東遷説を、最も分かりやすく合理的判断と思っていたが、後々余りにも短絡的解釈と気付いた次第である。
九州小国説
あの「古事記」説いた本居宣長は日本こそ中心たる国、天皇が中国に朝貢などあるはずがないと、九州熊襲説を説いた。
大阪府下説
河内説として倭の五王の河内王朝を考えてきた場合、大阪府下も有力な候補ではないだろうか。
並立説として「邪馬台国」「大和王朝」が大和、九州の個々の国で「大和王朝」が九州の「邪馬台国」を征服したと全く考えられないことは無い。
その他に吉備国説、琵琶湖説など邪馬台国の候補地は広まっている。
* 機内説がもし定説化された場合、「記紀」に見る九州の天孫降臨はどうゆう意味を持つのか、邪馬台国以前に遡った神話なのか、「古事記」の出雲神話と出土された「荒神谷遺跡」との符合性はどう説明をするか、これからの古代研究と発掘に推移に注目をしなければならない。」
*「魏志倭人伝」の行程の矛盾点は北九州にも、機内にも到達できない。当てはまらない点が疑問点である。
* 邪馬台国が九州に国を築いたとすれば、大陸に攻められやすい立地条件になり、防備上を考えた場合、更に内海を経て内陸部に国を形成した方が、小国を平定し易いのではないかと思われる。

三、倭人の風俗、生活様式、制度などが詳しく記されている。
 
◎男子は顔、体に入墨をし、墨や朱や丹を塗っている。
 ◎古くより、中国に来た倭の使者は自ら大夫と称している。
 ◎男は冠を付けず、髪を結び髷をして、女はザンバラ髪。
 ◎着物は幅広の布に結び付けているだけ。
 ◎牛、馬、虎、豹、羊、鵲はいない。
 ◎兵器は矛、盾、木弓を要いる。
 ◎土地は温暖で、冬夏の生野菜が食べられる。
 ◎人が死ぬと一〇日余り哭泣き、「もがり」の間、肉を食しない、他人は飲酒歌舞し、埋葬が済むと、水に入って身体を禊をする。
 ◎倭の者が船で海を渡る時には持衰(じさい)(留守番)が選ばれ、持衰は人と接せず、虱を取らず、服は汚れ、肉を食べずに帰りを待つ、無事船が帰ってくれば褒美が貰え、船が災難にあえば殺される。
 ◎特別な事を行なう時、骨を焼き、割れ目で吉兆を占う。
 ◎長寿で百歳や九十歳、八十歳の者が居る。
 ◎女は皆、慎み深く嫉妬もしない。
 ◎法を犯す者は、軽い者は妻子を没収、重いものは一族根絶やしにする。
 ◎盗みは少なく、訴訟も少ない。
 ◎種族には尊卑の序列があり、上の者の指示に従う。
* 魏国の使者、随行員は季節的には何時頃、倭国に訪れたものか、季節によって服装、食物、儀式を見て知ることが変わるので、邪馬台国への経路に各国の特色が記載されていれば、当時の様子が窺われて良かったのにと思われる。
* 人の死は穢れがあって、禊によって邪気を振る祓う、古事記にイザナミが死に黄泉の世界にイザナギ呼び戻しに失敗、穢れを払う為に水浴をする所は魏志倭人伝との接点がる。
* 古代の人が入墨をしていると記されているかに、古代にその風習があったかは疑問。
* 寿命が八十,九十歳、百歳は案内の倭人(日本人)の誇張かも知れない。

四「女王卑弥呼」
卑弥呼について「魏志倭人伝」女王卑弥呼は邪馬台国に居住し、鬼道で国民を惑わしたと言う。
元々男子を王として七〇~八〇年倭国を治めたが長期間騒乱が起こったと記され、「卑弥呼」と言う少女を女王にすることで混乱は鎮まった。
「卑弥呼」は鬼道を祭祀として(占い師、祈祷師)人心を惑わし、高齢にも拘らず夫を持たず、宮廷や、楼観で暮らし、一〇〇〇人の侍女に囲まれ、多数の兵士に守られ、王位に就いてから他人に会う事も無く、弟が国の政治の補佐をし、一人の男子が取次ぎや飲食の世話をしていたという。
「卑弥呼」と魏国との交流は帯方郡を通して使者を送り皇帝から「新魏倭王」に任じられ、狗奴国との紛争にも支援を受けている。
西暦二四七年頃に「卑弥呼」が死去すると大きな墳墓が造られ、一〇〇人が殉葬され、その後男王を立てられたが、国民はこれに服さず内乱となった。一〇〇〇人の死者が出たと言う。「卑弥呼」の親族で13歳の壱與を王にたてられて国は治まったと言う。
壱與も魏国に使者を送っているが、この壱與の朝貢を最後に倭の五王の讃の朝貢の西暦413年まで一五〇年近い中国の史書に記載されない空白が日本の古代の大きな謎を産む結果となる。

五「卑弥呼の人物比定」
神功皇后説
「魏志倭人伝」は江戸時代まで「記紀」の説が正統性であると信じられ、一般的に「卑弥呼」がヤマト王権の神功皇后と考えられていた。記紀に拠れば九州で応神天皇を出産し朝鮮半島への大規模な軍事行動が「魏志倭人伝」に何の記述もされておらず、今では説を支持する人は少ない。
(神功皇后が朝鮮半島に深く関与した伝説に、倭の五王も百済、新羅、任那など支配下に置いていたと中国の史書に記述があって、時代のずれは有るが、何らかの関係がないか)
熊襲女酋説
本居宣長らが提唱したもので、大和王権が魏国に朝貢したことに対し、日本の古来独立を保持し従属せず、九州の熊襲が倭国を偽って魏国と交流をしたと言う説である。
甕依姫説
九州王朝説を唱えた古田武彦は「筑後風土記逸文」に記されているもので、筑紫君の祖「甕依姫」(ひかよりひめ)「卑弥呼」(ひみか)の事を指し可能性を主張した説。
宇那比姫説
「海部氏勘注系図」「先代旧事本紀」尾張氏系譜に記されているものを元に、彦火明六世孫、宇那比姫を卑弥呼とする説。別名「大倭姫」ヤマト王権の女王と思われる名を持つ天造日女命、大海靈姫命、日女命とも呼ばれ、卑弥呼と音訳する。卑弥呼の後に就いた台與は天豊姫とされている。
天照大神説
中国の史書に残るほどの人物であれば、日本にも特別な人物として、天照大神しか居ないとする説、白鳥庫吉、和辻哲郎らに始る。アマテラスは別名「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、「日の女」となり、太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)に符合すると言う。
卑弥呼が没した時に近辺に247年に2回北九州で日食が起きた可能性があり、「記紀」の神話に天の岩戸アマテラスが隠れた伝説と符合する。或学者は卑弥呼が生きていた時代の平均在位年数から推定すると時代が重なると言う。
また天照の弟のスサノオとの対立は「邪馬台国」と「狗奴国」の敵対と符合する。
倭迹迹日百襲媛命説
孝霊天皇の皇女「倭迹迹日百襲媛命」(やまとととひももそひめのみこと)「日本書記」の「倭迹迹日百襲媛命」または「倭迹迹姫命」「古事記」で「夜麻登母母曾毘賣命」で近年最も卑弥呼に有力な説になっている。
「日本書記」の倭迹迹日百襲媛命の墓として造営された箸塚古墳は邪馬台国の都に有力な候補地である「纏向遺跡」の中にあって、同時代にあって他の古墳に比較して規模が隔絶していて、全国に類似した古墳が存在し、出土遺物して埴輪の祖形となった吉備系の土器が見られ、当古墳より築造により古墳時代の始まり開始された向きが窺われる。「記紀」には倭迹迹日百襲媛命について三輪山の神との神婚説など神秘的な伝説が多い。

六 「邪馬台国」と「ヤマト王国」との関連性

「邪馬台国」が「記紀」の何時の時代に該当するかについて、纏向遺跡が邪馬台国と推定し、の卑弥呼の墓と推定され、放射能炭素測定を鑑み、年輪の検証から最有力候補の「箸墓古墳」を仮定した場合、箸塚古墳の祭祀が「倭迹迹日百襲媛」が「卑弥呼」と考えた場合、孝霊天皇の皇女とされる「記紀」を考えた時に、欠史八代の謎に包まれた不明瞭の時代が「邪馬台国」の混乱期と比定し時代設定を「欠史八代」と符合させた方が初期ヤマト国から、河内王朝へとの繋がりがあるのではないだろうか。
代目  天皇名  皇宮地場所     享年   陵墓地 
第二代緩康天皇 高岡宮 (御所市)  四五歳 (橿原市)
第三代安寧天皇 乳孔宮 (大和高田市)四九歳 (橿原市) 
第四代懿徳天皇 曲峡宮 (橿原市)  四五歳 (橿原市)
第五代孝昭天皇 池心宮 (御所市)  九三歳 (御所市) 
第六代考安天皇 津嶋宮 (御所市)  一二三歳(御所市) 
第七代孝靈天皇 廬戸宮 (田原本町) 一〇九歳(王子町)
第八代孝元天皇 境原宮 (橿原市)  五七歳 (橿原市)
第九代開化天皇 率川宮 (奈良市)  六三歳 (奈良市)
欠史八代の王朝は主として葛城を拠点として皇宮と陵墓が点在し、古墳の初期時代を考えれば合致しないと言われる。
謎に包まれた欠史八代にこそ邪馬台国の秘められた成り立ちがあるのではないだろうかと推定される。
王権を巡る激しい権力争いは、ヤマト王朝に続く系統内の主権を争う紛争であったか、機内の氏族の蜂起による主権の移動からか、または従属国の反乱による王権の入れ替わりか、事態は一応の収束見たかもしれない。
やがて王権は纏向遺跡周辺へと移って行く、それが邪馬台国の成立と推測する。
邪馬台国の後継者とされる、壱與が引継ぎ、詳細は不明であるが推測であるが、初期ヤマト王権に受け継がれていったのではないだろうか、その唯一実在性に近い第十代崇神天皇から初期ヤマト王朝の始まりと考えても不思議はない。
 祟神天皇から垂仁天皇へと、後継が兄弟争いや、九州の熊襲の反乱、景行店のの皇子ヤマトタケルの平定の為の東征、西征の遠征は神話の物語としても初期やヤマト王朝の確立への基礎固めであっただろうと思われる。

“ 古代ロマンの探求の思いは果てしなく、限りなく史実に向かって想像と共に広まって行くのである。”







 

















コメント

『院政の政僧”信西”』川村一彦

2014-05-17 09:23:16 | 例会・催事のお知らせ
「院政の政僧“信西(しんぜい)“」
平安時代は大きく分けて摂関時代と院政時代に分けられる。
摂関(せっかん)時代は藤原良房・基経から忠平・実頼・伊伊・頼忠・兼家・道長・頼通と摂関家によって引き継がれていった。
一方、院政は後三条天皇に端を発し、白河・堀河・鳥羽・崇(すとく)徳・後白河・二条・高倉らの上皇・法王らによって引き継がれていった。
こう言った引き継がれた王権と権力継承には血縁と、複雑な人間関係と主従関係の絡みの中で権力構造が形成され、事変に展開されて行った。
また登場する一人一人の人物像に、柵に生きた数奇な運命の物語に、平安時代と言う時代の趨勢(すうせい)に生きた人間像が浮かび上がってくる。
そんな院政末期の後白河院政に総師として権力に中枢にあって辣腕(らつわん)を振るった政僧「信西(しんぜい)」の特異な生き方を綴ってみた。
総師信西
保元元年(1156)保元の乱に勝利した後白河天皇は『保元新制』と呼ばれる新制を発令をした。王土思想を強調した宣言の新制は荘園(しょうえん)整理令(せいりれい)を主たる内容としていた。
要は鳥羽院政では荘園の乱発に加え管理が不十分で各地で国務遂行に支障が生じ紛争が多発していた。
この荘園整理令はその混乱を収拾し、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図としたもので、荘園の公領制の成立の大きな契機となった。
平安期には荘園制度は何度も荘園整理令が出された。寄進地(きしんち)系(けい)荘園(しょうえん)が諸国に点在し、しかも税金逃れに貴族たちや開発領主たちは寺社に寄進し管理を任せた。寺社領地には免税処置があって、国衙、国司の税金を逃れる隠れ蓑になった。特に興福寺などは全国に寺領は点在し大和一国とまで言われた。
特に後白河天皇は南都の興福寺や北嶺(ほくれい)の延暦寺の肥大化し寺院に僧兵を持って傲訴(ごうそ)で朝廷に狼藉(ろうぜき)の限りを尽し翻弄(ほんろう)をさせた寺領に快くは思っていなかった。南都の興福寺、北嶺の延暦寺の僧兵はそれぞれ三千人を有し豊かな財源で支えられていた。
その豊富な財源を絶つにも信西は思い切った荘園整理令を出し公領を増やさなければならなかった。
後白河天皇の思いのまま成らないもの一つに僧兵と嘆き検非違使を手もとから手放せなかったと言う。
また開発領主や貴族の朝廷より受けた恩賞などは転売されたり、寄進を装って国衙に税収されない事態に、荘園公領制に立案・推進したのが後白河天皇の側近の信西でった。
信西は改革実現に、記録書を設置ために長官に上卿には大納言・三条公教を就任させ、実務を担当する弁官からは右中弁に藤原惟方(これかた)・左少弁に藤原俊(とし)憲(のり)(信西の嫡子)が起用された。
その下で二十一人の寄人らが荘園領主から提出された書面を審査し本所間の領主間の紛争や度重なる転売で、その所有者の判定をしたり、荘園主と荘官(しょうかん)、国衙領(こくがりょう)への公領への査定を厳しく行った。
信西の言葉に後白河が「暗主」であると言う、記録所の寄人の一人だった清原頼業が後日九条兼実に語ったと言う。
信西は後白河の威光の許に強権を発動してた節があった。そして老朽化した内裏にも着手して保元二年(1157)に再建したり、新制三十箇条を出して、公事・行事の整理・官人の綱紀粛正に積極的に取り組んだ。
この間の信西の一族の台頭は目覚ましく、高階重仲の女を母とする信西の子俊憲・貞憲は弁官として「紀二位」(後白河の乳母)に成憲・修憲は受領になった。
信西自身は保元の乱で敗死した藤原頼長(よりなが)の所領を没収し自らも蓄財を確保した。
では何故このような信西が強権を後白河から信頼と負託されたかについては、出自と後白河天皇の関係を考察すると理解が出来る
信西に出自
信西は嘉承元年(1106)平安末期の貴族・学者・僧侶で信西は出家後の法名、号は円空で俗名藤原通(ふじわら)憲(みちのり)又は高階通(たかしな)憲(みちのり)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言が彼の出自である。
通兼(信西)の家系は曽祖父は藤原実範以来、学者一家(儒官)の家系で祖父の藤原季綱は大学頭であったが、父が蔵人所で急死し通憲は七歳で縁戚の高階家に養子に入った。高階家は摂関家の家司として諸国の受領を歴任した。
通憲は祖父譲りの学業の才能を積み重ね、保安二年(1121)には高階重仲の女を妻としている。通憲は鳥羽上皇の第一の籠臣である藤原家成と親しい関係にあり、家成を介して平忠盛・清盛父子とも交流があった。
通憲の官位の初見は天治元年(1124)の中宮少進(中宮藤原璋子は鳥羽天皇の皇后、白河天皇の母)に仕え鳥羽院の近臣として通憲は頭角を現し、後白河天皇と通憲の信頼関係がこの頃より築かれていった。
長承二年(1133)頃から鳥羽上皇の北面の伺候(しこう)(そばについて奉仕する)するようになって評判は当世無双の博識と見識と称されその才知を生かして院殿上人・院判官代と地位を昇格させていった。
通憲の願いは曽祖父・祖父の様な大学頭・文章博士・式部大輔を志したが、世襲化の当時は高階家に入ったことがその道を閉ざしてしまった。
これに失望した通憲は無力感から出家を考えるようになった。その通憲の出家の噂を知って止めさせようと書状を送り、数日後には対面し、その才能を惜しみ「ただ敢えて命を忘れず」と涙流したと言う。
鳥羽上皇は出家を引き留めるために、康治二年(1143)正五位下を与え、翌年には藤原姓を許し少納言に任命をし、更に子に文章博士・大学頭に就任する資格を与えた。
それでも通憲の意志は固く出家し信西と名乗った。
しかし信西は俗界から身を離れることなく「にぎかふる衣の色は心をそめぬことをしぞ思ふ」心境を歌に詠んでいる。
鳥羽上皇の政治顧問が死去すると信西はそれに取って代わるように奪取し下命を受けるなどして信任を強固なものして行った。
そして後白河天皇の近臣者として采配を振るようになった信西は、国政改革の為に以前からの馴染みの平清盛を厚遇をする。
平氏一門は北面武士の最大の兵力を有していた。保元の乱後は清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介と四ヵ国の受領を占めていた。
またその役割は,荘園整理、荘官、百姓の取締、神人・悪僧(僧兵)の統制で戦乱で荒廃した京都の治安維持に平氏は不可欠であった。
だがここにもう一つの別の政治勢力が存在していた。美福門院を中心とした二条親政派である。美福門院は鳥羽上皇から荘園の大半を引き継ぎ大荘園主となっていた。
美福門院は養子・守仁の即位を信西に要求し、止む得ず後白河天皇は二条天皇に即位しここに「後白河親政派」と「二条親政派」が生まれ新たな軋轢が生じて行った。二条親政派は藤原経宗・藤原惟方(これかた)が中心となって美福門院を背景に後白河の動きを抑圧した。
これに対して後白河即位は近衛天皇の急死によって継承した都合上、頼れるのは信西のみであった。
※美福門院は藤原得子の流れを汲む勢力、藤原得子は鳥羽上皇の譲位後の籠妃。近衛天皇の生母。女御。皇后。藤原北家未茂流の生まれ、父は中納言・藤原長実、母は左大臣源俊房の女、院号は美福門院。
信西と信頼の確執
しかし美福門院派の巻き返しに抗するためにも、また二条親政派に対抗するためにも信西だけでなく、ここに後鳥羽上皇は近臣の育成に抜擢起用したのが武蔵守藤原信頼であった。
信頼は保元二年(1157)に右近権中将、蔵人頭・参議・皇后宮権亮、権中納言、検非違使別当と矢継ぎ早に昇進し、元々信頼一門は武蔵・陸奥を知行国として関係が深く、源義平が叔父義賢を滅ぼした武蔵国大蔵合戦にも活躍し、保元三年(1158)後白河院庁が開設されると、信頼は軍馬を管理する馬別当に就任する。
源義明も宮中の軍馬を管理する左馬頭で両者の関係が深まり、信頼にとって武力の切り札を得たことなる。
また義明と信頼とは親戚として婚姻のやり取りで固く結ばれていたと言う。
反信西の結成
ここに、信西一門・二条親政派・後白河親政派と平氏の武士集団と複雑に人間関係が絡んできた。
信西と信頼の確執の要因に、信頼が近衛大将を望んだがそれを断ったにあると言われ、反信西派の結成は強権総師の信西の反発の結成で、二条親政派も後白河院政派も一致していた。
そんな不穏な動きに最大の武力集団の平氏清盛は中立的立場を守っていたと言う。折も折、清盛が熊野詣に赴いていたその時を突いて、反信西派は決起した。
平治元年(1159)十一月九日に信頼とその一派の軍勢は院御所・三条殿を襲撃し後白河上皇と上西門院を拘束し、三条殿に火を放ち、逃げる者容赦なく殺害をした。警備の大江家中・平康史ら官人や女房が犠牲になった。
これを知った信西一門は身の危険を感じ逃亡していた。拘束した後白河上皇・上西門院には丁重に「すゑまいらせて」と信頼は一本御書所に擁したと言う。後白河上皇を乗せた御車には源重成・光基・季実らの護衛が付き、美福門院の家人らが関わって二条親政派の同意があってのことと推測され、信西の子ら俊憲・貞憲・成憲・修憲らは逮捕全員配流された。
一方信西は山城国田原に逃れたが源光保の追手を振り切れず、郎党藤原師光に命じて自らの遺体を地中に埋めさせること命令し自害をした。
信西の自害を知った源光保は遺体を地中から掘り起し首を切り落とし、京に持ち帰り首は大路に棟木につるされ獄門にさらされたと言う。
何故に執念を持って信西の遺体を掘り起こし首を切り落とし都大路の獄門にさらし首にしたかについて、保元の乱の処理・処遇に多くの公家・武将に反感を生んだことにある。
① 雅仁親王(後白河天皇)即位擁立には雅仁親王を養育していた信西の策動があった
② 後白河天皇擁立に立太子しないままに即位は無理がった。美福門院の反発は根強かった。
③ 鳥羽上皇の葬儀は信西が取り仕切った。
④ 薬子の変後公的死罪を復活させた。
⑤ 荘園整理令に反感を持つ荘園主がいた。
⑥ 信西は自分の子息に要職に就け、旧臣に反感を持たせた。

平治の乱とそのその後
清盛は、紀伊で京の異変を知って、動転し九州に逃れることも考えたが紀伊の武士・湯浅宗重・熊野別当の協力で帰京できた。
その後の京の軍事の均衡は乱れ、義明の軍勢は少数に過ぎず、信頼の威信は崩れ後白河院院政派にも二条親政派にも信西を排除した今は、信頼は無用の長物で御用済みはあからさまにであったが、清盛は信頼とは姻戚関係を結んでいたので、恭順の意を示した。
二条天皇も内裏を脱出し、清盛邸のある六波羅蜜に行幸した。後白河上皇も仁和寺に脱出した。この状況を藤原成頼が京中に触れ回り、公卿・諸大夫や武士集団が続々集結し、信頼・義明に追討の宣下が下された。
信頼軍は源義明・重成・光基・季実・光保の源氏を中心とした兵力と清盛を中心とした平氏軍と六波羅合戦が始まり、信頼混成軍は敗北、藤原信頼・成親は仁和寺の覚性法親王の前に出頭し、清盛の前に引き出され、信西殺害・三条殿焼打ちの罪で処刑された。
摂関時代は藤原家の身内同士の覇権を廻って幼少の天皇の後見人なるための女御を持って天下の政治を執った。
院政派は幼少の天皇に即位することに於いて後見人として、上皇、法王の身分で天下政治を執った。
院政末期には平氏・源氏の台頭で武士の起用なしでは政治の運営が出来なくなって、武士の発言力に武力に朝廷と藤原家の衰退が顕著になって平安時代は終末に向かって、武士の時代、武布へと移って行き、頼朝の天下創設の幕が開かれた。

コメント

『記紀』の神名表記について』

2014-05-13 20:31:38 | 例会・催事のお知らせ
『記紀』の「神名表記」について

『記紀』に出てくる神々の名前は解読が難しく、通常使用しない特殊な漢字表記に読むことすら難解である。
しかも同時代に編纂され、献上された『古事記』『日本書紀』の漢字使用に大きな違いがある。
『古事記と日本書紀』は太安万侶・稗田阿礼が編纂制作。わが国で最も古い書物と言えば、『古事記と日本書紀』である。
『古事記』の編算(へんさん)は西暦六八一年頃、天皇家の歴史を伝えるために、天武天皇の願いで作られた。
その資料に神話・伝説や『帝紀』『旧辞』などを編纂し、舎人(とねり)・稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦習させた。阿礼は聡明で多くの事柄を一度見るだけで覚えて暗誦することが出来たという。
その後、編纂の作業は西暦六八六年に天武天皇の崩御で中断、三〇年後に再開され、学者であった太安万侶(おおのやすまろ)が筆記し編纂されて、元明天皇に献上された。近年奈良市の郊外から遺骨と墓標誌銘が出土された。
『日本書紀』については、日本初の正史として西暦六八一年、天武天皇の命によって編纂が始まった。作成には川島皇子の他六名の皇族ら官人、学者が参画し、後に紀朝臣清人、三宅臣藤麻呂、太安万侶も加わったと思われている。その後、四十年の歳月を経て養老四年(720)に完成され舎人皇子が元正天皇に献上された。『日本書記』については誰がどのように作成したかは記述はなく、時の権力者藤原不比等が関与したのではと思われている。
二つの古書の違いについては過去から様々な論議や推測がされているが、その意味には多くの謎が残されていている。
『古事記』は天皇家の私史として、神話の天地開闢から推古天まで、出雲編と氏族の詳しく述べられ、和文体を併用した漢文体で、全三巻で構成されている。
『日本書記』は対外的に正史として、天地開闢から持統天皇まで、漢文で全三十巻系図一巻で作成されている。
日本正史として六国史『日本書記』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』が明記され、『古事記』『日本書記』は互いに比定しながら、欠落部分を補完しつつ日本の起源を探る基本古書となっている。
古事記研究には四大国学者の研究によって少しずつ今日のような形に解明されていった。
『古事記』の原本は現存せず、いくつかの写本が伝わる。『古事記』の存在を証明する物証もなく、従って古くより古事記偽書説がながれ、最古の写本が室町時代のものとされ、懐疑的な論議がなされたが、近年、昭和54年(1979)太安万侶の墓が発見され、昨今その墓が「太安万侶の墓」と確定された。
その事によって「古事記」と「太安万侶」の編纂と実在性が明らかになって行くのである。
近年難波に宮跡発掘で7世紀中頃の、日本最古の万葉仮名文が書かれた木簡が発見され、万葉仮名は7世紀末とされているが、これらの発見で二、三十年遡ることになる。
万葉仮名は漢字一字を一音にあてて表記したもので、その後太安万侶の『古事記』編算で一句の中に音と訓を交えている、言ってみれば日本語、漢字の「併用表記」と言えるのではないかと思われる。
そう言った点、稗田阿礼の記憶している記憶されている『古事記』の事柄に太安万侶の苦心が窺われる。
『古事記』については偽書説が一部の学者から提起されたが、近年、『古事記』実在の裏付けと、その記述の真価が認められ、再認識されている。
『古事記』の写本は主として「伊勢本系統」と卜部本系統の別れ、最古の初本は真福寺古事記三帖(国宝)である。奥書の祖本は上下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本で、道果本で真福寺本に近いとされ、その他は卜部本系統とされている。
これら室町時代、南北朝時代の写本となっている。
その後近世になって下記の国学者らによる『古事記』の研究が盛んになって行き、新たな『古事記』の再評価に繋がって行った。
荷田春満(1669~1736)伏見大社の神職に生まれ、徳川吉信宗に国学の学校の創設を嘆願した。
賀茂真淵(1697~1769)賀茂新宮の禰宜の家に生まれ、荷田春満に入門し、田安家の和学の御用となった。
本居宣長(1730~1801)伊勢の商家に生まれ、医者を続けながら「記紀」を研究しながら「古事記」前44巻を著した。平田篤胤(1776~1843)出羽秋田藩士の子。脱藩し宣長に師事し、後に復古神道に貢献し神道の基礎を確立した。
上記の学者らによって、『記紀』で『日本書記』のテキスト、参考文献でなかった『古事記』を『日本書記』以上に重要性を世に知らしめた。
近年津田左右吉、折口信夫などの学者によって、新たな『古事記』に対する新説が生まれ、様々な評価もなされて行き、今から1300年前に記され、『記紀』に思いを巡らせ議論が重ねられ、古代の謎を解く鍵と深い推測が生まれつつある。

① 『古事記』本文・天地開闢編。
天地初發之時於高天原成神名天之御中主神(訓高下天云阿麻下效此)次高御産巣日次神産巣日神此三柱神者並獨神成坐而穏身也次國雉如浮脂而久羅下那州多陁用弊流之時(流字以上十字以音)如葦牙因萠騰之物成神名字摩志阿斯訶備比古遅神(此神名以音)次天之常立神(訓常許訓立云登云々多知)此二柱神亦並獨神成坐而穏身也
上件五柱神者別天神
次成神名国之常立神(訓常立亦如上)次豊雲上野神此二神亦獨神成坐而穏身也次成神名宇此地迹上神次妹湏比智迹去神(此二神名以音)次角杙神次妹活杙神(二柱)次意富斗能地神次妹大斗乃弁神(此二神名以音)次於母陁流神次妹阿夜上訶志古泥神(此二神名皆以音)訶志古泥神(此二神名皆以音)次伊耶那岐神次妹伊耶那美神(此二神名亦以音如上)上件自国之常立神以下伊耶那美以前并稱神代七代(上二神獨神各云一代次雙十神各合二神云一代他)

「特別な天つ神と神世七代」(読み下し)
天地初めて発けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神、この三柱の神は、みな独神(独り神)と成りまして、身を隠したまひき。次に国雉く浮ける脂の如くして、海月なす漂へる時、葦牙の如く萠え騰がる物によりて成りし神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神、次に天之常立神。この二柱の神もみな独神と成りまして、身を隠したまひき。上の伴の五柱の神は別天つ神。次に成りし神の名は、国之常立神、次に豊雲野神。この二柱の神も独神成りまして、身を隠したまひき。次に成りし神の名は、宇比地邇神。次に角杙神、次に妹活杙神。次に意富斗能他神、次妹大斗乃弁神、次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神。次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神、上の件の国之常立神より下、伊邪那美神より前を、併せて神世七代と称ふ。
※妹は夫婦の妻を表す。
② 伊邪那岐命と伊邪那美命
於是天神諸命以詔伊耶岐命伊耶那美二神神修理固成是多陁用獘流之國賜天沼矛而言依賜也故二神立(訓立云多~志)天浮橋而指下其沼矛以晝者塩許~呂~迹(此七字以音)畫鳴(訓鳴云那志也)而引上時自其矛垂落塩之累積成嶋是淤能其呂嶋(自淤以下四字以音)於其嶋天降坐而見立天之御柱見立八尋殿於是問其妹伊耶美命日汝身者如何成荅白吾身者成~不成合處一在尒伊耶岐命詔我身者成~而成餘一處在故以此吾身成餘處刺塞汝身不成合處而以爲生成国土生奈何(訓生云字牟下効此)伊耶那美命荅日燃善尒伊耶那岐命詔然者吾与汝行廽逢是天之御柱而爲美斗能麻具波比(此七字以音)如此之期之詔汝者自右廽逢我者自左廽逢約意以廽時伊耶那美命先言阿那迹夜志愛上袁登古袁(此十字以音下効此)後伊耶那岐命言阿那迹夜志愛上袁登賣袁各言竟之後告其妹日女人先言不良雖然久美度迹(此四字以音)興而生子水蛭子此子者入葦舩而流去次生淡嶋是亦不入子之例於
淤能碁呂島(読み下し)
ここに天つ神諸の命もちて、伊邪耶岐命・伊邪耶美命二柱の神に「このただよへる国う修め理り固め成せ」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。かれ、二柱の神天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして画きたまへば、塩こをろこをろに画き鳴して引き上げたまふ時、その矛の未より垂り落つる塩、累なり積もりて島と成りき。これ淤能碁呂島なり。その島に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。ここにその妹伊邪那岐命に問ひて、「汝が身が如何にか成れる」と日りたまへば、「吾が身は成り成りて、成り合はざる処一処あり」と答えたまひき。ここに伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は成り成りて、成り余れる処一処あり、かれ、この吾が身の成り余れり処を持ちて、汝が身の成り合はざる処にさし塞ぎて、国土を生み成さむとおもふ。生むもとかに」とのりたまえば、伊邪耶美命、「然善けむ」と答へたまひき。ここに伊邪耶岐命詔りたまはく、「然らば吾と汝とこの天の御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐはひせむ」とのりたまひき。かく期りてすなわち、「汝は右より廻り逢へ。我が左より廻り逢はむ」と詔りたまふ、約り竟へて廻る時、伊邪耶美命先に「あなにやし、えをとこを」と言ひ、後に伊邪那岐命「あなにやし、えをとめを」と言ひ、各言ひ竟へし後、その妹に告げて、「女人先に言へるは良からず」と日りたまひき。然れどもくみどに興して、子水蛭子を生みき。この子は葦船に入れて流し去てき。次に淡島を生みき。こも子の例に入らず。
◎アンダーラインは神名で、本文の小文字で(訓・音)の箇所は和漢の音訓の読み分けを表している。

『古事記』と『日本書紀』の神々の表記の違い。
『古事記』
★別天つ神「天之御中主神」*(アメノミナカヌシカミ)*「高御産巣日神」(タカミムスヒカミ)*「神産巣日神」(カミムスヒカミ)*「宇摩志阿斯訶備比古遅神」(ウマシアシカビヒジノカミ)*「天之常立神」(アメノトコタチノカミ)
★神世七代「国之常立神」(クニノトコタチノカミ)*「豊雲野神」(トヨクモノカミ)
*「宇比地邇神」(ウヒジニノカミ)*「角杙神」(ツノクヒノカミ)*「妹活杙神」(イモイククヒノカミ)*「意富斗能地神」(オホトノチノカミ)*「妹大斗乃弁神」(イモオホトノベンノカミ)*「於母陀流神」(オモダルノカミ)*「妹阿夜訶志古泥神」(イモアヤカシコネノカミ)*「伊邪那岐神」(イザナギノカミ)*「伊邪那美神」(イザナミノカミ)
『日本書紀』
★「国常立尊」(クニトコタチミコト)*国狭槌尊(クニノサツチノミコト)*豊斟淳尊(トヨクムヌノミコト)
★国常立尊(クニノトコタチノミコト)別名・国底立尊(くにそこタチノミコト)*国狭槌尊(クニノキツチノミコト)別名・国狭立尊(クニノキタチノミコト)*豊国主尊(トヨクニヌシミコト)別名・豊組野尊(トヨクムノミコト)*豊香節野尊(トヨカブノノミコト)別名・浮経野豊買尊(ウカヨノトヨカウノミコト)*豊国野尊(とよくにのミコト)*葉木国野尊(ハコククニノミコト)別名・見野尊(ミノノミコト)
★可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカヒコジニミコト)*国底立尊(クニソコタチミコト)
★天御中主尊(アメノミナカクシノミコト)*高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)*皇産尊
★埿土煮尊(ウイジニノミコト)*炊土煮尊(スイジノミコト)*大戸之道尊(オオトノジミコト)
*大苫辺尊(オオトマベノミコト)*面足尊(オモダルノミコト)*惶根尊(カシコネノミコト)
★青橿城根命(アオカシネノミコト)
★天鏡尊(アマノカガミノミコト)*天万尊(アマノヨロズノミコト)沫蘯尊(アワナギノミコト)
★伊奘諾尊(イザナギノミコト)伊奘冉尊(イザナミノミコト)

●『古事記』『日本書紀』の漢字は異なり同時代に編纂され類似点のもあるが漢字表記も異なり、神々の現れ方が違い、『日本書紀』の物語では伊邪那実命は死に黄泉の国も、出雲の編は出てこないが、言われる『古事記』は皇家の史的な意味合いの云々については別にして『古事記』と『日本書紀』のに並列に何の意味が有ったのか謎は残る。
神名表記には音・訓入り混ぜて使われている。また『古事記』は和風表記で記され、『日本書紀』は漢風表記で記されている。


コメント

『記紀』神名表記について」川村一彦

2014-05-11 19:11:26 | 例会・催事のお知らせ
『記紀』の「神名表記」について

『記紀』に出てくる神々の名前は解読が難しく、通常使用しない特殊な漢字表記に読むことすら難解である。
しかも同時代に編纂され、献上された『古事記』『日本書紀』の漢字使用に大きな違いがある。
『古事記と日本書紀』は太安万侶・稗田阿礼が編纂制作。わが国で最も古い書物と言えば、『古事記と日本書紀』である。
『古事記』の編算(へんさん)は西暦六八一年頃、天皇家の歴史を伝えるために、天武天皇の願いで作られた。
その資料に神話・伝説や『帝紀』『旧辞』などを編纂し、舎人(とねり)・稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦習させた。阿礼は聡明で多くの事柄を一度見るだけで覚えて暗誦することが出来たという。
その後、編纂の作業は西暦六八六年に天武天皇の崩御で中断、三〇年後に再開され、学者であった太安万侶(おおのやすまろ)が筆記し編纂されて、元明天皇に献上された。近年奈良市の郊外から遺骨と墓標誌銘が出土された。
『日本書紀』については、日本初の正史として西暦六八一年、天武天皇の命によって編纂が始まった。作成には川島皇子の他六名の皇族ら官人、学者が参画し、後に紀朝臣清人、三宅臣藤麻呂、太安万侶も加わったと思われている。その後、四十年の歳月を経て養老四年(720)に完成され舎人皇子が元正天皇に献上された。『日本書記』については誰がどのように作成したかは記述はなく、時の権力者藤原不比等が関与したのではと思われている。
二つの古書の違いについては過去から様々な論議や推測がされているが、その意味には多くの謎が残されていている。
『古事記』は天皇家の私史として、神話の天地開闢から推古天まで、出雲編と氏族の詳しく述べられ、和文体を併用した漢文体で、全三巻で構成されている。
『日本書記』は対外的に正史として、天地開闢から持統天皇まで、漢文で全三十巻系図一巻で作成されている。
日本正史として六国史『日本書記』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』が明記され、『古事記』『日本書記』は互いに比定しながら、欠落部分を補完しつつ日本の起源を探る基本古書となっている。
古事記研究には四大国学者の研究によって少しずつ今日のような形に解明されていった。
『古事記』の原本は現存せず、いくつかの写本が伝わる。『古事記』の存在を証明する物証もなく、従って古くより古事記偽書説がながれ、最古の写本が室町時代のものとされ、懐疑的な論議がなされたが、近年、昭和54年(1979)太安万侶の墓が発見され、昨今その墓が「太安万侶の墓」と確定された。
その事によって「古事記」と「太安万侶」の編纂と実在性が明らかになって行くのである。
近年難波に宮跡発掘で7世紀中頃の、日本最古の万葉仮名文が書かれた木簡が発見され、万葉仮名は7世紀末とされているが、これらの発見で二、三十年遡ることになる。
万葉仮名は漢字一字を一音にあてて表記したもので、その後太安万侶の『古事記』編算で一句の中に音と訓を交えている、言ってみれば日本語、漢字の「併用表記」と言えるのではないかと思われる。
そう言った点、稗田阿礼の記憶している記憶されている『古事記』の事柄に太安万侶の苦心が窺われる。
『古事記』については偽書説が一部の学者から提起されたが、近年、『古事記』実在の裏付けと、その記述の真価が認められ、再認識されている。
『古事記』の写本は主として「伊勢本系統」と卜部本系統の別れ、最古の初本は真福寺古事記三帖(国宝)である。奥書の祖本は上下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本で、道果本で真福寺本に近いとされ、その他は卜部本系統とされている。
これら室町時代、南北朝時代の写本となっている。
その後近世になって下記の国学者らによる『古事記』の研究が盛んになって行き、新たな『古事記』の再評価に繋がって行った。
荷田春満(1669~1736)伏見大社の神職に生まれ、徳川吉信宗に国学の学校の創設を嘆願した。
賀茂真淵(1697~1769)賀茂新宮の禰宜の家に生まれ、荷田春満に入門し、田安家の和学の御用となった。
本居宣長(1730~1801)伊勢の商家に生まれ、医者を続けながら「記紀」を研究しながら「古事記」前44巻を著した。平田篤胤(1776~1843)出羽秋田藩士の子。脱藩し宣長に師事し、後に復古神道に貢献し神道の基礎を確立した。
上記の学者らによって、『記紀』で『日本書記』のテキスト、参考文献でなかった『古事記』を『日本書記』以上に重要性を世に知らしめた。
近年津田左右吉、折口信夫などの学者によって、新たな『古事記』に対する新説が生まれ、様々な評価もなされて行き、今から1300年前に記され、『記紀』に思いを巡らせ議論が重ねられ、古代の謎を解く鍵と深い推測が生まれつつある。

① 『古事記』本文・天地開闢編。
天地初發之時於高天原成神名天之御中主神(訓高下天云阿麻下效此)次高御産巣日次神産巣日神此三柱神者並獨神成坐而穏身也次國雉如浮脂而久羅下那州多陁用弊流之時(流字以上十字以音)如葦牙因萠騰之物成神名字摩志阿斯訶備比古遅神(此神名以音)次天之常立神(訓常許訓立云登云々多知)此二柱神亦並獨神成坐而穏身也
上件五柱神者別天神
次成神名国之常立神(訓常立亦如上)次豊雲上野神此二神亦獨神成坐而穏身也次成神名宇此地迹上神次妹湏比智迹去神(此二神名以音)次角杙神次妹活杙神(二柱)次意富斗能地神次妹大斗乃弁神(此二神名以音)次於母陁流神次妹阿夜上訶志古泥神(此二神名皆以音)訶志古泥神(此二神名皆以音)次伊耶那岐神次妹伊耶那美神(此二神名亦以音如上)上件自国之常立神以下伊耶那美以前并稱神代七代(上二神獨神各云一代次雙十神各合二神云一代他)

「特別な天つ神と神世七代」(読み下し)
天地初めて発けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神、この三柱の神は、みな独神(独り神)と成りまして、身を隠したまひき。次に国雉く浮ける脂の如くして、海月なす漂へる時、葦牙の如く萠え騰がる物によりて成りし神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神、次に天之常立神。この二柱の神もみな独神と成りまして、身を隠したまひき。上の伴の五柱の神は別天つ神。次に成りし神の名は、国之常立神、次に豊雲野神。この二柱の神も独神成りまして、身を隠したまひき。次に成りし神の名は、宇比地邇神。次に角杙神、次に妹活杙神。次に意富斗能他神、次妹大斗乃弁神、次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神。次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神、上の件の国之常立神より下、伊邪那美神より前を、併せて神世七代と称ふ。
※妹は夫婦の妻を表す。
② 伊邪那岐命と伊邪那美命
於是天神諸命以詔伊耶岐命伊耶那美二神神修理固成是多陁用獘流之國賜天沼矛而言依賜也故二神立(訓立云多~志)天浮橋而指下其沼矛以晝者塩許~呂~迹(此七字以音)畫鳴(訓鳴云那志也)而引上時自其矛垂落塩之累積成嶋是淤能其呂嶋(自淤以下四字以音)於其嶋天降坐而見立天之御柱見立八尋殿於是問其妹伊耶美命日汝身者如何成荅白吾身者成~不成合處一在尒伊耶岐命詔我身者成~而成餘一處在故以此吾身成餘處刺塞汝身不成合處而以爲生成国土生奈何(訓生云字牟下効此)伊耶那美命荅日燃善尒伊耶那岐命詔然者吾与汝行廽逢是天之御柱而爲美斗能麻具波比(此七字以音)如此之期之詔汝者自右廽逢我者自左廽逢約意以廽時伊耶那美命先言阿那迹夜志愛上袁登古袁(此十字以音下効此)後伊耶那岐命言阿那迹夜志愛上袁登賣袁各言竟之後告其妹日女人先言不良雖然久美度迹(此四字以音)興而生子水蛭子此子者入葦舩而流去次生淡嶋是亦不入子之例於
淤能碁呂島(読み下し)
ここに天つ神諸の命もちて、伊邪耶岐命・伊邪耶美命二柱の神に「このただよへる国う修め理り固め成せ」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。かれ、二柱の神天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして画きたまへば、塩こをろこをろに画き鳴して引き上げたまふ時、その矛の未より垂り落つる塩、累なり積もりて島と成りき。これ淤能碁呂島なり。その島に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。ここにその妹伊邪那岐命に問ひて、「汝が身が如何にか成れる」と日りたまへば、「吾が身は成り成りて、成り合はざる処一処あり」と答えたまひき。ここに伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は成り成りて、成り余れる処一処あり、かれ、この吾が身の成り余れり処を持ちて、汝が身の成り合はざる処にさし塞ぎて、国土を生み成さむとおもふ。生むもとかに」とのりたまえば、伊邪耶美命、「然善けむ」と答へたまひき。ここに伊邪耶岐命詔りたまはく、「然らば吾と汝とこの天の御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐはひせむ」とのりたまひき。かく期りてすなわち、「汝は右より廻り逢へ。我が左より廻り逢はむ」と詔りたまふ、約り竟へて廻る時、伊邪耶美命先に「あなにやし、えをとこを」と言ひ、後に伊邪那岐命「あなにやし、えをとめを」と言ひ、各言ひ竟へし後、その妹に告げて、「女人先に言へるは良からず」と日りたまひき。然れどもくみどに興して、子水蛭子を生みき。この子は葦船に入れて流し去てき。次に淡島を生みき。こも子の例に入らず。
◎アンダーラインは神名で、本文の小文字で(訓・音)の箇所は和漢の音訓の読み分けを表している。

『古事記』と『日本書紀』の神々の表記の違い。
『古事記』
★別天つ神「天之御中主神」*(アメノミナカヌシカミ)*「高御産巣日神」(タカミムスヒカミ)*「神産巣日神」(カミムスヒカミ)*「宇摩志阿斯訶備比古遅神」(ウマシアシカビヒジノカミ)*「天之常立神」(アメノトコタチノカミ)
★神世七代「国之常立神」(クニノトコタチノカミ)*「豊雲野神」(トヨクモノカミ)
*「宇比地邇神」(ウヒジニノカミ)*「角杙神」(ツノクヒノカミ)*「妹活杙神」(イモイククヒノカミ)*「意富斗能地神」(オホトノチノカミ)*「妹大斗乃弁神」(イモオホトノベンノカミ)*「於母陀流神」(オモダルノカミ)*「妹阿夜訶志古泥神」(イモアヤカシコネノカミ)*「伊邪那岐神」(イザナギノカミ)*「伊邪那美神」(イザナミノカミ)
『日本書紀』
★「国常立尊」(クニトコタチミコト)*国狭槌尊(クニノサツチノミコト)*豊斟淳尊(トヨクムヌノミコト)
★国常立尊(クニノトコタチノミコト)別名・国底立尊(くにそこタチノミコト)*国狭槌尊(クニノキツチノミコト)別名・国狭立尊(クニノキタチノミコト)*豊国主尊(トヨクニヌシミコト)別名・豊組野尊(トヨクムノミコト)*豊香節野尊(トヨカブノノミコト)別名・浮経野豊買尊(ウカヨノトヨカウノミコト)*豊国野尊(とよくにのミコト)*葉木国野尊(ハコククニノミコト)別名・見野尊(ミノノミコト)
★可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカヒコジニミコト)*国底立尊(クニソコタチミコト)
★天御中主尊(アメノミナカクシノミコト)*高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)*皇産尊
★埿土煮尊(ウイジニノミコト)*炊土煮尊(スイジノミコト)*大戸之道尊(オオトノジミコト)
*大苫辺尊(オオトマベノミコト)*面足尊(オモダルノミコト)*惶根尊(カシコネノミコト)
★青橿城根命(アオカシネノミコト)
★天鏡尊(アマノカガミノミコト)*天万尊(アマノヨロズノミコト)沫蘯尊(アワナギノミコト)
★伊奘諾尊(イザナギノミコト)伊奘冉尊(イザナミノミコト)

●『古事記』『日本書紀』の漢字は異なり同時代に編纂され類似点のもあるが漢字表記も異なり、神々の現れ方が違い、『日本書紀』の物語では伊邪那実命は死に黄泉の国も、出雲の編は出てこないが、言われる『古事記』は皇家の史的な意味合いの云々については別にして『古事記』と『日本書紀』のに並列に何の意味が有ったのか謎は残る。
神名表記には音・訓入り混ぜて使われている。また『古事記』は和風表記で記され、『日本書紀』は漢風表記で記されている。



コメント