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ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

森林再生員と歩く「開拓の歴史と森づくり」

2008-09-14 | 知床
 お知らせです.
 知床自然センターで,旧開拓地を門間家まで歩く1時間くらいのミニツアーを実施するそうです.今週と来週は私は斜里にいないので参加できませんが,良い企画だと思うので,ご興味のある方はぜひ♪

100平方メートル運動の森体験
 森林再生員と歩く「開拓の歴史と森づくり」

2008年9月14日(日),15日(月),21日(日),23日(火)

 夜,窓を開け放していると,鹿がさかんに鳴きます.(一応,住宅地なんですが・・・)
 秋ですねえ.いまさらになって,"鹿に紅葉"とか,高校生の頃古典で習った情景を思い出しています.

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知床100平方メートル運動の歩み

2008-09-13 | 知床
私のおすすめの場所です.斜里町,奥蘂別川河口.知床連山を望む,海と川のウォーターフロント.釣り人さんしか知らないのはもったいないですよ.それにしても,いまだにデジカメでは思うように撮れません・・・・


 知床開拓の記載・表現について,このところずっと唸っておりましたが,斜里町役場では100平方メートル運動の森・トラストというサイト内の運動の歩みという開拓の歴史について触れたページを,適切な表現に改めてくださいました.適切,という以上に,知床の地に住んでいらした方々への敬意のこもった文章で,頭が下がります.地域に住む方を大事にする自治体は尊敬します.知床開拓のこと,100平方メートル運動のこと,良い形で現在から未来へ発展させていけますよう.
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シカの食圧で変化する植生

2008-09-10 | 知床

 ところで知床五湖へ向かう途中,知床自然センターのすぐ裏の,延原さんの家のあったところを覗いて仰天しました.そこはつい去年までは一面芝生のような,見渡す限り広々とした気持ちのよい草原(と言っても,エゾシカが毎日雑草を食べ続けたせいですが)だったのですが,一面ぎっしりハンゴンソウの藪に変わっていたからです.ハンゴンソウは初秋に黄色い花をつけ,咲きようによっては秋らしい風物なのですが,知床のハンゴンソウは2メートルにも達し,隙間なくぎっしりと生え,葉も茎も硬いので,あまり見た目気持ちのよい感じはしません.
 シカはハンゴンソウは食べないのです.
 シカがハンゴンソウを残して他の野草を食べ続けた結果,ものすごい勢いでハンゴンソウがその範囲を広げているのでした.いや,知識としては知っていたけれど,実際昨年との違いを目にすると,ぎょっとします.
 同じく,シカが食べないために増え続けているものにオニアザミがあります.シカも痛いから食べない.もちろん,人間にとっても痛いです.吉原さんの豚舎跡あたりはオニアザミがだいぶ増えてしまいました.一面ぎっしりなんてことになったら嫌だなあ.
 上の写真は,松澤家跡ですが,黄色い花があら綺麗,なんて思ってはいけません.これがハンゴンソウです.

 ところで,森を歩いたのは土曜日だったのですが,やられました.きっかり48時間以上の免疫遅延反応で,昨日から今日にかけて太もも,お腹,脇,背中に次々増える赤いポツポツが・・・・.かっ・・・かゆい!!
 岩尾別神社のササ藪を歩いている時にマダニがくっついてこなかったので,あ~シーズンオフだなあ,秋なんだなあ,などと思っていたのですが,甘かったです.藪を出た段階で,殺虫剤を(自分に)スプレーしておくべきだった!
 それにしても,一体何に咬まれているのかいまだにわからないのでスッキリしません.マダニではないです.すぐに帰ってシャワーを浴びても駄目で,目にも見えなくて,きっかり48時間をおいて発疹が出はじめるもの(蚊やブユなら,12~24時間くらいで,翌日にはまるく赤い斑点になりますよね) 遅延反応が48時間以上で目に見えないと言えば,文献的にはツメダニというのがあるのですが,果たして知床の森の中にツメダニがいるんでしょうか??? 謎です.





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岩尾別神社、長い間おつかれさまでした

2008-09-08 | 知床
9/6現在の岩尾別神社。ついに屋根も倒壊しました。


私の代表写真でもあり、写真展のタイトルバックにも使わせてもらった、ありし日の岩尾別神社


 タクシー運転手のSさんが「観光客を乗せた時は、道路から見える開拓の跡も説明するようにしているんだけど、神社は無くなっちゃったのかね? 神社がないんだよ。隣の馬頭観音は見えるんだけどさ。」と言うので、岩尾別神社を確認しに行ってきました。
 ・・・・?
 あれ、本当だ、無い・・・・!!?
 道路からでも注意すればよく見える神社の屋根がまったく見えません。たしかに、馬頭観音は今まで通り見えるので、ササが覆い隠してしまったというわけではなさそうです。まーじ? 一体何が起こったんだろう???
 薮をこいでナラ林の中に踏み入って行くのですが、目印の屋根がまったく見えないので、位置の見当がつきません。ササの中をジグザグに、この辺りと思う方向に向って進んでいくと、突然神社の跡に出て、残骸を踏みそうになって飛び退きました。
 よかった、無くなってはいなかった。
 でも、ああ、たしかに、これでは見えないはず。
 当時の原型をかろうじてとどめていた神社の屋根は、完全に倒壊して、見ただけでは何だかよくわからない材木の残骸になって地面に横たわっていました。この春までの雪か、夏の大雨でついに崩れたと思われます。折れて屋根に寄り掛かっていた木の枝も、落ちて残骸に突き刺さり、形がなくなるのも時間の問題かと思われます。
 また一つ形ある遺産が無くなったな、という気持ちとともに、思わず「おつかれさま」と口をついて出ました。言ってから自分でもびっくりして、
「そうだよ、本当だよ、おつかれさまでした。」
 神社の残骸に向って深々と頭を下げました。
 開拓者の人々が、知床五湖への道が拡張されるたびに2度も引っ越しさせて、大事に祈ってきた神社です。そして、この3年間、何度も何度も私の写真に写ってくれた神社でした。
 残念、というよりも、ああ、もういいよなぁ、こうやって、あとはササに覆い尽くされて、それでもう十分だよなぁ、という、それまで踏んばっていたものが解けて解放されていくような、すがすがしくさえあるような気持ちになりました。
 何でもかんでも「知床の大自然!」に結論づけけられることをイヤがる自分ですが、この時ばかりは、自然に還っていく姿があまりにもすうっと溶けていくようにまっとうすぎて、「知床の自然」もいいかも、と思った瞬間でした。


さらにありし日の貴重な写真。昭和40年代、山崎猛さん撮影


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困った説明板

2008-09-07 | 知床
 知床五湖の一湖にある「開拓は2度とも失敗に終わりました」と書かれた説明板、自分でも確認しないうちは勝手なことは言えないと思い直し、見に行ってきました。この時期五湖に近付くと人だらけの上、駐車場代をとられるので近付かなかったのですが、でも、現状がわかってよかったです。
 たしかに、説明板は立っていました。三湖や四湖のみならず、二湖に行くのを端折る人でも必ず行く、一湖のはたです。しかも、ずっと昔に私が見かけた記憶と違い、わざわざ新しく立て換えられていたよ、文面そのまま.....orz
 晴れた夏の土曜日、行列は渋滞してノロノロとしか進まないので、立って待っている方々もみんな読んでいきます。それに資料代わりに説明板を写メしていく人が多いので、本当に困ってしまいました(困)
 その後、シャトルバス内のアナウンスがおそらくこの20年くらい変わってないのではないかという指摘もいただきました。確かにずいぶん昔、初めて知床に来てシャトルに乗った時、バス内に流れるテープで、自然が厳しいので開拓が失敗したというような説明を聞いた記憶が・・・・。自然センター含め普段から知床に関わって活動をしている人はわざわざシャトルバスに乗らないので、わからないのです。これも確認しないといけないですね。
 でも、私があちこち問い合わせした時に、そうですよね、それは困ったことですね、と皆さんが言ってくれるのが、改めてありがたいなあと思います。たぶん知床の歴史についてはいろんな考え方があり、人それぞれの見方があるのだと思うのですが、それでも、誰かを失敗者にしてしまうような説明は見直さなければ、人間の歴史は大事にしなければ、という思いを共有できるのは、ありがたく幸せなことだと思った一日でした。

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謎は解けた! - - - 一湖、環境庁(当時)の説明板

2008-09-02 | 知床
 先日、いまだに「知床の開拓は自然が厳しすぎて失敗した」と現地で教わって(?)帰ってくる観光客の方がいる、とブログに書きました。『確かに自然は厳しかったかもしれないけれど、ちゃんと開拓はなされていて、国立公園制定や政策の転換など様々な理由で離農したので、失敗とか逃げ出したとか言うのは、そこでちゃんと暮らしてきた開拓農家の方々に失礼なんだ』と、一生懸命書いた手紙を知床ガイドの方々に送ったりもしました。知床ガイドの方々からは、『今どきそんな説明はしていない、私たちにとって先人である人々を失敗者扱いするような失礼なことはしない!』という非常に心強いお返事をいただいて、ちょっと安心していた所だったのです。

 が、それもつかの間、ほんの2、3日前に、またしても「むかし日本政府が何度か開拓を試みたが,僻地で自然環境が厳しいため開拓できず,断念した,という話に胸が熱く・・・」とネットで感動を綴っていらっしゃる観光客の方の文章を発見・・!? やっぱり誰か、いまだにそういう説明をしている人がいるんだワ!? いったいダレが??

 ・・・・そして、謎は解けました。
 知床五湖には、環境庁(当時)が「知床五湖探勝歩道」に設置した説明板があるのですが、その第2番に「知床五湖のあるイワウベツ台地一帯では、大正、昭和と2回にわたって開拓が試みられましたが、いずれも失敗に終わり、入植した農家は全て離農しました。」と書いてあったのでした!
 その説明板がいまだに立っていて、知床に今年も訪れている、○万人単位の全国からの観光客の人たちが、みんなこれを読んで帰るわけね。
 入植のこと自体、間違うとるし。
 たっ・・・・頼むよ環境省!!!(泣)
 私、一湖にはほとんど撮影に行かないので、いまだにそんな説明板が立ってるなんて、全然把握していませんでした。
 役場のホームページにしても、環境庁(当時)の説明板にしても、行政の側が、実際に土地に生きた人々のことを抜きに語ってはいけません。
 ガイドさんはぬれぎぬでしたね(説明板をうのみにしていた人はいたかもしれないけど・・)、すみませんでした。
 明日にでも早々に環境省に申し入れします。
 
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「よっしゃぁ!」と、「トホホ」と、「バンザイ!」

2008-08-30 | 知床
8月の最後ですが、残暑お見舞い載せておきます(;;)


 今年はついに前線が日本列島の上にのたったまま、梅雨が秋雨に突入してしまいましたね。本当によく降る。北海道はもうストーブのCM、融雪機のCM、雪道タイヤのCM・・一挙に夏の気分から引きずり降ろされます。昨日はクノールのCM撮影で、こちらのトウモロコシ畑に某タレントさんが来ていたそうですね。私を迎えに来てくれた運転手さんが、その直前までロケに付き合っていたそうで、「俺、イマドキの若いやつはわかんねーもん。なんだかキャーキャー言われてたけどな。誰だっけなあ。」とそっけない(笑) あ~私も見たかったなあ(ミーハー) クノールのカップスープとか、シチューとか、もうそんな季節です。
 ところで今日はいろんなことがあった日でした。喜んだり脱力したり、気持ちが忙しかった!
 まず、知床に現在一軒だけ残っている開拓家屋『門間家』の保存、良い感じで進みそうです。近いうちに、祝!とご報告できるかも。よっしゃあ!と握り拳をつくって、一人で小さくガッツポーズです。
 ・・と喜んでいると、関東の某医院のドクターと名乗る方から電話が・・・(?)
 そのドクターが診ている某患者(♂)がこちらの病院を受診する可能性があるので、本人の治療のために「できるだけ恥かしい格好にして、できるだけ若い看護師さんが二人以上見ている前で、縛って浣●してやってほしい」(&女医さん指名で)
 ・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・(- -"
 ・・・・・・・・
 ドクターじゃなくて・・・・本人じゃろうがあ!!!
 前回受診したカルテを調べると、本人が持参した診断書(浣●をするようにという診断書)は偽造だったよ・・・・(病院が実在しなかった) 本当にその名前と生年月日の人かどうかも、本人確認がとれないことも判明。精神的にデリケートな患者さんの話なら真摯に電話を受けるけれど、プレイに付き合う気はない(- -# 診断書偽造して、主治医を騙って電話して、病院をそういうトコロに使うんじゃないよ
 で、院内で今後の対応を話し合って、トホホな気分で部屋に戻ってくると、「知床開拓スピリット」を出版していただいた柏艫舎さんから連絡が入っていました。ななななんと、私の本が某雑誌の今年度の大賞に決まったそうで!
 えええええええ!!!????
 半分信じられなくてその賞について冷静に調べ始める自分と、大感動うるうるな自分と、分裂混在カオス状態。
 今まで皆さん本当にどうもありがとうございました!! お世話になった皆さんにありがたい、プッシュして下さった雑誌社の方に、本当にありがたい。ありがたい、ありがたい、ありがとうございます、本当に。
 昔むかし、大学病院を辞めて、自分にはなあんにもなくなってしまった状態で(それまでぎちぎちに仕事の毎日で、平日に昼間に外出するなんて有り得なく、周りの眼が気になったほどの状態で)昼間に、一人でボソボソとハンバーガーショップでほおばりながら、その店に置いてあった当雑誌をひたすら読んでいた頃を思い出します。(当時、それが数少ない楽しみの一つだった。)
 また、この最近は再び撮影や取材の日々に戻っていて、その孤独な作業の混沌の中に再びずぶずぶと沈みそうになっていた所だったので、ピンと頬をはじいて我に返らせてくれたような、水の中から引っぱりあげてもらえたような、ありがたさがあります。
 ああ、明日になったら、取り消しとか言われないといいなあ(笑)
 本当にありがとうございます。
 
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「知床をガイドする方への提言」を書きました

2008-08-18 | 知床
幌別台地から岩尾別小中学校があった岩尾別川をへだてて、岩尾別台地、そして羅臼連山を望んでいます。


 先日、ちょっと脱力してうしろむきになっていました。というのが、斜里町役場のホームページには相変わらず「岩尾別の開拓はバッタの大発生などがあって離農」と記されており、知床の観光客の方は相変わらず「知床の自然は厳しいから開拓者は逃げ出したんですねえ」と帰ってきて、現地でそう説明されたと言い、そして知床をガイドする側の方が「自然!自然!」と喜んでいる来訪者に対して、なんだか暗くて難しいイメージの開拓の話をしたがらないのを、実際に見たからです。
 観光客の方は少しも悪くない。でも、知床について説明をする立場の人間の責任は重大です。
 しばらく唸って考えていました。
 私はまださらに何かするべき?
 それとも、「知床開拓スピリット」を出すことで、精いっぱいの提言はした。それを受け取る人々のところまで、どうこう踏み込む話ではないのでは?
 私は矢を放ったが、その矢を拾うかどうかは、他人が決めることなのです。

 休みになって、体力も気力も戻ってきたところで、考え直しました。
 矢が十分に放たれていなかったら?
 自分一人が勝手に「十分やった」と思い込んでいるだけでは、しょうがありません。
 何もしないでうしろむきになっていても何にもならないので、知床をガイドする方々のところに、提言(というより、お願いですね)を書いて、お送りしました。

 ここにもアップしておきます。


(2008.8.22(金)追記;
 その後、知床のガイドの方から、正しい歴史を伝えようと努めているというお言葉と、一部の不適切なガイドさんのために、知床のガイド全体が間違った説明をしているかのように捉えられてしまうのは悲しい旨のご連絡をいただき、サイトのトップページから「提言」は削除しました。私の杞憂ならば本当に喜ぶべきことなのですが。一方で、こちらのブログは個人的に思ったことを書き連ねていて、投稿ごとに修正を重ねていくものだと思っているので、ブログには「提言」は残しておきます。どうぞよろしくお願いいたします。)

*********************

 突然のお便りを失礼いたします.私は知床の岩尾別・幌別地区(知床自然センター周辺から知床五湖にかけての地域)の開拓の歴史について調べている写真家で栂嶺レイと申します.最近気になることがあり,迷いながらもペンをとらせていただきました.
 ご存知のように,知床では大正期から約50年にわたって開拓が行われましたが昭和41年に全戸離農,その跡地を保全し森林再生を行う目的で知床100平方メートル運動が展開されています.運動地には現在も廃屋が点在し,知床を訪れた観光客の方々の目にも触れるところとなっています.
 今は夏のハイシーズン中ですが,先日,知床を訪れた観光客の方から「現地のガイドから,廃屋は開拓者が知床の自然が厳しすぎて失敗し,土地を放棄して逃げた跡だ,と説明された」と伺い非常に驚きました.未だにそのような説明がなされているとしたら,大変残念なことであるとともに,人々に伝える側であるガイドさんの見識として,非常に危機を感じたのでした.
 「知床は自然が厳しいから開拓は失敗した」と説明すれば,とても簡潔で言い易く,知床の大自然の凄さも強調できますし, 100平方メートル運動の重要性を語るにも,誰にでもすぐに受け入れ易いストーリーかもしれません.
 しかしそれは事実とはかけ離れており,「開拓者は失敗した,逃げ出した」と一方的に語られる下で,実際に知床に暮らしたもと開拓者の方々が「子供たちのために」と口を閉ざし,開拓者であったことを隠さざるをえない状況を作り出してしまっているのも事実です.


 現実には,知床自然センター周辺から知床五湖までの間には「幌別」「岩尾別」という二つの村があり,60戸を数える人々が暮らしていました.それぞれ神社や公民館があり,馬鈴薯や小麦の生産,肉牛の飼育が行われ,五湖の近くにはでんぷん工場も作られていました.岩尾別小中学校(現在の孵化場がある所)の卒業生は,昭和41年までに延べ200人を超えています.
 しかしながら,直接的な離農のきっかけは,昭和39年に知床が国立公園に指定されたのを機に町が突然の全戸離農を決定したこと(当時は,民生安定対策として,僻地に住む人々を都市部へ移住させるという政策)でした.その背景として,昭和30年代後半から,北海道内に限らず日本全国で戦後開拓事業を終わらせようとする動きがあったことが挙げられます.知床では戦後開拓事業は観光事業へ転換され,開拓者を離農させ都市部に移住させる一方で,知床五湖への観光道路の建設に着手するなどの動きがみられます.
 まさか離農するとは考えていなかった知床農家の方々は,昭和38年から39年頃にかけて新しい共同牧場を開いたり,組合を作って機械を導入したり,小中学校の記念式典で新たに学校にピアノを購入したりしています.しかしその翌39年に知床が国立公園となり,さらにその翌40年に離農政策が決定され, 41年までに全戸離農という過程をたどっています.


 このように,後から語られるようになった「作物がとれなかった」「貧しすぎて夜逃げした」という話も,現代からの勝手なイメージにすぎません.
 「バッタの被害に遭い離農せざるをえなかった」と書かれているのも目にしますが,バッタの大発生は初めて人々が開墾に入った頃の大正8年のことであり(バッタも初めて耕された「やわらかい土」をめがけて卵を産みに来たそうです),その後は戦前も戦後の開拓期も一切発生していません.昭和41年の全戸離農は,バッタの発生とはまったく無関係です.
 火山台地の水利の悪さを離農の原因に挙げる文例も見た事がありますが,実際は昭和31年には開拓地全域に水道がはりめぐらされており,農耕地への水の便の悪さを語るもと開拓者は皆無です.(離農により水道が撤去されてしまった現在,100平方メートル運動地の植林のための苗床へはタンクで水を運ばなければならないそうですが.)
 また,100平方メートル運動が始まるのは,農家の方々の離農から11年が経った昭和52年からで,離農と運動の開始とは直接関係がありません.(100平方メートル運動開始のきっかけは,昭和46年の知床旅情の大ヒットで知床ブームが起こり,流入する不動産業者の土地買占めを町が阻止しようとしたこと,昭和50年に町が離農跡地の一部を購入し,町有地化を開始したこと,などです.) 
 開拓農家の方々は,全戸離農とされる昭和41年以降も現地に住み続けたり,100平方メートル運動が始まっても土地を手放そうとしなかったことが,最近では明らかになってきました.現在もわりとよく残っている廃屋は,最後まで住み続けていた方々の家屋です.苦労しながら10年以上かけて自らの手で切り拓いてきた土地を,そうそう簡単に放棄したり逃げ出したりはできないのが人情ではないでしょうか.


 当時の日本国政府としては,思うように僻地の農地化が進まない,農業政策としての開拓事業はモ失敗“だった,と考えたのも確かなことだったろうと想像します.100平方メートル運動は行政主導で大きく全国にPRされましたから,それに付随して開拓の歴史も行政側のみの視点で語られてしまったのも仕方ないことだったかもしれません.
 しかし,それを鵜呑みのまま現在も同じ説明を続けるのは,実際の歴史にそぐいません.のみならず,安易な解説が,今もご健在なもと開拓農家の方々を傷つける結果になっている現状があることをどうか知っていただきたいのです.


 知床に点在する廃屋やでんぷん工場跡,牧場の水飲み場,馬頭観音,当時の水道などは,人間が失敗して逃げ出した負の遺産などではなく,知床の大自然の中にそれらを作り上げ,人が暮らした素晴らしい証です.
 最近では,先日8月6日に網走支庁主催の「高校生環境サミット」が開催され,北見北斗高校,斜里高校,羅臼高校の生徒さんたちが,知床自然センターの近くに残存する最後の開拓家屋「門間家」の見学を行い,知床にも人の歴史があったことを学びました.今後もこのように,知床の森の中に点在する様々な村の痕跡を,新たな歴史遺物・観覧資源として活用する視点があっても良いのではないかと思います.
 知床は,人間がじっくりとその自然と向き合い,日々の暮らしを作り上げていった土地でもあります.厳しい大自然の中での生活は,現代の私たちには想像もできない苦労もあったことでしょう.でもその中で現実に生きた人々がいた,高度経済成長期以前の何もない時代に何もかも自分たちの手で作り上げた人々がいた,そのような,人間の素晴らしい歴史をも含んだ土地なのです.知床の素晴らしさを伝えるガイドの方々には,どうか,知床に暮らした人間の素晴らしさも伝えていっていただきたいと,心より願っております次第です.
 
平成20年8月   栂嶺レイ
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目覚めよ、開拓者精神

2008-06-27 | 知床
知床、幌別開拓地の共同牧場跡。自分では気に入っている写真です。なぜって、"土管"を被写体にする人はあんまりいないと思うので(笑)


 先日、6/21(土)に、斜里道の駅にて、斜里青年会議所主催で「目覚めよ!開拓者精神!」という講演、引き続いて「語ろう!まちへの想い 伝えよう!次世代へ」と題する理事長の近藤さん&会場の皆さんとのディスカッションをさせていただいてきました。

 私が「知床開拓スピリット」を書いている時、一番の願いは、
1)開拓者の方々ご自身が「自分が生きてきた」そのことを誇りに胸を張って語れるようになってほしいということ、
 そして
2)斜里町の方々自身が、隣人であるもと開拓者の人々のことを、そして、その隣人であり血を引き継ぐご自身たちのことを誇りに語れるようになってほしい、ということでした。
 1つめは、5/10の岩尾別小中学校の同窓会として実現し、2つめはこうして斜里町の方々が開拓時代に関心を持って会を立ち上げてくださり、本当に願ったり叶ったりです。

 私が話した大雑把な内容は、「現在、医師不足や食糧危機や燃料高等々叫ばれているけれど、ほんの数十年前まではそれが当たり前だった。その中で自分たちの手で暮らしを築き上げてきた人々が知床にいる。実際どんな生活だったか(→スライドで知床開拓の歴史と、実際に水道や家や学校など自分たちでつくり、苦労しながらも日々の楽しみも見いだしていった生活を紹介)→それは知らない遠い世界の人々の話ではなく、今もすぐ隣に、身近に、自分たちのおじいちゃんおばあちゃんとして暮らしている人々の話である、知床に限らず斜里町自体が開拓で出来上がった町である、無理に新しいことを始めなくてもいいから、まず今日家に帰ってから自分のうちの、隣の、近所のすぐ近くの人の存在やその生き様に目を向けるところから始めてはどうか、その人々の生きてきた歴史の中に、私たちが現在の危機を生き抜くヒントがたくさんある」・・というような内容です。よそものの目から見えれば、斜里町は良いもの、良い歴史をたくさん持っているのに、その足下が顧みられていないのがとても残念に見えるのです。

 などなど話したのですが、私が始終感動していたのは、「斜里町をどうやったらもっと良くできるか」と悩み続ける若い連中がどっさりいることでした。斜里青年会議所は、どこからか助成をもらって運営しているわけではなく、自分たちで経費を出し合ってやっているそうです。ので「懐を赤字にしてでもやろう!」という気概がなければ成り立たない会なのですね。お互いのお金を喰うわけだから、今回の講演会にしても実現するまで何回も審査があってシビア~だったそうです。
 会議所の面々は一人一人が個性が強く、アクの強い考えを持っていて、誰と話してもむちゃくちゃ楽しかったですよ。バトルができる!(笑) いや、思えば、斜里町の歳をとった方々もスーパー爺婆な方ばかりなので、斜里町は面白いし、すごいと思いました。この世代を超えた個性のぶつかり合いから具体的な一歩が生まれるよう本当祈っています。

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がーん(T T)

2008-05-31 | 知床
 当直中なんですが・・明け方に外来患者さんに起こされて、診察が終わってから不覚にも寝てしまった!! 外来からの電話には飛び起きるんですが、自分で4重にセットした目覚まし時計は自分でぜ~んぶ止めてしまったみたいです。ハッと布団から飛び上がったのが7:45。医局へダッシュしましたが、最後1分くらいしか見られなかった・・・・・・
 なにやってるんでしょう~~(T T)
 う~~~・・・・
 ~~~~~~・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 現在8:10くらいですが、まだ頭ぼーっとしてるので、もう一回寝てきます(泣)(呼ばれなければ)

 知床開拓のことをテレビで放送してくれてよかった。
 山口ディレクターさんありがとう~~
コメント (2)
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来運神社とOさん

2008-03-31 | 知床
来運神社にて。未来に希望が持てない時代、なんて言われているけど、現代人が悲観的になりすぎてんじゃないか、と思わせてくれる一瞬。


 斜里にいたらいたで病院以外にもやらなければならいことはたくさんあるのですが、昨日はフリーの時間ができても何だか疲れてしまっていてですね。せっかく空も晴れ上がったので、当直までの時間、斜里岳の麓の方にそぞろ歩き・・いや、ただふらふら走りに行ってきました。
 知床はちょうど、雪解けの下から秋播き小麦の緑の若芽がじゅうたんのように見えて、そしてちょっと山際は樹氷、海は流氷という移り変わりの季節です。空気はまだ寒いのですが、青空の下にゆらゆらと上がる大地からの水蒸気の匂いをかぎたくて、車の窓全開にして走ります。
 斜里町は斜里岳の伏流水が、無名のものも含めてあちこちに湧いていて、ほんの数十年前までこの地方の、きれいな清水を大量に使うでんぷん工場の稼働を支えていました。
 その中でも一番有名な来運の湧水には、日曜日なので次から次へと人々が水を汲みにやってきますが、湧水が注ぐ小さな沢を渡ったすぐ上の来運神社まで登っていく人は少ないようです。
 まだ雪だらけの雑木林の中を、青空の向こうにちらちら見える斜里岳を意識しながらぶらぶら登ってみます。誰もいない神社にお参りして、拝殿の中を覗き込むと、
 贈 ○○○○
 あれ、いつも病院で見ている患者さんの名前が、紫色の垂幕に大きく書かれているではないですか。平成四年。今から16年前にこの布を奉納したのは患者のOじいちゃんだったんですね。
 Oさんは私が斜里に来るようになった時にはもう寝たきりで、ずっと入院していました。危ない危ないと言われながら、その都度持ちなおし、もう歩けないし自分でご飯も食べられないけれど、いつも意識ははっきりしていて、話しかけるとかすれた声で返事してくれます。
 確かに、そう言われてみれば、Oさんはこの来運の農家さんなのでした。16年前はまだ元気で、この場所を歩き回って、この青空の下を耕し、そして来運神社に祈って垂幕をつくったりしていたのですね。
 病院に戻って、Oさんの病室に行きました。
「どう、変わりないかい。今日は痛いところはないかい。」
 変わりないです。痛くないです。
 いつもと変わらず元気な顔で即答しますが、息が漏れるので音声になりません。
「さっき来運の神社に行ってきたんだよ、Oさんの垂幕があってびっくりしたさ。Oさんが奉納したの。」
 ・・はい。
 Oさんは即答ではなくちょっとゆっくり答え、そして私を見るのではなく少し遠くを見る目でこちらを見つめました。
 16年昔のことを、現在の、もう何年も寝たきりのOさんがどれだけ覚えているのか、私にはよくわかりません。
「垂幕は今もものすごく綺麗だったから。鮮やかで、作ったばかりみたいだったから。」
 ・・はい。
「だからOさんもまだまだ元気でいてよ。」
 ・・・はい。
 いつもの診察と違う話題に、Oさんも少しとまどっているように見えたのは、単に私自身がいつもと違うことを喋って周囲がいつもと少し違うように感じただけなのかもしれません。
 知床の田舎の病院の、3月最後の日曜日の午後でした。


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写真展、無事終了しました

2008-03-06 | 知床
 「知床開拓スピリット」栂嶺レイ写真展、無事終了いたしました。できるだけ会場にいて、できるだけたくさんの方にお会いして・・と思っていたら、本当に目がまわるような毎日で、ただもうすごかったです。「知床に開拓地があったなんて知らなかった」「離農は政策だったんですねえ」という方が多く、それだけでもやった甲斐ありましたという感じでした。興味を持って見に来てくださった皆様、どうもありがとうございました。次回は紀伊国屋札幌本店にて、5/17-22に写真展を開催いたします(次回は夜8時まで開いています)

 ところで、すごかったのが、本にも出ているYおじいちゃんの甥御さん(コメントもいただいているスマイルYさん(笑))がいらして、「この本を機に、父母が伐り拓いてくれた知床で学び育った2世が今こそ出来ることを!」と、今まで散り散りで所在もわからなかった開拓者2世の人々がもう一度連絡をとりあって会おうというムーブメントが起こっていたことです。すごい、というか、ただもう感動。初代開拓者の皆さま、「子供たちのために、開拓者であったことは知られてはいかん」とおっしゃっていたその「子供たち」が、皆さまを誇りに再会しようとしています。こんなふうに本が次へとつながっていくなんて、ただもうありがたいです。

 ところで搬出の後2日続けて当直、現在斜里町ですが、PCに向うと目が閉じてきます(汗)いえ、相変わらずご返信や更新が遅くて申し訳ない言い訳なのですが(すみません・・)、明日もその後も1日おきに当直です。昼間もびっちり働いている常勤の医者がこのペースでやったらたまらんだろうなあ、と、日本全国には昼も夜もぶっ通しで働いている医者が山のようにいることを思いやりつつ・・。
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祝賀会

2008-02-28 | 知床

 コメント下さった方、大変お返事が遅くなりすみません!!
 病院勤務、写真展、義母の四十九日、と、斜里、札幌、千歳、和歌山と、目まぐるしい1週間でした。このままではいかん、と、今日はお休みをもらって、ためてしまった原稿やお礼状などに向っています。
 先週18日はラジオの後、斜里町の方々が出版祝賀会を開いてくださいました。もう少し落ち着いたらお世話になった方々を集めて御礼の会を・・と思っていた矢先、先にこのような会を開いていただいてしまい、最初はあんまり恐縮して小さくなっていました。文字どおり「抱えきれない」お花をいただきました。このお花も知床の地元の方が栽培しているものなんですよ~、ビバ知床!
 すごく和気あいあいとした会で、最後は主催者の機転で、全員が手をつないで一つの輪になり、揺れながら知床旅情を3番まで熱唱! 町関係者ももと開拓者も、どっぷり知床に暮らしてきた人から新参者(私など)まで一緒くたになっている光景は、なんだか感激でした。お祝いして下さっている方々自身がえらい上機嫌で、嬉しかったですねえ。本当にありがとうございました。



 STVラジオの夕やけジャーナルも、私が言わなくても、言いたいことは全部、パーソナリティさんが語ってくれました。前の週末をかけて本を読んで下さったのだそうです。牧泰昌さんありがとうございます。その後すぐ乗ったタクシーで、ラジオを聴いていた運転手さんがまず一声、「開拓者は開拓がイヤになって勝手に辞めたと思っていたけれど、そうじゃなかったというのがショックだった」 ラジオというメディアでそれだけ伝われば本望です。ラジオは強い!
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STVラジオで放送していただけることに

2008-02-17 | 知床
 ところで明日、2月18日(月)の夕方、STVラジオの"夕焼けジャーナル(http://www.stv.ne.jp/radio/yuyake/index.html)"という番組の中で、「知床開拓スピリット」のことを取り上げていただけることになりました。17:20-17:30くらいのジャーナル横丁というコーナーで、私も電話出演いたします。お時間のある方はぜひ、聴いてみて下さい。よろしくお願いします。
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「知床開拓スピリット」が出てその後

2008-01-21 | 知床
知床開拓地・秋元さんの家の跡にて、馬で畑を耕す農機具プラオの一部。背後に土管が転がっているのも見ていただけると嬉しい。


 「知床開拓スピリット」が発売になって、約3週間がたちました。何か、思った以上に誉めて下さる方が多く、毎日ありがたいありがたいを唱え続けているような状態です。周囲は「おめでとう」と言って下さるのですが、どうも自分の感覚では、これは人のために作った本であり、多くの人々にお世話になって出来上がっているので、ひたすらこちらが「ありがとう」であって、お祝いされるとヘンな気持ちになります。

 しかし本当に嬉しいと思ったのは、もと開拓者の方々の微妙な変化でしょうか。今まで「昔のことは思い出したくない。昔のことは忘れた」と後ろ向きでほとんど話してくれなかった方が、急に自分も昔の資料が欲しいと言い始めたり、本に載っている写真を開いて「この場所は・・」とか「この人は・・」と突然語り始めたり、「開拓者ということで親戚から非難されたり友人から馬鹿にされる!」と言って(←私個人は、親戚や友人の方の見解は実際は少々違うのだろうと推測していますが)、「あんたは育ちがいいから絶対わからん!」とそれはそれは怒っていた方が、嬉々として「たくさんの人に読ませる!」とくだんの親戚や友人に私の本を送りつけていたりなど、横からその様子を見ながら、ようやく緊張が解けたような、ホッとしたような気持ちで嬉しいです。1年くらい前は、"開拓者の人が自身が生きてきたことを胸を張って語れないなんてバカなことがあるものか"という悲しい気持ちとともに、昔のことをほじくって怒られている自分→自分の取材は誰からも望まれていない、という覚悟のようなものがあって、すごく張りつめていたのですが、やっと解けたというか、ほっとした気持ちを味わっています。

 一方で本州の方(本州での開拓者だった方)からは「開拓者であるということは語ると良くないのでしょうか?」と心配した声をいただいて、慌てて、知床の現代に至るまでの開拓事情が少し複雑で、語りたくない人もいるのだと説明することもありました。戦後開拓がごくまっとう普通に受け入れられている地域もたくさんあるのです。
 色々声をいただくと、新しい目でまた知床を見ることができます。
 やることはまだまだ終わらないなあと思いつつ、今週後半からまた斜里町です。
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