![]() | <あの頃映画> 砂の器 デジタルリマスター版 [DVD] |
今頃になって初めて映画「砂の器」を観ました。1974年の映画ですから、公開から実に40年経って観たことになります。
松本清張原作の推理ミステリーであるということと、ハンセン病が映画の背景にあるということ以外の予備知識はありませんでした。自分はGRAPHICATION(富士ゼロックス)の「誰も知らない熊野」の連載で湯峯温泉(湯峰温泉)とハンセン病の関係を書くにあたってかなり取材をしていたので、この映画も1度は見なくてはと思っていました。
(誰も知らない熊野(6)湯峯ーー豊穣の源となったハンセン病患者)
(ちなみに以下、ネタバレが含まれているので、まだ映画未見の方はご注意下さい)
年をくってしまってから映画を見ると、映画の中の人間関係が薄っぺらく見えたり、展開がちゃちに見えたり、ああ若いうちに見たかったなとか、つまらなく思うことが多いのですが、「砂の器」は久しぶりに満足しました。確かにこれは日本を代表する名作でしょう。が、同時に、やっぱりすごく不満な部分もありました。(後述します)
ところで、「どこが感動的なのかわからなかった」という若い人の感想を読んで、なるほどなーと感心(?)しました。というのは、その若い人には、どうして病気の親子がここまで迫害され虐められて放浪しなければならないのか、さっぱりわからないからでした。確かに、過酷な状況で互いを思う親子の姿は、涙を誘うことに間違いはないでしょう。でも、どうしてそんな状況に置かれるのか、また、それがどうして殺人事件にまで発展するのか、ハンセン病の予備知識がなければ理解できないのです。
そういう意味で、自分は熊野の小栗街道を彷徨った昔の患者さんたちの話や、ハンセン病の歴史を一通り勉強してから映画を見たので、理解できてよかったと思っていました(その時は)。
ところで、私が不満だった部分とは、犯人の心理です。殺人に走ってしまう犯人の動機がいまひとつ描けてないように思えて不満だったのです。過去と決別し、会いたいはずの父とまで決別して、現在の地位を守るという動機のためだけに殺人という最終的&最悪の罪まで突き進んでしまうというのは、あまりにも人物像が薄っぺらいように思えたのです。なんか自分さえよければOKな人物みたいな? 演奏後の満足そうな表情とか、ちょっと腹立たしく思いました。演奏後に苦虫をかみつぶしたような顔とか、もっと深い沈痛な顔をしてくれていればよかったのに!と思ったわけです。重厚な素晴らしい映画の流れの中で、そこだけ火曜サスペンスか土曜ワイド劇場のノリが紛れ込んだかのような違和感でした。お父さんを思う気持ちも、描かれていないわけではないのですが、父の方の描き方や演技が格段に素晴らしかった一方、子の方が描けてないように見えたのです。そしてその「薄っぺらく見える」犯人が、「宿命」を連呼する。だいたい何が宿命よ?(映画の中では、宿命とは「生まれたこと、生きていること」と説明されていますが)
……と、映画を見終わって、文句をたれたれお風呂に入って、考えているうちに、私は愕然としました。
違う、映画が犯人を描ききれていないんじゃない、「私が」「理解できてない」のだ。
私自身もまた、ハンセン病のことを全然わかっていない現代っ子であることに気付き、愕然としたのでした。
ハンセン病とは、かつて「業病」と呼ばれた病気です。
「業病」というのは、単純な「不治の病」というのとは全然意味が違う。
先祖とか、親とか、はたまた親類縁者でもない前世の人物とかが犯した殺人などの深い罪が、まわりまわってひどい病の結果となって出現するという、古くからの輪廻思想が作り出した考え方です。前世の誰かの罪を輪廻で受け継いでいるという、まったく迷惑で失礼な考え方です。日本版「原罪」とでも言うんでしょうか(?)
だからハンセン病を発症すると、本人にはまったく罪のない関係ないことなのに、前世の誰かの深い罪を引いてるんだとコソコソ言われる。誰か知らない人の罪を背負った「罪人」だからと(しかもその罪が見える形(=病)で出たと)、追放されるわけです。
もともとは、「なぜこんなにひどい病気にかかるのか理解できない、前世の因縁と考えるしか救いがない」という考えだったと思うんですよ、それがいつの間にか「こいつは前世からひどい奴だ、生まれる前から罪人なんだ」という確定になってしまった。
(もちろん、現実には全然違いますよ、ハンセン病はただの感染症です、抗生剤で完治する普通の感染症です、ハンセン病のことを前世が~とか言う人が目の前にいたら医者の私は殴りますよ(殴って治療してさしあげます)、念のため。)
だから、映画の中で業病患者の子供が、その血を断ち切ろうと生きてきて、結果的に殺人まで犯す。「業」を断ち切ろうとしているのに、結局「業」に陥る、「業」から逃れられないんです。断ち切りたくても断ち切れない因縁に、観客はぞ~~っとする。そんな宿命を背負った犯人に観客は涙する。「なんという業だ!」「なんという宿命だ!(結局殺人を犯すことは前世から決まっていたのか!)」と身震いしながら観る。そんな映画だったのです………。
Wikipediaを見て見ると、「業」の欄に「不合理だと思ってもやってしまう宿命的な行為」と書いてありますね。ちゃんと「宿命」という言葉が出てきます。
不合理なのにやってしまう宿命的な行為が、まさに犯人が犯してしまう恩人の殺人ですね。犯人が上奏する大作品も「宿命」です。宿命から逃れようと必死で生きている犯人、なのに結局その宿命に落ちていく犯人、逃れられない厳しい宿命(=「業」)・・・映画は実はそんな、深い深い映画だったのです。
でも、私にはその深さはわかりません。自分が勉強した予備知識から、そういう感動する映画なんだろうなあ!と想像するだけです。
犯人が抱えている心の闇を、私は想像することしかできません。想像できないからこそ、私にはうすっぺらい犯人像に見えてしまったのでしょう。
もっと言えば、ハンセン病が「業」だと思っている人、「業」の感覚を自分の中に持っている人(無意識下でも)でなければ、この映画に本当には感動できないでしょう。
映画の最後に、ハンセン病患者さんに配慮して、病気への差別は偏見であることがテロップで流れていますが、この映画は、その「偏見」(とあえて言います)がなければ作ることができなかった映画です。そして、観客にも偏見がなければ本当には理解も感動もできない映画です。
(本当には…と書くのは、父子の情愛や、その父子を助けようとする人々の人間ドラマ、胸を打つ美しい風景の数々など、ごくシンプルに感動できる素晴らしいシーンはたくさんあるからです。ただその、現代人が見て感動できるシーンは映画の本質ではないです。)
映画の中盤、刑事が父の病について「それは癩病だったのです!」と明かすシーンがあります。
このシーンは本当は、観客からどよめきが起こるような、もしくは観客がガビーン!と動揺するショッキングなシーンだったのではないかと思います。
でも、私も含めて今の観客は、「癩病だったのです!」と告白されても「ふーん」といまいち淡白でしょう。この「わからなさ」というか「とりたてて動揺しない具合」というのは、私は実は喜ばしいことだと思うのです。なぜなら、「そうなのね、だから何?」と思う現代人には、せいぜい「見た目が、近付きたくなくなるくらい酷いことになるらしいよね。不治の病だったらしいね」という感覚しかなくて、「業病」という感覚がないからです。
なので「砂の器」はテレビドラマでリメイクされる度に、ハンセン病の設定がなくなって、「殺人者の息子」の設定になったりしたそうですね。
これは単にハンセン病患者さんに配慮してというよりも、「親の因果が、逃れられない宿命となって子にふりかかる、その宿命の中でもがきながら生きる子、でもやっぱり逃れられない」という映画のテーマを表現するためには、ハンセン病がもう「通用しない設定」だったからだと私は思います。現代は「親が殺人者」というくらいしか、世間からもヒソヒソされて、子供が重く背負ってもがく設定ってないじゃないですか。それでも!今現代では、たとえ殺人者の子供であっても「親は親、子は子」という考え方が浸透してきているのでして、せいぜい「変な親に育てられたら子供も変かも?」という偏見はあっても、「親の業が子の宿命に」という文脈で子供を見る考え方は、一昔前に比べて格段に弱まっているのではないかと思うのです。(それでも偏見はあって、深く苦しんでいる子供の方々は多いと思いますが。それでも)
そう思うと、「殺人者の息子」という設定を持ち出してもなお、もう「砂の器」を表現することは不可能なわけです。
ハンセン病に対する誤ったイメージや考え方を心の底に持っていないとこの映画の真の感動に辿り着けないように、また、現代ではどんな設定でもってもこの映画をリメイクすることができないように、現代の「砂の器」の"理解できなさ"は、私は実に喜ぶべきことだと思います。おそらくこの映画はもう「過去の映画」なのでしょう。現代でも古さを感じさせない古い映画もたくさんありますが、「砂の器」はあくまで過去の時代を映し出した映画で(映画の中で描かれた時代ということではなく、製作・公開された昭和40年代の時代を)、過去のものであることを素直に喜びたいと思うのです。
補足:ハンセン病
ただの感染症です。抗生剤で完治します。
結核と同じ抗酸菌ですが、結核菌に比べて発症力も感染力もむちゃくちゃ弱いです。
結核は治療しないと臓器の機能不全や喀血による窒息で死亡しますが、ハンセン病自体が原因で死ぬことはないです。
問題なのは、菌によって痛覚がマヒして、痛みを感じなくなることで(北斗の拳に、痛覚を感じなくなる秘孔を突かれて、出血してもわからないでいる場面とかありましたよね!あれと同じ状態で)、目にゴミが入ってもわからないし、手足が切れたり火傷を負ってもわからない→傷が放置されて手足が曲がったり、失明したりという状況になってしまいます。これで歩けなくなったり目が見えないのに、昔は世話してくれる人もいないまま放置されて、不治の病でもなんでもないのに餓死とかしていたわけです。
よっぽど不衛生&栄養失調になるような悪い環境に、まだ免疫機能が確立していない時期の乳児がさらされると罹患する可能性があります。(大人はかからない) だから戦中戦後の貧困期に患者が出たのだし、現代では発展途上国での感染が問題になっています。
「空気感染」します(接触感染ではない!!!)
菌は自然界にいます(患者を隔離しても意味ない!!!)
同じ抗酸菌の「結核菌」ははるかに感染力が強く、いまだに多数の結核感染者がいて死亡者もいるのに、いろんな文学作品とか沖田総司とか深窓の美少女とかすごい美化されたイメージにされています。(結核の方が、人から人へ強力に感染し、免疫機能抜群の大人であっても感染するので、即、隔離しないと危ないのに!)
一方、もう現代日本では感染もないしすべての人が完治しているハンセン氏病で、「もと」患者の宿泊拒否問題が起きたりするのは、いかに私たちが見た目に惑わされやすいかという情けない状況を示していると思います。