ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

マニュアル頭

2007-02-18 | 写真
 そろそろサイト自体を作らなければ、次の写真展の告知も出版物の宣伝もできない・・と焦る気持ちはあるのですが、さてどういう構成のサイトにしてよいか、いまだ明確なイメージができません。自分のメインは日本古来の神や霊地などの民俗写真なのですが、そればかり展開するとかなりオドロオドロした画面になること必至です。かといって、キレイな風景写真では(需要はあるのでしょうが)自分的には物足りません。
 まあそれらは、まだしばらく迷うとして、そういや機材紹介のページも作った方がいいのかなと考えて、さらに頭を抱えてしまいました。
 自分は現在ペンタックスの645NIIを愛用しています。ちびちびと集め続けたレンズもかなりの数になり、メカが好きな人ならご自慢の機材ページが作れることでしょう。
 しかし、正直自分は、カメラのメカ自体にはほとんど興味がありません。(撮影地などで、機材の自慢合戦が始まると、コソコソ逃げ出すクチです。) 古女房のようにペンタックス645に馴染んでしまっているだけで、機械よりも自分がやりたい写し方ができるかどうかが問題であって、自分が求める写し方ができるなら、実は何でもいいんです。

 機材ページを作る・・と考えて頭を抱えてしまったわけは、実はいまだに、一度もオート撮影をしたことがないからです。もう1つ白状すると、NIIを使用していながら、オートフォーカスもまったく使いません。バリバリに最新のオート露光&フォーカス機能の備わったカメラとレンズを揃えながら、ああなんてもったいないことを・・とお叱りの声が聞こえてきそうです。

 思えば、初めて手にしたリコーの一眼レフの時代から、オート露光での撮影はやったことがありません。いや、ほんの最初こそやったかもしれないけど、全然思うように撮れなかったので「カメラの露光、信用できねぇー」とか思って、やめてしまったのでした。それ以来、マニュアル一辺倒です。カメラマンやっていながら、カメラをまったく信用してないです(汗) でも自分で考えて、自分で決めた通りの露光になるので、こちらの方が便利です。
 じゃ、カメラの露光機能を何に使っているかというと、スポットメーター代わりです。
 写したい画面の4~5箇所を選んでスポットを合わせ、プラマイ何数値になるのか確認して、自分で露光を決めます。「ちょっと待って~」と人を待たせながら、微妙にあちこちレンズを向けたりしているのは、それをやっている時です。
 思えば、645から645NIIに買い替えたのも、ただひたすらスポット測光の機能が欲しかったからだけの理由でした。べつにオートフォーカスしたくて買ったわけではないのです。
 最初は、NIIにもマニュアルレンズしかつけないつもりでした。

 が、日没~夜にかけて行われる民俗行事では、ピントを合わせるのがものすごく困難になります。日々ピント合わせに精進していたつもりだったのですが、あまりにも自分のピントが情けないので、ついに一念発起してNII用のオートフォーカスレンズを導入・・!
 のですが、私が肉眼で見てピントが合わせづらい被写体は、結局のところ、レンズのセンサーもピントを合わせられない、というのが実情でした・・(情けねぇー・・・)
 それに昼間でも、レンズがウィ~~ンといいながらフォーカスを合わせているよりも、自分でさっさとリングを回した方が、正直早いです。被写体が動き回っている民俗行事では、常にリングを回しながら構図を合わせているので、オートフォーカスでレンズがウィ~~ンと行ったり戻ったりしてる状態ではまったく間に合わず、逆にイライラしてきます。
 というわけで、NIIのオートフォーカス機能も却下。

 すごくもったいない状態で、機材紹介を書かないといけないですね。
 それでも、オート露光もオートフォーカスも一切封印して、こんなにマニュアル頭な使い方で文句なく撮れる645というのは、逆にすごいのかなと思った次第でした。

(余談ですが、いっちょうらの愛車も、エアコンもパワステもABSもないマニュアル車であることを付け加えておきます・・・)

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しょっぱい北海道

2007-02-13 | 医療
 北海道に赴任して10年を越えるが、いまだに食べ物に慣れない。
 道外の誰もがみな、北海道は食べ物がおいしいでしょう、とうらやましがるが、私はいまだに北海道の食事が駄目だ。
 おそらく、魚も、貝も、果物も、野菜も、素材そのものはとびきり美味いのだと思う。わざわざデパートで高級食材を買わなくても、近所のスーパーで300円くらいで売りたたかれているメロンが絶品に美味かったりする。が、なまじっか素材が素晴らしいがために、それを料理する文化がほとんど育たなかったのではないかと思うのだ。素材をそのまんま載せた海鮮丼や、そのまんま焼いたジャガバタやらホタテバターが溢れているが、いわゆる北海道料理という分野はない。
 本州から引っ越してきた馴染みのシェフが、ヒラメの昆布〆のことで嘆いていた。北海道では、他のシェフも含め、誰も昆布〆というものを理解してくれないのだという。「ヒラメは捕れたてを生で食うのが一番旨いのに、それを昆布で巻いて一晩も放置しておくとは何事だ、鮮度が落ちるじゃないか」と怒られるのだそうだ。かくして、ヒラメの昆布〆と聞けば私なんかは思わずつば一杯になってピヨピヨ寄って行きたくなるのだが、こんなに新鮮なとびっきりのヒラメが手に入るにもかかわらず、私は北海道でヒラメの昆布〆を食べることができないのである。

 今日もまた、発売されたばかりのカップ麺を試して、途中でげっそりして食べられなくなってしまった。
 実は、北海道のカップ麺は他地域よりも味が濃い目に・・・というより、あからさまにしょっぱく調整されている。そうしないと売れないのだと言う。
 カップ麺だけでなく、北海道はとにかく、しょっぱい。ひたすら、しょっぱい。
 それは、かつてニシン漁が栄え、そして炭坑が栄えた北海道では、肉体労働で汗水流す人々の求めに応じて塩分の多い食事が供されたからだと言われている。汗とともに体外に失われてしまう塩分を補うのに、その食事は理に叶っている。十分な量の塩を身体に補給し、疲労を回復させるためにも、十分に塩が加えられた食事は必要だったのだ。
 だからと言って、かつてのようなニシン漁も炭坑もなくなった現在、食事だけが変わらないというのはおかしな話だ。伝統の味、と名打っているラーメンや鍋は、しょっぱくて舌も涙も飛び出しそうになる。要は、北海道料理という分野があるのではなく、味が濃くてしょっぱいことが、「北海道の伝統」なのである。
 もう身体は塩分を必要とはしていない。のに、人々は過酷な労働者並みの塩分を摂り続けているのだ。

 かくして、私が北海道の地方病院で、外来に来る患者さんを診て一番にげっそりするのは、とにかくこぞって血圧が高いことである。体調が悪い人しか病院には来ないのだから、一般よりは血圧の高い人の割合は多いだろうが、それでも、北海道の患者さんは「またか」というくらい血圧が高い。正常範囲の人も中にはいるが、それは血圧の薬を飲み続けている結果である。頭が痛い、胸が苦しい、息がくるしい、身体がだるい、足がむくむ、めまいがする、みんな、高血圧である。
 ついでに病院で出してくれる食事さえも、私にはしょっぱい。時々、箸が止まってしまう。
 同じ病院食を、入院患者さんみんなが食べているのだが・・・。

 北海道のみなさん、どうかこれが普通の味付けだと思わないでください。
 道外、特に西日本から来た人間にとっては、しょっぱくてたまらないです。

 出張で、大阪より西、九州でも八重山でも、とにかく西、西に行くことがあると、もう涙出るくらい何でもたいらげてしまう。漬け物一つとっても、西日本ではしょっぱくはない。塩(もしくはしょうゆ)をかける「加える」文化と、ダシを滲み出させる「引き出す」文化の違いとも言えるかもしれない。
 かくして皆が「何でもおいしくていいねえ」と羨望のまなざしで見る北海道にいて、私はやっぱり食べ物が駄目だ。でも食べられないおかげで、塩分の過剰摂取にならないで済む・・? それが幸いなのか、不幸なのか、よくわからないけれども。




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哲学VS医学

2007-02-12 | 雑記
 「人は何故生きているのか?」
 という問いに、学生の頃、同級生と飲み屋で議論になったことがある。相手は哲学科を卒業してから医学部に入ってきた年上二人組。二人とも、何故人は生まれてくるのか、これほど不思議なことはない、何故人間というものが生きているのか考えることが大切だ、と言って譲らなかった。
 こちらは私と親友の若輩二人組、何故であろうがどうであろうが、とにかく人は生きている、生きているという所から始まっている、何故生きているかなんて考えることがナンセンスだ、と言って譲らなかった。
 二対二でずいぶん長く白熱していたが、向こうは人が生きているという"ゴール"に到達する前を語っている、こちらは人が生きているという事実を"スタート"した後を語っている、というわけで、夜明け頃になっても議論は平行線のまま、まったく噛み合うことがなかった。
 結局、親友と、これが文系と理系の考え方の違いなんだろうかね、と顔を見合わせて笑った。嫌みな感覚ではなく、哲学科の人と議論をするのは面白いねえ、と、笑い合ったものだ。考え方の湧き出る根っこが異なる人と議論をするのは、本当に楽しかった。
 その親友はさっさと故人になり、もと哲学者の二人はそれぞれの病院に赴任して離れ離れとなり、私たちが再び同じ議論をすることはなかった。病院で働いていれば、人間は何故生きているのか?という問いかけは、なおさら頭でっかちなファンタジーに思えた。医者である限り、患者がまず生きている、というところから全てがスタートしているからだ。一生懸命治療しようとしている患者に、「何故生きているの?」と問いかけてみればいい、果たしてそんな勇気があるのなら。

 最近、病院の食事をかきこみながらテレビをつけっぱなしにしていると、有名な占い師がゲストに向かって「人は何故生きているの?」と命題を出していた。ゲストは一生懸命「○○するため」とか「××のためになるように」と答えていた。
 私はご飯をかきこみながら、日本人はどうして、「何故?」ときかれると「目的」を答えてしまうのだろうと、いつもながら不思議に思った。「何故?(Why)」が「何のために?(What for)」と同義に使われてしまうのが、日本語のナゾだ。そのために、人は「目的」がなければ生きていてはいけないような気にさせられる。問いかけられて、答えられなければ、まともに生きていないような気分にさせられるマジックのようだ。何かのためになろうがならなかろうが、人は生きている。それでいいじゃないか。それに、占い師の問いかけ自体、「何のために?」を問うているものではなかった。
 私はテレビに向かって、何故生きているかなんて、考えたことないね、とあの日のように答えてみた。ちょっと懐かしかった。人は、生きている、というところから始まっている、それは事実だ、すべてがそこから始まっている、何故、なんて、考えること自体がナンセンスだ。
 それでも答えなければならないとしたら、強いて言えば、地球がまわっているからじゃないですか。地球がまわってるから、地球上の生物である自分も生きている。他の動物もみんな生きている。何故、というより、そういう成り行きの、そういう事実なんでしょうさ。
 と、心の中で言ったとたん、占い師が「地球が生きているからでしょうに!」と叫んだので、私は笑い出してしまった。
 ちょっとだけ、今はもういない親友と一緒にその占い師と議論をする夢を見た。今度は議論は平行線ではなくて、もっともっと、別の方向へ向かうだろうか。
 人は何故生きているのか?
 人の数だけ、その答えは出て来るのだろう。
 何故?と考えること自体がナンセンスだ、と言いつつ、その「何故?」を議論するのは、案外楽しいのかもしれない。


コメント (1)
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医療費はマジ高い

2007-02-06 | 医療
 最近、国民健康保険料の滞納と、医療費の踏み倒しが話題です。そちらにまわすお金があるなら食べ物に・・という、ギリギリの生活をしている人が増えている一方、払えるのに払わない人がたくさんいて病院が困っているのも現実です。
 飲食店で飲み食いして代金を払わなければ、すぐ警察が来て逮捕されてしまうのに、病院で代金を払わなくても逮捕されないというのは、とてもヘンな感じがします。財布を持って行かなければドラッグストアでだって薬を買えないのに、病院では財布がなくても薬をもらって逃げちゃうんですね。それは「犯罪」なのに、病院だとそれが「犯罪である」という感覚が薄れてしまうのです。
 そこには、生命に関することには金のことを言うな、という意識が横たわっているように思います。金のあるなしで命が左右されるのはおかしい。究極のところ、生命に関することなんだからタダで供給しろ、ということです。医療費や保険料を払わないという現実手段に出ないまでも、病院は金がかかりすぎる、保険料も高すぎるという不満の底には、命が掛かっているのに!、という意識が大きく関わっているように思います。


<医療費は、本来しっかりお金をかけるもの>

 でも、ニュースで報道がされるたびに、私たちの側がもっと自覚するべきだ、と強く思うことがあります。
 医療費は、マジ、本当に、高い、ということです。
 冗談抜きに、もともとかかってる値段が半端ではないのです。
 人体に、命に、直接かかわるものなのです。安価に半端に済まされてはたまりません。
 薬も、検査費も、手術費も、現実にものすごいコストがかかり、たくさんの人と時間が注ぎ込まれた末のたまものです。薬一つとっても、「絶対に大丈夫」と証明されるまで、実に10年以上の歳月をかけて出来上がっています。そこに至るまで一体どれだけの人間と設備と実験動物の命が費やされたか考えてみれば、安易な値段にはならない(なってはいけない)ものであることが理解できると思います。手術なんか、実際に人の身体を切るんです、千円や二千円のレベルで話ができるものではありません。
 ものすごくお金のかかっているものを、私たちは助成費や保険料のおかげで実際以上に安価に受け取っている、ということをもっと私たちは自覚しなければいけないと、強く思います。

 今まで、なまじっか保険証の本人は1割負担でよかったり、高齢者はタダだったりしたものだから、それらは安く、もしくはタダで供給されるもんだという意識が身に付いている。急に3~5割負担になったり、タダじゃなくなったりしたものだから「高い!」「払えない!」と言っている部分もとても大きいと思うのです。

 まだ本人1割負担だった頃、自分で自分に薬を処方したことがありました。ストレスや疲れが溜まると出て来る症状で、それに出すお決まりの薬があります。が、会計に行って自分で目ン玉が飛び出ました。何にも考えないでお決まりの薬を処方したら、8000円を越える支払いになっていました。1割負担なのに8000円を支払ったということは、今、手の中にあるこのちっこい薬は、実際は8万円ということです。ストレスだけだったのに、8万円も使ってしまった! それ以来、自分で病院にかかる度に、レシートをよく見て、もとの値段を計算したりして、現実には自分のためにいくらの医療費が費やされたのか、一々確認するようにしています。
 現在3割負担の人は、支払い×3分の10倍して、現実の負担額を自覚することが必要なのではないでしょうか。
 そうすれば、実際にはいくらのお金が、医療のためにぐるぐるとまわっているのか、見えてくると思います。私たちが普段考えているよりも、はるかに巨額な金額が。


<健康保険は誰のため>

 ところで、上記のように本来8万円のお薬に、自分は8000円しか払わなかった・・・残りの7万2000円は、一体どこから出て来るのか?
 それが、もうひとつ問題になっている健康保険です。
 私が安易に処方してしまった薬のために、誰かべつの人が出してプールしておいてくれた7万2000円が使われてしまったのでした。
 普通私たちは、自分のもしもの時のために、健康保険を払い続けていると思いがちです。万一手術とかで何百万もかかる事態が起こった時のために、数万円づつ保険をかけておく、という考えです。だから、自分は健康で病院にはかからないんだから健康保険も払いたくない、という人はけっこう多いのではないでしょうか。
 でも実際は、健康保険は他の人のために使われると思った方がいいです。
 火災保険とか自動車保険みたいな個人のための「保険」じゃなくて、「わたし」が払ったお金で「誰か」の命が助けられているんです。

 私の友達でも、保険証を持っていない人はけっこういました。自分は病院の世話にはならないんだから払わない、というわけです。健康をさておいても他に使いたいことがある(いかにも若いうちは考えそうなことですね(汗))。そういう友達は、骨折しても病院に行かずにじっと温泉につかって治してしまったり、それでも病院に行かなければならない差しせまった状況になると、保険証を持っている人に借りて、なりすまして行っていました。
 かく言う私も、2年間くらい保険証がありませんでした。
 それまで常勤だった大学病院を辞めて、非常勤になったのですが、当時はいろいろな手続きまで頭がまわらず、それまで給料から天引きされてきた健康保険料や年金が、一切停止になってしまったのです。ということに気が付かないまま2年が経ち、突然手術をしなければならないことになり、初めて保険証がないことに気が付き・・・・区役所に行くと、そこでまたしても目ン玉が飛び出ました。
 ええと、保険証をつくってもらうには、その前2年間滞納した分、
105万円
 を支払わなければつくってもらえませんでした。
 というか、払えませんてば! いきなりひゃくまんえん! でも、保険証がなければ、手術代はもっと何百万もかかるのです。

 この時初めて、保険料はマジ高いんだ、ということを自覚しました。
 私は2年間、まったく病院にかからなかったけれど、その2年間分の105万円を払わなければならない。
 自分ではまったく使う必要のなかった105万円が何に使われるかというと、それこそ少ないお金で受診しているじっちゃんばっちゃんのほぼ全額の治療代に充てられたり、3割負担でかかっている人たちの残りの7割に充てられたりするわけです。
 今私が働いている老人病院では、一人あたり月々50万円くらい入院費がかかります。でも皆さんが実際に払っているのは月額15万円くらい。残りの35万円は、誰かが払っている健康保険料から支払われているという仕組みです。私が目ン玉が飛び出た105万円は、ばっちゃん一人の3か月分の入院費にしかならないですね・・・。そこで使い果たされて終わりです。そういうじっちゃんばっちゃんが日本全国にどれくらいいるか、また3割だけで病院にかかっている成人が日本全国にどれだけいるか、1回考えてみればいい。必要な健康保険料は気が遠くなるほどです。
 
 だから、病院に行って支払いを踏み倒す人や、健康保険料を払わない人は、ただ払わないんじゃなくて、ただでさえ窮々な他人のお金を喰っているのです。


<どうすればお金を払わなくて済む?>

 このとんでもない医療費や健康保険料を払わなくて済むにするには、とにかく医療にお金をかけないことです。
 では薬の値段をもっと下げて、手術代ももっと安く、診察費もバーゲン状態にすればいい?
 実際に、特許の切れた薬剤を安く作ったり、技術革新で大掛かりにならない手術ができるようになったりと、医療を行う側はものすごく努力しています。
 が、前述したように医療の安売りは、人体に直接かかわるものだけに危険です。
 人件費を削る以前に、医者も看護師も足りなくてアップアップしています。医療にかけるお金を減らそうとすると、医療従事者を安い給料で長時間働かせて、さらに何かあると訴える、という悪循環で、ますます人が減っているのです。
 今言っていることは、
 「生命にかかわっているのだから、最高のものを提供しろ。手抜きは許さない。カンペキじゃなかったら訴える。」
 「でも、保険料も医療費も払うのはイヤだ。生命にかかわっているのだから、金を払わなくても、誰でもいつでもすぐさま医療を受けられるようにしろ。」
 という矛盾なのです。

 これを矛盾なく実現するには、薬の値段や手術の値段を下げることではなく、みんながもっと病院にかからなくすることではないでしょうか。
 ちょっと痛いだけで、夜中に病院におしかけて医者や看護師やレントゲン技師や血液検査の技師の多くの人件費をかけて高い薬を出してもらうのをやめるのはもちろん、普段から自分の身体に気をつけて、本当に病気にならないようにすることです。
 現代の私たちは「権利」を主張することに慣れてしまっています。医療を受ける権利。薬を出してもらう権利。救急車に来てもらう権利。
 その一方で、好きな生活を送る権利。好きな物を好きなだけ食べる権利。やりたいように毎日を送る権利。
 糖尿病だと言われたけど、オレの身体だ、好きなものを好きなだけ食べさせろ、タバコもやめない、散歩なんてめんどくさい、これで死んでもオレの身体なんだから文句言うな、・・でも現実に目が見えなくなったり足が腐ってくれば、入院しない人はいません。初期の頃はまだ診察だけで済む内容も、入院するほどになった時には、莫大な治療費がかかります(しかも、莫大なお金だけかかって、治りません)。
 血圧高いけれど、しょっぱいものが好きなんだ、しょっぱいものを食べられないなら死んだ方がましだ、ラーメンの汁くらい最後まで飲ませろ、でも脳梗塞を起こしたら救急車は来てね、というわけです。
 そんな矛盾をやっている限り、医療にかかるお金はいくらあっても足りないのです。

 保険料、医療費、高いのは政府のせいでもなんでもなく、普段から身体に無頓着な私たちの意識が、結果的に医療費を高くしているのです。本当に意識を高く持って、しっかり予防し、気をつけて生活した上で、それでもやむを得ず病気になってしまった、事故にあってしまった、という時こそ十分にお金をかけて、たくさんの医者や看護師や技師さんに囲まれて、その時点で最高の医療が受けられるようにした方がいいのではないでしょうか。
 
(2007.2.6)





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