ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

花園の御田舞 鬼走り

2015-02-24 | 民俗・信仰

 先週末は和歌山県かつらぎ町花園梁瀬(旧花園村)の御田舞を見学に行っていました。
謹賀新年 2015年/下花園神社の松明押し(たいまつおし)で書いたのを、実際に見に行ってきました。)

 「御田舞」は、日本各地に伝わる「修正会」「オコナイ」「オンダ」「田遊び」などと同じ、日本古来からある正月行事の一つで、新しい一年の五穀豊穣・国家安泰を祈るものです。地域によって、仏教の修正会の法要だけとか神道の稲を捧げる神事のみという宗教儀式だけの所から、歌、踊り、お芝居まで含んだ庶民の芸能になっている所もあります。昔は正月に1つ歳をとったので、この行事が成人儀礼を兼ねているところもあるなど、地域の数だけバリエーションがあると言えるほど多彩です。

 特にこのお正月は、延々祝詞が述べられるタイプの田遊びを見学に行って、ひたすらじっと聞いているうちに、無性に高野山麓の御田舞を見たくなったのでした。同じ新年行事の中でも、御田舞は特に歌・踊りという"芸能"の面で秀でたものではないかと思います。

 今回花園の御田舞は練習の時から見学させていただいたので、内容もかなり理解することができました。



 リズムもそうなんですが、歌の節回しの所々に跳ねるような歌の抑揚が繰り返されるのと、舞もじりじりと動く「静」と素早くくるりと動く「動」が繰り返されて、妙な推進力があります。練習の時も何度も、年配者から「速い速い!もっとゆっくり」とアドバイスの声がかかっていましたが、節回しが繰り返されるうちにどうしても速くなってしまうんですよね。気をつけなければどんどん速くなってしまうようなリズムと抑揚のある歌と舞なのでした。

 ちなみに上の写真は、稲束と鎌を持って舞う「田刈り」の場面。稲を刈っては高く掲げる所作を3節の間繰り返す……というのを、場の前・中・後の3回舞い(これで9節)、それを東西南北4方向行うので、実に36節の間屈伸運動を続けるわけで、演者はもう汗だくのくらくら、見るからに辛そう。
 でも、この舞が長ければ長いほどつまり「たくさん刈らねばならないほど実った」ことになるわけで、しつこいくらい長く舞う必要があるのだろうなあと思いました。
 


 実際に舞うのは20~30代の若者、舞い手(役者)を引退した40代以上の年配者は謡いにまわります。上記のように、舞うのも太鼓を叩き続けるのも凄まじい体力が要るので、若くないと無理と言っていました。でも、古老だけで何とか維持されている各地の行事が多い中、若者が多数参加してメインを張っている花園の御田舞は、それだけで豪華で頼もしく見え、集落の力も感じさせました。

 練習の時、年配者が「こう」って舞ってみせるじゃないですか、その動きというか所作がね、姿勢からしてもう、断然違う、惚れ惚れするんですよ。若い頃からずっと舞ってきたんだろうなあというのが一目瞭然。それが若い人たちに伝えられ、また若い舞い手(役者)たちが真剣に何度も所作を見てもらっている様子が頼もしかったです。



 ↑「鬼走り」の注連縄を切る場面の写真を載せているものが見つからなかったので(ありました、失礼しました)私も載せますね。
 すべての舞が終わった後、場の脇で見守っていた白しらげ(神主役)が場の結界である注連縄を切り、舞い手(役者)たちが堂の外に走り出して、御田舞が終了します。
 修正会の最後(結願)に行われる鬼走りが、ここではこんな形で残っているんですね。



 その後、松明を持った役者たちがお寺の斜面を駆け下り、再び駆け上がってすべてが終了するんですが…………、カメラマン、あんなにたくさんいたのに、誰もついてこないやんか!!(笑)(御田舞が始まる前に、斜面を駆け下り、駆け上りながら「矢」を放っていく場面でも、カメラマン他に誰も来なかったやんか!(笑)) 急斜面を全力疾走ですよ。(走っては振り向いてシャッター押し、また走っては…を斜面でやるので、本当に全力疾走しないと、追い抜かれてしまい撮れない)ええ歳だけどまだまだ走るねんよ(笑)

 ↑写真はあえて、ストロボを使わないで撮っています。



 ↑ストロボを使うとこう(それでも控えめですが)
 普通に使われる写真はこうですよね。



 ↑でも実際の肉眼での見え方はこうかなと。
 ストロボなんか使わない方が、凄みが伝わります。

 昔は御田舞も、夕刻から始まって夜半に終わっていました。今のようにスポットライトもストロボもない時代、蝋燭の灯りだけでお堂で舞われていた所を想像すると、神の前で稲作の所作を粛々と奉納していく意味が、なんとなくわかるような気がします。

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IS(イスラム国)テロに思うこと4 脅迫もコミュニケーション/「イスラム国」という名称戦略/アノニマス

2015-02-11 | ニュース

 なんか溜まってたのが爆発したんでしょうか、散々ブログを放置していた人が書きなぐっています。
 
 この数日やっと減ってきましたが、IS(イスラム国)に関連するネットのニュースのアイコンに、オレンジ色の囚人服の欧米人や後藤さんの首に黒服の英国人ラッパーがナイフを突きつけて、今まさに切り裂かんとしている写真や、イスラエルのパイロットが炎に包まれようとしている写真を使うのを、即刻中止してほしい。実際に殺害された当該ニュースのアイコンとして使われるならまだしも、ISと言うと何でもかんでもこの写真が出てくる。

 それ、ISの宣伝をやってあげてるのと変わらないですから!

 「言うこと聞かないと恐ろしいぞ!」と脅迫のために送ってきた画像を、受け手のはずの日本がわざわざ繰り返し自国民に見せてあげるなんてまったく馬鹿げている。写真が表示される度に、「そうら恐ろしいぞ!」が繰り返され、強化されるわけです。

 一番いいのは、ISが送ってきた画像など一切出さないこと。最極端なことを言えば、拘束されたことも、殺害されたことも、一切表に出さない方がいいのです。

 そんなことできるわけないじゃん!と批判を浴びそうですが、1/31のブログにも書いたように、脅迫というのは、脅迫される側がそれを「受け取り」「理解し」「反応を返す」という、立派なコミュニケーション過程です。だから、コミュニケーションが成り立たなければ、脅迫もまた成り立たない。「受け取らない」「理解しない」「反応しない」が、"脅迫を無意味化する"最大の手段なのです。

 だから例えば、人質をとって「このナイフが見えないか!」と脅しをかけた時に、ナイフが見えない人には意味ないし、そもそもナイフが怖いとは知らない人にはまったく通じないわけです。「怖い!」「言う事きかなくちゃ!/戦わなくちゃ!」と反応する人だけ、脅迫の下に引きずり込まれていくのです。

 身近なところでは、水戸黄門の「この印籠が目に入らぬか!」という定番シーンも、定番だから成り立つのであって、座頭市に言っても「んなもの見えねえよ」と言われて終わりだし、印籠を知らない子供に言っても「それなあに?」で終わり。悪役が「それはッ………!!!」と一瞬にして理解し、「ヘヘーーっ」と反応するという、見せる側と見せられる側のツーカーのコミュニケーションによって、初めて成り立つシーンなのです。

(だから脅迫に対して反応してしまうということは、脅迫者とツーカーのコミュニケーションをとってしまうということなのだ!)

 なので、外務省が最初のうち後藤さんの拘束を知っていながら公表しなかったことを批判する向きもあるようですが、私はこれが間違いとは一概には言えないと思っています。(人の感情としては、ひどいことに思えてしまうけれども)

 もっとも、大規模な攻撃を仕掛けてくるなど被害が大きくなれば、「まったく無視する」というやり方はもう通用しないですけれども…。
 でも現在の、ISが情報戦を仕掛けてきている段階で、その情報をわざわざ拡散してあげることはないです。

******************

 同様に、「イスラム国」という名称もやめた方がいい。なぜなら、この「イスラム国」という名称自体に、このテロリスト集団が「イスラム」を正当に継承する「国」であるという、巧妙なイメージ戦略が含まれているからです。つまり名称自体が大々的な宣伝になっている。
 「イスラム国」という名称を連呼する度に、この集団とはまったく関係もない「イスラム」の人々がISに結びつけられて連想されるようになり、あたかもISには味方(世界中のイスラムの人)がたくさんいるかのような錯覚を引き起こし、「国」でもなんでもないのに「国」と名乗ることで既成事実がつくられていくわけです。

 わざわざ相手の名乗り通りに「イスラム国」と連呼してあげて、その「宣伝」に加担してあげることはないです。

 私はこの名称は、1984年まで使われていた「トルコ風呂」という名称と同じくらい悪名だと思っています。(次元は全然違うけれども)

******************

 そうこう書いているうちに、本日、インターネットのハッカー集団アノニマスがISにサイバー攻撃を仕掛けてダウンさせたというニュースが入ってきました。
 アノニマスの今までの悪行をよく知らないので言えることかもしれないけれども、私はこれには喝采しました。

 「言う事きかないと恐ろしいぞ!」を言おうとする、その口を塞いでしまうとは!

 数々のアカウントが停止してしまえば、あの恐ろしい脅迫ビデオをネットにアップすることも、メールで送ってくることもできません。兵器も使わず、誰も殺す事なく、「脅迫のコミュニケーション」を絶つやり方なのです。
 現在問題になっているISへのリクルートを絶つのにも最適でしょう。

“We are Muslims, Christians, Jews. We are hackers, crackers, Hacktivist, phishers, agents, spies, or just the guy from next door,”
"We are young and old, gay or straight […] we come from all races, countries, religions and ethnicities – united as one, divided by zero. "
" the terrorists hat are calling themselves Islamic State (ISIS) are not Muslims!"
(我々はイスラム教徒で、キリスト教徒で、ユダヤ教徒だ。ハッカーで、クラッカーで、ハックティビストで、フィッシング詐欺者で、代行者で、スパイで、そして、普通の隣の家の奴だ。)
(我々は若いのも年寄りもいるし、ゲイもストレートもいる。あらゆる人種、国、宗教、民俗が一つになり、分けることは無限に不可能。)
(自分たちを「イスラム国(ISIS)」と呼んでいるテロリストたちは、イスラム教徒ではない!)

 …といった声明も、実にカッコイイ。

 ただ、ISへのサイバー攻撃に喝采し、↑こんなのを訳したりなんかしながら、私はまた「これはこれで、アノニマスの立派な宣伝なんだよなあ……」と思っていました。

 アノニマスは、ISへの攻撃力を見せつけながら、同じことをアメリカにも、西欧諸国にも、もちろん日本も含む世界中のどの国に対しても、できますよと言っているんです。アメリカと戦争することになったら、アメリカにも同じ攻撃力をお見舞いしますよ、と、誇示しているんです。アノニマスをもてはやすことは、それはそれでまた、ハッカーでクラッカーでハックティビストでフィッシング詐欺者で代行者でスパイ………の宣伝の片棒を担いでしまうことになるのでしょう。
 
 報道を伝える方も、伝えられる方も、考えなければならないことがたくさんあるのです。

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IS(イスラム国)志願の若者の願望は、戦国・幕末好きな私たちの願望と似ている

2015-02-09 | ニュース
 日本人が大好きな時代としてトップを争う戦国時代と幕末は、実はISに似ている、ということを前の投稿で書きました。
 日本人はもちろん、弾圧・処刑・虐殺・恐怖による支配が好きで、戦国時代や幕末に憧れを抱いているわけでは全然ありません。
(大好きな戦国時代と幕末が、弾圧・処刑・虐殺の恐怖の時代だったことは、頭からすっぽり抜けているけれど)
 
 日本人が好きなのは、戦国時代も幕末も、変革の時代だったからですね。
 しかも、時代の登場人物たちが、身分や出生といった「縛り」のシステムをかなぐり捨て、まさに自分の「力」でのし上がっていった時代だからですね。
 その「力」は、暴力による支配、虐殺弾圧を含むのですが、現代日本人が戦国時代への憧れを語る時、その暴力すら「強さ」への憧れとなっています。

 自分を縛るシステムを破壊して、混沌(=自由)へ解き放ちたい。
 暴力もいとわないから自力で前に進み、世界を変革したい。
 
 でもこれ、ISに志願する若者たちの願望とまさに一緒ではないですか。
 シリアに渡航しようとする若者がいると聞けば、「何故!?」「馬鹿モノ!」「理解不能!」と思うわけですが、実は似たような願望を、戦国時代や幕末を好きな私たちも心の底に持っている。志願の若者だけが特殊なバカ者ではないのです。

 自分も戦国時代や幕末にタイムスリップして活躍してみたい、と空想する人は少なくないかと思います。現実に、「戦国自衛隊」や「仁」などのタイムスリップもの映画やドラマの人気が、それをよく示していると思います。でも、その空想をする時、誰も、タイムスリップした自分が処刑や拷問されるとは想像していなくて、たとえ殺されるとしても、華々しく戦ったり、ある成果をあげてから散る、と憧れを膨らませています。同じことが、IS志願者にも起こっているのではないかと思います。志願者の誰も、自分が処刑・拷問・虐殺されることの方に想像力が働かない。戦いに身を投じたら何か意味が生じると思って志願している、無意味な殺され方になるとは想像していないのではないかと思います。

 ただ、願望の根っこは同じでも、戦国や幕末スキーな現代の私たちが皆ISに志願するわけではありません。たいていの人は現状を耐えながら、願望を実現する別の方法を自分で模索しています。

「自分を縛るシステムを破壊して、混沌(=自由)へ解き放ちたい。
 暴力もいとわないから自力で前に進み、世界を変革したい。」
 これを実現するには、べつに戦国時代や幕末にタイムスリップする必要もなければ、ISに志願する必要もないわけです。
 どうしてそんな願望を持つに至ったのか、自分自身をじっと見詰め返して、直せるところは直して、自分の生活の中から、自分という個人に合った別の実現方法を見つけていくわけです。

 IS志願の若者を減らすには、現状打開や破壊衝動の発散、自己実現のためには他に方法があるのだと提示することだと思うけれども、実際には難しいのでしょうね。自殺者を減らすくらい難しいのではないかと思いました…。

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日本人の大好きな戦国時代や幕末はIS(イスラム国)の世界に似ているという矛盾

2015-02-08 | ニュース
 ISによる後藤氏殺害のニュースから1週間。実際に何がどう起きていたのかという検証が始まったようですが、それに対して、「もう終わったこと」「行かなければよかっただけのこと」という論調があることには驚かされます。まだ1週間、たった1週間。日本人が平和すぎて思考停止しているのか、それとも、そんな怖いor難しい世界のことは考えたくないという意思表示なのか……。

 池上彰氏が、ハフィントンポスト誌のインタビューで「(ニュースが)『とんでもなく過激で極端な連中がいて、怖い』だけになっている。けれども、それではいけない」と語っていたのには実に同感です。

 池上氏始め多くの知識人の主張は、歴史の流れをふまえた上でISを見なくてはいけないということですが、私はもう一つひっかかることがあるのです。

 現在、少なくともネット上で表示される日本語のIS関連のニュースは、ほとんどが、子供も無差別に無惨に殺戮し、志願兵さえ逃げ出す恐怖の狂った集団という内容ばかりになっています。実際そうなのだろうと思うのですが、それらのニュースを読む度に、私はどうしてもひっかかるものがある。

 それは、日本もまったく同じような時代があったということです。日本人はそれを忘れている。(というか、自分も含めて現代人はその何百年も後に生まれて知らないのだから、忘れているという表現はヘンではありますが)

 反抗する勢力は村ごと殲滅。ことごとく首を切り落とし、火をつける。
 女子供も関係なし。
 恐怖を植えつけるため、見せしめに梟首(きょうしゅ)(=晒し首、獄門)
 磷(はりつけ)(柱や板に縛り付けて掲げ、刺し殺すこと)も。
 男女問わず奴隷にして売買。
 恐怖と暴力による徹底支配。
 
 これ、戦国時代ですね。
 そして、恐怖支配で最も有名なのが織田信長。殺した相手の頭蓋骨を杯にして酒を飲むような人ですから。比叡山で僧だけでなく付近住民女子供関係なく数千人焼き殺し、一揆勢力を何万人単位で虐殺、謀反を企てた家臣の一族郎党女子供500人以上を見せしめに焼き殺し……と、枚挙にいとまがありません。

 でも、現在日本人が最も好きな歴史上の人物が織田信長です。
 戦国時代は、織田信長に限らず誰が武将でも…たぶん武将じゃなくても、上記のようなことは当たり前の世界だったわけですが、日本人、戦国時代も大好きです。

 イスラームの人々から見たら、日本人はISがやっているような世界が大好きで、バグダディみたいな指導者が大好きなんだと思われてしまうかもしれません。それは困る。でも何が違うんだと言われたら、すぐには言葉は出てこないんじゃないかと思います。

(この、日本人が戦国時代に憧れを持っているというのは、ISに志願する若者が少なからずいるという現実と関連すると思っています。後述します)

 日本人が大好きな時代がもう一つありますね。幕末です。
 幕末も梟首(きょうしゅ)の嵐が吹き荒れた時代でもありました。幕末はすでに写真があった時代ですから、検索をかければ、ISがやっているような写真がいくらでもヒットしてきます。敵勢力を梟首(きょうしゅ)で見せしめにすることが、その勢力の自己主張になる。お互い力で支配し合おうとする時代です。

 江戸時代にはキリスト教も弾圧しましたね。どれだけ残酷悲惨かは文献を読めばいくらでも出てくるかと思います。とにかく、為政者が「不適切」と判断を下した異教徒は皆殺し、女子供関係なく焼き殺し、見せしめ。
 ISがヤジディー教徒を弾圧するニュースを目にするたび、あれー日本と同じ……と思ってしまったりします。
 江戸時代の日本、「それではいけない!」と西欧の人々が宣教師を送り込んできます。西欧思想で「救おう」とします。……今のISを取り巻く西欧の状況と似てると思うのは、私だけでしょうか。

 ISとはちょっと離れますが、イスラームの国の中には「名誉殺人」というのがあってよく批判の対象になります。女性がレイプされると、レイプされた女性が100%悪いので罪をきせられる、親族は家の名誉を守るために(家から罪人を出さないために)レイプされた娘を殺す、という、現代日本から見るととても理解できないぶっとんだ悪習慣に見えます。もちろん私も怒りを覚えます。

 しかし考えても見て下さい。レイプされた女性が、操を立てるために自害する、というのは、時代劇の定番なんですよ。NHKの大河ドラマでもしょっちゅう出てきますよ、しかも感動シーン(!)です。陵辱されたのに自害しないと、なんで自害しないんだって責められるんですよ、自害しないのにちゃんとドラマが成り立っていたのって「たそがれ清兵衛」くらいじゃないでしょうか?? レイプされたことを女性の恥・罪として、名誉を守るために自害を迫るって、これ日本なんですよ。もちろん過去のことだけれど、みんなテレビで普通に、べつにおかしいと思わずに見ているんですよ。

 現代でも痴漢や強姦事件があった時に、何故か犯人の方ではなく、被害に遭った女性の方に焦点があり、女性が責められる、貞操を守らなかったことが罪とされる(犯人の方は「元気がある」とかまで言われるのに!)というのは、他国から見たら、イスラームの名誉殺人と何が違うんねん?ということになってしまうんじゃないでしょうか?

 何を言いたいかと言うと、他国のことだからまったく理解できない特殊なことが行われていると思いがちだけれど、実際には自分の国でも似たようなことがある、ということです。自分だけは違う!と思っていても、実は他人から見たら違わなかった、というような。だから、理解不能と断罪するだけでなくて、理解しようとする道はあるんじゃないかということです。「容認する」という意味ではなく、あくまで「理解」です。対抗するもしくは防御するための対策を導くための、理解、です。「こんなにぶっとんで残酷で理解不能です」というニュースばかりでは、日本を守れないんじゃないかと思うのです。

(戦国時代・幕末に憧れを感じる日本人と、IS志願の若者については、改めて続きます)
→続き

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百田先生と「殉愛」の謎を考える 続き

2015-02-07 | ニュース

昨日のブログの続きです)

 今まで百田先生の「殉愛」に関連するツイートで、私が一番印象的だったのは、下記のものでした。引用させていただきます。

「百田尚樹 ‪@hyakutanaoki‬ · 1月21日
なんぼ叩かれてもかまへんが、一回だけカッコ悪いことを言いたい。
これまでの人生でも、カッコ悪いことは山の人の倍ほどやってきたが、大人になってからは、卑劣なことや汚いことや狡いことは一度もしていない!
たとえ損してでも、誇りを大切に生きてきた。典型的な痩せ我慢の生き方やった。」

 それまで、「卑劣で」「汚なくて」「狡くて」「得するように立ち回り」「誇りもへったくれもなく」行動しているとしか見えなかった先生が、このようにツイートしたので、この時は本当にぶっとびました。衝撃的でした。(それまで私は「殉愛」という"ノンフィクション"の出版の事実と、出版後に次々に巻き起こる"事件"の数々に、大変怒っていたので。"事件"と書くのは、疑惑そのものに怒りを感じたのではなく、疑惑に対する先生と彼女側の反応の一つ一つが日本人の一般常識からは怒りを買うぶっとんだ行動だったためです。)
 なんでしょう一体、この、第三者から見える事々と、先生ご自身の内面とのギャップは。これほどまでに乖離しているってことが、あり得るんでしょうか。

 それで前の投稿の内容を考えるに至りました。

 昨日の投稿後に先生のツイッターを見に行くと、また新しいツイートが増えていました。(なんとなく興味を失ってフォローしていなかったので、タイムラグがありますが(汗))
 でも、先生の人柄を知るのには、格段にわかりやすくなりました。

「百田尚樹 ‪@hyakutanaoki ‬ ·  2月1日
『殉 愛』発売以降、私への大非難が続いている。友人達はこう言った。「未亡人にだまされたと言え。それなら傷は浅い。彼女をかばうな」と。たしかに失うものも 少なかったかもしれない。だが男として一番大切なものを失っただろう。あの世で親父に「この卑怯者!」と怒鳴られる生き方だけはしたくない。」

「 百田尚樹 ‪@hyakutanaoki ‬ ·  2月1日
『殉愛』にウソは書いていない。これは法廷に出ても堂々と言う。そのことで作家が廃業となってもかまわん。「小説家」なんか九年しかやっていないが、「男」は五十八年もやっている。どっちを取るか、迷うはずもない^^;」

 上記1つめのツイートで、暗に「だまされた」と認めてしまっています。こんなことは初めてです。
 ウソだったと暗に認めた上で、「男」であるために、人生をかけてでも、ウソの事実を「認めない」と宣言しているのです。
 まさに「たとえ損してでも、誇りを大切に生きてきた。典型的な痩せ我慢の生き方やった。」ですね(先生の言葉をお借りすれば)(汗)

 これはもう、私が昨日の投稿で書いたような「ラブレター」とはまったく関係ない次元のことです。
 「殉愛」は殉ずる愛、つまり自分を犠牲にしてでも相手に尽くす献身の愛を描いたものであるわけですが、その登場人物である彼女については現実はウソだった。
 でも百田先生が描いた(もしくは描こうと全精力を注ぎ込んだ)「殉」なる愛には一点の翳りもない。それを貫くためには、百田先生自身が「殉愛」を身をもって具現化するしかないのです。まさに自分を犠牲にして。

 百田先生自身までもが「あれはウソです」と言った瞬間に、作家としての百田先生は死ぬ。先生の言葉を借りれば「男」が終了するわけです。
 この場合の「男」は、「女」さくらさんへの気持ちとかそういう下世話なことではなくて、作家としての意地、もっと言えば"親父"から受け継ぎ、今まで生きてきたことすべてへの、人生をかけた意地なのでしょう。

 それは、ものを書く端くれとしての自分にはわかるような気がします。何がしかの信念をもってものを書く・作る・創る人には、自分が本気で表現したものについて曲げられない意地があるでしょう。自分が血みどろになりながら生み出したものに、「あれは嘘でした」「虚でした」とは簡単には言えない。

 先生が「殉ずる」のは、さくらさんに対してではなく、自分が精魂込めて生み出した、自分の作品に対してなのです。


 ただ、ここでもまだ先生は大きな間違いをしています。
 自分の作品に殉ずるためなら、作家のホンキのためなら、実在する誰かを傷つけてもいいということにはならない、ということです。
 「男」を貫くのなら、自分の作品に対して貫くのではなく、生きている登場人物の人々、生きている読者に対して貫くものではないでしょうか。(亡くなられたたかじん氏も含めて)

 自分の作品に対して意地を張る前に、やるべき大事なことがあるんではないでしょうか。

 このままでは誰も先生が「男」だとは思わないのではないでしょうか。

 また、上記のような葛藤が生じるのは、やはりこれが「小説」であって「ノンフィクション」ではないということではないでしょうか。ノンフィクションであれば、事実誤認があった時点で速やかに訂正して終了するだけの話だからです。(ノンフィクションは科学論文に近いのかなと思います。事実誤認があった時点で、そこから導き出される結論や考察がまったく成立しなくなるので。)

 今後は、殉愛そのものがどうこうよりも、先生がご自身の作品に対する意地を張り続けるのか、意地でしたと認めるのか、という話になっていくのかと思います。

 推移は見守りたいと思いますが、私自身も、個人を取り上げてゴシップな話題を書きなぐってしまったので、この辺りで大概にしておきたいと思います。

 



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百田先生と「殉愛」の謎を考える

2015-02-06 | ニュース
 ISに(というか日本に?)カッカして色々書いたので、今日は肩の力を抜いてゴシップな話題を。巷を騒がせている百田尚樹著の"ノンフィクション"「殉愛」のことです。(騒動の内容はもうあちこちで書かれて凄い事になっているので、あえてここでは説明しないので、まだご存知ない方は検索してみて下さい)

 こんなゴシップな話に反応してしまったのは、ISにジャーナリストが殺害される事件と同様、自分も取材をして物を書く三文文士のはしくれだからなのでしょう。

 「殉愛」が出版されてしばらくは、私も「何て事をしてくれたんだ!」とすごく怒っていました。ノンフィクションの信頼は失墜した、と思ったからです。
 また、日本人の良心には180度反することが、法に触れないという理由で次々繰り出され、まさに「正義はどこへ行った!?」状態。(一般の日本人が思う)正義では太刀打ちできない(かのように見える)実に大胆な行動の連発にもただただびっくり、呆れていました。

 私が反応してしまったのは、「どうしてこんなことをするのだろう??????」という、疑問で疑問で仕方ないことが大量にあったからでもありました。
 自分もモノ書きですから、疑問はひたすら著者の百田先生へ向かいます。

「どうしてこんな、わかる人(医療関係者とかetc)が読めば一発でウソとわかる内容を、ノンフィクションとして出版してしまったのか」
「こんな作家生命を終わらせてしまうようなシロモノ(と第三者は思う)に、どうして他の執筆をすべて断って半年もかけて熱意を注ぎ込んだのか」
「容易にウソなのがバレるような破綻だらけなのに、どうして『すべて事実である』と断言するのか」
「特に細かい記述の面で事実無視をするのは何故か。(介護や医療や、時系列的・空間的に間違いや矛盾が大量にあるのに)」
「たかじんに会った事もないのに、たかじんの心情について、どうして『俺にはわかる』と断言できてしまうのか」
「彼女(と取り巻き)以外は、この世に存在しない(してはいけない)もののように書かれているのは何故か」
「批判の感想を寄せる読者はどうして『人間のクズ』なのか」
「なぜしつこく『(彼女とたかじんの間に)肉体関係はなかった。プラトニックだった』と繰り返すのか」
「それでも『卑劣なことも汚ないこともしていない』と発言する心理は何か」

 それで私も考えました。
 百田先生が「真実だ!」と繰り返し叫ぶ様子は、少なくとも嘘をつく目的で言っている人には見えません。(だからよけい謎に見えるわけですが)
 "百田先生にとっては"、あれは本当に、「真実」なのだろう、と思いました。

 と思ったら、なんかすーーっと、腑に落ちることがありました。

 「殉愛」は、書籍1冊まるまる使った、ベストセラー作家先生の、一世一代の、大ラブレターなのだ。

 下世話な意味での「恋愛感情」がどれだけ含まれているかはわかりません。恋愛感情でなくても、さくらさんという女性の「人間」に惚れたというのでもいいと思います。どちらかというとプラトニックな「殉ずる愛」を強調する内容から、下世話な気持ちより、純粋に崇拝するような気持ちの方が勝っているのかなと思いました(私の勝手な想像ですが)
 少なくとも、百田先生の純粋な真剣な一生懸命で精一杯な気持ちであったことは間違いないのでしょう。

 だから、その気持ちは(現実の実際に起こったことはともかく)「真実」なのだ。細かいことはごちゃごちゃ抜きにして、とにかく真剣で純粋なその気持ちは「真実」なのだ!
 第三者から見てそれがどれほど虚構に見えようと、百田先生の気持ちには一点の翳りもなく、「すべて真実である」と胸を張れるのです。

 だから、(実際のたかじんはどうだったのかは一切関係なく)本に描かれた「たかじん」の気持ちは「俺にはわかる!」なのです。本に散りばめられた(読者には恥ずかしく感じるような)たかじんの愛の言葉の数々は、たかじんの口(という設定)を借りた、百田先生の言葉なのだ。

 しつこく繰り返される「二人の間に肉体関係はなかった」という記述も、意識の上なのか無意識なのか、百田先生の彼女への気持ちなのでしょう。

 その純粋で真剣な気持ちを踏みにじる読者は「人間のクズ」なのだ。
 全身全霊で1冊の本に気持ちを表現したのに、ウソだと言われて、批判されて、踏みにじられて、百田先生は本当に足の先から頭のてっぺんまで怒り心頭だったことでしょう。

 細かい事象の羅列なんてどうでもいい。細かいことで真偽をごちゃごちゃ云々して、一番大事な真実の愛を読み取らない読者なんてクズ。
 彼女以外の誰も見えない。彼女を傷つける者はいかなる者であっても(たとえたかじんの娘さんであっても)、このオレが断罪する。………彼女はオレが守る。
 
 そう、この「殉愛」に描かれているのは、現実にあったたかじんと彼女の恋愛ではなく、作家先生の悲しい恋の叫びなのです。頭の中はへんずりと女のことばかりって自嘲しながら生きてきた先生が、今までの人生を棒に振ってでも、全作家生命をかけて守りたいと思える、人生一度の相手に出会ってしまったのですよ。それがたとえ人妻で報われなくても、どうしようもない悪女でも。
 損だとわかっていても、卑劣なことも汚ないこともなく、誇りを持って生きて来た、それは作家先生にとっては本当のことなのです。

 あかるクラブに未亡人を伴って登場した先生は、彼女を守るナイトの気持ちだったことでしょう。(それが第三者からどれほど怒りや冷笑を買う行動であったとしても)
 「殉愛」の読者が感じるあの得体の知れない気持ち悪さは、恋に夢中になっている当事者の、他人からすればどうでもいいおノロケを、しかも相手がどう考えてもおかしい人なのにそれすら見えていない盲目的なおノロケを、無理矢理捕まえられ延々聞かされる気持ち悪さなのだと思います。


 まあ、これらは私の勝手な想像に過ぎず、根拠はないのですけれどね。
 でも、↑上記のように考えると、今まで不思議でたまらなかった全ての事が、すっきりとつながって、腑に落ちるのです。

 また実際にはこれに、遺産問題や利権はもちろん、ベストセラーになったがための先生の慢心やらもともとのサービス根性(?)(他人を喜ばすために過激な発言をしてしまったり、つい嘘も盛り込んでしまったりなど?)、先生の今までの人生観なども大きく関与しているのだと思うので、もっと複雑だとは思いますが。

 
 上記のことを考えたら、今までの自分の「なんで?」「なんで?」「なんで?」という尽きない疑問が一挙に解消されて、すーーーーっと興味がなくなってしまいました。

 まだ問題は現在進行形なんですけどね。
 でも、あとはなるようになる。というか、「絶対に崩せない強敵」のように見えるから、みんな躍起になって批判していると思うけれど、すでに綻びは出てきているし、事実はそう簡単に思うように変えることも曲げることも隠すこともできない、というのを実地で経験しているので、出版界のこととか、司法のこととか、心配しなくてもなるようになると思っています。

(で、興味を失ったのでしばらくツイッターとかも見てなかったのですが、これを書いて見に行ったら、百田先生またツイッター更新していました。それについてはもうちょっとだけ改めて書きたいと思います)

→続き

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IS(イスラム国)テロに思うこと3 日本人なんだなあと思うこと2つ

2015-02-03 | ニュース

 昨日は、シリア邦人殺害の御遺体を日本に運べるかどうか(!?)というニュースが出て、「この期に及んでなんて日本人はおめでたいんだ!そんな話題が出てくること自体、日本人がシリアの現状をわかってない表れだ!(他国の人からも呆れられてしまう!)」と憤慨していたんですが、まあこれは、現代においても、御遺体を弔うことに重要な意味を見いだす日本人のすごい特徴なのだなあと、改めて驚きとともに納得はしました。

(ちなみに、グラフィケーション2014年3月号(No191)「太地(中編)クジラを供養する日本の心)でも書きましたが、現世に残された生者の供養の努力が死者の成仏を左右するという考え方は日本独自の、ある意味珍しい考え方です。他の宗教では、死者が死後どうなるかは生者にはもう手が出せないー神のみぞ知るーなわけで、○回忌までずっと供養を続けるのはもちろん、遺体を(手に入れて直接)「手厚く」弔うことにこだわる日本人は、他国からはいまひとつ理解し難いものなのです。BODYにこだわる日本人精神については、解剖学の養老先生もたびたび言及していましたね。)

 まあダンナからは、ニュースは表面的な一部しか報道されていないんだから一喜一憂するな、額面通り受け取るなと言われていますが(- -;;

 額面通り受け取って、もう1コだけ思ったことを書かせて下さい。

 それは、「日本は結局、責任の所在を云々する話題に終始してしまうんだなあ」ということです。

 今一番盛り上がって、報道も人々の感想もダントトツの話題は、ISがどうこうよりも、今回の殺害事件の責任が本人にあるか or 政府にあるか、というところに見えます。もうISやアメリカ欧米すらまったく蚊帳の外。責任がISにあるか!とかアメリカの空爆はどうか!は全然出て来なくて、「自己責任VS政府の責任」だけで盛り上がっているのも、ああ日本人だなあ………と思うのです。
 私は議論が盛り上がるところが間違っていると思うし、それで責任の所在を明確にしたところでまったくのナンセンスだと思う。

 私は「たとえ責任は自分にある!と宣言したところで、拘束されればコマ(持ち駒、カードとか、何と表現すればいいんでしょうか)として利用され、日本のみならず世界の状況を悪くする可能性があるのだから、すでに自己責任という考え方は通用しない」と思っていて、その意味で安易に現地に行く人には批判的です。その意味で、ミリタリーおたくの延長のように赴いてしまった湯川さんにも、自己実現の夢を見て現地に行こうとしている複数の若者にも(たとえそれが自殺願望でも)批判的だし、よくわかっているはずの後藤さんも、「法で渡航の自由は止められない」とか言って本気で阻止しなかった政府も甘かった、甘過ぎ、と思っています。

 でも、ではジャーナリストやネゴシエーターの渡航を100%禁じてしまったら。危険だからと世界中のジャーナリストがシリアから撤退してしまったら。
 「シリアを密室にしてしまっていいのか?」という問題が生じます。
 そこから発せられる情報は、もうISと空爆側(とアサド側諸々)という現地勢力からの情報になってしまい、誰も本当のことがわからなくなってしまう。各勢力が流す情報は、もちろん国民住民の声ではないし(それは日本でも同じでしょ?)、国民住民レベルで何が起こっているのかもわかりません。
 密室の中でテロ組織がどうなっているのかわからない、というのは、それはそれでとんでもなく危険な状況で、密室にしてしまったがために、その後世界がとんでもない事件を被るかもしれない。
 だから、ジャーナリストは必要だし、そこに責任論を持ち出すことはナンセンスだと私は思う。

 だから、後藤さんが事前にビデオで「自分の責任です」と言い、政府は政府で「政府にも責任があった」と言う、それでいいじゃないかと。ISの責任(!?ヘンな言葉だ!)やアメリカ欧州の責任(?)を考えればいわずもがな。だから責任の所在を明らかにすることはナンセンスだし、それ以前に不可能だと思う。そんな所に議論が費やされるのが、私には信じられないのです。

 こんなことになったのは誰のせいかと、犯人探しに皆騒いでいて、彼が何のためにそこに行って、実際に何を伝えてきたかに注意を向ける空気が少なくて、後藤さんも浮かばれないなあと思います。




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IS(イスラム国)テロに思うこと2 二者関係の病理

2015-02-02 | ニュース

 IS関連のニュースを見ていて思ったことを、もう少し書こうかと思っていたのですが、昨日のニュースで一日中気分が悪く、何を書いてももう無意味な感じというか、何を言葉で言おうが、現実で起こっていることの重みに比べたら軽すぎてどうでも良いことのように思えて、黙ってしまっていました。
 でもちょっと持ち直してきたので、吐き出そうと思います。

「二者関係の病理」という言葉があります。例えば、DVする夫と共依存の妻、ストーカーとその恐怖にコントロールされてしまう被害者。その2者しかいないと、無限の悪化のループを繰り返して、加害者・被害者両方が破滅に向かうことになります。両方とも破滅してしまったニュースなど、けっこう思い当たる人も多いんではないでしょうか。
 その二者関係の病理を打開する方法は、その2者だけの閉じた世界を、第3者に開放することです。だから例えば私はストーカー被害の人から相談を受けた時は、とにかくできるだけたくさんの人に打ち明けるように、自分に起こったことの情報は皆で共有するように、決して一人にならないように(一人に=ストーカーと二人きりにを意味する)、と言ってきました。

 というのを、すごく思い出すのです。ストーカーやDVとはまったく質の違うことではあるけれども、

「日本政府はどうしてわざわざ、自ら『二者関係の病理』に入り込んでいくようなことをするのか?」

 「断固許さない」と何度も発言するのを聞くたびに、その発言1つごとに「二者」のループに入り込んでいくのを感じます。今までせっかく二者のループから外れた場所にいたのに、今回の件でもう、二者の片方の仲間と見なされ、そのループから抜け出すことはできないでしょう。(絶望した気分になります) 日本は独自の立場にいたと思っていたのに、どうしてわざわざ安易に、二者の片方に迎合する道に入り込んでいくのか。

 そしてどうしてそのことに気づかないのか?

 IS兵士という人のツイッターも読みましたが(本当に兵士かどうか安易に信じるのは危険ですが、内容からして、IS側の人であることは間違いないと思う)、IS現地からしてみれば、2億ドルの対テロ支援金も「日本は自分が戦えないから、周辺国に金を与えてISと戦わせようとしている」になるわけです。直接手を下さない、金で他国の軍隊を動かす、卑怯で汚ないやり方と思われても仕方ない。アメリカを中心(というか発端)とする欧米諸国と同じ口調・同じ立ち位置で「テロは許さない」「断固戦う」と何度も声明を出しながら、「あれは人道支援だ」「金は戦争には使わない」などと言ったところで、そんなの通じません、聞く耳持ってもらえるわけがないのです。

 じゃあ、人道支援で、金は戦争に使わないと言うのなら、どうして日本はその二者のループから逸脱した、第三者の立場を貫かないのか。
 外側の第三者の立場でしかできない重要なことがたくさんあったはずと思うのですが。(そして今までは第三者の立場だったと思うのですが)

 そして私が気分悪いもう一つは、日本が「ISかアメリカ中心の対テロ諸国か」の2者の片方にわざわざ入っていくだけでなく、世の中を「IS側」か「対テロ側」かの2者でしか考えていないような所が垣間見えることです。
 つまり、そのループの外側にいる「第三者」をも、IS側か味方かという考え方でしか見れないために、様々なチャンスを潰しているし、様々な見方(二者以外の考え方)を聞こうとしていないように見えるのです。(例えば、IS側の論理を説明してくれようとしている人も、即、そういう人は敵だ!みたいな。たとえその人が本当にIS側の「敵」だったとしても、うまく情報を引き出して学んだり、悪い言い方をすれば利用することもできるだろうに。)

 さっきも国会中継を聞いていたら、安倍総理も議員の皆さんもあんまり楽観的すぎて、またしても気分が悪くなってしまいました。テロについては決まりきった安直なことしか言わないし、現場で起こっていることは、議事堂の中にはわからないのね(どっかの映画のセリフとおんなじだ!)
 5年後の東京オリンピック(国会では「東京オリパラ」って言うのね)のことを嬉しそうに話し合っているけれど、
「東京オリパラ、間違いなくテロの標的にされるっしょーーー!!?」
 昨日の今日で、どうして誰からもそう考えた発言が出て来ないのか、私は理解に苦しむのです。

 安易に二者関係のループに入っていくことは、そのつもりがなくても一方を攻撃していることになり、また一方から攻撃されるマトになるということです。そこに安易に入りつつあるということに、どうして日本は気がつかないのか?

 世の中はテロか対テロのどっちかしかない、みたいな二者関係のループから、どうしたら日本は抜けられるのでしょうか。

 これから、自分の息子も標的になるような世界になっていくかと思うと、やっぱり気分が悪いです。

 

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