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ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

8月に新刊が出ました。『誰も知らない熊野の遺産』ちくまカラー新書 栂嶺レイ(写真と文)

2017-11-06 | 熊野


 大変ご無沙汰しております。
 今年の8月に、新刊が出ました。

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誰も知らない熊野の遺産 (ちくま新書)
誰も知らない熊野の遺産 (ちくま新書)栂嶺 レイ

筑摩書房 2017-08-03
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 ちくま書房さんから、『「誰も知らない熊野の遺産」ちくまカラー新書、栂嶺レイ(写真と文)』です。
 富士ゼロックスの広報誌「GRAPHICATION」の2011年11月号(No.177)から2015年9月号(No.200)まで『誰も知らない熊野』というタイトルで連載させていただいたものを、もう1度文章を直し、1冊にまとめたものです。12年間くらいの取材の成果が詰まっています。精魂使い果たしました。現在の日本を俯瞰する上で、ぜひ読んでいただきたいメッセージもたくさん込めましたので、ぜひ読んでください。



筑摩書房の紹介ページ →http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069740/

朝日新聞 書評(2017.9.10) →http://www.asahi.com/articles/DA3S13126493.html
 
東京新聞/中日新聞 書評(2017.9.23) →http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2017092402000179.html
 (なんと、宇江敏勝先生が書評を書いてくださってびっくり!熊野取材の大家。恐れ多くもありがたいです。)

現在発売中の「旅行読売 2017年12月号 特集「東京さんぽ」(旅行読売出版社)の「旅の本とテレビ&映画」新刊紹介欄に掲載していただいています。
   →http://www.ryokoyomiuri.co.jp/magazine/post-201712.html

「旅の手帖 2017年10月号 特集「紅葉名山」(交通新聞社)の「読みたい本」新刊紹介欄に掲載していただきました。
   →http://shop.kotsu.co.jp/shopdetail/000000002197/018/O/page1/order/

2017.9.8付 千歳民報・苫小牧民報
2017.9.24付 熊野新聞       ・・・でもご紹介いただきました。




 今頃ようやくブログを書いているような状態で申し訳ないです。
 5月に父が急逝しまして、立て続けの法事や後片付けを一人でやらないといけなかったのと、日々の病院勤務(外来)がぎっちりあるのと、帰ってからの自宅の家事と、それと息子が小学1年生に上がったばかりでいろいろ大変になったのと、手抜きは一切できない&したくないこの本の原稿〜締め切り、といっぺんに重なって、すっかり身体を壊してしまいました。今年の一番最後の記憶は、まだ桜も咲く前の、芽吹く前の茶色の木々だけですね。その後、もう記憶がほとんどなくて、ようやく紅葉を見る頃に意識が戻ってきたという感じでしょうか。まだ本調子ではないのですが、少しづつリハビリを兼ねて、ブログを書いていければと思っています。(本日これを投稿するだけで、3時間くらいかかってしまいました。明日も明後日もそれをするだけの気力がまだ出ないです。)
 お世話になった方々に、少しづつお礼もしていきたいです。

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むちゃくちゃ気持ちのいい小処温泉

2014-05-02 | 熊野

 4/29(祝)は奈良県上北山村に残る修験村、天ケ瀬の取材に行っていました。その帰り、時間があったので小橡集落も見ておこうと北山川沿いの国道169号をそれて小橡川(北山川の支流)上流へ。大台ケ原方向です。小橡は前鬼の五鬼助さんが幼少期を過ごした所。現在は国道169号がメインルートですが、古くは街道は山を越えて小橡の方を通っていました。

 で、小橡川に沿った県道226を行くと、道々に「小処温泉 ○km」の看板が。こんな所に温泉があるのか?しかも小橡川を10キロ近く遡った山奥にあるんです。
 今日は雨でびしょびしょだったので着替えもしたいし、せっかくなので行ってみよー!

 ………と現れたのは、木でできた大きな町営の建物と、むちゃくちゃ気持ちのよい温泉でした。
 脱衣場も明るくて広く、浴場も光に満ちて、新しい檜の香りでいっぱい!(実は檜ではなく高野槇だそうですが) 窓一面に渓流の新緑が広がります。シャワーも勢い良く湯量もたっぷり。とにかく気持ちいい!

 でも、すべてが新しくて木の香りいっぱいなのは、実は3年前、2011年9月の台風12号でこの温泉が壊滅状態になったからだったのですね。一時は再開も危ぶまれたそうです。それを多くのファンが復興を望んで、昨年やっと再オープン。だから建物も湯船もシャワーもまだ新しいのでした。

 ともあれ、10キロ近くも山道を遡るからと敬遠するなかれ。休日なのに雨が降って行く所がない時にも最適。雨に濡れた鮮やかな木々を眺めながら、気持ちのいい時間を過ごせます。ご夫婦が作る料理もファンが多いそうなので、次に行く時はぜひいただきたいです。

 山道は大台ケ原駐車場にも通じているので、ツーリングの人にもいいですね。すごい山奥にあるように思ったけれど、もともとは大台ケ原への登山道の途中なのかな?

小処温泉(Yahooトラベル)


 息子が写ってますが……。明るい時間帯にゆったり過ごせて気持ちよかったです。現在の季節は11時~18時営業。


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太地町の古い町並み、イルカ漁のことなど

2013-09-06 | 熊野
 今日は和歌山県の太地町に来ました。久しぶりの病院勤務復活、ということで、PCのある場所で書いています。
 
 太地町は本当に小さな小さな漁村です。リアス式海岸の入り江と、熊野沿岸地方で「平見」と呼ぶ、入り江と入り江の間の小高い丘で出来ている町です。
 が、その小さな町の中に、入りくんだ崖が醸し出す不思議な光景や、古い神社や寺の数々、遣唐使船(!?)の吉備真備の史跡など、「あっあれは何!?」と思わず立ち止まりたくなる諸々がぎっしり詰まっていて、いつも町を通り過ぎるだけで心が踊ります。

 特に、漁協の裏辺りの一番古くからある町の一角は、迷路のような路地に、太地の昔ながらの白亜の木造住宅が並んで、はっとする美しさです。いや、美しいと言っても、もうペンキは剥げて、とにかく古い家々なのですけどね。
 2階建ての1階部分は凝った格子窓で飾られ、それが真っ白な(時には部分的にピンク色の)ペンキで塗られているのです。
 太地町の漁師の家の粋というんですかね、家々を綺麗に丁寧に暮らしてきていることがわかって、いいなあと思います。



 通りかかった方が、
「ほら、アメリカに移民していたでしょう。だから、ペンキで塗る文化があるのよ」と。
「ハイカラですね」と私が言うと、「そう、ハイカラ」と笑いながら行ってしまいました。

 1つ1つは小さな純和風の町家なのに、洋風でもある、いかにも太地町が今まで過ごした歴史を体現した町並みだと思いました。

 イルカやクジラ観光で訪れる人にも、ぜひ太地町の古い町並みを散策していただきたいと思いました。






 ところで、私が行った昼間、ちょうどイルカ追い込み漁をやっていました。話には聞いていましたが、初めて見る追い込み漁は、(またこういう風に書くと変なことを言ってくる人がいるかもしれないけれど)私は感動しました。青い海いっぱいに、10隻ほどの白い船で、イルカの群れを追っていく。イルカが海面に塊になって逃げていくのが見えます。
 私の感動とは、水族館のショーで飼いならされたイルカでもなく、人々がセラビーで訪れる入り江にいる野生イルカでもなく、いわゆる(イワシやサンマと同じく)漁で追われる存在としてのイルカと、それを漁の相手として真剣に追う人間という、今まで見知ってきたものとは全く異なる、イルカと人間のやりとりを目の当たりにした感動でした。

 水族館の可愛いイルカのイメージをイルカ漁に投影して「可哀相!」と言うことは世の中にありふれていても、逆の「漁業」のイメージからイルカを見るということは、一般にはしにくいのではないかと思います。でも、実際に漁業の目で、イルカと人の関係性を目の前に見た、新鮮な体験でした。

 (またしても、変なことを言って来る人がいるかもしれないけど)私個人の感情を言えば、水族館でより高く、もっと高く、と必死に飛び跳ねているイルカの姿や、「イルカに餌やり体験 一回○円」とかいう生け簀で、人の姿を見るなり鳴き声をあげながら口を開けている姿を見る方が「可哀相だな~」「なんか耐えられんなあ」という気持ちになるんですけどね。
 あっ「可哀相」とか「耐えられん」というのは、あくまで私個人の感情の投影なので(おそらく、自分がその立場だったらイヤだなあという感情をイルカに投影しているだけで、実際にイルカがどう思ってるかわからないので)言い方を改めると、ピョンピョン飛び跳ねているイルカや、餌やり体験場でずっと口を開けて待っているイルカの姿に、より人間の側のエゴや(生物に対する)驕りのようなものを感じます。私だけかもしれないけれど、人間の願望の枠の中にイルカを当てはめ、それで人間は歓声をあげて喜ぶというのは、何かすっきりしないものを感じるのです。
(イルカも一緒に喜んでいるんだからいいじゃんとか、殺されて食べられるよりマシって言う人もいるだろうけれど)

 それを思えば、あくまで食物連鎖の「食べる/食べられる」関係としてイルカと向き合う方が、私個人的にはすっきりさっぱりシンプルに思えるんですけどね。


 また、水族館のショーのイルカ可愛い!大好き!だからこんな可愛いイルカさんを獲るなんて太地町ヒドイ、と言うのもヘンだと私は思っています。全国の水族館や遊園地のショーイルカは多くが太地町で捕獲されたものなので。

(補足を付け加えます。↑これを書いた時頭にあったのは、札幌市の円山動物園にはゾウがいないんですね。以前飼っていた花子が亡くなってから、「絶滅危惧種になっているゾウを新たに動物園に導入しない」という、円山動物園の覚悟なんです。空のオリを見て、「ゾウがいない動物園なんて駄目じゃん!」とお客さんが文句を言ってるのも聞きましたけど、でも円山動物園の覚悟はすごいぜと思いませんか?
 同様に、太地町がイルカを捕獲して水族館に出荷することを批判するのなら、全国の水族館にイルカがいないことを覚悟しないといけないのでは?水族館で可愛いイルカのショーは見たい、でもイルカを獲るのはやめさせたい、というのは矛盾してないか?と思ったのでした。極端な話、全国の水族館や遊園地でも、太地町でやってるのと同じデモをやってもいいんじゃないのか???と思うんですけどね、違うのかな。)

 シーシェパードは来てましたよ。黒い磯の上で保護色の黒い服でパシャパシャ写真を撮ってる人がいたので、地元の人と「あれシーシェパードかしらね」と言っていたら、ほんとにシーシェパードでした(^^;
 シーシェパードの写真を撮ろうかしらんとも思ったけれど、やめました……

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しだれ桜の里を発見

2011-04-24 | 熊野

 和歌山県、奈良県、三重県にまたがる山中で、昭和30年代以前の、まだ車道ができる前の、人が自分の足で歩き回っていた頃の道を調べていると、古い集落はぎょっとするような高い峰の上に開けていたりします。
 奈良県十津川村の県道735号沿いも、車でただ通っているだけだと、所々にしか家がなくて寂しい、山ばかりが迫る谷深い道です。でも、集落は実はたくさんあるのですね。県道から一々細い車道に入り、ひえーと思うような高度を登っていくと、家々がある所に辿り着くのです。普通に皆さんが暮らしている所から見下ろすと、それまで通ってきた県道は、はるか眼下の崖の下に・・・。

 でもこれ、昔の・・本来の街道が、山の上を通っていたからなんですね。昔は、峰から峰を結んで、人々はもっと高度の高い場所を行き来していたわけです。家々も田んぼもちゃんと、メインルートを囲んであるのです。わざわざ崖の下に、それも日当りの悪い、大水の度に地形の変わるような不安定な場所に、下りてこなくてもいいのです。

 だけど高度経済成長期に、車が通る道は、沢に沿ってくねくねとつくられました。山の上を越えていくような道路はつくれなかったからです。
 車道の方が、集落から離れたはるか崖下に遠ざかっていったのですね。

 その結果、現在の私たちが車から見ると、ぎゃー、と思うような高度に家々が・・・(@@;
 「なんでまたあんな所に家をつくったんだろう」とか、「十津川村はとんでもない所に人が住んでいる」とか言われてしまう所以ですね。
 本当は、もともとは、とんでもない所じゃなくて、メインルート沿いだったんですけどね。

 さてそんな、十津川村の県道735号の枝道を1つ1つ入って、集落を確かめながら遡上していると、谷の対岸にある集落に上がってびっくり仰天しました。くねくねした山道がぱっと開けた瞬間、集落の中をつっきる道が、桜、桜、桜だったからです。それも見事なしだれ桜!
 そこに住んでいる個人の方が植えたものだと一目でわかります。そして、集落の他の家も一緒になって桜を大切にしようとしている意思が見えます。他の家々の敷地にも、若いしだれ桜が、新しく植えられているからです。

 ここは市原という集落。

 興味のある方はぜひ地図を開いてみてほしいのですが、市原は、(熊野古道小辺路で有名になった)果無山脈への街道の登り口の一つにあたります。大正時代までは、上湯川上流の集落の人々は果無山脈を越えて、熊野萩へ(現在の「道の駅奥熊野古道ほんぐう」のある辺り。昔から熊野川の川運の要所でした)買い物(!)に来ていたのです。1泊2日で行き来したそうです。(ここでもやっぱり、川沿いにくねくね遠回りするのではなく、峰の上をまっすぐ目的地に向かって越えていきますね)


もう満開の頃は過ぎていましたが、それでもしだれ桜の見事さは変わりません


 北海道に戻ってから調べると、十津川村では有名なしだれ桜の名所だそうですね。七郎さんという方が植えていらっしゃるそうです。過去の人が作った名所ではなく、現在の人が今も手をかけ作り続けている現在進行形の名所、いかがでしょうか。


 ↑Google Earthをチェックしたら、グーグルアースでも市原は桜が満開!
 周囲山しかない中に、それも県道(上の方にある沢沿い)からちょっと離れて、ポツンと市原の集落がある様子が見てとれると思います。

コメント (2)
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美しい道を歩く 2

2010-06-30 | 熊野
(前回のブログと同じ道です。和歌山県那智勝浦町)


 20年使い続けたペンタックス645をデジカメに持ち替えて3年。どうしてもデジカメの画像に愛情を持てず、毎回、毎シャッターごとに自分の写真に悪態をついていました。それまで20年近く、今この光の加減なら、どんな色合いに発色し、陰はどんな黒さになり(その黒さの中にどんな風に諸々が写り込み)、どんなコントラストで光が広がるのか、フィルムと色温度やレンズの特性を考えながらシャッターを押し続けてきたものが、そういうものが一切なくなったのです。いつどんな写真を撮っても画一的な面白みのない画面にしか見えませんでした。以前のように楽しく写真を撮ることがなくなりました。もっと上位機種のデジカメを買おうと思ったことも何度もあるのですが、愛情の持てないものに何十万円も費やすのは自分の趣旨ではない、と、買い替えるのはスッパリやめました。

 最近ちょっとだけ、自分の写真に愛情を持てるようになってきたかな、と、思える時があります。
 今日のもそんな一枚。
 今までの気に入らない写真はデジカメが悪いんではなく、自分がデジカメを使いこなせるようになるまで3年かかったか、と。そんな気持ちです。

   ******

 ところで、この道を撮りながら歩いていると、地元の小学生さんが後ろをくっついてきます。ニコリともしてくれないんですが、た、楽しいのかな?(^^; そのうちにだんだん打ち解けて、仲良しになりました。・・が、すごい勢いで坂を走り上がっていくよ、オバサン息切れして追いつけないよ(^^;
 私は昭和30年代以前の、車道ができる前の、人々がまだ自分の足で歩いていたころの「道路網」を明らかにしたくて、車社会の現代人が忘れてしまったものがそこにあるんではないかと思って、古い道を探したり当時の人々の往来を聞き取ったりしているんですが、考えてみると、車の免許を持っていなくて車の運転とは無関係な小学生なんて、まさに「自分の足で歩く」最たるもんではないですか。自分の足で行けるところが世界、というか、世界は自分の足で行くもの。逆に、車では入れないような所とか、見過ごしてしまうようなこういう古い街道は、子供たちの「庭」であって「遊び場」なんです。
 あちこちの古老から、子供の頃は山を越えて何キロも先の学校に通ったという話を聞く度に、さぞかし大変だったろうなーと思っていたんですが、今日会った小学生がすごい勢いで走り上がって行ってしまうのを見たり、山道で鬼ごっこをして遊んでいるのを見たりすると、意外と昔の子供たちはいい勢いで登下校していたのかもしれないなと思うのでした。

 小学生さんとは、次はさらに古い道の先まで一緒に歩く約束をして別れました。古老に聞き取りしながら古い街道を見つけていくのは楽しかったみたいです(^^) 私もちょいと次が楽しみです。
 
コメント (2)
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美しい道を歩く

2010-06-01 | 熊野
 あまりブログ更新できないのですが、これなら余計な文章を書かずとも写真で伝わるかしらん。
 本日の感動↑

 日本の山間部に車道がやっと作られたのは、高度経済成長期になってから。ほんの昭和30年代後半~40年代のことです。
 まだ車道ができる前、人々が日常生活を自分の足で歩いていた頃の生活道を、今日も探し調査していました。

 この道は今も「"町道"なので、わしらで整備している」と大正生まれの方がおっしゃいます。素晴らしい。
 車社会から置き去りにされた素晴らしいものがまだまだたくさんあります。

 (P.S. 熊野古道とは全然違う所です)



"町道"の際の崖に安置された子安地蔵さん(左)と水子さん(右) きれいに手入れされています。

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「人が自分の足で歩いていた頃」都市問題2010年1月号

2010-04-04 | 熊野
 病院のことでかまけて,すっかり事後になってしまいましたが,
「都市問題」(東京市政調査会)
2010年1月号の巻頭にコラムを書かせていただいています.内容は熊野の山中の村々に今も暮らしている方々のことなんですが.
 現代の私たちは,お金を払うことでいろんな便利を手に入れたけれど,本来の生きる力まで他人に肩代わりさせてしまっているんでないか.辺鄙なところ(単に,国道やハイウェイが近くに作られなかったので取り残されたように見えるだけ)に暮らし続けている人々を,一方的に不便だと決め付けるのではなく,国道やハイウェイが近くにあろうがなかろうが,変わらず自分の足で歩き,自分の手で運び,暮らし続けている人々から学ぶことがたくさんあるのではないか,といった内容です.
 図書館などで見つけたらぜひ見てみてください.
 書かせてくださった都市問題編集部の方に心より感謝です.

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移動する神社

2009-11-27 | 熊野
11月1日は、和歌山県玉置口の牛頭神社の例祭でした。
現在集落に子供が一人もいないとのことで、大人だけのお祭りです。ちょっと寂しい・・


 民俗行事など取材する時は、できるだけその集落全体を歩き回っておくように心掛けています。道のつながり方、植生、家や施設や田畑、山や川の位置関係などからも、その土地の風土や歴史、村の成り立ちがけっこう見えてくるからです。中でも神社は昔から精神の依りどころで、行事ごとに人々が集まるコミュニティの場なので、まず最初に神社の位置を確かめに行きます。
 知床の開拓地を初めて歩き回った時も、最初に神社跡を2箇所見つけたので、最初から知床には集落が2つあった、という認識で、幌別と岩尾別の成り立ちを探っていくことができました。

 が、明らかにこれヘンでしょ、こんな場所に神社つくらないっしょ、という神社に度々遭遇します。
 集落との位置関係が明らかにヘン、とか(集落の下(しも)にあるとか、変に離れた道路沿いにあるとか)、ご神体(神様のよりしろ)がない(例えば、大岩をよりしろにするタイプの神社なのに岩がない)などです。そういう神社を突き詰めてみると、実は「移動した」というのが一番多いです。

 北海道などでは道路拡張に伴って新社地に移されるのが多く、熊野の山中などでは「遠いので近くに移した」というのをよく聞きます。「だんだん遠くまでお参りする人も減ってきて、年寄りも遠くまで行くのが大変なので」と。何故その場所に移したのか、すでにわからなくなっている神社もあります。これらの場合、本来の「神社がそこにある理由/意味(神様がそこにおわす理由/意味)」は失われてしまっています。

 こんなわけで、最近では旧社地の位置も確かめて行くようになりました。旧社地を見ないと、集落の昔ながらの成り立ちはわからないと思うので。


玉置口の牛頭神社が昭和20年代まであった場所。集落を見晴らす山のてっぺん。
各々の神様が祀られていた段がよくわかります。


 と思っていたら、玉置口の旧社地を案内してくれた村の方が、「ここに移す前は、川の向こう側に祀られていた」と、はるか向こうの森を指さすではないですか。それは北山川を隔てて離れ、昔は渡し舟で渡らなければ行き着けなかった場所です。一方でそこは、その渡し舟を使った街道が通っていた場所でした。

 旧社地の神様が、さらにその前におわした場所、(もしかすると、さらにその前におわした場所もあるのかも)、それらを辿って行くことは、神様を移動させてくる「人」の往来や暮らしを辿ることにもなるんだ、と思うとますます興味が湧いてきます。



玉置口の旧社地の一段下には、村の人々が今でもお祈りする地蔵3体が祀られていて、いかにも特別な場所という空気に満ちています。
地蔵と呼ばれていますが、一体はよく見ると役行者です。



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畝畑と辞職峠

2009-11-21 | 熊野
畝畑街道へ上がる途中、現在は誰も住んでいない西山集落(和歌山県鎌塚)に残された地蔵。何も彫らずに、石板や石錐をそのまま地蔵として祀ったものが時々みられます


 熊野古道大雲取越より西の方、古座川町との境に近い熊野川町(新宮市)の最奥に、畝畑という集落があります。かつて「木の国」紀伊の木の伐り出しで栄え、広い範囲の複数の字に多くの人が暮らしていた集落ですが、現在2軒が残っているだけで、どこが家でどこが学校だったかもわからないくらい黒々と植林に覆われてしまいました。ここに道路がついたのは昭和35年、それまで一体どこをどう通ってこの集落に通じる道があったのか、ずっと不思議に思っていました。地図を見てもほかの集落との距離は半端ではなく、四方を山塊に閉ざされ、文字通り隔絶・孤立しているのです。
 幸い畝畑に昔住んでいたという人たちにお会いし、お話を伺うことができました。それによると「辞職峠」を越えて小口(熊野川町の旧小口村の中心)(途中から別れて鎌塚とも)と通じていたとのこと。小学校の先生が畝畑に赴任してくる時に、あまりの道の遠さに辞職を考えた、という話や、警察官が畝畑まで日常的に見回りに行かなければならないことに辟易して辞職を考えた、という話が伝わっています。

 ということで、辞職峠までのかつての道を小口から探して登ってきました。道は所々崩れていましたがよく残っており、標高の高い山腹を行く気持ちのよい道です。つい50年くらい前まで、ちょっとした買い物とか、当時の子供たちも含めて、何時間もかけてここを歩いたんだなあと思いを馳せつつ。
 しかし、最初は楽勝と思っていた道も、思ったより長く、いやいや、もっと思ったより長~く、登っても登っても峠に着かず、だんだんメンバー皆へろへろになってきました。途中林業用のキャタピラー道に街道が寸断され、迷ったのもあって、陽も傾いた頃にようやく峠に到着。最後は日没を気にしながら一生懸命下る、という状況になってしまいました。かつての人々はここを1日で往復して買い物に行っていたのだし、たぶん帰りはすごい荷物を背負って登ったのだろうし、別の集落では当時は夜中でも山道を歩いた話を何回も聞かされたし、自分たちが当時の人だったら、もっと健脚で、余裕で、日没も気にしないで歩けたんだろうか。それでもやっぱり、この道を行くのは簡単なことではなかったし、初めて歩く子供はダダをこねたくなっただろうし、大人だって日没に間に合うようハラハラしながら歩いたのでは・・・、と想像してみるのです。

 畝畑に住んでいた人々のお話を総合して、また、昭和30年代の古い地図を確認して、かつて畝畑は1)熊野川町(新宮市)方面、2)本宮町(田辺市)方面、3)色川(那智勝浦町)方面の3つの徒歩ルートで周辺集落とつながっていたことがわかりました。しかしどれも、日用品を買いにいくには、また、医者にかかりにいくには、山道を片道4時間というコースでした。

 昭和35年に道路が通じて、畝畑の人々はいなくなったと言います。
 それまで畝畑の多くの人の力と筏で材木を下流へ出荷していたのが、トラックが来て運ぶようになったので、畝畑の人々が林業をする意味がなくなってしまったのだそうです。人々もその道路を通って新宮など働きやすい都市部に流出していきました。
 山間部の人々を助けるためにつくられたはずの車道が、村が消えて行くきっかけになったというのは皮肉な話です。


ここが辞職峠。熊野川町役場の方々、色川百姓養成塾(色川から全国に"農村再生"を実践・発信しています)の方々と。

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