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ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

TV放送のお知らせ「知床に生きる」:7/16と7/22

2012-07-16 | 知床
(知床開拓地のうち岩尾別地区に残る豚舎跡。
豚のエサだったカラシ菜が、今年はこんなに…。
 自然が強調される知床に、園芸品種が咲き乱れる光景でもあります。)


 くどくてすみません。BSジャパンのサイトに、番組の説明がアップされていたので、リンクしに来ました。

BSジャパン番組情報
     2012年7月22日(日)16:50~17:20
       「知床に生きる」
     BSジャパン(全国版:7ch)



 あと、明朝は地上(デジタル)波です。

       2012年7月16日(月祝)10:25~10:55
         「知床に生きる」
       テレビ北海道(北海道内7ch)


  どうぞよろしくお願いいたします。


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大自然を管理するということ

2011-05-10 | 知床
(すみません、しばらく来れない間にコメントいただきました。これからお返事書きます)


 知床五湖の遊歩道が一人5000円を出してガイド付きでないと「入場」できなくなったという、知床の新ルールのニュースを聞いて、私個人としては、つまらない世の中になったもんだなあ、というのが正直な感想です。何をつまらないと思うかというのは、昔こんなことがあったからです。

******

 もう10年以上も前のことですが、大雪高原に9月に出かけたことがありました。沼をめぐる山道は真っ赤なナナカマドが沼面に映える紅葉の名所で、この時期大勢の人が押し掛ける有名スポットでしたが、同時にヒグマが活動するテリトリーでもありました。とりあえず人出がものすごいので、人が引くのを待って、午後に高原温泉に行ってみると、登山道への「入場」はもう終了したというのです。ゲートがあって、母体はどこかわかりませんが、管理している団体がいるのです。その頃はゲートに到着するまでゲートがあるなんて情報もありませんでした。(今はもう少しシステム立っていて、ヒグマについてのレクチャーもあるようですが。)
 仕方なく次の週にもう一回大雪高原へ何時間も運転して出直すと、やっぱりゲートは閉まっていて、「ざーんねんでした」と、ちょっとイヤな言い方をされました。13時ちょうどです。天気は快晴。登山客が渋滞しているわけでもありません。イヤミな言い方にカチンと来たのもあるのですが、一番近い沼を往復するだけなら1時間の歩行行程を13時に閉めてもう絶対「入場」不可(それも誰が何の権限で??)というのが納得できず、押し問答になりました。

「ヒグマは午後15時から活動する」
(15時からっすか!?(驚))

「だから15時までに戻って来れないと困る」
(いや、だから2時間もかかりませんてば。せめて一番近い沼を見たいだけです。)

(なんかヘンだよ、ヒグマ時計持ってないよ)

(じゃあ30分歩いた所で引き返してきますから。)
「それもダメ。それにあんたその格好ね」

 そう言って、管理人(?)は私をじろじろ見ました。よく見ると、いわゆるカラフルなザックに上下ゴアテックスにスパッツを履いて、登山靴をガツガツ言わせて、誰もかしこも同じような帽子をかぶって、ストックをついた、登山入門雑誌から飛び出してきたような中高年ばかりが下山してきます。私はべつに上下ゴアテックスなんて着ていないし(雨具はバッグの中)、帽子もかぶってないし(山岳部時代から帽子は嫌いで被ったことなんてないよ)、履き慣れたスニーカーにカメラバッグ姿です。今まであちこち山をやって、重いカメラも抱えて歩き回る中で、試行錯誤しながら必要最小限に装備を削って、自分が一番歩きやすく、かつ危険のないように至った、歩き慣れた格好でした。
 が、それは、山の装備を何にも知らないで軽装備をしているフトドキモノと、見分けがついてもらえないのでした。
 つまり、登山入門雑誌から飛び出してきたようなフルのゴテゴテの格好 - - - そのまま7日間の山岳縦走ができてしまいそうな - - - をしない限り、山を甘く見た初心者の軽装備と、山行を重ねて試行錯誤の上自分に合ったように削った軽装備は見分けられないのだ。私自身は「ここは縦走するようなフル装備で歩くような所かい!?」と思っているけれど、管理人(?)からは「山のことなんか何にも知らないパーなカメラマン」にしか見えていないのです。

 トムラウシ山で大量遭難があって有名になりましたが、私がトムラウシ山に登っていた頃は、2泊3日の縦走コースを、スニーカーに軽装備で走るように駆け抜け、日帰りで下山してくるというやり方をしていた人たちもいたのです。ただそれは、普段から厳しいトレーニングを重ね、天気図も自分で毎日読み(山をやる人は自分で天気図をつけるし、自分で天気図から天気予報をするものです)、コースもエスケープルート(何か起こった時にすぐに下山できるルート複数)も調べ上げた上で、この日この気候この体調ならゴー!という時に、実行するものです。
 が、そういうベテランの人たちの格好も、他の人が見たら、山を舐めたパーな人たちにしか見えないでしょう。

 結局のところ、大雪高原沼も、本当に山を知らないで軽装備で入って、ケガをしたり、ヒグマと遭遇して問題を起したりする人が後を絶たないのでしょう。たとえ私が1時間で歩ける範囲でも、実際に3時間くらいかけないと下山してこれない登山客の人々もいるのだと思います。そうすると、危険や問題を回避するためには、とにかく全部「排除」するしかない。スタンダード(と思われているもの)からちょっと外れるものはことごとく制限し、「入場」時間を決めてゲートを閉めるしかないのです。

 私はそこは「山」ではなく、「山というテーマパーク」なのだと思うようにしました。
 管理されて、ゲートがあって、入場時間のある遊園地のようなテーマパーク。
 管理されてるから、何か事故が起こった時には、入場者の責任ではなくて、管理者の責任になる所。
 山を知らない初心者が入ってしまっても、レンジャーや管理人が常に見回っていて、何が起こっても助けてくれる場所です。

 でもそれは、私には何の魅力もありませんでした。
 山に入るということは、自分で責任を持つということです。自分で責任を持って山の中を歩く、責任を持って山を知る、注意深く観察する、自分自身をも注意深く把握する。それが大自然との対話にもなるのです。
 だから、それを放棄して誰かに管理してもらう場所は、遊園地と一緒で自分がお客さんになってしまうのです。「大自然」がアトラクションや見せ物になってしまう。
 自然を守るため、かつ自然から人間を守るため、そうは言っても、それは私にとっては、本来の自然とのやりとりから遠く離れた、もはや違う場所なのでした。
 私は結局大雪高原沼には行きませんでした。今後ももう行くことはないだろうと思います。

******

 そんなわけで、知床のニュースを見るにつけ、大雪高原沼のことを思い出すのです。
 それで、つまらない世の中になったなあと思うのです。

 実際にはヒグマを見るなりソーセージを投げるようなぶっ飛びものの観光客までいるので、五湖の遊歩道を管理するのは仕方のないことなのだと思います。
 遊歩道に「入場」する前に全員が必ずヒグマについてのレクチャーを受けなければならいというのも、大変重要なことで、知床自然センターの皆さんがよく考えてすごく頑張っているなあと思います。
 私自身も、五湖の遊歩道だけが問題なのではなく、普通の車道であっても、ヒグマを見つけるなりタクシーを下りちゃう(のみならず、写メしながら寄ってっちゃう)人とか見るにつけ、これ管理しないと絶対マズイわ、普通の車道でも命がけだわ、とか思いますもん。
 その一方で、自分自身で知識を身につけ、周囲に細心の注意を払い、自己管理をしっかりやっている大自然を愛する人は、ますます知床に近寄りにくくなるなあと思うのでした。

 まあ、どれほどトレーニングしようと、細心の注意を払おうと、ヒグマのプロになろうと、それでも事故は起こるんで、大きなことは言えないんですけどね。


**(補足)**

 補足なんですけど、当時大雪高原で私がなんだかヘンだと思ったもう一つは、押し問答した相手が「そんなに登山道に入りたいんなら、隣の(高原沼じゃない方の)登山道(ゲートはない)を登って山の上に行ってくればいいじゃないか。そのかわり何があっても知らないよ」と捨て台詞のようなことを言うのです。山の上は大雪山系の標高のある稜線上ですから、私的には沼の遊歩道よりもっと山として危険だと思うんですが。結局私はちゃっちゃと隣の普通の登山道を登って、稜線を歩いて、ちゃっちゃと15時には下山してきました。管理されている所と、されていない所。なんだか腑に落ちないなあと思ったことを覚えています。
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切り抜ける力

2011-03-28 | 知床

 知床開拓スピリットの第2弾を、遅々とした歩みですが日々進めています。知床開拓地で育った開拓2世の方々の膨大な証言をまとめているんですが、書いている内容の中から、震災の復興への応援になりそうな(なるかな?)エピソードを一つ、ここに紹介しておきます。

 現在の岩尾別ユースホステルのある場所が岩尾別小中学校だったんですが、そこで子供時代を育ち、社会に出てからサケマスの養殖をやっていらっしゃる方がいます。業務の主な内容は、マスやサケの受精卵や稚魚を、本州に出荷することです。北海道から出荷された卵や稚魚が、本州のあちこちの養殖場で育てられて大きなマスやサケとなり、そこからさらに出荷されて、お寿司やさんのネタや、マーケットの鮮魚売り場に並んでいる切り身になるわけです。

 特に銀ザケは、昔はたくさんの業者が卵を育てていたそうです。北海道の半分くらいでグループをつくって、本州に出荷していた。
 ところが、本州に稚魚を送ったのに、お金を払ってもらえないということが2年立て続けに起こった。1400万円づつ、2年間も! 本州の、相手の業者が倒産してしまったのだ。
 それで、こんな危なっかしいことはやってられんって、みんな銀ザケを扱うのをやめてしまった。

 ところがですね。知床開拓のさなか子供時代を過ごしてきたその人だけは、その程度ではこたえなかったんだか、苦労の閾値が高かったんだか、他の人たちみたいに損害や損失に対して神経質にも敏感にもならないで、2800万円の損失を抱えてしぶとく銀ザケの養殖を続けたの。

 そしたら、今や東~北日本でその人の銀ザケのシェアが7割ですよ。私たちがふだん口にしている銀ザケは、ほとんどがその人の卵から育ったものですよ。北海道で銀ザケを養殖してるの、他にいないんだもの。

 だからその人は、このしたたかさというか、苦労に対する鈍感さというか、苦労を苦労と思わず切り抜けていく力は、知床で育ったおかげかもねーと言って、はっはっはと笑います。知床開拓地では、苦労とは苦悩するものではなく、ただ「労力(と精神力)を要する課題」なのであり、やれば切り抜けるものでした。

 震災とは比べ物にならないだろうし、震災のショックは想像を絶するもので、私が何か言うのもおこがましいのだろうけど、苦労に対して鈍感であることもまた巨大な助けになるということを言いたくて書きました。
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自分がやらなければだめだ

2010-08-23 | 知床
 先日8月20日にNHKにて「戦後開拓を知っていますか」が放送されました。実は、企画書が送られてきた段階から知っていて(企画書は先人たちの生きた証を世に知らしめたいという立派な内容でした)、知床開拓地を取り上げたいということで、私も取材に協力していました。ディレクターさんとも直接会って散々話をし、「今まで紋切り型のように語られてきたような『作物がとれないから失敗した』とか、開拓者の人々を『失敗者』としてレッテル貼りするようなことはしないで下さいね」と念を押し、大丈夫だということなので、今までの作り上げられた(知床開拓は失敗と決めつける)ストーリーから脱却できることを期待して、写真を提供したり、もと開拓者の人々にも「今度のディレクターさんはちゃんと話の理解できる人だから、今までとは違うから、大丈夫だから、協力してあげて下さい」とお願いをしたりしてきました。

 が、実際の放送は最近かつてない(最近の知床自然センターでの開拓の歴史に対する動きや、複数の新聞社の開拓を取り上げる姿勢とは真逆行する)ひどい内容と構成でした。
 現在も水田が残る新篠津の開拓(成功例)の紹介に続いて「次は戦後開拓の失敗(例)です」とナレーションが入り、知床で作物がとれたかどうか以前に、「ひたすら木ばかり伐って開墾が進まず、それで開墾を進めるために重機を入れたら表土を痛めてもっとダメ、観光の波も押し寄せてきたので離農しました」というダメな所だけつないだ超ダイジェスト(超ショートカットなので事実とも乖離)、開拓者の人たちはただ苦労させられた哀れで可哀想な人たちという描かれ方をしていました。開拓地から持ってきた花を今も庭で育て続けている門間さんの姿が、土地を離れた開拓者の悲哀として涙を誘います。

 私が煮えくり返ったのは、日本第一の国民放送局というジャーナリズムが、新しい事実を視聴者に知らしめたり、既存の歴史観に新しい視点をもたらしたりするのではなく、大昔から事実はそっちのけで言われ続けた大衆ウケする安易な開拓失敗ストーリーに、結局迎合して後戻りしたことでした。そして、ただただ苦労させられた気の毒な人たちを描いて、最後に「開拓者の苦労に胸がぐっときましたね」と、感動を誘っていることでした。
 可哀想な哀れな人たちに涙することが感動なのでしょうか?
 「戦後開拓という所詮ムリなこと開拓者たちに押し付けた国を糾弾する」ことが目的で、そのために「どれほど国のせいで開拓者たちが悲惨で可哀想か協調すればするほど効果的」なのだとしても、「苦労した」ことと「哀れで惨めだった」ことはまったく違う。その違いがNHKにはわからないのです。
 国に強いられた尋常ではない苦労の中を、それでも生き抜き、子供を育て、生活してきた開拓者たちに対して、「哀れだった」「可哀想」と決めつける権利など、私たちにはない。

 実は、NHKの取材でこういうことは今回が3度目でした。最初は、私自身を取材していただいた番組で(なので、開拓者たちが苦労の中にも生き生きと暮らしていたことを紹介する内容だったんですが)、その時のディレクターさんがものすごく頑張ったにもかかわらず、NHKの内部に持ち帰った後で上層部からあれこれ直されたり、他の部署がナレーションをつけてお決まりの失敗ストーリーになっていくんですね。2度目は、もと開拓者が当時の生活や楽しかったこと頑張ったことを山のように語ったにもかかわらず、それは全部カットされて苦労して暗かった部分だけつなげた番組に。そして、今回の件。
 ディレクターさんに悪意はないとしても、NHK内部で、開拓とは失敗で悲惨で可哀想だったもの、というバイアスがかかっていくと言わざるを得ません。

 結局のところ、「知床開拓は失敗しました」という旧来のストーリーを繰り返し世に流し、強化し続けているのはNHKなのでした。
 それを見抜けないまま取材に加担してしまった私は、痛恨の悔恨の極みです。開拓者の方々に申し訳ない。
 「今度の番組は大丈夫だから」と説得して写真を提供してもらった開拓者の方に、会わす顔がありません。
 マスコミも少しは変わるのではなどと期待せず、私は自分が地道に努力して広めていくしかない。理解し賛同してくれる人がいるなどと期待せず、自分がやるしかない。

 番組放送後、今まで散々やりとりしたディレクターさんにメールを送りましたが、たぶんもう返信が来ることはないのだと思います。

 私が一人で怒っていても仕方がない、開拓者の方があの番組を見てオッケーならいいのか?と、もと開拓者の方に感想を尋ねると、「いかにも勝ち組負け組に分ける内容で、離農に至る経緯は誤解を招く」と私以上に怒っていらっしゃる方も・・・。

 一方で、番組にも登場した門間さん。番組を見てどうだったか尋ねると。
「エライ人たちが来て、なんか聞いていっただけ。あたしにはよくわからない。わからないようにしているの」
 この言葉、わかりますか?
「あたしはねえ、ただ朗らかにしているだけ。」
 私はこの人の言葉にこそ涙が出る。
 開拓での苦労の年月も、離農を決められた時も、開拓地を離れて引っ越してからも、どんな時も何一つ文句を言わず、朗らかにし続けてきた門間あや子さんの言葉です。
 
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思えば長く来たもんだ

2010-02-20 | 知床
 先日、町長とお話する機会がありました。
 今までも何度か町長とお話しましたが、自分のことを話すのはまったく初めてです。

「私が一番最初に斜里に来たきっかけを、聞いていらっしゃいますでしょうか?」
「保村さんに紹介されて、嘱託医で来ていただいた時ですか。」
「いいえ、それよりもっと前からです。」
 私が斜里町に来るようになったのは、2005年の夏のことでした。もうすぐ5年になるのですね。当時は医者としてではなく、当時まだ明らかでなかった知床開拓を踏査していく写真家でした。
「ああ、ああ」と町長も合点して下さいました。
「ええ、町議会では門間家を修復保存していただきました。」と私も言いました。
「斜里町の方々が知らなかった斜里町の素晴らしい歴史を、明らかにしたという自負はあります。私財も投じて一生懸命斜里町に貢献したと思います。」
 夜行バスで斜里町に通い、ダニに食われながらレンタカーの中で眠れなくてうんうん言いながら知床開拓の取材を続けていた時のことを思い出します。貯金が数十円になっていたので、フィルムと現像代、交通費で何百万円か使い果たしたと思います。本を出版する時にも何百万円も使いました(今も印税は1円ももらっていません) 今さら、貢献したと言ってもバチは当たらないでしょう。

「斜里町国保病院に嘱託医で来ることになった理由は、聞いていらっしゃいますでしょうか。」
「いいえ」
「それはちょうど、4人いた内科の常勤医が2人だけになってしまうという時でした。当時は私もそんな事情は存じませんでした。当時、最初に集められた非常勤医師の一人だったのです。その時から毎月勤務してきました。もうすぐ4年になります。」

「では、非常勤として斜里町でどのくらい働いているかご存じでしょうか?」
「1回3~4日くらいですか?」
「いいえ、月に12日間です。ただ、1回来ると24時間勤務ですから、普通の人の12日間というイメージよりはもっと長いです。」
「ええ、そうでしょう。」
「計算してみると、おおよそ月に170時間の勤務でした(移動時間除く) あくまで単純計算になりますが、1日8時間労働とすると、月に21~22日間斜里町で働いている計算になりました。」
(あくまで単純計算ですけどね。)

 今さらながら、斜里町ではずいぶん長いこと勤務してきたなあと思いました。
 町長とは始終↑こんな感じでおだやかな会話だったですよ。心配する人がいるかもしれないので、念のため。

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立松和平先生

2010-02-15 | 知床
毘沙門堂例祭で撮っていただいたもの。
心からお悔やみ申し上げます。自分の初の本の帯を先生に書いていただいたのが最大の思い出になってしまいました。


 先週は兵庫、和歌山、三重、静岡と、取材・病院の仕事・自分の親のお見舞い、と広範囲を移動していました。
 熊野の山中にいる時はだいたい携帯も圏外なんですが、そんな熊野まで訃報が追っかけてきました。
 先月からお世話になった人の訃報が続いて、凹みます。カメラを抱えて歩き回っているうちは、まだ何だか遠い世界の知らないニュースみたいに実感が湧かなかったんですが、三重県に95才になる百夜月のHさんをお見舞いに行って、Hさんが足と言葉が不自由ながらもお元気そうにニコニコしているのを見た瞬間、なんだか泣けてきました。ああ、Hさんはお元気だった。元気でよかった。生きててよかった。お世話になった人がしんじゃうのは、イヤだもんなあ。いつまでも、元気で、生きててほしいのにさ。なのになあ。

 自分が医者だからかもしれませんが、私の記憶の中の立松先生は、いつも疲れてぐったりしていて、人知れぬストレスがおありなのだどうなあと思った覚えがあります。そういう自分も、先生の仕事を増やしてしまった一人なのでしょう。先生に突然「うらやましい!」と言われて仰天したこともありました(「うらやましい!」のは周囲の誰もが先生に言う台詞でしょう) 好きなところに行って好きな記事を書いていることを言われたと思いますが、逆に、先生はそうじゃないのか?と、心配とも不安ともつかない気持ちになったものです。

 先生が遺していってくれたものをどう受けとめて、自分は何をやっていくのか、重たく思案しています。 

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幽霊の出る岩尾別の番屋

2009-11-22 | 知床
今は広く静かな岩尾別川河口の海岸


 先日の岩尾別小中学校同窓会にインフルエンザで出席できなかった鯨井さんと昨日電話で話していて、「翌朝はみんなで岩尾別川河口の海岸に行ったんですよ~」と言ったら、面白い話をしてくれました。鯨井さんは戦前の知床開拓を知る数少ない一人です。

「あの海岸には昔、番屋が建っていて、私らが昭和10年代に来た時にはもう廃屋だった。ずっと昔、妊娠した女の人がその番屋まで男の人を追いかけてやってきてね、でも、難産で母子とも死んでしまったんだ。それをそのまま海岸に埋めたんだと。私らが来るずっと昔のことだよ。それで岩尾別の海岸は幽霊が出るって、子供たちみんなで肝試しをしたんだよ。」

 お~、そんなエピソードがあったとは。鯨井さんにとっては海岸は、肝試しの思い出の場所なのです。
「その番屋に、一旗上げる!って住み着いたおじいさんがある日鶏を食べて腹痛を起こし、村中の人々が流氷の中を必死で送った。それが『流氷(響文社、1994)』に載ったおじいさんの話だよ」

 今では、岩尾別川の河口の海岸に家が建っていたなど誰も想像もつかないでしょう。河口の海岸は今は、遡上する鮭マスを食べにくるヒグマが歩き回るポイントとして、多くのカメラマンが望遠レンズを構える場所になっています。
 でも先日の「蓄音機をまわした大岩」とか「50年以上変わらず涌き続けている泉」とか、この「幽霊が出ると言われていた番屋」とか、小さな見どころやエピソードとして、今後知床を発信していく上で役に立つんじゃないかと、私なんぞは思うのです。


岩尾別川河口の海岸を歩き回るヒグマの親子。
岬の道から見下ろしているので点みたいですが。

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第2回!岩尾別小中学校同窓会

2009-11-20 | 知床
 
岩尾別の馬頭観音さんにお経を上げる菊地さん。「馬はどの家庭でも大事だったから。でも馬だけじゃなく、ウサギも、鳥も、食べた動物も、全部の動物に(お経を)ね」と。



 斜里町で当直、和歌山で古道の調査と行事の取材、和歌山の病院でも当直、戻って斜里町で当直という連続の3週間をやっていました。しかし斜里町ではあちこちから「ねえまだ斜里町に来てんの?いるの?」と言われがっくしです。病院の外に出る余地がなくなって外で目撃されなくなっただけで、前よりも国保病院で勤務している日数は増えているのにかなしいなあ。
 斜里町は来年4月から旭川医大から内科常勤1名の派遣が決まって、今年6月の「常勤医が一人だけになってしまう、大変だ!」とチラシを配布した時のふりだしにやっと戻ったのですが(4月からやっぱり内科が一人しかいないことには変わりない)(医大からの派遣など決まっていなかったことがその後わかりました)、9月頭にその先生が決まった時点でみんな「よかったよかった」になってしまい、その後なんにも医師招聘活動なんかやらなくなってしまいました。「一人になってしまう困った」が、いつの間にか「でも一人来るからいいでしょ」に変わり、町民の人も話を聞いてくれなくなりました。今は根も葉もないのに「二人めも決まった」「4月からは三人になる」という話が流布していてみんな喜んでいます。もうだめなのかなあと落ち込みます。


 そんな折ですが先日11月7日に第2回「知床開拓スピリット2世の集い」が開かれました。知床の開拓地、自然センター周辺から五湖までにあった幌別・岩尾別2つの集落の「岩尾別小中学校」の同窓会です。今年は参加できる人数が少なかったのですが、どっこい、集まったら喋ること、喋ること、喋ること、皆さん火山の噴火のごとく語り続けて、今年もやっぱり、午前様になっても朝が近付いてもまったく眠る様子がありません!
「その後の人生を振り返った時にね、開拓地で育って、何にも動じないしたたかさが身に付いて、本当によかったと思うんだよね」と吉原さんが喋っています。
「NHKが来て『開拓時代の辛かったことを語ってくれ』と言うから、楽しかったことばかり3時間語って、VTR3時間撮った、ぜ~んぶカットされた。オレはあの頃楽しかった!辛かったことなんか一つもない!」と斉藤さんが叫んでいます。いや、叫ばないと、聞こえないんだ、みんなすごい喋っているから。

 翌朝は場長さんの許可をもらって、岩尾別小中学校の跡(今は岩尾別孵化場になっている)から岩尾別川の河口の海岸まで歩いてきました。姿かたちはオジオバですが、歩く動作やお喋りはもうほとんど小中学生の遠足、皆さん一挙に50年のタイムスリップです。

「小学生の頃、海岸の大きな岩の上に蓄音機を置いて、みんな集まって、音楽会をやったんだよ」と度々聞かされていたので、自分なりにその光景を思い浮かべたりはしていたのですが、

 ↓実はこんなにデカい岩だった・・・・・
「ここにちょっと平らな所があるもん、ここに蓄音機を置いたんだよ」と吉原さん。



「あの頃、大きな岩と岩の間から水が湧いていて、みんなで飲んだの。おいしかった」と探しに行くと、

 ↓ありました!
 今も変わらずに湧いてる、知床すげー(笑)
 50何年ぶりに喉をうるおす同窓生たちです。



 今後のことなども皆さんと話し合いました。これからもずっと同窓会が続いていってほしいです。
 今回私は全然準備など御協力できず申し訳なかったのですが、これからも知床に暮らした人々の歴史が絶えることなく語り伝えられていくことを祈っています。



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こんな時ですが:グラフィケーション7月号

2009-07-11 | 知床
 こんな時ですが、富士ゼロックスの雑誌「グラフィケーション 7月号(No. 163)」に、知床の記事が載りました。

 知床には何もない所から苦労して自分たちの生活を築き上げてきた人々がいたこと、そして、その人々は今もご健在に身近に暮らしているんだということを、少しでも全国の人に知ってもらえると嬉しいです。
 私が斜里町に来たのは、本来、そのためですし。

 私個人としては、その、お世話になったもと開拓者の方々が、その後もお元気で暮らしているか、変わりはないか、何かあったらすぐ自分が駆け付けられる場所にいたいという気持ちや、同じ斜里町内で働くことで少しは恩返しもしたいという気持ちもあってここまで続けてきたのですが・・・。

 記事では斜里町議会の対応をありがたく書いたのに、残念。



 グラフィケーションは購読希望者に無料で送付とのことですので、ご興味のある方はぜひ。
 全48ページカラー。
 今月号には、100平方メートル運動を全国に広めるきっかけとなった朝日新聞の天声人語を担当していらした辰濃和男氏も寄稿しておられます。
「グラフィケーション」の詳細はこちら
http://www.fujixerox.co.jp/company/fxbooks/graphication

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知床自然情報誌SEEDS「開拓農家の家屋とその時代」

2009-03-23 | 知床
 知床自然センターが年6回発行している知床自然情報誌「SEEDS」の最新号をもらってきました.
 なんと,今回のテーマは「開拓農家の家屋とその時代」

 私は確かにちょこっと「門間家」について寄稿したのですが,まさかその他全体がこんな誌面になっているとは!

 昭和30年代の門間家の風力発電の古い写真が表紙になっているSEEDSを見て,思わず感無量でした.知床自然センターの機関紙の表紙を,"知床開拓"が飾る時代が来るとは・・・! 私が取材を始めた頃には考えられなかったことです.時代は変わったのですねえ(つくづく)

 中身も,

●昭和34年に開拓地に嫁いできた門間あや子さんご本人へのインタビュー(知床の山での生活で学んだ数々(すごい))

●ウトロから知床開拓を見続けてきた赤澤茂蔵さん(先日,ヒグマがタクアンの樽をアタックして全国ニュースになっていたお宅ね(笑))が語る,昭和30年代~40年代の知床の移り変わりを年表にしたもの

●それらの歴史を踏まえた上で,現代に引き継がれた100平方メートル運動のこと

●その100平方メートル運動地の中に,この度,修復保存された門間家住宅の意義

 ・・・等々,濃いです.

 年表も,今まで誰もやらなかった楽しくわかりやすい描き方で,知床という奥地がじょじょに観光地に変わっていく様子が,一目でわかるようになっています.
 知床が観光化されていく変化の末に,「知床開拓」という国の事業が終焉を迎えるに至るいきさつ(決して,開拓者の人が自然が厳しくて逃げ出したわけではないこと)も,ごく自然に伝わってくるんじゃないでしょうか.

 知床自然センターの機関紙が,こういう話題を正面からとりあげてくれるようになたというのも感無量だし,知床が今まで経てきた開拓の歴史や人々について,真摯に向き合っている斜里町役場や自然センター(知床財団)の方々にもブラボーです.

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BShi「にっぽん巡礼」後編 ”知床半島”

2009-03-22 | 知床
 お知らせです、先日加藤登紀子さんが訪問された知床の撮影、NHKのBShi「にっぽん巡礼」は、3/23(月)後編での放送のようです。
 知床開拓地、開拓者の方々のご様子が出ますので、ご興味のある方はぜひ。

http://www.nhk.or.jp/junrei/program/program_spring2.html

 さて、私自身はどうやってBSを見ようかね(^^;

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知床の開拓農家「門間家」修復中

2008-11-19 | 知床
崩れかかっていた玄関も見事に生き返りました。


 修復中の「門間家」の見学に行ってきました。9月に斜里町による修復と保存が正式に決まった、知床開拓地に残る最後の廃屋です。今まで門間家を撮影に来る度に、ちゃんと建った形で見られるのはこれで最後か・・?と何度も思ったことを思い出します。玄関が崩れ、窓が曲がり、もう次の春はないんじゃないかと心配していましたが、間に合いました。開拓の歴史を一目瞭然に語る大きな遺産です。


「お嫁さんが来るというので、トイレとお風呂を屋内に新しく作った」というお風呂が左手前(トタン部分)、トイレと廊下が課長の背後の勝手口から奥の部分。作り付け部分もデカイ!


 で、実際に修復の様子を見せていただくと、感動ものです!(笑)
 修理している工事さんたちが凄いです。腐っていた柱の下部や地面近くの壁をとりはらい、防腐剤をしみ込ませた木材で置き換え、あれよあれよと「家らしく」なっていきます。例えがヘンですが、枯れかかった花がぐんぐん生き返っていくような感じです。


家を支えている土台も明らかに。「昔はこうやって石を並べて家をつくったんだよ」と地元の工事さん。


 その工事の方々が口々に「立派な家だねえ」と、「うちはもっと小さい家だったもの」と笑います。家の中に残っていた家具や諸々を取り払うと、私も改めてびっくりするくらい、大きくて立派な造りです。これを自分達で作ってしまったんだから凄い話です。知床の開拓のイメージを一新する存在になってくれることを祈りつつ。


腐った床板をとりはらうと、床下からもたくさんの一升瓶が出てきました。他の開拓農家の跡地からたくさんの一升瓶が出て来るのと一致しますね。


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知床開拓跡地の再発見

2008-11-16 | 知床


 昨日は知床自然センターの方と環境省の方と、雪が積もってしまう前にと知床の開拓跡地の残存物の倒壊状況などを見に行ってきました。クマザサはまだかなり生い茂っていますが、木々の葉が落ちてハンゴンソウ等が枯れ落ち、地面に落ちているかつての日用品や農機具など見つけやすい状態になっています。
 開拓跡地はかなり歩き回ったつもりでしたが、歩けば歩くだけまだまだ再発見がありますね! さっそく知床自然センターに最も近い3軒の住宅跡で、新しい遺物をたくさん発見しました。私も初めて見るものです。
 上の写真は、よくツアーの方が歩き回っている延原さん宅跡。春に果樹が咲くところです。ぜひツアーでも足元を見ていただきたいです・・・なんて思っていたのですが、私自身もこんなに一升瓶が落ちていたとは知りませんでした!(^^; もちろん、全部お酒だったわけではなく、当時は醤油や油なども一升瓶に小分けして買ってきたし、ゴミ収集も廃品回収もない時代でしたからね、10何年か分の一升瓶がたまっているのです。



 一升瓶の何本かは、中に大量のウメの種がたまっていました! 種を集めていたのか?単なるゴミ入れか?梅酒か梅干しを一升瓶で作っていた・・・にしては、一升瓶の口から梅の実は入らないか??? ナゾです。まだお元気な延原さんにきいてみるしかなさそうです。
 晩秋のちょっと冷んやりした空気の中、いかにも大自然!という森を歩いているのに、そこかしこに人が生活を語るものがありありと残っていて、しかもしっくりと自然の風景の中に溶け込んでいて、なかなか良い雰囲気でした。

 ところで昨日の北海道新聞や朝日新聞で、門間さん宅の改修工事が進んでいるニュースが出ましたね。町がちゃんと説明会を行って、工事の様子や今後の方針などを説明しています。私は病院勤務があって説明会に行けなかったので(残念!)、また改めて見学してきたいと思います。

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行政にとっての門間家保存

2008-09-26 | 知床
昭和40年代前半と思われる門間家。とにかくデカイ、というのを見てもらえればと思います。

風力発電の風車から、木々を伝って家屋へと引き込まれている電線もよく見えますね!


 またしばらくPCのない所にいたので、すぐにコメントのお返事できずすみません。門間家保存のニュースに一緒に沸いてくださった皆さん、どうもありがとうございました。門間あや子さんが「新聞を見た人から次々電話がかかってきております」と喜んでいました。お世話になったもと開拓者の皆様が揃ってご健在なうちに、良いことが次々決まって、本当によかったです。
 行政の側の方々の努力も、ここで触れておかなければなりません。

 まだ知床が世界自然遺産に登録されたばかりの当時、開拓の歴史をほじくり返している私は、斜里町役場や100平方メートル運動の関係者の方々から「やめれ」言われるのではないかと思っていたのですが、実際は「斜里町にとっても、歴史を明かにすることは大事なことだから」と取材を応援してくださり、100平方メートル運動30周年事業の際には大々的に発表する機会を設けてくださいました。私が「門間家が倒壊したら最後の遺産が無くなってしまう、次に雪が来たら絶対倒壊する」と言い出してすでに2回、知床の冬を越えてしまいましたが(よくぞ倒壊しないでくれた!←そういう家を作った開拓者の方々の腕もすごいぞ)、その間、斜里町役場の方々は、門間家が潰れていないかどうか何度も見に行ったり、窓に木を打ちに行ったり、雪下ろしに行ったりし、またその様子を写メって私に送ってくれました。また、保存が決定される前から、専門家を呼んで家屋の調査を行い、補修の可能性を検討していました。
 そういう方々の地道な努力や調査報告もあったからこそ、議会で予算も通ったわけです。現場の実際の状況を大事にしていく自治体は良いですね。斜里町は役場(行政)と博物館(調査研究/保護保管)と知床財団(森林再生や観光客対応の現場)が毎年職員をトレードして、情報の共有と方針の統一をはかっているのですが、そのタッグがうまく産み出した結果ではないかと思います。

 戦後の開拓事業の終焉を、実際に開墾地に暮らした農家の方々のせい"だけ"にしていたような風潮は許せないですが、一方で、行政の側"だけ"を悪者にしてしまうのも違うと思うのです。離農を決めた当時、行政側の人々はそれが「行政にとっても」「僻地の生活を強いられている開拓者にとっても」「観光を望んでいる全国の人々にとっても」すべての人にとって最善最良の方策だと信じて行った。誰も、悪かろうと思って政策を決める人間なんていないです。(その後、100平方メートル運動の意義を強調するために、その対極として「失敗した開拓」を強調し、結果的に開拓者に責任を押しつけるようなストーリーを作り上げてしまったのは、非常に良くなかったと思うけど。) では誰が悪いのか、を決めるのではなく、その結果目の前にある、現在の事実に対して、前進できる良い方策を導き出していくだけです。

 門間さんがよく「みんなね、知床の方に行くとね、『あや子ちゃん、まだ家はちゃんと建ってたよ』って知らせに来てくれるんだ」と言っていました。門間さんに、開拓地の家がまだ無事かどうか逐一知らせていた人々も、安堵しているのではないかと思います。
コメント (6)
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門間家保存決定!!

2008-09-20 | 知床

 一昨日からの斜里町議会で、知床開拓跡地(100平方メートル運動地内)に残っている最後の開拓農家住宅「門間家」の修復と保存が決定され、今日正式に発表されました!

 ホームページに「旧門間家邸宅」のページをつくってアップしましたので見てください。
 明日9/20(土)の北海道新聞、読売新聞(いずれも道内版)、次号の網走タイムズも要チェックです。

 むちゃ嬉しいですね。町議の皆様、知床財団の皆様、自然センターの皆様、そしてもと開拓者の皆様、どうもありがとうございました!!!
 いやーやっと安堵です。門間家が倒壊してしまったら、開拓の事実をひと目で伝えることのできる遺産がすべて無くなってしまう、と焦りを感じていましたが、残されることになって快挙です。

 単純に一軒の家屋が保存される、というだけでなく、今まで「開拓の歴史は自然に還るまま、残すことはしない」と言ってきた斜里町が、「人の歴史も大切」「100平方メートル運動を人々に理解してもらうためにも、その以前にあった開拓の歴史をしっかり伝えていくことが大事」と認識を一新し、知床開拓の歴史に正式にスポットライトを当てた大きな意義があるのです。

 また、今まで知床といえば「自然」という視点しかなく、外の人は「自然」を見に行き、内の人は「自然」しかアピールできないような所があったのですが、新しく「人間」という視点が加わりました。実際、知床という土地は大昔から「人と自然が関わってきた場所」だと思うので、現在の「自然」だけでは解決できない諸問題(たとえば、世界遺産の自然保護のために漁民の方々が漁を制限されてしまい、世界遺産保護か!人の生活か!みたいな問題が起こっていることや、人の手が入ったところにエゾシカが増えている現実など)を、新しい視点から見ていけるのではないかと期待しています。

 ところで、今日のNHK総合テレビの「まるごと北海道」で門間家保存のニュースが流れたのですが、やっぱり「3度にわたり入植しましたが、自然環境が厳しかったことなどから離農しました」とアナウンスされてしまいました。だから、自然環境が厳しかったから離農した・・わけではナイ、ことを、言いたくて本を書いたのにー(- -;;; ディレクターさんご自身も、本番を見たらそういう原稿になっていた、と青くなっていました(たくさんの担当者が関わって、最終的に番組になるので) やっぱり「自然が厳しいから離農」というイメージは根強いんですねえ。

 なんとか理解していただきたいのは、
●その厳しい自然の中で、現実に50年間にもわたって開拓が行われたという事実
(自然が厳しいから50年目になって急に離農する、なんてことはないわけで)
●そういう厳しい自然環境の中でも、ちゃんと生活を築き上げていった人々がいたという事実

↑ で、それを示すためにこそ、門間家が保存されていくことに決まったわけです!
(行政の離農決定後も10年近く門間さんたちは知床の住宅で暮らしていましたし・・・)

 門間家保存のニュースで、自然が厳しいから離農、なんて説明したら、主旨が逆になっちゃうよ。

 いや、これからゆっくり、たくさんの人々に、保存された門間家を実際に見てもらいながら、それらのことを知ってもらえるようにしていこう・・・・

コメント (5)
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