ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

「知床開拓スピリット」栂嶺レイ写真展 開催しています

2008-02-28 | 写真
「知床開拓スピリット」栂嶺レイ写真展
札幌市資料館 第2ギャラリー 札幌市大通西13丁目 入場無料
2/26(火)- 3/2(日)

 一昨日から札幌市資料館にて、「知床開拓スピリット」の写真展が始まりました。できるだけあるもの全部展示したいと欲張ったため、一室の中に80点を越える写真とそれぞれの説明パネルがぎっしり、オシャレで粋な写真展らしさは皆無ですが、見応えはあると思います。皆さん、ものすごい長い時間をかけてじっくり見ていって下さいます。
 また、当時を知る方々、まだお会いしたことのなかったもと開拓者の方々が次々いらっしゃり、取材体制じゃない私は大慌てです。写真を前にして、怒濤のように語られる当時の思い出の数々。わわ、こんな所でそんな重要な話をされても、メモしきれない・・・! 改めて訪問させていただこうと聞いた連絡先も、すごい数に。本は出ましたが、取材はまだまだ終わりません。



 お父さん(すでに故人)が岩尾別で生まれたという方がいらして、見たことのなかった自分のルーツを見るようだ、と、じーんとされていたのが印象的でした。今はいない父母や、離ればなれになった友人たちと会っているような気がする、と、通ってくださる方もいます。



 開催中はできるだけ会場にいて、できるだけ多くの方にお会いしたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
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祝賀会

2008-02-28 | 知床

 コメント下さった方、大変お返事が遅くなりすみません!!
 病院勤務、写真展、義母の四十九日、と、斜里、札幌、千歳、和歌山と、目まぐるしい1週間でした。このままではいかん、と、今日はお休みをもらって、ためてしまった原稿やお礼状などに向っています。
 先週18日はラジオの後、斜里町の方々が出版祝賀会を開いてくださいました。もう少し落ち着いたらお世話になった方々を集めて御礼の会を・・と思っていた矢先、先にこのような会を開いていただいてしまい、最初はあんまり恐縮して小さくなっていました。文字どおり「抱えきれない」お花をいただきました。このお花も知床の地元の方が栽培しているものなんですよ~、ビバ知床!
 すごく和気あいあいとした会で、最後は主催者の機転で、全員が手をつないで一つの輪になり、揺れながら知床旅情を3番まで熱唱! 町関係者ももと開拓者も、どっぷり知床に暮らしてきた人から新参者(私など)まで一緒くたになっている光景は、なんだか感激でした。お祝いして下さっている方々自身がえらい上機嫌で、嬉しかったですねえ。本当にありがとうございました。



 STVラジオの夕やけジャーナルも、私が言わなくても、言いたいことは全部、パーソナリティさんが語ってくれました。前の週末をかけて本を読んで下さったのだそうです。牧泰昌さんありがとうございます。その後すぐ乗ったタクシーで、ラジオを聴いていた運転手さんがまず一声、「開拓者は開拓がイヤになって勝手に辞めたと思っていたけれど、そうじゃなかったというのがショックだった」 ラジオというメディアでそれだけ伝われば本望です。ラジオは強い!
コメント (11)
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STVラジオで放送していただけることに

2008-02-17 | 知床
 ところで明日、2月18日(月)の夕方、STVラジオの"夕焼けジャーナル(http://www.stv.ne.jp/radio/yuyake/index.html)"という番組の中で、「知床開拓スピリット」のことを取り上げていただけることになりました。17:20-17:30くらいのジャーナル横丁というコーナーで、私も電話出演いたします。お時間のある方はぜひ、聴いてみて下さい。よろしくお願いします。
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知られてるコトは・・・

2008-02-17 | 雑記
http://amanaimages.comからまた自分の写真です。小船の梅林(三重県) そろそろ梅の季節。撮影に行きたい所はたくさあるけれど、身動きがとれません。残念。義母が生きててくれたらなあ。


 最近、複数の新聞に本の記事を載せていただきました。多くの方に関心を持っていただいて、本当にありがたく嬉しい限りなのですが、一方で、自分自身が載るというのは、なんと言うのかその、つくづく恥ずかしいものですねえ。

 ところで、私自身は患者さんや取材先と喋っている時は人当たり良い方だと思うのですが(?)、役所や銀行や郵便局の窓口などに行くと、少々イヤな客になってしまいます。決まり事に沿ってしか動かない事務手続きの窓口というのが、どうも好きでなくてですね。(決まり事を押し付けられるのが嫌というか) なので、「決まり事」から外れたことを、必要以上に「なんでそれが出来ないんだ」とか言ってゴネる傾向があります。窓口の人から見たら、相当ヤな奴に違いない。
 先日も某所で好き放題ゴネていると、
「栂嶺さんですよね? 向こうの担当の者が、新聞を見たと言っていました。」

 ・・・・・( ̄□ ̄||
 ・・・・・・・( ̄□ ̄||||
 ・・・・・・・・・( ̄□ ̄||||||

「有名な方でも、それは出来ないんです。」(←すまなさそーに)

 ・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・( ̄▼ ̄||||||||||||

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今から隠れる穴を掘ってもよかですか?(恥)

 (汗)
 それでよくよく思ったのは、人って、自分のことが知られてると思うと、悪いことはできないってことです。どうせ誰も知らねーよと思うからこそ、好きなだけゴネたり、好き勝手なことができる。
 インターネットの掲示板で、男か女か誰かもわからない匿名さんになれるからこそ、とんでもない好き勝手を書きまくる奴が出て来るのがよくわかる。
 昔は村や自治体などコミュニティの中では、お互いどこのどいつかよ~くわかっていて、近所ですれちがうおっさんだけでも(よく知ってる←→こっちもよく知られてる)、警察官並みの存在感があったかもしれません。道歩いているだけで、どこの誰ちゃんか一発でバレるもの。誰ちゃんがどこで何してたか、翌日には村全体が知ってたりするわけで、悪事の抑止力は絶大です。
 それが隣人さえ誰かもわからなくなった現代、「どうせ自分が何をやったって、誰も関係ねえや」になってしまいました。
 もっと言えば家族の中でさえ、「どうせ自分が何をやっても、親も兄弟も知らないんでしょ?」になってきているように思います。どうせ親は自分のことなんか関心も持ってくれないし、見てもくれない、自分は誰からも関係ない、と思う子供ほど、投げやりに孤独に違う道に踏み込んでいってしまうように思えます。家族はいわば、一番身近な「社会」です。そこでさえ人との繋がりを感じられない子供が、どうして外の社会で人と接点があると実感することができるでしょうか。「家族がお互いのことを知っていてくれる/見てくれている」感覚だけでも、子供の非行・・とまでは言わなくても、ちょっとした行動や態度をちらっとでも改める要因にはなるよなあ、なんてことまで、思った日でした。

 ・・・・というか、人から知られていよーといなかろーと、窓口でゴネるのはもうやめよう・・・(_ _;;;

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「限界集落」を考える

2008-02-16 | 写真
http://amanaimages.comから自分の写真をもうひとつ。有名な熊野古道の周辺には、地元の人々の生活道路としての街道がひっそりと残っています(三重県)


 エッセイ(?)の「まれびと(来訪者)、としての自分」ではあんな風に書きましたが、Hおじいちゃんはとても元気で電話をくれました。人間って、人の勝手な感傷など無関係な所で、もっとたくましく、ごくまっとうに生きているんだと(←自分が普段から言っていることなのに)、自分が嬉しくも再認識した次第です。
 そして、エッセイ(?)に書いたもう一人、Sおばあさんのことについても書かなくてはなりません。
 Sおじいさんが急に亡くなって、熊野の天に開けるか?というくらい山の上の村に、犬とともに一人残されてしまったおばあさん。私はすごい心配になって、熊野に行く度にお菓子を持って押しかけました。
 が、おばあさんはとても元気でした。
 というか、おじいさんがいた頃よりも、元気になってしまった(汗)
 旦那さんの前ではとても無口で、あんまり好き勝手を許されていなかったおばあさん、それが「こ、こんなに喋る人だっけ?」というくらい生き生きとよく喋って、闊達になっていました。ご自宅はすごい斜面にあるのですが、その前の小さな畑を日々耕して野菜を育て(シシ(猪)との戦いを語ってくれます)、斜面を下の国道まで降りるのは2か月に1度、郵便局に年金をもらいに行く時だけ。熊野という地域は近所のつながりが強く(その分、新参者は苦労するそうですが?)、周囲の人々も心配してよく声をかけてくれるそうで、さらに、山がちなこの熊野一帯では、野菜も魚も日用品も"物売り"がトラックで売りに来るので、家から出かける必要がありません。すごい山の上なのに、おばあちゃんの一人暮らしでも全然オッケー(!)
 最近よく「限界集落」という言葉が取り上げられますが、ニュースなどで目にする度、Sおばあちゃんのことを思い出します。Sおばあちゃんのいる集落は廃屋が目立ち、人が今も住む家は5~6軒しかありません。でも、すごい山の中であろうが、過疎であろうが、ご高齢であろうが、ちゃんと一人一人が暮らせる素地がある。
 一方で、北海道の田舎ではこうはいかないだろうな、と思います。北海道でSおばあさんのような立場のご高齢の方が暮らすのはすごく厳しいのではないでしょうか。
 あちこちの離島にも行きましたが、高速船で何十分もの離れた離島でもジジババ元気いっぱいの島もあれば、本土が目の前に見えていて、学生さんがフェリーで本土の学校に通えるような島でも「ここは離島だから・・・」とおじいちゃんが溜息をついていて、びっくりさせられたこともあります。まだまだ何十戸もある村で「うちは限界集落だからねえ。こんなに家の少ない村は見たことないでしょ?」と言われたこともあります。
 限界集落というのは、「もう人が暮らせない」という負のイメージがありますが、その内容は、行政的なことだけでなく、その地域の暮らし方とか、人々の気質とか、いろんなものがごっちゃに入っています。だから「限界集落」という言葉は使いやすく、言葉自体が一人歩きしがちかもしれないけれど、もっと地域の実際を見なくてはと思うのです。
 全国のおじいちゃん、おばあちゃん、自分の村を「限界集落」と言ってしまうにはまだ早い。
 Sおばあさんと、Sおばあさんの周囲の熊野の人々の暮らし方は、ひとつのヒントになるのではないかと思うのです。

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電話

2008-02-14 | 雑記
http://amanaimages.comから自分の写真を引っ張ってきました。百夜月の宝筐印塔(三重県)


 もう一つ、良かった話を。
 義母のお葬式や後片付けが済んで、やっと北海道に戻ってきて、ぐったりがっくりしていた時のことです。
 三重県のある老人ホームから、突然電話がかかってきました。
 なんと・・・、熊野のHさんでした。以前このブログの「まれびと(来訪者)、としての自分」で書いた、寒蘭の大好きな90歳過ぎのおじいちゃんです。今のこの現代にあって陸路のない村に、最後の1軒として、和船を操りながら暮らしていましたが、一昨年の秋、ちょうど寒蘭が咲く頃に脳梗塞で倒れてしまいました。大急ぎで見舞に行きましたが、わかってもらえたのかどうか怪しい感じです。
 その後も何度か手紙を出すのですが、まったく音沙汰ないまま1年以上が過ぎ、私は忘れられてしまったものと、すっかりあきらめていました。
 がっ、そのHさんから突然電話がかかってきたのです。Hさんはあの村には戻らず(戻れず)、ホームに入っていたのでした。
 「本人にかわりますねー」と、施設のスタッフの人がHさんに電話をかわってくれたのですが・・・

ふがふが言ってて、何を喋っているのか全然わかりませんがな(~0~;;;

 (脳梗塞の後遺症で、口がちゃんと動いてないんです)
 こちらも必死に電話口にかじりついていると、かろうじて「どーも、どーも」と言っているのが聞こえてきます。
 Hさんはとてもお元気で、そして私はもちろん忘れられてなんかいませんでした。
 口がうまく動かないのに、それでも電話(!)をくれようというHさん、すごい話で、そして嬉しい話ではありませんか。義母のことで消沈していた身に、急に光が差したような感じでした。
 Hさんの所在もわかったので、次は会いに行けます。花が大好きなのはもちろん、インスタントコーヒーに山のよーに砂糖とクリームを入れるのが好きだったので、インスタントコーヒーと砂糖とクリームを山のよーに持っていってあげよう(笑)
コメント (4)
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再会

2008-02-14 | 雑記
上平・風張のコトの神送り(長野県飯田市)


 それでも、良いことはそれなりにありました。
 先日のお葬式で、縁を切っていた実の両親と○年ぶりに会いました。実親についてはともかく、おかげで、死んだと思っていたおばあちゃんの消息がわかったのです。

 本当の祖母は父が17の時に亡くなっているので、私がおばあちゃんと呼ぶのはその妹、正式には大オバにあたる人です。それはそれは可愛がってくれました。が、私の実親とは仲が悪く、私は親の目を気にしておばあちゃんに近寄れませんでした。大人になった今、親の呪縛からも離れて、可愛がってくれたおばあちゃんに孝行しようと、今でも丸暗記しているおばあちゃんの電話番号にかけると「もう使われておりません」になっていました。それで、おばあちゃんはもう死んでしまったに違いない、と悲しみ、同時に何も知らせてくれない実親を恨んだりしてしました(祖父の葬式を知らせてくれなかった等の前科がある)

 が、おばあちゃんは生きていました。施設に入っていました。
 102歳です。

 今回、どうせ名古屋空港で降りるなら、と、長野県に行く前にまず、静岡のおばあちゃんのいる施設まで高速をかっとばして会いに行ってきました。
 なにせ102歳です。果たして元気なんでしょうか???

 ・・・・・
 ・・・・・・・・妖怪のよーに元気でした・・・・・(汗)
 102歳ですがお肌つやつや、最後に会った頃にくらべふっくら太り(というより骨太になっていた・・)、オムツなし、自分でトイレに行き、白米のフツーのごはんをむしゃむしゃ食べ、片足が悪いので施設に入っているだけで、自分で車いすを動かして動き回っていました。
 しかしおばあちゃんの中では、私はほとんどが小学生や中学生の頃の記憶がメインで、オバハンになってしまった私は、見ただけではわかってもらえなかったですが、何か?(- -;;;(そーよ、おばあちゃんが102歳になるくらいだから、私もオバハンになってるわよ)

 でもこれで、おばあちゃんの所在がわかったので、これからは孝行できます。
 あれだけ元気で何でも食べれるのだから、おいしいものを何か送ってあげよう。
 私なんか要らないかしらん?とちょっぴり寂しくなるくらい、おばあちゃんは元気でした。



堂平のコトの神送り(長野県飯田市)


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疫病神サマの長い旅

2008-02-12 | 写真
下平のコトの神送り(長野県飯田市)

 昨日まで、南信州の天竜川流域のコトの神送りを取材しに行っていました。よく「それはオオゴトだ!(それは大変だ!)」という時の「コト」です。身体に起こると良くない「コト」とは、疫病とか風邪のことで、それが地域を移動しながら流行していくことを、昔の人は「病気や風邪の神様が村の外から移動して来る」と理解したようです。村に入ってきた疫病神サマをお神輿に乗せて、隣の村に捨ててきてしまいます。
 が、捨てられた隣の村はたまらん!!ということで、新たにその村の災厄(各家庭を祓ったササ竹)も加えて、さらに隣の村に捨てに行く。捨てられたその村もたまらんので、さらにその村の災厄を加えて隣の村へ・・・・ということを、延々つなげていくのです。一軒一軒を祓ったササを次々加えていくので、行事の終わり頃にはすごい数になっています。


芋平の集落で作られた神輿を下から覗くと、男女の藁人形が入っています。これが疫病神の依代になるという所や、この下をくぐるとご利益があるという所など、謂れは集落によってまちまち・・

 コトの神送り(集落によっては、風の神送りと呼ぶ)は2月8日~9日の2日間と聞いていましたが、実際に現地に行ってみると、さらに2月10日までリレーは続いていました。延々3日間、捨てられては次へ行く疫病神サマの旅路に付き合ってきました(笑) 昔は最後の村の境で捨てられて終わりだったそうですが、さらに次の村がたまらんというので、現在は焼いているそうです。藁人形が作られる所から、最後に疫病様が焼かれる所まで見届けて、こちらも何だかスッキリさっぱりして帰ってきました。
 先日の義母のことが常に心の隅にあって今ひとつ力が出ず、実際以上に疲れてしまいましたが、それがなければ楽しく有意義な取材の方ではなかったかと思います。


富田のコトの神送り(長野県喬木村)


 ちょうど、全国的に大荒れ大雪だった時でしたが、写真撮る身には天の助け! 自分は雪まみれのひどい状態でしたが、現在では軽トラックで疫病神を運んでしまう集落(限界集落で子供たちや人の数が足りないのだそうです)でも、雪で車が入れず、雪上をササを抱えて歩くシーンが撮れたのでラッキーでした。
 南信州の人々は、どの集落でも超!がつくほど親切で、地域柄なのかなあと、ちょっと感動しました。

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訃報

2008-02-07 | 雑記
 また長くブログを書かずすみません。
 コメント下さった方、本当にすみません、長くお返事書くことができず、お詫び申し上げます。

 先月、突然、和歌山の義母が他界して、しばらく家に帰ってくることができませんでした。まだ66才の若さでした。私の個人の家庭は、両親の両方が被虐待児童だったという、非常に緊張に満ちた家庭だったので、私に「ああ、家庭ってこういうものなんだ」「家族ってこうなんだ」という心からの安心と平穏を教えてくれたのが義母でした。いわゆるヨメとシュウトメなわけですが、世の中によく言われるそういう確執はまったくなく、とても可愛がってくれました。家人におこられそうですが、私も子供の一人に混ぜてもらったような、そんな気持ちでいたのでした。先日の鬼走りの時も、和歌山の実家に泊めてもらって、夜中までおしゃべりしたりしていた所だったので、2週間もたたないうちにまさかこんなことになるなんて、まだ悪い夢を見ているようです。
 危篤の知らせが来た時は自分は斜里町で勤務中で、当直も全部おっぽりだして(代わって下さった先生、本当にどうもありがとうございました)夜行バスに飛び乗ったのですが、乗る前にもう死んだという知らせが来てしまいました。夜行バスの中ではずっと、閉じたカーテンの向こうに頭を出して、暗い外の雪景色を見ていました。
 義母が持ち歩いていたバッグは、私があげたものでした。先日あげたばかりのお守りも入っていました。スーパーのレシートが入っていて、58円の豆腐とか78円のシメジとか、全部で1000円にも満たないレシートが悲しかったです。そこに印字された9:15という時刻の、ほんの1分後が事故の時刻となりました。店から帰ろうとした所で、車にはねられてしまったのでした。

 大事な人が亡くなるということは、それまで一緒に作り上げてきた世界も、今後一緒に作っていくと(勝手に)思い込んでいた世界も、すっぽりと抜けてなくなってしまいます。それでみんな、行き場を失って、オロオロしてしまいます。
 子供たちみんなで御葬式も後片付けもしっかり済ませましたが、これからが皆めいめい大変だと思います。

 本も出て良いことはたくさんあるのですが、しばらくぺしゃんこの気持ちでした。が、ここでへしゃってしぼんでしまったら義母も悲しむでしょう。気が付いたら節分も終わっていたし、行く予定で飛行機をとっていたダダオシも来年か再来年に持ちこしです。せめて、自分の尻を叩きながら、明日からコト八日の取材に行ってきます。


PS ああ、そう!2/26(火)~3/2(日)まで札幌市資料館(札幌市中央区大通西13丁目)で「知床開拓スピリット」写真展が開催されます。詳細、この後トップページに載せますので、ぜひどうかいらして下さい。
 新聞でもあちこち取り上げてくださっていて、落ち着いたらメディアページを更新しますね。
コメント (3)
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