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弁護士・元ロースクール教授宮武嶺の社会派リベラルブログです。

【ロシアによるウクライナ侵略開始から1年(中編)】なぜロシアの侵略を止めなければいけないのか。なぜロシア市民に経済制裁の痛みを負わせ、ロシア選手にパリ五輪出場を禁止しなければいけないのか。

2023年02月20日 | ロシアによるウクライナ侵略

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 2023年2月24日でロシア軍によるウクライナ侵略開始から1年。

 前回の

ロシアによるウクライナ侵略開始から1年(前編)。国連総会がロシア軍のウクライナの領土からの「即時、完全、無条件の撤退」を要求する決議案を準備しているのは当然だ。

で書いたベトナム戦争でもアメリカ軍が核兵器の使用を計画していたという話は、今では有名な話ですが、例えば共和党のニクソン政権のタフネゴシエイターとして有名なキッシンジャー国務長官が何度も核を使用するという威嚇をしていたのはとくに有名です。

 ベトナム戦争(1960~1975年)はアメリカ軍による北ベトナム爆撃(北爆。1965年開始)から本格的になりました。

 その間、アメリカは一度も本土を脅かされたわけではないのに、戦争が最も激しかった 1969年10 月には、ベトナム政府とソ連の両方に脅しの合図を送るため、戦略空軍総司令部などの米軍部隊が高度で通告なしの警戒態勢に置かれました。

 この際、B-52 爆撃機をはじめとする核搭載航空機が完全武装し、燃料満タンの出動態勢で米国全土の滑走路に配備され、また、アトランティック・シティといった地方自治体の空港も警戒態勢に置かれました。

 これが当時「11 月最後通牒」として知られるニクソン政権の核による威嚇でした。

アメリカの産軍複合体はウクライナという新たな「市場」を見つけた。第二次大戦後、世界中で戦争をしまくり、イスラエルによる武力行使を放置するアメリカに、ロシアによるウクライナ侵略を非難する資格はない。

 

 

 しかし、これがもちろんアメリカから北ベトナムへの最初の核攻撃の準備ではありません。

 1967年には南北ベトナムの最前線にあるケサンでの 6000 名の海兵隊員犠牲という可能性に直面したアメリカ国防省は、ケサン要塞包囲を撃破するため、必要なら核兵器の使用もありうるとの計画を立て、北ベトナム側に警告をしました。

 ちなみに、日本の沖縄基地も巻き込まれていて、やはりケサン基地について、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム各地で仕掛けた奇襲攻撃=「テト攻勢」(1968年1月30~31日)に動揺した米軍が、ケサン基地を防衛するため、沖縄に配備されていた核兵器の使用を検討していたことが、アメリカの公文書で明らかになっています。

伊江島に投下された核模擬弾。手前がBDU12、奥がBDU8(一般財団法人「わびあいの里」内の平和資料館・ヌチドゥタカラの家に展示)=沖縄県伊江村

第二次大戦後、休みなく他国に戦争を仕掛けて何百万人も殺し続けてきたアメリカ合衆国に、自由と民主主義の旗手を気取る資格はない。

 

 

 そもそも、北ベトナムを攻撃していたのは核超大国のアメリカで、北ベトナムを軍事支援していたのは核保有国の中国と核超大国のソ連。

 米ソ中の外交チャンネルは今よりずっと乏しかったこともあり、核戦争の危険はウクライナ戦争よりベトナム戦争の方がはるかに高かったと言えます。

 なにしろ、米ソの核軍拡競争真っ盛りのころで、水爆を含めて核弾頭の保有数はそれぞれ今の数倍。両国は核軍縮条約交渉をしたこともありませんでしたから。

 しかしだからと言って、ベトナム人民に核戦争の危険があるからアメリカには抵抗するなとは言う人はいませんでしたし、中ソに北ベトナムを支援するなという反戦運動もありませんでした。

 そこで私は前回の記事で

『例えば、ベトナム戦争の時に戦況が不利だからと言ってアメリカが核兵器の使用を検討していることが当時明るみになったら、これは全世界がアメリカを非難したはずです。

 北ベトナムが激しく抵抗するから、ほらアメリカが核兵器を使いかねないだろ、核戦争の危機を招いたのはベトナム人民だと批判する人やだから北ベトナムに停戦せよと主張する人などいたわけがありません。

 にもかかわらず、プーチン大統領がそれ自体が国際法違反である核による威嚇を何度も何度もしても、プーチン大統領とロシア軍を責めるのではなく、なぜかウクライナとNATOが核戦争の危険を招いていると批判する佐藤優氏や伊勢崎賢治氏らはダブスタというよりもはや異常としか言いようがありません。』

と書いたのです。

 ベトナム戦争は最終的にはパリ和平会談で正式に終わるのですが、アメリカが1973年にその和平会談の席に着いたのは、実質的に米軍の敗北が確定的になったからでした。

 実に戦争が始まってから13年、北爆開始から6年、和平会談の模索が始まってからだけでも4年半以上の歳月がかかったのです。

ジョンソン英首相がロシアの安保理常任理事国からの「解任」を提案。それが可能ならベトナム戦争やイラク戦争を起こした米国も解任せよ。常任理事国制度も彼らの核保有だけを合法化するNPT条約も要らない。

 

 

 しかし、実はこの話を持ち出すには、青山学院大学の白井邦彦先生とのメールのやり取りの前段階がありまして。

 白井先生がnoteを始められる直前に、私は白井先生にこう書いたんです。

『以前、日本軍に侵略されていた中国の蒋介石国民党に欧米が支援したのは正しい、という話をしました。
 歴史的な事件に例えるなら、ナチスドイツに侵略されるポーランドに軍事援助するのも正しいし天安門事件では人民解放軍を攻撃して市民を助けるチャンスがあればすべきだったし、光州事件でも韓国軍を攻撃すべきだったと思います。
 南京入城で日本軍が南京の市民に何をするかわかっていたら、日本陸軍を空爆して入城を阻止するのをためらうべきではないです
 侵略戦争や市民の大量虐殺が行なわれようとしているときに、市民を助けるための武力行使は仕方ないと思います。
 
 ウクライナ軍から兵器がなくなって弱体化したら、かつてのナチスや日本軍並みにロシア軍はウクライナ市民に暴虐の限りを尽くすと思います。
 ウクライナの政権の正統性に疑義があっても、ロシア軍に殺されるのはウクライナの無辜の人々です。
 それを阻止するための軍事援助は仕方のないことなんです。』
 

 一言付け加えるなら、ポーランドに侵攻するナチスドイツを止めていれば、ホロコーストのアウシュビッツ収容所は建てられなかったんです。

 これに対する白井先生のお返事が、ウクライナに侵攻しているロシアは核兵器保有国である点が中国大陸を侵略した大日本帝国とは違う、というお答えだったので、では核保有国であるアメリカがベトナムを攻撃したベトナム戦争はどうですか、と例に持ち出したんですね。

「南京大虐殺」の存在は、最高裁が家永教科書裁判の判決ですでに認定している。

 

 

 

 侵略国家であった戦前の日本と、今のロシアで、前者には核兵器がないから危険性が乏しく、後者にはそれがあるから危険性がある、だから日本に侵略されていた中国への軍事援助は肯定されるが、ウクライナに対する軍事援助は肯定できないというのは実際的ではありません。

 ウクライナに対する軍事援助を止めてウクライナ軍が弱体化し、ロシア軍がウクライナ全土を蹂躙する状態になったら、私は南京虐殺と同じくらいひどいことをロシア軍はやりかねないと思っています。

 第二次大戦後初めて大国が小国の領土を侵略して併合までしたロシア。人類史上初めて原発を攻撃したロシア。

 そんなロシアはウクライナ人に向けて核兵器も使いかねないと案じていながら、他方でロシア軍はウクライナ市民をそうは殺戮しないと期待するのは大いに矛盾しているでしょう。

 実際、ロシア軍によるウクライナ市民の虐殺行為は各地で確認されていますし、その後もう1年間もロシア軍には押し返されたフラストレーションが溜まっており、しかも、傭兵や殺人・強姦で有罪判決を受けた囚人までロシア側には動員されているからです。

 今のロシア軍の遵法意識の欠如、野蛮性はかつての関東軍以下かもしれず、それこそ核兵器を使用するのに匹敵するような戦争犯罪をするかもしれないというのが私の考えなのです。

 ですから、私の言うロシア軍の侵略を許してはならないというのは、無辜の民の犠牲を最小限に抑えるために欧米の軍事援助はやめろ、両国は即時停戦せよとおっしゃっている白井先生とまったく同じ人命をできるだけ救う発想から出ています。

 そして、数百年にわたる人類の戦争の歴史、そして第二次大戦でのつらい経験の下に国際社会がやっと到達した国連憲章にある侵略を許さないという条項は、将来の侵略戦争を防ぎ市民を守るためにも、死守しなければならないということなのです。

ロシア専門家の廣瀬陽子慶大教授が「核が抑止力でなくロシアの自由度を高めている。核抑止論者にとっては衝撃的」。岸田首相はNATO首脳会議でなく、核兵器禁止条約の第1回締結国会議に出席すべきだ。

 

ロシアのプーチン大統領がウクライナ侵略を正当化。「ナチスのイデオロギーが現代的な装いで再びわが国の安全保障に直接的な脅威をもたらしている」。現代のナチスは国内外の人民を弾圧・殺害するプーチン政権だ。

 

 

 さて、そういう観点からすると、国際社会がロシアに対して行なっている経済制裁は、ロシアによる侵略の勢いを少しでも削ぐためにも、また侵略戦争を世界は許さないという意思表示のためにも、どうしても必要不可欠なものです。

 これによってロシア市民ばかりか、日本を含む世界の市民が多かれ少なかれ困難に直面しているのですが、だからといって自称国際政治学者の三浦瑠麗氏のいうように経済制裁をやめてしまったら、ロシアは兵器の部品も輸入しやすくなり、ロシアの戦争はますます容易になり、国際社会は侵略戦争を見過ごすという悪しき前例を作ってしまうことになります。

 まして、鈴木宗男氏の言うようにロシアに対する軍事援助はダメ、経済制裁もダメ、となったらこの世界は侵略がフリーパス、侵略し放題になってしまいます。

 また、パリ五輪にロシア人選手の参加を認めるかどうかも今大変な問題になっていて、IOCが1月にロシアとベラルーシ選手のパリ五輪への出場について、国を代表しない中立の立場を条件に認めることを示唆して

「どんな選手もパスポートを理由に出場が妨げられてはならない」

としたのに対して、ウクライナばかりでなく35か国がこれに反対し、パリ市長もウクライナでの戦争が続く間は、ロシア人選手らの参加を望まないというようになりました。

 経済制裁を受けるロシア市民も、オリンピック出場を目指して努力してきたロシア人スポーツ選手も、ウクライナ侵略戦争について直接的には何も責任はありません(有権者・主権者としての責任はひとまずおいて)。

 しかし、ロシア軍による侵略戦争という、誰の目から見ても許されない国際法違反の蛮行を止めるために、経済制裁もスポーツ大会への参加禁止もどうしてもせざるを得ないのです。

かつて南アの「白人」政権を支えたイギリスの市民が反アパルトヘイト運動でも先頭に立った。1969年12月20日。

 

 

 こういう国際社会の一致団結した行動が功を奏したのが、南アフリカ共和国のアパルトヘイト(1948~1994年)撤廃でした。

 アパルトヘイトとは、南アフリカの法律によって定められた人種隔離と差別の制度のことです。

 国連総会は1950年代から何度もアパルトヘイト非難決議を上げ、1970年から国連総会への出席をさせず、1971年から南アとのスポーツをボイコットするように決議し、1985年に南ア政府が非常事態宣言を発してますます人権蹂躙をするようになったため、初めて国連憲章第7章の下に経済制裁を発動しました。

 その結果、1990年にとうとう南ア政府が主要政党と国民和平合意を結んで「黒人」政党が合法化され、1994年には「黒人」解放運動の指導者のネルソン・マンデラ氏が大統領となって、アパルトヘイトは撤廃されたのです。

 

 

 また、スポーツに関していうと、南ア共和国はその人種隔離政策に対して世界中からの非難を浴び、1961年のイギリス連邦脱退後はオリンピックへの参加が認められなくなり、1970年には南アフリカの国内オリンピック委員会(NOC)が国際オリンピック委員会(IOC)から追放処分を受けました。

 さらに、1976年モントリオールオリンピックでは、ニュージーランドのラグビーチームが南アフリカへ遠征を行ったことに端を発し、アフリカ諸国によるボイコットが起こっています。

 その苦闘の末に、南アは1991年、アパルトヘイト撤廃を打ち出し、同年中に国内オリンピック委員会が再承認され、1992年バルセロナオリンピックからようやくオリンピックに復帰を果たしたのです。

 このような南アの全スポーツが対外試合を認められなくなった背景には、多くのスポーツで一握りの「白人」が代表選手になり、南アの大多数の「黒人」市民と選手は、南アチームが国際試合に出られないことを支持した点もありました。

1968年、南アフリカのクリケットチームのイギリス遠征をやめさせようと多くの人が抗議した。

 

 

 いったん戦争がはじまると停戦は容易なことでは成立しません。

 ベトナム戦争は15年、旧ソ連によるアフガニスタン侵攻が10年、アメリカによるアフガン戦争は20年、1950年に始まった朝鮮戦争ときたら法的にはまだ終わっていないのです。

 だから、(佐藤優氏や伊勢崎賢治氏らのようなエセ平和主義者はさておき)、白井先生たち真の平和主義者にして非軍事論者がウクライナ・ロシア両方の民が死ぬことを嘆いて即時停戦を主張されるお気持ちは痛いほどわかるのですが、いったん戦争が始まってしまうと停戦協議に入るとか、協議で和平が成るということは非常に難しく、想像を絶するほど停戦まで長くかかるものなのです。

 また、アメリカが一方的に勝ったイラク戦争はあっけなく終わりましたが、アメリカとソ連によるアフガン戦争やアメリカによるベトナム戦争が10年20年も停戦までにかかっていることを見ればわかるように、アメリカやソ連という大国が戦争を起こした場合には、その大国が負けて諦めるまで、戦争って終わらないんですよ。

 それが現実です。

 ウクライナ戦争においても、ロシアが自主的に撤退するのも無理、両軍が一進一退の状況では停戦に応じるのも無理。

 それを前提に、無辜のウクライナ市民の犠牲をできるだけ減らすには、ロシアへの制裁とウクライナへの軍事援助をせざるを得ないのが現実なんです。

 次回最終回は、そんな現実の中で、では日本はどうすべきかについて書きます。

【2022年回顧1】ウクライナ戦争の教訓は軍備では戦争を防げず戦争が始まったら停戦は至難という事実。日本の最高の安全保障戦略は先制攻撃能力による抑止ではなく、憲法9条による平和外交での緊張緩和だ。

9・11テロから20年。900兆円のお金を無駄にして30万人以上の無辜の市民を殺し、数百万人の難民を生み出した「対テロ戦争20年」の教訓。「戦争で得られるものは何もない」という真実。

 

キッシンジャー「最高機密」会話録

ウィリアム バーWilliam Burr | 1999/10/1

 

 

参考記事 BBC

ラグビーと「アパルトヘイト」 50年前に何があった

 

ロシアに侵略されているウクライナは、自衛戦争として本来ロシア国内に攻め込んでも合法なんです。

戦略的にも敵の兵站を断つのは常道で、ロシア国内には攻撃をしないというのはウクライナにとっては片腕を縛られているようなものです。

それでも戦争拡大を防ぎ、ロシアによる核攻撃の口実を与えないために、あれでもウクライナは攻撃方法や対象を抑制しているのですね。

アメリカはじめNATOも決して自国兵士をウクライナの戦闘に投入することはしませんし、NATOとロシアの直接戦争にならないように、いきなり戦闘機や戦車を渡すというようなことはせず、地対空ミサイルや、対戦車ロケットなどできるかぎり防衛的なものから始めて、ロシアを刺激しないようには注意していることがわかります。

やっかいなのはベトナム戦争が継続できなくなったのはアメリカ内外の反戦運動の盛り上がりが大きいのですが、そのきっかけはアメリカ人兵士が多数亡くなったことだったのに、今死んでいくのはウクライナとロシア人だけなので、アメリカにはそういう反戦バネが働かないことです。

そして、そういう反戦運動が起こるとしたらロシア国内のはずなのですが、プーチン政権による長年の人権蹂躙と専制支配で、ロシア国内での反戦世論の高まりはなかなか期待できないのが苦しいところです。

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2017年5月7日(日)

シリーズ 沖縄復帰45年

ベトナムで沖縄の核使用検討

68年「テト攻勢」 米内部文書で判明

 ベトナム戦争で、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム各地で仕掛けた奇襲攻撃=「テト攻勢」(1968年1月30~31日)に動揺した米軍が、南北ベトナムの最前線にあるケサン基地を防衛するため、沖縄に配備されていた核兵器の使用を検討していたことが、複数の内部文書で分かりました。


地図:ベトナム戦争

 米政府や米軍内部ではベトナムへの核攻撃が繰り返し浮上していたことは明らかになっていましたが、沖縄の核兵器使用が検討されていたことが明らかになったのは初めて。在沖縄米軍の侵略性があらためて浮き彫りになりました。

 米統合参謀本部が作成した「極秘」指定の歴史文書(『統合参謀本部とベトナム戦争 1960―1968』)によれば、米軍トップのウイーラー統合参謀本部議長は68年2月1日、現地の司令部に対し、ケサンで状況が切迫した場合の核兵器使用について検討を要請しました。

 南ベトナム支援軍のウェストモーランド司令官は「もし(北ベトナムとの)非武装地帯の状況が劇的に変化した場合、米国は戦術核兵器もしくは化学兵器といった、大軍に対して大いに効力を有する兵器の導入を準備すべきだ」と主張。太平洋軍のシャープ司令官は「核装置使用のための緊急計画が沖縄で準備されている」と報告しました。これを受け、ウイーラー氏はジョンソン大統領に核・化学兵器使用の検討を要請(68年2月3日付極秘書簡)しました。

 しかし、大統領は世論の反発を恐れ、検討の中止を指示しました。ベトナム戦争は75年に終結しましたが、ウェストモーランド氏は76年に出版した回顧録で、米政府が核攻撃の選択肢を外したことは「誤りだった」と述べています。

 米軍は占領下においていた沖縄に、53年ごろから核兵器の配備を開始。67年には1300発に達し、アジア太平洋地域で最大の核貯蔵庫になりました。

 歴史文書を発見した国際問題研究者の新原昭治氏は「当時の沖縄には、B61など空軍の投下型核爆弾や海兵隊の核地雷、8インチ、155ミリりゅう弾砲など多様な戦術核兵器が配備されており、ベトナムでのあらゆる状況で使用できる核攻撃の選択肢があったはずだ」と指摘します。

 米国は沖縄返還に際して核兵器を撤去しましたが、佐藤栄作首相とニクソン大統領は69年11月21日、「重大な緊急事態」が発生した場合、米軍が核を再配備する密約に署名しています。

核配備の“権利”今も米国に

「また戦場の島になるという危機感」

地図:沖縄米軍基地

 「ここには、われわれが核兵器を貯蔵し、使用する権利に何の制約も課せられていない」。1955年10月21日、東京の極東軍司令部で行われた米議会調査団(プライス調査団)への在沖縄米軍の秘密説明記録に、米空軍第313師団・ヒップス司令官の横暴な発言が記されていました。

戦場の島・伊江島

 米軍は50年代に入り、住民の土地を「銃剣とブルドーザー」で強奪して基地の拡張を開始。ヒップス司令官は、「核能力を持った戦術航空部隊は(中国から)台湾やフィリピンを支援できる」として、さらなる基地拡張を訴えたのです。その狙いは、沖縄を「核攻撃基地」として強化することにありました。

写真

(写真)伊江島に投下された核模擬弾。手前がBDU12、奥がBDU8(一般財団法人「わびあいの里」内の平和資料館・ヌチドゥタカラの家に展示)=沖縄県伊江村

 その中で大きな犠牲を強いられたのが、沖縄本島の北西部に位置する伊江島でした。

 米軍は53年、農民に対して土地接収を通告。「君たちには何の権利もない、イエスもノーもない」。米軍司令官はこう言い放ち、55年3月、最後に残った13戸を破壊し、射爆撃場を完成させました。

 ヒップス司令官は前出の説明記録で、必要不可欠な空対地射爆撃場として「伊江島」に言及しています。

 同島での土地強奪に対して、非暴力のたたかいを続けてきた反戦地主の故・阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんが設立した「ヌチドゥタカラの家」には、長さ2メートル以上の2基の爆弾(写真)が展示されています。手前が「BDU12B」、奥が「BDU8B」と呼ばれる核模擬弾であることが、日本共産党国会議員団の調査で明らかになっています。

 ベトナム戦争への米軍の介入が本格化した60年代から投下訓練が開始され、ベトナム戦争が終わる75年まで続きました。多い時には1日80発が投下され、いたるところに不発弾が埋まっていました。日本共産党の名嘉実・伊江村議も中学生だった60年代後半、草むらで核模擬弾を発見しました。「訓練時期からして、ベトナムでの使用を想定していたことは明らかだ」と指摘します。

 本土復帰後、伊江島の基地は海兵隊に移管。AV8Bハリアーなどの訓練場として強化され、さらに今年1月、岩国基地(山口県)に配備されたF35Bステルス戦闘機やCV22オスプレイの訓練のため、訓練場の拡張工事が進んでいます。

 「ヌチドゥタカラの家」の館長を務める謝花悦子さんは言います。「また戦場の島になるという危機感があります。でも、戦争は人災。人間が平和をつくれないはずはない」。阿波根さんの志を継ぐ思いは変わりません。

嘉手納で核爆撃機

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(写真)辺野古弾薬庫=沖縄県名護市


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(写真)嘉手納弾薬庫=沖縄県沖縄市など

 日米両政府が沖縄返還前の69年11月に交わした「核再持ち込み」密約の重要な要素は、米軍がいつでも核兵器を配備できるようにするため「嘉手納、那覇、辺野古」などを使用可能な状態で維持しておくという点です。

 日本共産党の大城朝助・元那覇市議は81年9月10日、辺野古弾薬庫(名護市)で、地下に隠れている海兵隊の陸戦用核兵器専門部隊「核弾薬小隊」(NОP)が常駐する建物を確認しました。基地前で約1週間ねばり、地下へ降りていく米兵の写真を撮影したのです。

 大城さんは「辺野古、嘉手納弾薬庫は著しく強化されており、監視を続けることが必要だ」と指摘します。

 現在、在沖縄米軍に核部隊の存在は確認されていませんが、嘉手納基地では2009年から13年までの5年間に、核爆弾運搬車両の事故が5件起きていたことが明らかになっています。また、米国防総省は15年に公開した歴史書(1969~73年版)に、「米国は…危機の際に核兵器を再持ち込みする権利を確保した」と明記しています。

 米科学者団体「憂慮する科学者連盟」のグレゴリー・カラキー氏によれば、第2次オバマ政権期に開かれた米戦略軍の年次会合で、ある高官が「嘉手納基地でB2を見られるのを待ち望んでいる」と発言しています。B2は核攻撃任務を持つステルス戦略爆撃機です。

 カラキー氏は、トランプ政権が核戦力の増強を明言し、核推進派が力を得ているとして「沖縄に核が再配備される可能性は否定できない」と警告します。

「基地特権」の象徴

 重要な点は、沖縄核密約は、米軍が沖縄を自由に使用できる「基地特権」の象徴だということです。

 広島・長崎で同じ日本人の命を21万人も奪った核兵器を1300発も配備し、そのために住民の土地を強奪してもかまわない。そうであれば、通常兵器=オスプレイなどの騒音や墜落の危険などどうということはない―。そうした米軍の「征服者」としての発想を告発し続けることが必要です。(竹下岳)

 

 

国連広報センター

アパルトヘイト

国連の最高の成功例の一つが、南アフリカのアパルトヘイトを廃止させたことである。このことによって、国連は世界の大きな不正行為を終わらせることができることが立証された。国連はほぼその創設期からアパルトヘイトとの闘いに係ってきた。アパルトヘイトとは、南アフリカが1948年から1990年代初めまで実施した、法によって定められた人種隔離と差別の制度である。

1966年、アパルトヘイトは国連憲章および世界人権宣言と相容れない「人道に対する罪」として国連から非難された。アパルトヘイトはその廃止まで国連総会の議題であった。

  • 1950年代、総会は国連憲章の原則に照らしてアパルトヘイトを放棄するよう南アフリカ政府に繰り返し訴えた。
  • 1962年、総会は南アフリカの人種差別政策についての検討を続ける目的で、国連反アパルトヘイト特別委員会(United Nations Special Committee against Apartheid)を設置した。その後、特別委員会はアパルトヘイト撤廃を求める国際社会の包括的行動計画を実施する中心的な機関となった。
  • 1963年、安全保障理事会は南アフリカに対して任意の武器禁輸を発動させた。
  • 1970年から1974年にかけて、総会は通常総会に対する南アフリカの委任状を拒否した。この禁止によって、南アフリカは1994年のアパルトヘイトの廃止まで総会の審議に参加しなかった。
  • 1971年、総会は南アフリカとのスポーツ交流をボイコットするよう呼びかけた。これは南アフリカ国内および海外の世論に大きな影響を与えた。
  • 1973年、総会は「アパルトヘイト犯罪の抑圧及び処罰に関する国際条約(International Convention on the Suppression and Punishment of the Crime of Apartheid)」を採択した。
  • 1977年、安全保障理事会は、南アフリカの近隣諸国に対する侵略とその潜在的核開発能力は国際の平和と安全に対する脅威を構成すると決定し、武器禁輸を強制的なものとした。これは、理事会が加盟国に対して強制措置をとった最初の例であった。
  • 1985年には「スポーツにおける反アパルトヘイト国際条約(International Convention against Apartheid in Sports)」を採択した。
  • 同じく1985年、南アフリカ政府が非常事態を宣言して抑圧をエスカレートさせたため、安全保障理事会は初めて国連憲章第7章の下に、南アフリカに対する経済制裁を実施するよう加盟国政府に要請した。
  • 1990年、南アフリカ政府と主要政党との間に国民和平合意 が結ばれた。これによって、アパルトヘイト政府から非人種主義に基づく民主主義への移行が可能となった。この移行は国連の全面的な支持を受けることになった。

1992年、和平合意の枠組みを強化するために、安全保障理事会は国連南アフリカ監視団(United Nations Observer Mission in South Africa: UNOMSA)を展開させた。UNOMSAは、非人種主義の民主主義政府の樹立に導いた1994年の選挙を監視した。新政府の発足と最初の非人種主義に基づく民主主義憲法の採択をもって、アパルトヘイト制度は終わった。

1994年、新しく選出された南アフリカ大統領、ネルソン・マンデラは国連総会で演説し、49年にも及ぶ国連の歴史の中で、多数を占めるアフリカ人から選ばれた南アフリカの国家元首が国連総会で演説するのは初めてのことである、と指摘した。アパルトヘイトが征服されたことを歓迎し、マンデラ大統領は、「その歴史的変化が訪れたのは、人道に対するアパルトヘイト罪の排除にかかわってきた国連の多大な努力によるものであった」と述べた。

 

 

[ビリニュス 10日 ロイター] - 米国、ドイツ、オーストラリアなど35カ国が、2024年のパリオリンピック(五輪)にロシアとベラルーシの選手を出場禁止とするよう要請していることが分かった。リトアニアのスポーツ相が10日発表した。

国際オリンピック委員会(IOC)に対する圧力が高まり、パリ五輪を巡る不透明感もさらに深まった。

北欧諸国の五輪委員会などは7日、IOCに書簡を送り、ウクライナ侵攻を続けるロシアと隣国ベラルーシの選手の国際大会出場に反対する姿勢を改めて表明している。

またウクライナは、ロシアやベラルーシの選手がパリ五輪に出場した場合、大会をボイコットすると警告している。

35カ国の担当閣僚によるオンライン会議には、ウクライナのゼレンスキー大統領も参加・ロシアの攻撃によりウクライナの選手やコーチら228人が死亡したと指摘し「テロとオリンピック精神は相反するものであり、両立はできない」と述べた。

同じく会議に参加したフレイザー英スポーツ相は、ツイッターに「プーチン大統領が野蛮な戦争を続ける限り、ロシアとベラルーシを五輪に参加させてはならないとの英国の立場を明確にした」と投稿した。

一方、ポーランドのスポーツ相は、ボイコットは今のところ選択肢にないと表明。「まだボイコットについて話す時期ではない」と述べ、IOCに別の方法で強く要請することをまず検討すべきとの見解を示した。

 

 

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3 コメント

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[プーチンが悪い 擁護ムリ] (バードストライク)
2023-02-23 09:01:17
こうなる前の経緯はいろいろあるのでしょうが、
・ウクライナに武力侵攻している
・本気でザポロジエ原発を攻撃している
の2点でロシアが絶対的に悪いでしょ。
チョルノービル原発事故という惨事を経験してるのに、プーチンは狂気だな。
今のところロシア版山の神による制裁ぐらいしか解決策は無さそう。
返信する
歴史資料を見ているような残念な気持ち (時々拝見)
2023-02-22 11:27:40
ロシアにとってのウクライナ、あるいはその東部、大日本帝国にとっての満州のような。共産主義をナチに置き換えれば、言ってることもそっくり。
宣戦布告なしの侵略、虐殺、戦地と内地の差、傀儡。
返信する
Unknown (なお)
2023-02-21 23:05:00
友達とウク露戦争の事を色々話しました。
小手川大助さん(キャノングローバル戦略研究所)と言うIMFにもいて世界に触れている方が、8年前からウクライナ・NATOの問題が大きく、プーチンが非常に我慢をしていたと。
8年前の岩波の「世界」を読み直し、ロシアとプーチンの悪魔化は公平ではないと、話がまとまりました。
権力の中枢にいる人たちは、そういう情報も知っているはずなのに、
報道が一色に染まってしまったことに、いまさらながら困惑しています。
戦車で他国に侵入は衝撃でしたから、最初は仕方がないとは思います。
しかしだんだんと、長く複雑な経緯を隠して私たちをどこかへ連れて行くようにも思われるようになりました。
国民が窮しても武器を買うのは仕方がないと言う知人が出てきました。
ウク露の戦争を梃子に、私たちがどこか変なところに連れていかれるような気がして、怖いです。
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