唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

宣武軍節度使 河南節度使 その7

2012-04-08 09:05:37 | Weblog
・黄巣は誅されたが、後継の秦宗權の圧倒的な攻勢がが始まり、陳州と宣武はその主な対象となった。
光啓元年[885年]全忠は蔡州西北面行營都統となったが雙丘で敗北し、汴州は包囲された。
全忠は天平朱瑄・泰寧朱瑾らの来援を得てこれに対抗した。
・光啓2年[886年]全忠は隣鎭の義成で軍乱がおき、節度使安師儒が逐われたことに乗じてこれを
乗っ取り、配下の胡真を留後として送り込んだ。
・光啓3年[887年]募兵に成功した全忠等は、4月宗權を孝村で大破し、
宗權は東都以下の占領地を放棄して逃げ帰った。
・全忠は優位に立つと宗權征討のみならず、天平・泰寧や武寧時溥の領域を蚕食しはじめた。
・文徳元年[888年]全忠は蔡州四面行營兵馬都統となり宗權征討の主導権を握った。
・その後「後梁」建国までの道筋は宣武藩鎭に留まるものではないので省略するが、
全忠の勢力拡大には経済的な要地である汴州の支配が大きな要因となった。
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宣武軍節度使 河南節度使 その6

2012-04-07 08:49:27 | Weblog
・河北や武寧については消極的であった唐朝も、漕運の要である宣武については回復に努め、
包囲攻撃を加えると共に、將士に人望が高かった韓弘の弟充を送り込んだ。
形勢が不利とみた李質を主とする牙軍は介*を殺して帰順した。
・充は長慶4年[824年]に卒し、その後は令狐楚・李逢吉・李程など宰相級の節度使が続き
牙軍はすっかりてなづけられていった。
・大中・咸通年間[847~73年]に入ると、短期間に交替する高級文官の赴任地として
定着していった。
・牙軍がすっかり弱体化した宣武は、王仙芝・黄巣の乱に際してはめだった活躍はできず、
乱により領域は荒廃していった。
・中和3年[883年]5月黄巣を裏切って帰順した朱全忠は恩賞として宣武軍節度使を与えられ、
7月にはわずかな部下と共に赴任したが、周囲はまだまだ黄巣の勢力が強く軍の再建に
努める他はなかった。
・中和4年[884年]黄巣との戦いに河東李克用[沙陀]の来援を得たが、その傲慢さに
立腹した全忠はこれを襲殺しようとしたが克用はわずかに逃れた。
これにより全忠-克用間は仇敵となっていった。
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宣武軍節度使 河南節度使 その5

2012-04-01 10:41:22 | Weblog
・韓弘は自立傾向はあるが、原則として唐朝寄りであり、淄青李師古を西進を抑え、
淮西呉少誠の北上に対抗する役割を果たしていた。
・また貞元16年[800年]3月には牙軍のうち専横な者を粛清し、統治を確立した。
・憲宗皇帝は弘を淮西征討に活用しようとし、元和3年[808年]使相に、10年[815年]
司徒に任用したが、弘は積極的に動こうとはしなかった。
・元和10年~11年[815-816年]の淮西戦役には参戦した。しかし宰相裴度が出征してくる
状況には当惑していた。
・淮西・淄青が平定されると、弘は懼れて元和14年[819年]7月汴宋毫潁四州の四州を
唐朝に返還し入朝した。
・唐朝は宰相張弘靖を送り込み牙軍を慰撫することに成功した。
・しかし長慶元年[821年]武将李愿[晟の子.愬の兄]が赴任し、河北三鎭が離反すると、
牙軍は李カイ[ウ冠に介]を首として乱し、愿を逐った。
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