唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南西道節度使[奉國軍節度] その6

2012-01-05 19:36:23 | Weblog
・中和元年[881年]黄巣に従った忠武軍節度使周岌は監軍[宦官]楊復光と共謀して唐朝に復帰した。
その時に属州の蔡州では將秦宗權が蜂起して唐朝に復帰し奉國軍防禦使に任ぜられた。
・中和二年[882年]昇格して奉國軍節度使となった。
・中和三年[883年]京師を失ったが依然強大な黄巣軍に攻められた宗權は降った。
・中和四年[884年]以降、黄巣と協力して四隣を侵略した。
・黄巣敗死後、その勢力を受け継いだ宗權は皇帝を称し、山東・河南・淮南を制圧し陳州[趙雙]汴州
[朱全忠]を攻撃した。
・文徳元年[888年]朱全忠に大敗した宗權は蔡州に逃げ帰ったが、將申叢が叛し、全忠に引き渡された。
・その後奉國軍は朱全忠配下にあったが、黄巣軍の裏切り者である全忠に対する反感をもつものも多く
光化二年[899年]には節度使崔洪以下が淮南楊行密のもとに奔った。その後は全忠將朱友裕の管轄となった。
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淮南西道節度使 その5

2012-01-05 09:50:19 | Weblog
・元和9年[814年]呉少陽は卒した。彼は唐朝に対して強い反抗的な態度は見せなかったが、
他領の茶山を掠奪するなど不法行為はやめなかった。
・子元濟が自立した。時の憲宗皇帝は淮西を鎮定しようという意志が強く、10年[815年]
には宣武韓弘を都統として征討を始めた。
・正面[北]からは韓弘・忠武李光顔・河陽鳥重胤らが攻撃した。元濟も主力軍で対抗し
淩雲柵・郾城で激戦となった。全般的には淮西軍が優勢であった。
・側面[西]からは山東軍が攻撃したが、嚴綬(磁丘)・高霞寓(鐵城)と惨敗するだけであった。
・12年(817年)不利な状況を立て直すため、宰相裴度はみずから督戦に赴いた。正面においては
淩雲柵を陥すなど多少の成果は上がっていたが淮西軍は強く、裴度を強襲して奔らせるほどであった。
・側面の山東(分割された唐隋)には興元の名将李晟の子愬が赴任していた。愬は部分的な勝利
を積み重ねることで敗軍を立て直し、賊將を捕らえて敵情を探索していた。
12年10月地域的な侵攻に見せかけて一気に本拠地蔡州を急襲して元濟を捕らえた。
・正面軍の賊將董重質もいかんともしがたく降り、ようやく淮西は鎮定された。
・淮西節度使には馬總がなったが、13年(818年)蔡州は忠武・光州は淮南・
申州は鄂岳に分割されて消滅することになった。
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淮南西道節度使 その4

2012-01-04 12:50:00 | Weblog
・呉少誠は常に反唐朝の立場をとった。唐朝側は麾下の親唐朝分子を唆したが成功しなかった。
・貞元14年[798年]彰義軍と賜號されたが常に付近への侵略行動はやめなかった。
・貞元15年[799年]周辺の諸軍を動員して淮西を伐ったが統制がとれず、小溵河付近で潰滅した。
・貞元16年[800年]宦官竇文場が推す夏綏節度使韓全義が招討使となるが、將才なく威望もない
ため諸軍は従わず、7月廣利原で敗北、9月五樓でも敗北して逃げ戻ることになった。
・10月呉少誠も唐朝との戦闘に疲れ、現状維持で和を求めた。おのれの責任を問われることを
懼れた宦官竇文場は宗皇帝をだまし、呉少誠が歸順を求めた形にして敗戦をごまかした。
韓全義は入朝せず夏綏に逃げ戻った。
・その後呉少誠も老いて大きな侵攻はせず、元和4年[809年]卒した。
・將呉少陽[一族ではない]は少誠の子元慶を殺して自立した。
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淮南西道節度使 その3

2012-01-03 09:25:55 | Weblog
・最初、李希烈は唐朝に従い勢力拡大を図った。淮西軍は驢馬を騎兵代わりに使い、地味だが強兵であった。
・建中2年[781年]山東梁崇義が叛すると、希烈は諸軍都統として乱入し、たちまちに崇義を潰滅させた。
・しかし希望していた山東併領は認められず、使相になる程度の恩賞に不満をつのらせた。
・建中3年[782年]同根[同じ平盧軍出身]の淄青(李納)討伐を命じられたが従わず、河南・東都併呑
を狙い、11月叛した。
・建中4年[783年]汝州を陥し河南全域を荒し東都に迫った。淮南浙江からの貢納が遮断された唐朝は舒王
を元帥として關内・江南の諸軍を討伐に向かわせようとしたが、原軍が叛し朱を擁立したためかえって
京師を棄てなければならず征討軍は消滅した。
・興元元年[784年]汴州・滑州を取り、都統李勉を奔らせた。大赦令にも応ぜず「大楚」皇帝を名乗った。
・しかし11月降將李澄が唐朝に歸順し、陳州で將翟崇暉が大敗したため、希烈は汴州を棄てて蔡州に戻った。
・貞元1年[785年]州を陥すが、隋州李思登が唐朝に帰順し形勢は不利となってきた。
・貞元2年[786年]4月情勢の不利を感じた將陳仙奇は希烈を毒殺し唐朝に帰順した。
仙奇は淮西節度使に任じられた。
・7月希烈の愛將呉少誠は仙奇を殺し自立した。戦乱に疲弊した唐朝はそれを認めるしかなかった。
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淮南西道節度使 その2

2012-01-02 16:50:18 | Weblog
・淮南西道節度使李忠臣は忠誠で勇戦する武将だが軍の規律を守らせられない人物であった。
・大暦7年[772年]安州より蔡州に移治した。
・大暦10年[775年]の田承嗣の乱には衛州を攻めた。
・大暦11年[776年]李忠臣は汴宋の李靈耀が叛するとこれを伐ち、苦戦しながらも魏博の援軍
田をも破り平定した。その功績により使相となり、汴州を与えられ移治した。
・大暦14年[779年]李忠臣は貪殘好色で多くの將吏の妻女を淫したため軍中に不満が高まり、
族姪李希烈に逐われた。忠臣は単騎入朝したが、いままでの功績を評価され宰相として遇された。
・汴州刺史は李忠臣に属するものであったので、永平軍李勉に渡され、淮西軍は蔡州に還治した。
・李希烈は厳しく軍を統制し淮西軍は強化された。
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荊南節度使 その3

2012-01-01 21:34:35 | Weblog
・黄巣進寇後の荊南は、段彦謨→陳儒→張瓌と無能な武将による武断政治の
為荒れ果てて荒涼としていた。
・文徳元年[888年]將成汭が江陵を支配し良政をしいたため、数年のうちに萬戸に回復していった。
・しかし成汭の支配地は江陵付近の数州にすぎず、特に州には蛮族雷満が盤踞して
周辺を掠奪してまわっていた。
・天復三年[903年]成汭は朱全忠の求めに応じて東下し、鄂岳杜洪・江西鍾傅を支援して
淮南楊行密を伐とうとした。しかしその留守を州雷彦恭に襲われ江陵は陥落した。
汭はそれでも侵攻をつづけようとしたが、動揺した配下は崩れて敗死することになった。
・再び廃墟となった江陵には山東趙凝の弟明が拠った。
・天祐二年[905年]朱全忠の侵攻によって明は劍南に奔り、江陵は全忠の支配下となった。
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淮南西道節度使 その1

2012-01-01 17:09:37 | Weblog
・至徳元年[756年]安史の乱に際して許州に淮南西道節度使が設置され、許・鄭・蔡・申・光の
五州を管轄した。節度使は萊瑱であった。しかし混乱期の為実質的には機能していなかった。
・乾元元年[758年]鄭州に移治され魯が節度使となったようであるがこれも不明確である。
・乾元二年[759年]自殺した魯のあと彭元曜や李抱玉の名前がみえるがこれも虚名と考えられる。
また王仲昇が申沔等五州節度使として表示(新表では領申光壽安沔蘄黄七州である)されている。
・寶應元年[762年]節度使王仲昇が申州で賊将謝欽譲に捕らえられると、唐朝は山東萊瑱に淮西
十五州節度使[安州刺史充淮西申安蘄黄光沔節度兼河南陳豫許鄭汴曹宋潁泗十五州観察使]への
異動を求めた。しかし十五州の大半は賊領と戦乱地域であったので萊瑱は喜ばず山東に止まることを求めた。
・淮西は廣元年[763年]以降は李忠臣(平盧軍出身の董泰)が安州を中心とした領域を管轄していった。

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荊南節度使 その2

2012-01-01 09:19:10 | Weblog
・淮西鎮定後、荊南節度使は重視されず、太和6年[832年]には
都団練観察使に格下げ(~開成3年)された。
・文官の赴任地であるが、太和以降は宰相の回遊地(退隠・左遷という場所であるが)
ともなった。李石・鄭肅・白敏中・蕭鄴・裴休・崔鉉・徐商・杜悰・劉瞻・路巖などがみられる。
・乾符四年[877年]流賊王仙芝が荊州を攻め外城を落とした。文官の節度使楊知溫は対処できず
内城に籠もってすくむばかりであった。山東節度使李福が派兵し撃退させたが、
唐朝は武将西川節度使高駢を転任させて備えた。
・乾符六年[879年]宰相王鐸は廣州を占拠して北上を狙う黄巣に対抗するためみずから都統とし
て江陵に赴任し、泰寧節度李係[晟の子孫]を湖南観察とした。
・黄巣は湖南を急襲し係は一戦もせず逃亡し軍は潰滅した。鐸もまた江陵を棄てて逃げた。
・黄巣は江陵を陥したが、山東節度使劉巨容らに荊門で迎撃され大敗して奔った。
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