唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元二年 西暦786年

2020-03-19 10:05:44 | Weblog
正月壬寅,宰相盧翰罷。劉滋・崔造・齊映が宰相となる。
 手薄となった宰相の補充である。中でも崔造が首班であり、元琇を使って財政の立て
 直しに力を入れた。しかし浙江節度韓滉とは対立し実効がなかなかあがらなかった。

二月癸亥,山南東道節度使樊澤及李希烈戰於泌河,敗之。四月丙寅,希烈伏誅。
 淮西軍の山東節度への侵攻は澤により撃退され、全戦線で守勢に回った。
 あい続く敗戦に落胆した希烈は病気となり、将陳仙奇に毒殺され、一族は族滅され
 た。仙奇はその功績により淮西節度使となった。

四月、戦乱がほぼ治まったとはいえ、京師近辺は飢えて軍糧も乏しく、德宗は軍の再度
 の反乱を懼れていた。韓滉が送った数万石の米の到着の報せに皇帝以下が歓喜する状
 況であった。六月頃に麦が収穫でき、やっと状況が落ち着いてきた。

六月癸未,滄州刺史程日華卒,其子懷直自稱觀察留後。
 義武軍[張孝忠]の領域は易定滄三州であったが、遠隔地の滄州には手が回らず、
 守將程日華が自立してしまった。唐朝は諸鎭の分立を望んだのでそれを追認し、
 孝忠には滄州分の税を与えることで納得させた。自立した日華は子に継承させた
 わけである。唐朝はまた追認するしかなかった。

六月,淮西兵馬使吳少誠殺節度使陳仙奇,自立。
 希烈の恩顧受けていた少誠は、唐朝にすり寄る仙奇を殺害し自立した。唐朝にはその
 領域を申光蔡三州に限定する程度しかできなかった。少誠は不満ではあったが当面は
 それでよしとした。

八月丙戌,吐蕃寇邠寧涇隴四州。
 当初吐蕃は唐朝を支援していたが、その弱体化を実際に見て北邊を奪おうとした。

八月癸未,義成軍節度使李澄薨,子克寧が自立しようとした。
 希烈より帰順した澄が卒し、子が継承しようとした。唐朝方の宣武劉玄佐が威嚇し、
 急いで老練な東都留守賈耽が送り込まれ將士を慰撫し回収に成功した。

十一月、浙江節度使韓滉が入朝した。
 韓滉は莫大な貨財を携え、入朝していなかった宣武節度使劉玄佐[洽が賜名]や曲
 環を引き連れており、德宗は大いに喜んだ。滉は財政運営に自信があり、その実績
 もから。崔造や元琇の政策を糾弾した。

十一月辛丑,吐蕃陷鹽州。十二月丁巳,陥夏州。
 吐蕃は二州を制圧し、そこに拠点を設け、いつでも京師に侵攻できる体制を作った。

十二月庚申,宰相崔造罷。
韓滉の批判により造は罷免され、まもなく失意のうちに卒した。その配下はすべて
 左遷された。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 貞元元年 西暦785年 2 | トップ | 貞元三年 西暦787年 1 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事