唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

儀鳳元年~調露元年 西暦676~679

2020-05-24 10:01:14 | Weblog
上元三年/儀鳳元年 西暦676
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二月甲戌,徙安東都護府于遼東故城、熊津都督府于建安故城
新羅の攻勢に圧されて百済・高麗からの撤兵しました。住民も連れていきます。

閏月乙酉,周王顯,領劉審禮等十二總管,相王輪,領契苾何力等軍,以伐吐蕃。
吐蕃に対する本格的な進攻を計画しました。唐朝では太宗以降、親王がつく元帥は名目上で赴任しません。副元帥の武将が実際の指揮をとります。ただ征討の格式の問題です。

儀鳳二年 西暦677
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二月丁巳,高藏為遼東州都督,封朝鮮王,遣歸遼東,安輯高麗餘衆
靺鞨・新羅の攻勢に対抗するため、滅ぼした高麗を再建しようとし、元の王である藏を赴任させました。しかし一度亡んだ国はどうにもなりませんでした。

八月命宰相劉仁軌鎮洮河軍。
吐蕃の全面攻勢が続き、唐朝は防衛体制を固めるしかありませんでした。

儀鳳三年  西暦678
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正月丙子,宰相李敬玄為洮河道行軍大總管,以伐吐蕃。
劉仁軌は対吐蕃防衛策を提案しますが、人事畑出身で文官の敬玄はなにかれとなく難癖をつけて妨害します。怒った仁軌は敬玄を主帥に推薦しました。

九月丙寅,李敬玄、劉審禮及吐蕃戰于青海,敗績,審禮死之。
やはり軍才のない敬玄は吐蕃に大敗し、逃げ帰りました。

儀鳳四年/調露元年 西暦679
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五月壬午,武后の寵臣明崇儼為盜所殺,求賊,竟不得。
崇儼は占や幻術によって武后の信任が篤かったのですが、賊に殺され、厳重な捜査にもかかわらず犯人はわかりませんでした。武后は皇太子賢[崇儼に誣告されていた]を疑っていました。

六月吏部侍郎裴行儉伐西突厥。
九月壬午,行儉敗西突厥,執其可汗都支。
吐蕃の支援を受けて西突厥が反しますが、行儉はこれを鎮定しました。
吏部侍郎は人事を担当する吏部尚書の次官です。こういうわけのわからない官爵をもった将軍が唐朝では多くみられます。

甲辰,禮部尚書裴行儉為定襄道行軍大總管,以伐突厥。
西突厥に続いて突厥残党も蜂起しています。こんどの禮部尚書は文教・儀礼を掌る長官です。

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