唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

永隆元年~弘道元年 西暦680~83

2020-05-25 10:01:10 | Weblog
永隆元年 西暦680
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八月丁巳,貶李敬玄為衡州刺史。
敬玄は吐蕃に敗戦後も対峙していましたが、病気と称して帰任を求めました。しかし仮病であることがばれて左遷されました。

八月甲子,廢皇太子賢為庶人。
乙丑,立英王哲為皇太子,大赦,改元。
武后の子供は弘だけがまともで、賢・哲[中宗]輪/旦[睿宗]の三人は阿呆愚図の類でした。賢は自分が武后の実子[姉の子?]であるかを疑い、廃されるかを懼れて挙動不審でした。武后は明崇儼殺害容疑を抱き、薄弱な根拠から謀叛の罪を問うて廃しました。さしたる罪状はないのですぐ殺される事はありません。代わりの哲[中宗]は意志薄弱な低能です。

開耀元年 西暦681
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五月丙戌,定襄道副總管曹懷舜及突厥戰于橫水,敗績。
九月壬戌,裴行儉俘突厥溫傅可汗、阿史那伏念以獻。
突厥が再結集し、再び強勢[第二帝国]に向かっていきます。この時は勝ったようですが、徹底的な勝利ではありません。

永淳元年 西暦682
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四月辛未,裴行儉為金牙道行軍大總管,率三總管兵以伐突厥。
安西副都護王方翼及車薄、咽面戰於執海,敗之。
突厥は再び結集した。唐朝の勝利は疑わしく、勝っても地域的なものです。

四月丁亥,郭待舉、岑長倩、郭正一、魏玄同與中書門下同承受進止平章事。
一挙に四人を宰相に補しましたが、まだ十分な経歴ではないのでこのような名称[平章事]です。これから宰相には「平章事」という用語が多用されます。また次代の則天時には使い捨てのように多数の宰相が任罷免されていき権威がなくなっていきます。

弘道元年 西暦683
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二月庚午,突厥寇定州,刺史霍王元軌敗之。
五月乙巳,突厥寇蔚州,刺史李思儉死之。
突厥は北邊だけでなく河北に侵攻してくる状況です。

十二月皇帝崩于貞觀殿,年五十六。
高宗は東都で崩御します。病死のようです。

前半は長孫無忌、後半は事実上武后が動かしていた朝政ですが、高宗の意志がまったく通らないわけではありません。さすがに高宗が生きている間は皇族や重臣の殺害も多発せず、官僚にとって安穏な状況が続きました。そして以前は過小評価され、近年は過大評価されている則天皇帝への時代となります。

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