唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

開元十一~十三年  西暦723~25年

2020-07-23 10:00:57 | Weblog
開元十一年  西暦723年
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正月次潞州,次並州,如汾陰,祠後土
玄宗は河東を徘徊しています。

二月癸亥,張說兼中書令。
文人張說が執政となりました。

二月、大同軍為太原以北節度使,領太原他十州
太原に河東節度使が置かれ北邊防禦にあたります。唐の兵制が傭兵化していきます。

九月,壬申,吐谷渾帥衆詣沙州降,河西節度使張敬忠撫納之
吐谷渾[タングート]が吐蕃の圧迫から逃れて帰属してきました。

開元十二年  西暦724年
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四月壬寅,詔傍繼國王禮當廢而屬近者封郡王。
則天時に唐の諸王家は断絶させられ、子孫は嶺南に流されました。神龍以降、生き残った子孫を再び王に封じてきましたが、いろいろと詐称があり混乱してきました。そこで正統の王系にだけ限定するという処置がとられました。

七月己卯,廢皇后王氏為庶人。十月,庶人王氏卒。
女に弱く暗愚な玄宗は武惠妃に惑わされ、糟糠の妻王皇后を疑い廃しました。王皇后は高宗皇后王氏と違い、後宮での評判は良く、武惠妃は孤立し、官僚達も則天の再来を懼れて警戒しました。主宰相張說は文人としては優秀ですが、封禪などせ玄宗に迎合するのみで政治家としては無能でした。

開元十三年  西暦725年
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二月庚申,以御史中丞宇文融兼戸部侍郎
宇文融は財政再建のため、官僚寺社の持つ荘園を調査し、公民や公田の回収に努めました。当然として貴族階級の敵意を買いました。

四月丙辰,置集賢殿。以張說知院事,右散騎常侍徐堅副之
治政は宰相に丸投げし、玄宗は文化・学問の振興に励んでいます。

十一月庚寅,封于泰山
封禪[天下が泰平であることを感謝する儀式]にむかいます。赤字財政のことなど気にしていません。この時代、唐朝全体としては繁栄していましたが、漕運の不備による食糧欠乏、貨幣の不足による混乱、自社貴族による荘園化、府兵制の完全崩壊による傭兵化など、政治体制としては末期的症状を示していました。それに対して一部官僚は対策を講じていましたが、玄宗には危機感はまったくありません。

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