唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

昭義軍節度使 邢洺磁節度使 その7

2012-03-12 10:43:40 | Weblog
・昭義軍節度使は澤潞と邢洺磁に分立したため、まず邢洺磁の流れを記述する。
・李克用は昭義を統合しようとして光啓2年[886年]邢州を攻め数県を陥したがならず、
安金俊を領邢州刺史として戻った。
・龍紀元年[889年]再び克用は邢州を攻めた。方立は朱全忠の援軍を得たが、魏博羅弘信は支援せず。
洺磁州は失われた。5月絶望した方立は自殺し、弟遷が嗣いだ。
8月[大順元年[890年]二月説あり]遷はついに克用に降った。
・克用は2月將安金俊を邢洺團練使[安知建説あり。2月に金俊が雲州で戦死しているという記述が
あるのでそれを嗣いだのか]となった。
・ところが大順元年[890年]6月安知建は邢洺滋三州をもって叛し、朱全忠についた。
・大順2年[891年]克用はこれを攻めて逐い、李存孝を後任とした。しかし景福元年存孝もまた諸将
との不和から叛し全忠に附いた。
・乾寧元年[894年]克用は邢州を陥し存孝を殺し、將馬師素を邢洺節度使とした。
・光化元年[898年]全忠は邢洺磁を陥し將葛従周を入れた。克用は反撃したが回復できなかった。
・光化3年[900年]克用は危機に瀕した幽州劉仁恭支援のため邢州を攻めた。
・天復元年[901年]孟遷が潞州を以って全忠に降ったため、両昭義軍が全忠麾下となり形式上は合一
したことになったが、実質は分立したままであった。邢州は張歸覇が団練使として統治した。

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