邢*磁の*という字がでないようですね、さんずい+名(めい)なんですが。
・澤潞系昭義節度使は克用弟の克修によりうまく統治されていたが、大順元年[890年]
3月酒乱の傾向がある克用は潞州を来訪しその接遇に怒り克修をむち打った。そのため克修は憤死した。
・克用は弟克恭を後任としたが無能であり、將士は不満を抱いていた。
・5月朱全忠に唆された唐朝は宰相張濬を都招討使として克用討伐を始めた。その最初の目標は潞州であった。
・同じく5月將安居受は克恭を殺し、全忠に附いた。7月全忠は將葛從周を潞州に入れた。
・しかし克用の攻撃を守り切れず從周は撤退し、9月克用將康君立が入った。
・乾寧元年[894年]酒乱の克用は太原にやってきた康君立を些細なことから殺し、薛志勤を留後とした。
・光化元年[898年]薛志勤が死ぬと、不満を募らせていた澤州李罕之が潞州を奪い全忠に附いた。
・罕之は病んでいたので、光化2年[899年]河陽丁會と交替させられたが途次に死んだ。
會は克用の攻撃に耐えられず潞州を棄てた。
・克用は汾州刺史孟遷(邢州で克用に降った)を留後とした。
・ところが天復元年[901年]遷もまた叛し、全忠に附いた。遷は河陽に移され(反覆を憎まれすぐ殺された)、
丁會が再び入った。
・閏6月両昭義節度使が丁會のもとに合一された。
・天祐3年[906年]全忠の北伐の背面を襲い、克用は潞州を攻撃した。丁會はなぜか抗戦せず克用に降った。
名目は全忠が昭宗を弑したことであるが、実質は不明である。
・克用は李嗣昭を留後とし、その後後梁の世となっても潞州の攻防は続いていく。
・澤潞系昭義節度使は克用弟の克修によりうまく統治されていたが、大順元年[890年]
3月酒乱の傾向がある克用は潞州を来訪しその接遇に怒り克修をむち打った。そのため克修は憤死した。
・克用は弟克恭を後任としたが無能であり、將士は不満を抱いていた。
・5月朱全忠に唆された唐朝は宰相張濬を都招討使として克用討伐を始めた。その最初の目標は潞州であった。
・同じく5月將安居受は克恭を殺し、全忠に附いた。7月全忠は將葛從周を潞州に入れた。
・しかし克用の攻撃を守り切れず從周は撤退し、9月克用將康君立が入った。
・乾寧元年[894年]酒乱の克用は太原にやってきた康君立を些細なことから殺し、薛志勤を留後とした。
・光化元年[898年]薛志勤が死ぬと、不満を募らせていた澤州李罕之が潞州を奪い全忠に附いた。
・罕之は病んでいたので、光化2年[899年]河陽丁會と交替させられたが途次に死んだ。
會は克用の攻撃に耐えられず潞州を棄てた。
・克用は汾州刺史孟遷(邢州で克用に降った)を留後とした。
・ところが天復元年[901年]遷もまた叛し、全忠に附いた。遷は河陽に移され(反覆を憎まれすぐ殺された)、
丁會が再び入った。
・閏6月両昭義節度使が丁會のもとに合一された。
・天祐3年[906年]全忠の北伐の背面を襲い、克用は潞州を攻撃した。丁會はなぜか抗戦せず克用に降った。
名目は全忠が昭宗を弑したことであるが、実質は不明である。
・克用は李嗣昭を留後とし、その後後梁の世となっても潞州の攻防は続いていく。
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