・平定の後は盧鈞が招撫し、徐々に驕兵を鎮静化させていった。
・その後は中級の文官・武官の赴任地となり大中・咸通年間は特段の大事件は発生しなかった。
・咸通4年[863年]節度使沈詢が妾と密通した奴隷に殺されるという事件があった。
・乾符年間に入ると天下の情勢は不穏となり、2年[875年]將劉廣が節度使高を逐って
自立しようとしたがならなかった(この記事は中和元年の軍乱と混同している疑いがある。
乾符年間の正史の記述は信用度が低い)。
・4年[877年]節度使曹翔は反乱した沙陀李國昌・克用等を伐つため軍を率いて河東節度
使に移ったが急死した。
・後任の李鈞は5年[878年]洪谷で沙陀と戦い敗死した。
・中和元年[881年]高潯は黃巢軍と戦い敗走し、將成麟(別に劉廣と記載あり)により殺
された。潯は潞州に入り自立しようとしたが、將孟方立に殺された。方立は自立し唐朝から派
遣された元宰相王徽は入ることが出来なかった。
・中和2年[882年]方立は邢州に移治した。潞州の兵民はこれに不満で河東李克用に働きか
け、中和3年[883年]その弟克修を擁立した。
これにより昭義軍は澤潞と邢洺磁に分立することになった。
・その後は中級の文官・武官の赴任地となり大中・咸通年間は特段の大事件は発生しなかった。
・咸通4年[863年]節度使沈詢が妾と密通した奴隷に殺されるという事件があった。
・乾符年間に入ると天下の情勢は不穏となり、2年[875年]將劉廣が節度使高を逐って
自立しようとしたがならなかった(この記事は中和元年の軍乱と混同している疑いがある。
乾符年間の正史の記述は信用度が低い)。
・4年[877年]節度使曹翔は反乱した沙陀李國昌・克用等を伐つため軍を率いて河東節度
使に移ったが急死した。
・後任の李鈞は5年[878年]洪谷で沙陀と戦い敗死した。
・中和元年[881年]高潯は黃巢軍と戦い敗走し、將成麟(別に劉廣と記載あり)により殺
された。潯は潞州に入り自立しようとしたが、將孟方立に殺された。方立は自立し唐朝から派
遣された元宰相王徽は入ることが出来なかった。
・中和2年[882年]方立は邢州に移治した。潞州の兵民はこれに不満で河東李克用に働きか
け、中和3年[883年]その弟克修を擁立した。
これにより昭義軍は澤潞と邢洺磁に分立することになった。
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