・貞元12年[796年]黄河屈曲部の豐州に天徳軍都団練防御使が置かれ、河東行軍司馬の李景略が任用された。
これは当時まだ強力であった回紇から畏敬の念をもたれていた景略の有能さを懼れた河東節度使李説
の巧みな追い出しであった。
・永貞元年[805年]厳酷な景略がなくなると、軍士は寛仁で知られた判官の任迪簡を擁立した。
・その後天徳は河東と協調して動き、対回紇の最前線として、武将の赴任する所となった。
・會昌元年[841年]軍使田牟[弘正の子]の時、衰亡し分裂した回紇が南下し唐領に侵入し始めた。牟はこれ
を撃つことを求め、會昌2~3年に石雄[旧武寧將]を將として河東・幽州軍とともにこれを殲滅した。
・石雄は代わって軍使となり、會昌三年[843年]昭義劉稹の征討に活躍した。
・その後乾符2年[875年]までは記載があるが、その後は記録はない。
これは当時まだ強力であった回紇から畏敬の念をもたれていた景略の有能さを懼れた河東節度使李説
の巧みな追い出しであった。
・永貞元年[805年]厳酷な景略がなくなると、軍士は寛仁で知られた判官の任迪簡を擁立した。
・その後天徳は河東と協調して動き、対回紇の最前線として、武将の赴任する所となった。
・會昌元年[841年]軍使田牟[弘正の子]の時、衰亡し分裂した回紇が南下し唐領に侵入し始めた。牟はこれ
を撃つことを求め、會昌2~3年に石雄[旧武寧將]を將として河東・幽州軍とともにこれを殲滅した。
・石雄は代わって軍使となり、會昌三年[843年]昭義劉稹の征討に活躍した。
・その後乾符2年[875年]までは記載があるが、その後は記録はない。
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