唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

渭北ふ[鹿+オオザト]坊丹延節度使 保大軍節度使 その2

2012-09-14 12:11:18 | Weblog
・その後武官系の節度使[論惟明-王栖曜-劉公濟-裴玢-路恕--]と続く。強力な牙軍は形成されず
京師の脅威とならないために、帰属した外藩の子孫の赴任地[宣武の韓公武や韓充.成徳の王承元.
魏博の史孝章]としても多く利用された。
・唐末になると多くの夷狄が住み、また侵入してくるこの地域は動揺していった。黄巣の乱には
節度使李孝章・東方逵は奮戦したがどちらかといえば敗戦続きであった。
・中和2年[882年]に保大軍節度と賜號された。
・光啓2年[886年]夏綏を支配していた党項の拓抜思恭の弟思孝が鄜坊を占拠し節度使となった。
・その後、拓抜家の支配は光化2年まで続き、その後は鳳翔李茂貞の支配下となった。この移行経
過はよくわからない。
・天復3年[903年]朱全忠の鳳翔攻囲に際し、節度使李茂勳[茂貞従弟]は来援したが、かえって
留守の鄜州を全忠軍に奪われ降った。
・その後鄜坊は全忠支配下になった。
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