・會昌2年[842年]衰亡して潰乱した回紇の一部は南下して河東・振武・天徳に侵入してきた。
8月雲州に来寇し刺史張獻節は籠城し、地元の党項・吐谷渾など蕃族は避退した。
方鎭表では「置大同都団練使治雲州領雲朔蔚三州」と記載されている。河東節度使の管轄下
にあったとみられる。
・會昌3年、方鎭表では大同都防御使に昇格したとされるが、やはり河東管轄下であろう。
・通鑑では大中13年[859年]3月、割河東雲、蔚、朔三州隸大同軍という記事がある。
・咸通10年[869年]沙陀の朱邪赤心[賜名されて李國昌]が徐州龐の叛乱鎮定に大功があっ
たため、大同軍を節度使に昇格して任じたが、召見時に左金吾上將軍として京師にとどめ、
やがて振武節度使としたため実際の変更はなかった。
・咸通13年[872年]振武節度使李國昌は功を頼み、勝手に官吏を殺したため、大同軍防御使に
格下げされたが、病気と称して赴任せず振武に居座った。
・乾符5年[878年]正月 國昌の子克用を中心とした沙陀の不満分子は、大同防御使段文楚の失政に
乗じて軍乱を起こし、文楚を殺した。唐朝は太僕卿盧簡方を鎮定に派したが失敗し、
振武節度使國昌を大同節度使[方鎭表で防禦使より節度使に昇格]に移鎭させて慰撫しようとしたが
國昌は両鎭を親子で治める事を求めて動かなかった。
8月雲州に来寇し刺史張獻節は籠城し、地元の党項・吐谷渾など蕃族は避退した。
方鎭表では「置大同都団練使治雲州領雲朔蔚三州」と記載されている。河東節度使の管轄下
にあったとみられる。
・會昌3年、方鎭表では大同都防御使に昇格したとされるが、やはり河東管轄下であろう。
・通鑑では大中13年[859年]3月、割河東雲、蔚、朔三州隸大同軍という記事がある。
・咸通10年[869年]沙陀の朱邪赤心[賜名されて李國昌]が徐州龐の叛乱鎮定に大功があっ
たため、大同軍を節度使に昇格して任じたが、召見時に左金吾上將軍として京師にとどめ、
やがて振武節度使としたため実際の変更はなかった。
・咸通13年[872年]振武節度使李國昌は功を頼み、勝手に官吏を殺したため、大同軍防御使に
格下げされたが、病気と称して赴任せず振武に居座った。
・乾符5年[878年]正月 國昌の子克用を中心とした沙陀の不満分子は、大同防御使段文楚の失政に
乗じて軍乱を起こし、文楚を殺した。唐朝は太僕卿盧簡方を鎮定に派したが失敗し、
振武節度使國昌を大同節度使[方鎭表で防禦使より節度使に昇格]に移鎭させて慰撫しようとしたが
國昌は両鎭を親子で治める事を求めて動かなかった。
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