破約 [吐蕃の背信]
--------------------------
貞元三年閏五月辛未
朝廷に 德宗皇帝と武臣宰相李晟・馬燧と宰相張延賞・柳渾が朝していました。
この日は長らく侵攻を続けてきた吐蕃宰相尚結贊と副元帥侍中渾瑊が、平涼で會盟し和約を結ぶ予定の日でした。
德宗が「今日で戦役が終わる、平和が来る、めでたいことだ」と笑顔を示した。
会盟支持派の燧「まことに」と応じ、延賞も同じた。
しかし反対派の渾は「吐蕃は信用出来ない蕃族です。なにごとも起きなければいいと心配しています」と洩らした。
晟もまたそれに同じた。
血相を変えた德宗が「書生の渾になにがわかる。晟まで同調しおって」と激怒し、早々に朝は終了した。
夕刻、邠寧節度使韓游瓌から急報が入った。
「吐蕃は盟約を破り、渾瑊の行方はわかりません。將士の大半は死んだもようです」
「吐蕃兵はぞくぞく侵攻して邠州・京師に迫っています」
德宗は狼狽し京師を棄てて逃亡しようとしたが、李晟に諫止された。
*******背景*******
貞元二年淮西李希烈が誅され国内の内乱は沈静化したが、吐蕃の来寇は盛んとなり夏州・鹽州は陥され、關内諸州は侵攻に脅えていた。鳳翔副元帥李晟は吐蕃との対決を望んでいたが、疲弊した朝廷は吐蕃との和約を望み、晟の兵権を奪って名誉職の太尉に祭り上げた。
そして河東副元帥馬燧が宰相張延賞とともに和約を進め、平涼において盟約を結ぶこととし、朔方副元帥渾瑊が会盟使となった。吐蕃の宰相尚結贊の真の意図は不明だが和約を望まず、渾瑊を捕ら、唐に打撃を与えることを望んだようだ。和約の会盟と信じる唐側は吐蕃軍の奇襲をうけて潰滅し、多くの使節が殺害・捕虜となった。しかし瑊は後軍に逃避することができた。
結贊の策は破れ、完全に唐は吐蕃と対決関係になっていく。
そして自尊心の強い德宗は柳渾を好まず八月には罷免した。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます