唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和二年 西暦 807 和暦 大同2年 2

2020-02-01 10:00:45 | Weblog
十月丁卯,宰相武元衡が門下侍郎平章事西川節度使として赴任した。
生粋の軍人高崇文は西川節度使になったが、文盲でもあるので典礼や文治に辟易し、辺境の防衛に
戻してくれることを請願した。西川の順地化は唐朝の急務であるので信任厚い元衡を派遣して統治
させることとした。単なる宰相解任ではなく現役の門下侍郎を付帯した使相という形をとった。
崇文は対吐蕃前線の同平章事邠寧節度使諸軍都統として優遇された。

元和三年 西暦 808 和暦 大同3年 1
九月庚寅,山東節度使于頔が司空同平章事として入朝した。
反抗的な淮西吳少誠と隣り合う山東節度使として德宗時代には横暴を極めた頔だが、憲宗に代わり、
劉闢・李錡が討伐され、伊愼や韓全義が入朝するのをみて不安を感じた。そして子季友が憲宗の公主
(娘)と結婚することを期に帰朝することとした。位階は高いが実権のない宰相職として遇せられる
ことになった。代わって山東にには実務派の財政官僚裴均が赴任した。

十一月戊戌,宰相李吉甫が中書侍郎平章事淮南節度使として赴任した。
吉甫は有能であり、強硬派として憲宗の親任は厚かったが、他の宰相等との折り合いが悪く問題を
生じていた。そこで李錡後の江淮地域の安定のため派遣されることになった。元衡の例で現役待遇
である。後任宰相には裴垍があてられた。

淮南節度使として巨富を築いた王鍔が入朝し、贈賄して宰相となることを求めたがならず、河中節
度使に転じた。

十一月甲午,橫海軍節度使程執恭が入朝した。
義武張茂昭についで二人目であり、唐朝の河北への影響力が増大していった。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 元和二年 西暦 807 和暦 ... | トップ | 元和四年 西暦 809 和暦 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事