唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

永昌元年~天授元年 西暦689~690

2020-05-29 10:02:13 | Weblog
永昌元年 西暦689
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正月己未,朗州雌雞化為雄。
雌鶏が雄に変わったとかいう馬鹿話が武后即位のために作り出されています。

二月丁酉,尊考太師魏忠孝王曰周忠孝太皇。置崇先府官。
武后の祖先崇拝が即位に向けて本格的に始まりました。

四月甲辰,殺汝南郡王瑋等徙其家於巂州。
七月丁巳,流紀王慎于巴州,改其姓為虺氏。
武后に反抗しなかった皇族も処理されていきます。

五月丙辰,宰相韋待價及吐蕃戰於寅識迦河,敗績。
吐蕃には敗北が続きます。まともな将軍は告密により粛清・追放してしまいました。

六月己巳,白馬寺僧薛懷義為新平道行軍大總管,以擊突厥。
八月癸未,薛懷義為新平道中軍大總管,以擊突厥。
愛人の懷義に箔をつけるため征討軍の将にしますが、戦功はありません。

八月甲申,殺宰相張光輔。
光輔は李敬業征討で功績がありました。功績がある事は罪になる時代です。

八月乙未,松州雌雞化為雄。
また雌鶏が雄になりました。

閏月甲午,殺魏玄同、夏官侍郎崔詧。
酷吏周興が私怨をはらすために誣告しました。当時酷吏達はやりたい放題でした。

閏月殺劉易從。十月殺李光誼。殺劉延景。殺黑齒常之、趙懷節。殺嗣鄭王璥。
官僚・将軍達は次々と誣告され殺されていきます。


載初元年/天授元年  西暦690年
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正月、武后は周暦に習い、十二月を臘月,正月を一月とします。
唐朝を廃して周帝国建国への向けての準備です。頻繁な改元といい官名の変更といい、迷惑なことだったと思えますが、改名・改元や暦の変更などは官僚機構だけの話しであり、一般の平民には関係のない話しですから混乱はありません。中国の煩瑣な機構は県以下には及びません。

正月、改造「天」「地」等十二字以獻,太后自名「曌」,改詔曰制。
則天文字の制定ですが、ただいじくり回しただけの複雑なもので、世間では通用しません。ただ東夷の日本では水戸光圀の「圀」が残存しています。

一月戊子,武承嗣,武攸寧など武一族が宰相となります。

七月辛巳,舒王元名坐廢,徙和州。
最後に残った唐皇族も排除終了です。

九月丙子,傅游藝帥關中百姓九百餘人詣闕上表,請改國號曰周,賜皇帝姓武氏,太后不許;
仕上げの猿芝居の開始です。笑えることに國號や,皇帝姓氏まで請願者の御指定です。

九月庚辰,太后可皇帝及群臣之請。
さあ「周帝国」が建国されました。睿宗皇帝は「皇嗣」に格下げ、「皇嗣?」、どこかの国に現在おられますが不安定な地位です。皇太子ではありません。

九月丙戌,立武氏七廟于神都,追尊周文王曰始祖文皇帝。立武承嗣為魏王,三思為梁王。
皇帝ともなると七廟を立てたり、追贈したり、親族を封王したり大変です。蕃族としては名門の唐朝ですらまともな祖先をもたない[老子にまでこじつけましたが]のですが、もっと卑賤な武氏にまともな祖先があるわけはありません。

十月甲子,檢校内史宗秦客坐贓貶遵化尉,内史邢文偉,遽自縊死。
急に登用された武派宰相達は収賄に励みすぎて処罰されました。


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