唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐初功臣傳73 李綱

2024-07-16 10:13:45 | Weblog

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李綱 字文紀
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北周太建十年五月
宣帝に齊王憲が殺された時、參軍であった綱は逃亡せず禮を尽くした。

開皇二十年
隋太子[楊勇]洗馬を諫めていたが、太子が廃された時に尚書右丞となった。

大業元年
楊素、蘇威に憎まれて林邑征討行軍司馬とされ、帰還後も任用されなかった。

また齊王府司馬とされ南海に出されて林邑と交渉させられた。

また威に弾劾され鄠に閉居していた。

義寧元年
西域商胡何潘仁は司竹園で盜となり衆數萬を集め、李綱を長史とした。

十一月
李淵[高祖]が長安を取ると何潘仁も麾下となり、綱も任用され丞相府司錄參軍封新昌縣公專掌選事となった。

武德元年
高祖が即位すると禮部尚書兼太子詹事。

劉武周が太原を陥し、齊王元吉が遁走し、責任を宇文歆・竇誕に押しつけたが綱はかばった。

高祖の舞工への人事濫用を諫めた。
  
詹事として太子建成を諫めていたが容れられず辭職を求めた。高祖は「何潘仁には仕えていたのに、我子には仕えられないのか」と怒った。綱は「潘仁は賊ですが、私が濫りに殺すなと諫めると受け入れました、だから仕えていたのです。皇太子は諫めても受入れられません、だから辞めたいのです」と答えた。
高祖は綱を昇進させて太子少保禮部尚書兼太子詹事とした。
綱は皇太子の飲酒を諫めたがやはり無視され辞めた。

しかしこのような記述は太宗時に建成を批判するために強調されたと思われる。建成はまともな人物であったようである。

二年
辭禮部尚書。太子少保のみに。

貞觀四年
太子少師[皇太子承乾]。

足疾により步輿を賜った。

五年
卒 85才.贈開府儀同三司.諡曰貞

旧主周齊王憲の女の世話をずっと続けていた。


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