唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

垂拱元年~四年  西暦685~688

2020-05-28 10:02:00 | Weblog
垂拱元年  西暦685
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是歳.太后修故白馬寺,以僧懷義為寺主。
女が男妾を楽しむ場合は男色と同じく「男寵」というそうです。懷義は洛陽の薬売りから登用され、宮中にいれる関係と武后の佛教信仰もあり仏僧を称するようになりました。それなりに有能だったらしく武后の即位の為に「大雲経」をでっちあげるなどの働きもあります。

垂拱二年  西暦686
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二月、右衛大將軍李孝逸既克徐敬業,聲望甚重;左遷施州刺史。
孝逸は皇族出身で、功績を警戒され、当然の如く誣告されて貶せられました。

三月、開告密之門,有告密者,臣下不得問,皆給驛馬,供五品食,使詣行在。
武后は密告を奨励し、索元禮,周興、來俊臣等が次々と登用され、誣告と拷問により、唐朝の官僚の粛清をはかりました。

垂拱三年  西暦687
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五月庚午,殺宰相劉禕之。
禕之は武后に睿宗への返政を提案して殺されました。

垂拱四年 西暦688
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四月戊戌,殺太子通事舍人郝象賢。
武后は象賢の父處俊[高宗時の宰相]が、かって政治に飽きた高宗が権限を武后に委譲するのに反対したこと遺恨に思い、誣告させて殺しました。

六月丁亥朔,日有食之。得瑞石于汜水。
七月丁巳,大赦,改「寶圖」為「天授聖圖」,洛水為永昌洛水,封其神為顯聖侯,加特進,禁漁釣。
武后の即位に向けて瑞祥のでっち上げが始まりました。するほうもされるほうも虚偽だとわかってはいますが、違例の事を行うには猿芝居と辞退が欠かせません。

八月丙午,博州刺史琅邪郡王沖舉兵以討亂,遣左金吾衛大將軍丘神勣拒之。
殺韓王元嘉、魯王靈夔等,皆改其姓為虺氏。
武后の圧迫により皇族が蜂起しましたが、簡単に鎮圧され皇族の大量粛清が始まりました。

十二月大殺唐宗室,流其幼者於嶺南。
大半の皇族を殺し、幼い者は暑熱の嶺南に流して根絶を目指しました。

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