唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河陽節度使史3

2020-10-04 10:00:11 | Weblog
宝暦二年[826年]
◎. 宏禮は病により辞したが、再び太和元年正月に検校戸部尚書兼御史大夫華州刺史潼関防御鎭国軍使任用された。
◎.5月 検校工部尚書涇原節度使楊元卿が河陽三城懷州節度使となった。元卿は淮西の幕僚から帰順した能吏。

太和三年[829年]
◎. 何進滔が魏博で自立した時、自給して舉軍出討を請願し加檢校司空。二十萬石を軍費に献納する。

大和五年[831年]
◎.8月 河陽三城懷州節度使楊元卿は光禄大夫に進み宣武軍節度使に遷った。宣武李逢吉は東都留守となり、検校戸部尚書兼御史大夫東都留守溫造[字簡輿]が河陽三城懷州節度使になる循環人事であった。造は幕僚出身の能吏で、7月に東都留守になったばかりであった。

大和七年[833年]
◎.6月 河陽修防口堰,役工四萬,溉濟源、河内、溫縣、武德、武陟五縣田五千餘頃。

大和八年[834年]
◎.11月 前河陽節度使溫造は御史大夫となり、左金吾衛大將軍蕭洪為河陽三城節度使となった。洪は文宗皇帝の母蕭太后の弟と称して任用された者でした。

大和九年[835年]
◎.10月 前河陽節度使蕭洪為鄜坊節度使へ転任。
◎. 朔方靈鹽節度使李泳が赴任。長安出身の商人上がりで、宦官へ贈賄しての売官です。

開成二年[837年]
◎.6月 河陽軍亂,逐節度使李泳。収奪が過ぎた泳は二子を殺され、懷州へ遁走しました。貶澧州長史。
◎. 武官の左金吾衛將軍李執方が河陽三城懷州節度使として鎮圧します。9月にやっと鎮定できました。

會昌三年[843年]
◎. 李執方が義武軍節度使へ転出しました。
◎.4月 忠武節度使王茂元為河陽節度使,棲曜の子。武家の出身だが政治的将軍である。
◎.5月 昭義節度使劉従諫が卒し、甥稹の自立したため、征討が始まりました。これは強硬派の李徳裕と、従諫に恨みを持つ宦官勢力の意向です。茂元は步騎三千を以って萬善を守りました。
◎.6月 兵馬使馬繼等を天井關南科斗店へ派して、劉稹軍と対峙しました。
◎.8月 茂元は萬善を守っていましたが、劉稹軍に押されていました。
◎.9月 しかし茂元は病気であり、忠武軍節度王宰[智興の子]が兼河陽行營攻討使として両軍を指揮した。まもなく茂元は卒した。贈司徒。
◎.9月 河南尹敬昕を河陽節度懷孟觀察使とし、王宰軍に兵糧を供給させました。
◎. 方鎭表では.復置河陽節度徒治孟州。なにを今頃という所ですが、東都五縣を正式の孟州にしたのです。。

會昌四年[844年]
◎.3月 劉稹攻討使王宰が逗留して進まないので、義成節度使劉沔[河東節度使から転任してまもない]を精兵三千を率いさせて河陽節度使にしました。敬昕の行方は?です。
◎.8月 劉稹が殺され昭義は平定されました。
◎.9月 忠武軍節度陳許蔡等州觀察處置等使河陽行營諸軍招討使金紫光祿大夫檢校右僕射兼御史大夫太原郡開國公二千戸王宰は檢校司空太原尹北都留守充河東節度管内觀察處置等使となり兼任は解けました。
◎.12月 検校司空河陽節度使劉沔は忠武節度使へ転任した。後任の河陽節度使は劉稹討伐の最大功労者檢校兵部尚書河中節度使石雄です。雄は王宰とは智興以来の犬猿の仲です。
◎. 河陽三城節度使は澤州を増領され、河陽懷孟澤為節度使と改称した。

會昌五年[845年]
◎.7月 昭義兵が乱を起こし、石雄は澤州に進み守りました。

會昌六年[846年]
◎. 石雄は鳳翔節度使へ転任し、文官の太子賓客分司李珏が檢校吏部尚書河陽節度使となりました。

大中三年[849年]
◎.10月頃 李珏は吏部尚書となり、文官の検校左常侍浙東觀察使李拭が朝請大夫檢校禮部尚書孟州刺史河陽三城節度使となりました。

大中四年[850年]
◎.9月 李拭は檢校禮部尚書太原尹北都留守河東節度等使へ転任しました。河東節度使諸道行営招討党項使王宰と交代です。黨項平定の失敗のためでしょう。

大中七年[853年]
◎.この頃 王宰は辞して太子少保分司となりました。
八年頃、文官の前嶺南節度使紇干臬が河陽節度使となり、10年頃まで継続した。

大中十一年[857年]
◎.正月 宰相になれないので不満な朝散大夫守京兆尹扶風縣男三百戸韋澳が檢校工部尚書孟州刺史御史大夫充河陽三城節度孟懷澤觀處置等使となった。

大中十三年[859年]
◎. 韋澳が淄青平盧節度使に転じた。

n 咸通1~2 の 河陽節度使は不明

咸通三年[862年]
◎.8月以降 浙東で仇甫の乱を平定し、徐州で横暴な牙軍を誅殺した、銀青光禄大夫襲魏郡開國公二千戸検校工部尚書徐州刺史御史大夫充武寧軍節度徐泗宿濠等州観察處置等使王式が河陽節度使とになった、咸通5年までは在任した。

n 咸通6~9 の 河陽節度使は不明

咸通十年[869年]
◎.是年 戸部侍郎判度支崔彥昭が中散大夫檢校禮部尚書孟州刺史兼御史大夫河陽三城節度孟懷澤觀察使となる。

咸通十一年[870年]
◎.正月 崔彥昭は金紫光祿大夫檢校刑部尚書太原尹北都留守河東節度觀察等使となった。
◎.この歳 前任不明の穆仁裕が河陽節度使となる。
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