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杜公綽
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祖父謐は北齊の秀才で縣令であった。
隋末軍人となりやがて唐についた。
世民[太宗]に従い劉武周・宋金剛を討った、
武德九年六月
玄武門の変[世民による皇太子建成暗殺]に参加し、□城縣侯,實食綿州食邑四百戶。
太宗即位後
懷寧縣開國公食邑一千戶、忠武將軍行左監門中郎將加護軍。
皇宮警備の任に当たる
貞觀二十三年
右領軍將軍,加上護軍。
永徽元年
兼任檢校左武衛將軍
檢校右武侯大將軍兼知右廂諸門兵馬隊使
まもなく東都留守.左領軍將軍加上柱國。
高宗の御駕を警備し、左領軍將軍兼檢校左衛將軍。
帰京後左領軍將軍兼檢校右衛將軍となった。
兼任太子左衛率。
龍朔元年
宰相任雅相・契苾何力・蘇定方等に従い諸蕃三十五軍と高句麗を征討した。
君綽は遼東道經略大使となり高句麗軍を撃破し、功により左領軍大將軍となった。
龍朔二年
左戎衛大將軍兼太子左典戎衛率となった。
十月
任に卒した。贈荊州都督,諡曰襄,陪葬於昭陵。
杜公綽
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祖父謐は北齊の秀才で縣令であった。
隋末軍人となりやがて唐についた。
世民[太宗]に従い劉武周・宋金剛を討った、
武德九年六月
玄武門の変[世民による皇太子建成暗殺]に参加し、□城縣侯,實食綿州食邑四百戶。
太宗即位後
懷寧縣開國公食邑一千戶、忠武將軍行左監門中郎將加護軍。
皇宮警備の任に当たる
貞觀二十三年
右領軍將軍,加上護軍。
永徽元年
兼任檢校左武衛將軍
檢校右武侯大將軍兼知右廂諸門兵馬隊使
まもなく東都留守.左領軍將軍加上柱國。
高宗の御駕を警備し、左領軍將軍兼檢校左衛將軍。
帰京後左領軍將軍兼檢校右衛將軍となった。
兼任太子左衛率。
龍朔元年
宰相任雅相・契苾何力・蘇定方等に従い諸蕃三十五軍と高句麗を征討した。
君綽は遼東道經略大使となり高句麗軍を撃破し、功により左領軍大將軍となった。
龍朔二年
左戎衛大將軍兼太子左典戎衛率となった。
十月
任に卒した。贈荊州都督,諡曰襄,陪葬於昭陵。
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