唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河南節度使 宣武軍節度使 その1

2012-03-28 10:00:56 | Weblog
・天寶14年11月[755年]安禄山の南下に対して急遽陳留郡に河南節度使が設置された。
治所は汴州で.陳留睢陽靈昌淮陽汝陰譙濟陰濮陽淄川琅邪彭城臨淮東海の13郡を管轄する
巨大藩鎭であるが実態はなく、節度使に任ぜられた張介然は防戦の暇もなく、
禄山軍の強襲により12月に敗死した。
・天寶15年[756年]に入っても、1月には李隨、2月には嗣呉王祇、5月には嗣虢王巨、
10月には賀蘭進明と節度使が変わるが、管内諸郡は次々と陥落し、
孤立した諸城が抗戦するのみであった。
・至徳二年[757年]8月指揮の混乱を憂えた宰相張鎬はみずから河南節度使を兼任し
河南道回復に努めた。
・乾元元年[758年]、無能な肅宗皇帝は張鎬を更迭し、実態のなくなった河南節度使
は廃止され汴州都防禦使となった。
・乾元二年[759年]史思明の攻撃により再び東都や河南は陥落し、都防御使許叔翼は賊に降った。
・上元元年~二年[760~761年]副元帥李光弼が河南で史思明と戦っているが、
基本的に賊地であった。
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