その前に、質問をひとつしてみよう。
2011年3月11日にあの規模の地震が発生し、津波が押し寄せるということが、あらかじめ予知できていたとしたら、福島原発を建てていただろうか?
あなただったら、建てなかっただろうか?
建てたとして、海辺に建てただろうか?それとも、山の上に建てただろうか?
建てなかったとして、あの大消費電力量を供給する別の発電手段を、確実に確保してくれただろうか?
ポイントを再強調します。起きた後ではない。起きる前に分かっていたとして、である。起きてしまった後なら、誰だって何でも言える。改善案を出す気が有ろうが無かろうが、何でも言える。起きる前に、である。
起きた後のあなたであれば、タイムマシンで昔に戻れるのであれば、建てさせなかったであろう。だが、起きる前であれば、あなたにそれだけの行動力が発揮できていたであろうか?
答えを言おう。残念ながら、福島原子力発電所を建てないという行動力は発揮できていない。ということは、次の地震がいつ来るかわからない現在。全ての原発をやめて、代替手段で発電をする、という決断は、過去出来なかった以上、今後も出来ない。それは、原子力に限らず、ある考え方をする能力が日本にはかけているからである。問題は原子力だけではない。
それは、リスクを分析し、それが発生する時のダメージを最小にする方策をあらかじめ複数準備しておく、という考えの徹底の仕方である。
電力だけに話を限定すれば、電力の供給源をいくつかのオーバーラップしない種類を持つことは既にやっている。水力、火力、地熱、原子力、風力、潮力、太陽熱、太陽光。複数持っている。ここまでは良い。それぞれを機能不全に追い込む要因はそれぞれ存在する。原子力発電は、その要因つぶしが徹底されてなかった。原子力以外は、故障すれば、それでおしまい、それ以上のダメージは立地近辺の環境を少々、短期間、汚染するぐらいである。ところが、原子力の場合、その影響が原子レベルで、長期間にわたり、人間の遺伝子レベルに及ぶ。被害を受けた世代だけでなく、子孫にまで影響を及ぼす。そのリスクがしっかりカバーされていなかった。
発生した、あるいは発生しうる危機のリスクを、どこまで下げられるかという検証作業を確実にやりきらなければ、あらゆる生活を便利にする科学技術は、結局使いこなせないものとなる。このリスクを最小、事実上ゼロにする手段を確立するという努力をせずに、ただ反対という人間は、好き嫌いだけの判定という安易な生き方に留まる。好き嫌いなので、そのうち慣れて飽きてしまい、いつのまにか、何も変わっていない状態が気にならなく、あるいは気づきもしないという状態になっている。
反対は気分でできる。賛成も気分で出来る。そうであれば、何も変わらない。
2011年3月11日にあの規模の地震が発生し、津波が押し寄せるということが、あらかじめ予知できていたとしたら、福島原発を建てていただろうか?
あなただったら、建てなかっただろうか?
建てたとして、海辺に建てただろうか?それとも、山の上に建てただろうか?
建てなかったとして、あの大消費電力量を供給する別の発電手段を、確実に確保してくれただろうか?
ポイントを再強調します。起きた後ではない。起きる前に分かっていたとして、である。起きてしまった後なら、誰だって何でも言える。改善案を出す気が有ろうが無かろうが、何でも言える。起きる前に、である。
起きた後のあなたであれば、タイムマシンで昔に戻れるのであれば、建てさせなかったであろう。だが、起きる前であれば、あなたにそれだけの行動力が発揮できていたであろうか?
答えを言おう。残念ながら、福島原子力発電所を建てないという行動力は発揮できていない。ということは、次の地震がいつ来るかわからない現在。全ての原発をやめて、代替手段で発電をする、という決断は、過去出来なかった以上、今後も出来ない。それは、原子力に限らず、ある考え方をする能力が日本にはかけているからである。問題は原子力だけではない。
それは、リスクを分析し、それが発生する時のダメージを最小にする方策をあらかじめ複数準備しておく、という考えの徹底の仕方である。
電力だけに話を限定すれば、電力の供給源をいくつかのオーバーラップしない種類を持つことは既にやっている。水力、火力、地熱、原子力、風力、潮力、太陽熱、太陽光。複数持っている。ここまでは良い。それぞれを機能不全に追い込む要因はそれぞれ存在する。原子力発電は、その要因つぶしが徹底されてなかった。原子力以外は、故障すれば、それでおしまい、それ以上のダメージは立地近辺の環境を少々、短期間、汚染するぐらいである。ところが、原子力の場合、その影響が原子レベルで、長期間にわたり、人間の遺伝子レベルに及ぶ。被害を受けた世代だけでなく、子孫にまで影響を及ぼす。そのリスクがしっかりカバーされていなかった。
発生した、あるいは発生しうる危機のリスクを、どこまで下げられるかという検証作業を確実にやりきらなければ、あらゆる生活を便利にする科学技術は、結局使いこなせないものとなる。このリスクを最小、事実上ゼロにする手段を確立するという努力をせずに、ただ反対という人間は、好き嫌いだけの判定という安易な生き方に留まる。好き嫌いなので、そのうち慣れて飽きてしまい、いつのまにか、何も変わっていない状態が気にならなく、あるいは気づきもしないという状態になっている。
反対は気分でできる。賛成も気分で出来る。そうであれば、何も変わらない。