クワトロ郎

人生の彩りをアレコレ描いたり、歌ったり、知恵しぼったり、
牛乳しぼったり、  ん?  てな具合で
オヤジギャグ三昧

聴く音楽とやる音楽

2013-04-29 23:29:31 | ♪音楽
聴く音楽とやる音楽、どちらが先にあったかと言えば、それはやる音楽であろう。自分で演奏し、あるいは歌い、周りの人間がそれを楽しむ。あるいは一緒に演奏し、歌い、お互いに楽しむ。音楽が生まれた頃は、ただ、それは人生の一部であり、職業としては成り立っていなかっただろう。そのころは、音楽とは自分でやるものであった。
だんだん、上手いやつが、人から望まれて、演奏し、歌うようになった。そして、それが職業として成り立つようになった。そう、聴く音楽として成立した。

さて、現代に目を移そう。生まれて初めて経験する音楽はとりあえずおいておいて考えると、今や、商業音楽が先にあり、すなわち聴く音楽が先にあり、それを受けて、自分がやる音楽というのが後にある。つまり、今は、音楽が始まった頃とは状況が、逆転している。

誰もが、プロを目指す構図の中で音楽をやっていないか?売れたい、出来れば名を残したい、人に認められたい、ちやほやされたい。けなしているのではない。職業音楽である以上、それがその本質である。およそ芸、学問はピラミッド状のヒエラルキーで成り立っている。極少数の天才、全ての人々をその技で感激させる能力を持つ人々、を頂点に、それを目指すさまざまなレベルの人々がこのピラミッドを形成している。我々素人から見ると、このピラミッドの人々は、たとえ人気的に名が知られていなくても、技術的にはとんでもないほど高い人々である。

ただ、素人の我々がそのピラミッドを”人気”という風に理解して、自分の位置をその中に占めようとしてしまうと、本来の楽しみ、自分がやる楽しみが変な方に行ってしまう。およそ、技術的な切磋琢磨は芸に限らず、すべての生業で必要であるので、これを怠ることは論外であるが、”やる”音楽ではなく、そこに”位置を占める”という方に考えが行ってしまうと、これはもう人を感動させる力を失ってしまうのではないか?

”やる”音楽を極めたからこそ、”聴く”音楽に至ったわけであるので、見かけ上の”音楽業界”に自分の音楽を当てはめようとすると、聴くほうは敏感にそれを感じ取ってしまい、しらけてしまう。

やはり、自分自身がまず自分自身の聴衆であり、その自分を感動させることが出来なければ、他人を感動させることは出来ない。その聴衆という立場の自分は、常に高め続けないと、自分に飽きてくる。

要は、結局、自分がやる音楽のみを考えれば良いのである。技術を磨き、自分の耳を信じ、自分を感動、なんて堅苦しい言葉でなく、自分が楽しくなる、自分で自分の感情を表わす、そういう音楽を目指せばよい。そして、それが他人を感動させるものであれば、その時初めて、人は振り向いてくれる。ピラミッドを意識した瞬間、人は振り向いてくれなくなる。

なんでこんなことを考えているかというと、今はサラリーマンをやりながら趣味で音楽をやっている。時々、紅白歌合戦で歌っている自分を想像したりして、アホやなぁ、と思う。そう考えている時、”音楽”はどこかに行っている。”音楽”にまとわり付くもの、だけに考えが行っている。自分が楽しめて、身の回りの人々が楽しめれば、それは、たいしたことに思えなくても、音楽が成り立った頃と同じ、本来の姿であり、本質も失われていないのである。

であるからこそ、演奏や歌が上手い人に憧れ、尊敬し、自らも練習に励むのである。

音楽は、まず、やるものである。そして、出来れば、聴かせるものにしたい。そして、それが素晴らしければ、おのずと、人は振り向いてくれる。

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