スポーツ選手や、歌手などが、震災の後、チャリティやボランティアなどを行った後、”こういう時だからこそ、私達にに出来ることは、元気をあげること。そして、逆に元気ももらった”というような趣旨の発言があちこちで聞かれた。
根本で間違っている。人に元気をあげることだけが、スポーツ選手や、歌手などの主目的であり、おまけで元気をあげているのではない。スポーツ自体、歌自体には、厳密な意味で、意味はない。衣食住が満たされた後の、おまけのジャンルである。人に寒さを防ぐ服も、腹を満たす食物も、雨風をしのぐ家も、スポーツや歌は提供してくれない。スポーツや歌は必須ではない。衣食住を差し置いて、こちらが優先されることは、決して無い。
スポーツ、歌、楽器演奏、舞、演劇、本、漫画、映画、絵、漫才、落語、コント、これらは、まさに芸能である。芸を能くする。普通の人々よりも、これらの才能が抜きん出ており、これらに普通の人々は、その芸のすばらしさに、心を打たれ、そして喜び、ひと時の間、苦しさ、悲しさ、痛みを忘れることができる。元気になる。
早く走れること自体、歌がうまいこと自体、楽器のたえなる調べ自体、舞の動き自体、劇の演技自体、本の中身、漫画の中身、絵自体、などなど、これら自体は、結果としては意味はないのである。これらは、媒体である。方法である。人に元気を与えるための。
平時はもとより、震災時こそがその面目躍如たるべきなのである。
彼ら、彼女らは、人々に元気を与えることで、食っているのである。その芸の故ではない。芸の高さ、困難さを、さも至高のもののように、本人達も、周りも、たてまつるが、それは、間違いである。勘違いである。芸を高めるための尺度として、自助努力のよすがとして、芸は語られて良いが、あがめたてるものではない。
真の芸人の言葉で印象深いのは、”やればやるほど、課題が見えてくる。自分の未熟さが見えてくる。”というものだ。これらの人々は、芸が道具であることを、理解している。芸は、その先にある目的のために存在することを知っている。
それは、人の心を打つ事だ。人を元気にすることだ。
もう一度言おう。こういう時だからこそ、元気をあげたい。は、間違いである。こういう時こそ、もっともっと元気をあげねば。が、正しいのである。
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