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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

鈴木隆

2017-02-05 16:12:13 | 日記
1960年

報道陣に取り囲まれた鈴木隆は青ざめて口からあまりことばが出ない。「普通ならピンチヒッターの場面です。監督さんがファイトでいけといわれた。ぼくのファイトが買われてうれしかった・・・」とくちびるをふるわせながらしゃべった。三原監督の強気の作戦にこたえて自ら藤田に中越えの大三塁打をあびせた。最終回のピンチを必死に防ぎきった精神力この二つがゴッチャになって鈴木の呼吸はまだ元にもどらない。「監督さんからストレートをねらって行けと教えられた。真ん中の直球です。風でよくのびましたね」と口をついた。最終回長嶋に四球を出してピンチを招いたことについては「長嶋には五割ちかく打たれている。足が肉ばなれしているし歩かせてもそうあぶなくないという気持ちだった。まあ1点をとられてもともとという気持ちで投げたからよかったのでしょうね・・・」とこんどはずばりといいのけた。このへんが巨人キラーたるゆえんだろう。「みんながんばっていますからね。あと一勝ですね」と結んだ。
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備前喜夫

2017-02-05 12:24:09 | 日記
1960年

「大洋の胴上げが見たくないでのう」試合なかば通路にタバコを吸いにきた備前が広島弁でまくしたてた。そこへ長谷川がやってきた。「きょうはワシは出らんで、4点もあるじゃないか。1点2点くれてやってもいいからおまえが投げてしまえ」と長谷川がハッパをかける。「そうやな、1、2点くれて三原さんを喜ばせとくか」と備前が冗談をとばして笑った。味方の大量点をバックに楽に投げたが、最終回ランナーを出してゲームがエキサイトしたので白石監督は予定どおり長谷川につながせた。途中で降板したとはいえ備前はケロリとしたもの。「なにがいいちゅたって、いいものはあらへんがな」と備前は笑っていた。女房役をつとめた田中捕手は「あの人はシュートとスライダーがいいのだが、きょうはどうもコントロールがよくなかった。まあ備前さんとしては普通以下のできじゃないですかね」としゃべっていた。その備前に屈した大洋のほうがどうかしているといういい方。「大洋はあせっていますね。仕方がない。後楽園でウチが巨人をやっつけて優勝を決めてあげますよ。ついでにウチも三位をもらわんといかんからね」と備前はイキのいい言葉を結んだ。
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巽一

2017-02-05 12:13:39 | 日記
1960年

巽投手は広島を散発3安打に押えて2勝した。プロ入り二年目にはじめてマークした完封勝ちを11三振とってシャットアウトで飾ったのだからごきげんである。これで巽はプロ入り五勝目。彼は四月十四日広島でやったカープとの2回戦に先発し、大石と投げ合ったが、五回三分の一でマウンドをおり2-0で負けている。この日は大石に堂々と投げ勝ったのだから見事におかえしをしたといえよう。九回最後の打者小坂をライト・フライに打ちとってベンチにかえってくる巽の顔は、ちょっと青白い。-プロ入り初の完投でシャットアウトをやったわけだね。はい、きょうは夢中で投げました。はじめて完投しシャットアウトしたことですから、きょうのゲームは、よい思い出になります。-効果のあったボールは?シュートが一番威力があったと思います。上位打者にはシュートを多投し、下位にはストレートで勝負しました。佐竹さんからいつも小細工しないで思い切って投げろといわれているのでその通りに投げた。タマが低目にきまっていたのもよかったと思います。根来さんのサイン通りにやったのもよかったんでしょうネ。声がはずんでいる。巽は試合前先発を聞いたという。顔から汗がふき出ている。どうもありがとうございましたとダッグアウトを出ていった。
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久保征弘

2017-02-05 10:23:08 | 日記
1963年

別当監督は久保のスタートに三連戦のすべてをかけた。「もし久保が打たれたら・・・と迷いに迷ったが、大事な第一戦をとるためにはもっとも調子のいい投手を使うのが当たり前だと思い切って出した」久保が先発を聞いたのはグラウンドにきてからだ。「チームメートたちは驚いていたよ。だってずっとリリーフばかりだったからな。でも自分ではきょうはくるなと思っていた。東映戦だもの」東映にこれで4勝。二度の完投はいずれも東映からだ。「不思議に打たれない。去年だってほんとうに降参したのは吉田(勝)=対久保の打率五割=だけだ。張本には一シーズン通じてたった二本(対久保の打率一分七厘)しか打たれなかったし、岩下、青野、種茂なんかはこわくないし、ただ1点差だったから一発のある張本には一番気を使ったな」いくら日に当たってもかわらない白い顔から汗がしたたり落ちる。アンダーシャツを通り越してユニホームの方がシャワーを浴びたようにぬれている。前半は若い児玉との息がちょっと合わず苦しかったそうだ。「吉沢さんと比べると経験も違うから児玉がかわいそうだ。だからなるたけ自分の方でリードしたんだ。だが六回から児玉のサインとぼくの投げようとする球の呼吸がピッタリ合ったな」六回から九回まで一人の打者も出さないピッチング。「ことしの目標?去年のように最多勝利(28勝)なんて欲の深いことはいわないよ。第一徳久や山本(重)なんかがバリバリがんばっているから、そんあんい投げさせてもらえないだろうからな。まあ20勝を目ざして投げる。そのかわり負けを減らしてみせる。去年は21敗もしているんだ。負け数を減らせばそれだけにチームにとってプラスになるんだから。それと防御率2点台」と早口。別当監督がうしろから声をかけた。「よく1点を守り切った。肩を冷やさないように早く着がえるんだぞ」ロッカーにはホームランを打った島田が待っていた。二人はオミキドッキリといわれるほど仲がいい。「ボク(久保のこと)めしをくいにいこうな」つれだって球場を出るヒーローに出口でファンがドッと拍手を送った。
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堀本律雄

2017-02-05 10:05:01 | 日記
1961年

別所コーチにウインクしながら堀本はダッグアウトを出ていった。九回裏、あと1イニング投げれば九ヶ月ぶりのシャットアウト勝ちが待っている。中盤ごろはちょっと不安だった別所コーチも「三、四、五番か」とひとりごとをいっただけに別にアドバイスを与えない。広島を完封した堀本はナインに抱きかかえられるようにしてダッグアウトへ。そこにはまた選手のさし出した手がいっぱいヒーローを待っていた。「久しぶりで気持ちがいい。スピードがあったのがよかったんだよ。そうだな、去年のいいときのスピードにもどっているようだ」広島の打球はこのスピードに押えられて、左翼方面にとんだのは大和田の三遊間安打を含めて2本。青田昇氏は「広島の打者はひっぱろうとする無策なバッティングだったが、あれだけのスピードならもう心配はいらない」とほめちぎっていた。だが昨年九月十四日の対中日戦以来久しぶりの完投シャットアウトにもかかわらず、堀本はまだまだ注文があるようだ。「内角高目いっぱいをついてから外角へ遠いストレートを投げた。このタイミングはよかったがどうもカーブがいかんな。5本のヒットのうち3本がカーブ。みんな真ん中へ集まってしまった。あれが外角へ切れなくちゃ本物とはいえんよ」暗いせまい廊下を出口の方へ足ばやに歩きながら自分のピッチングを反省していた。「九回はなんともなかったけど六回ごろがつらかった。なにぶん完投能力のない新人投手ですからね」ことしシーズン・オフにつくった背広がアメリカ遠征からかえってみると、きつくてはいらないくらい太っていた。当然調子はわるい。一度自分から多摩川(二軍)におちて練習した苦労がやっと報われた。「昨年にくらべて不振がつづいたのでいろいろといやなこともいわれたが、これでふっとばすぜ」大きなバス・タオルを巻きつけた堀本は、トレード・マークの大きいメダマをぎょろりとむいて笑いだした。エースのいない巨人にエース復活だ。
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ウィルソン

2017-02-05 09:34:28 | 日記
1963年

まるくとび出した目、顔の中央にデンとすわっている大きな鼻。ホオの肉がちょっとたるんでいるところもヒチコックに似ているといわれている。「冗談じゃない。もっともっとぼくは若い。八回の打球を見てくれたか。すごい当りだったろう」打った球はヒザ元のシンカーだっだそうだ。「2ストライクをとられたから、くさいボールは打つつもりだったが、ストライクだな。もしあの球を見送ってごらん。チーフ・アンパイアはきっとこれだよ」右手の親指を高く差し上げてストラックアウトのゼスチャアをしてみせた。2ストライク後安打を打つのがウィルソンのお家芸だ。「実にいい選球眼をしている」と岩本章良氏はいう。「数はおぼえていないが、左投手からはアメリカでもずいぶんホームランしている。右投手の比率からいえば、きっと左からの方がいいはずだ。右だって左だって、ホーム・プレートの上を通る球を打てば同じじゃないか」三十七歳のウィルソンをささえているのはこの自信だ。昭和十七年、D級のオーエンスポロでプロのユニホームを着てから二十一年間の野球生活。その間には十年も大リーグの経験をしている。体力的なことをいわれるとウィルソンはいつも相手にくってかかる。「オレの足がおそいって?ウソだ。肩だって強いぞ」西鉄での生活は楽しくってしかたないが、不満といえば外野にあまり使ってくれないことだそうだ。「オレの足や肩に不安を持っているのかな。なれない一塁より外野の方がずっと力が出せると思うのだけど・・・」ロイやバーマと違って日本語は全然わからないが「野球はインターナショナル。プレーをしている以上なんの不自由もない」そうだ。
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大羽進

2017-02-05 09:23:39 | 日記
1961年

試合前巨人ベンチで川上監督と別所コーチが「大羽が、リードすれば大石のリリーフとくるんだろう。しかしそうはいかんぜ」といっていたが、大石どころか、大羽に押えられた。「田中さんのリードのまま投げただけですよ」と声がはずむ大羽、試合中は大羽よりも田中の方が緊張していた。「大羽は若いからこんなせった試合になると気を使って、オレの方がやせるよ。それにしてもきょうの大羽はよかった。五、六回まで速い球を投げ、後半はカーブに切り替えたが、それがみんな低目によくきまっていたよ」試合後はまるで自分がヒーローになったようにごきげん。「巨人は気が抜けませんからね、こわくて・・・。長島、高林さんを警戒したんです。長島さんにはスロー・カーブばかり」といっていた。エースの大石と同期生で大の仲良し。二人とも板東を中日にとられてストーブ・リーグも終わりかかったころ、あわててスカウトが走りまわってとった選手だ。大石は立大、大羽は明大進学を希望、大羽は明大の練習にまで参加している。ちょうど慶明戦前さっそく島岡監督が巽投手(現国鉄)攻略の練習台にしたところ練習どころか、明大が高校生にひねられてしまった。そのウワサを聞きつけて武沢前マネジャーがスカウトした。「大石と入団したとき球団で大羽とどちらが先にのびるか」と楽しみにしていたが、大石は二年目でエースにのしあがったのに、大羽はパッとしない。「大石君と口をききたくなるほど妙な気持ちでした。おいてきぼりを食うようで。ことしは絶対に追いつこうとキャンプでも練習したんですよ」がんばったかいがあったというものだ。サウスポーのいない広島は大羽の成長を首をツルのように長くして待っている。
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緋本祥好

2017-02-05 09:09:50 | 日記
1961年

ダッグアウト裏の通路をバットをかかえて一目散。階段を二、三段ずつピョン、ピョンとびあがって大きな目を見ひらき「ああ、どうしようかと思った」とまだ心臓がドキドキしているようす。「ぼくはいつも代走ばかりだから藤本がヒットを打ったとき、これは代走だなと思った。ところが監督からミケンズの落ちる球をねらえといわれあわてた」という。しかしみごとにサヨナラ安打した。打ったのは内角から真中にはいるカーブ。「1-1のあとから振りしたのがカーブ、そのつぎファウルしたのが同じようなカーブ、ぼくの低いかまえをみて低目をねらってると思ったんでしょう。打ったカーブはやや高目でした」松岡、河津ら専門の代打者がいるのに走る専門の緋本を選らんで当てた水原監督はグッとアゴを引きしめた例のポーズで「緋本は遅いボールに強い。だからいつか使うチャンスがあるかと思って待機させておいたんだ」といっていた。佐々木信也氏によると「ミケンズはストレートは速いがカーブは遅い。それに12回投げて球が高目に浮いていた」そうだから、この殊勲打の裏には水原監督の人選のうまさもあったといえる。昨年暮れ広島を整理された緋本を拾ったのが水原監督。同監督の頭の中には広島の主軸打者として活躍したころの緋本のバッティングが印象に残っている。ことしの春のキャンプではじめは五番打者に予定していたほどだった。しかし緋本はその期待にこたえられず最近二軍と一軍のベンチをいったりきたり。前夜はダブルヘッダーで投手がたくさんいるためベンチへはいれず、この試合でユニホームを着ることができた。サヨナラ・ヒットはプロ入りはじめて。「ヒットが打ててよかった」とため息をつく緋本の肩をたたきながら「日ごろの努力の結果ですよ」と張本がさかんにPRにつとめていた。
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松本正幸

2017-02-05 08:44:58 | 日記
1974年

ドラフト一、二、三位指名が入団を拒否するという巨人にとって前代未聞のできごと、したがって宮崎キャンプは新しい顔がみられない。「江川か、山下大でも入団してればなあ」首脳陣から声が上がるはずだ。ところで、この松本投手、プロ入り六円目だが、担当記者でも知らぬものが多かった。「バッティング・ピッチャー用?冗談じゃないよ。期待の新戦力だよ」中尾投手コーチが説明した。なるほど、183㌢、73㌔、長身の本格派投手だ。しかも、川上監督、武宮スカウト部長を生んだ第四の名門熊本工の出身。「マスコミのみなさんが顔を知らないのも無理ないと思います。入団早々足、しばらくしてサ骨と骨折が続いて三年間というもの満足にマウンドに上がっていない。もう野球はよそうかと思ったら、武宮さんからカミナリを落とされた」という松本。「好不調の波が多かったぼくが昨年あたりから思い切って投げられるようになった」巨人投手陣は中尾コーチの意向で一月二十日から寒風の多摩川で鍛えられた。お前、宮崎行きかもと木戸コーチにいわれてまさかそのまさかが本当になった。ぼくだって過去五年、うらやましげに一軍行きのメンバーを見送りしましたからね」松本はノーワインドアップ・モーションだ。コントロールをつけるための手段だそうだが、快速球の低めの制球力が目下の課題。「バッティング・ピッチャーやって長島さんや王さんに全力投球する。一軍のキップを手放さぬよう死にものぐるいです」松本、六年目の春である。
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田中章

2017-02-05 08:31:34 | 日記
1974年

小さな仁王さまーマウンド上田中章投手の表情を、ひとことで表現すると、こんな感じになろうか。169㌢、64㌔と小柄だが、太くて濃いマユ、相手を射すくめないではおかないような鋭い目、そして男性的な輪郭を描くその顔・・・。が、顔色は赤くはない。野球選手に珍しい白さである。むしろ青白いという感じに近い。いわば白面の仁王さまだ。ロッテ戦になると、特にその感じが強くなる。後期優勝にひた走る金田ロッテの前に大手を広げて仁王立ち。快調ロッテも、この小さな投手にだけは立ち止まらされ、しばしばギュウギュウ言わされるのだ。神通力、といってもよい。見た目は何の変哲もないような投球がロッテ打線を沈黙させる。巨人時代にの二年間にたったの二度しかなかった先発が、ことしだけでもすでに四度、うち三度までが後期である。その2試合はロッテ戦で、田中は二つとも勝っている。後期開幕戦での完封勝ちは、平和台での試合だっただけに、地元のファンの記事も鮮やかなはずだ。ロッテ・キラー。そう呼ばれる。「たまたま、そうなってるだけでしょう。ロッテは一人一人の選手を見ると、恐い打者がそろってますよ。でも打線としてとらえると、いつもなんとかなりそうな感じなんだなあ。あまりロッテ、ロッテって意識しないのが、いい結果を生んでるんじゃないのかな」だから田中は自分のことをロッテ・キラーだなんて思っていない。「僕はロッテだけにしか勝てないとは思ってないんです。それにロッテ用なんて特別なピッチングがあるわけじゃないんだし・・・。どことやる時だって、先発する時は立上りは怖いし、六、七回は気になりますね。僕にとっては、その辺がピッチングの区切りになってるんじゃないかと思いますね」この夜は速球の走りが悪かった。主武器のシュートも、だからいつもほどは効果がなく、コーナーワークだけに頼る苦しいピッチングが続いた。前半は二、三、五回にヒットの走者を出し、後半は六、八回に四球のランナーを背負った。苦しい手の内をそのまま物語る試合展開だった。だが田中は粘った。今季4勝1敗1分け2セーブの相性のよさと二人連れで耐えた。本人がどう言おうと、この夜の田中は、それなしでは勝てなかったはずだ。ひたすら耐えた8イニング102球、ついに味方は点を取ってくれた。田中の努力にこたえるように球神もツキをプレゼントした。B砲の適時打は一塁ベースを直撃して大きく右前にはね上がったのだ。「3安打ですかァ」と問い返した。大事なところで四球を与えたので、抑えたという実感がわいてこない試合後のインタビュー。「チームの状態がいいので、なんとか打ってくれると思ってたんですよ」水道の水でノドをうるおすと「ああ気持ちいい。完封ってのはいいもんだなあ。それにしてもどうしてロッテばかりに勝つのかなあ」そう言って大きく笑った。仁王さまの顔がエビスさまのようになった。
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榎本直樹

2017-02-04 21:59:20 | 日記
1974年

一回のヤクルトの得点で、勝負の大勢がきまるという味けない試合。ヤクルトはこの回・東条が金城の初球を中前安打すると、船田が三遊間を抜き、若松が右へ3点本塁打。ロペスはストレートの四球で歩き、山下も右前安打、一死後城戸も二番手の横山から中前安打して4点となった。金城は初球を打たれてから力んだのだろう。単調な投球だった。金城とは対照的にヤクルトの榎本はよかった。カーブ、シュートを混じえた多彩なピッチングに、広島は八回までわずか2安打。やっと九回山本浩、衣笠の長短打などで、零敗をまぬがれた。榎本はプロ入り初完投。

・どっちかといえば安田投手に似たタイプの投手だと思うか?

そうですか。そんなに似てますか。安田さんの場合は左投手にしてはめずらしい横手投げでどちらかといえば変則投手。僕の場合はスリークォーター気味でボールの出が安田さんよりも少し上になりますね。

・得意な球種は? フォークボールです。これは大学(中京大)のときからつかっているウイニング・ショットです。コントロールがいいのはシュートで、はやいボールとゆるいボールの二種類投げることができる。球種はそれらを入れて五、六種類ですね。
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内田照文

2017-02-04 20:18:37 | 日記
1971年

西鉄ライオンズの古賀球団常務は二十六日午後三時、広島へのトレードが決まった内田照文投手(21)=身長180㌢、体重72㌔=を呼び、ウエーバーによる広島移籍を伝えた。突然の決定で同投手はとまどいの表情だったが、トレードを知らされたあとは「球界のルールだからしかたない」と移籍を内諾した。だが同投手にとって悩みのタネは百万円にも満たない年棒だ。四十三年に熊本工からテスト生として西鉄入りしたが、来年はプロ入り五年目を迎える。「ボーナスのある一般サラリーマンとそれほど大差ないとすれば、ここらで球界から足を洗ったほうが・・・」という気持ちもあるようだったが、同日夜、熊本市北千反畑に住む父親精太郎さん(51)=文具店=に電話で相談した。「広島に移籍して芽が出た藤本和宏投手のような例がある。それに退団させられたのではないから心機一転して励め」といわれて、改めて広島入りを決意した。西鉄在籍の四年間でショートリリーフとして、試合に登板しているが、ウエスタンリーグでは四年間で通算6勝2敗。広島としては同投手の制球のよさに目をつけたようだ。

内田投手の話 西鉄でやれないならプロ野球から身を引こうと思ったが、父や周囲の人に励まされ考え直した。広島では死にもの狂いでがんばる。
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副島末男

2017-02-04 19:38:54 | 日記
1969年

阪急ブレーブスの藤井スカウトは、ドラフトで八番めに指名した副島末男投手(18)=佐賀・塩田工、身長179㌢、体重71㌔、右投げ右打ち=獲得のため、去る五日いらい佐賀県鹿島市浜町の同選手宅を訪れ、父親辰雄さん(64)をはじめ親族と交渉を続けていたが、このほど入団の内諾を得た。正式契約は期末試験の終了を待って大阪で行われる。

阪急・藤井スカウトの話 速球の威力はたいしたもの。未完成だが将来が楽しみだ。バッティングにもいいセンスを持っている。

副島投手の話 プロからのさそいがあれば入団したいと思っていた。スピードには自信があるし、ストレート一本で勝負できるような投手になりたい。右の江夏といったタイプが理想だ。コントロールをつければ、プロでもやっていくれると藤井スカウトも保証してくれた。毎日一時間くらい走って鍛えているので、キャンプになってもあわてないだろう。
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中山孝一

2017-02-04 19:02:38 | 日記
1974年

南海の中山がキャンプでみがきをかけてきたナックルボールで王を三振させた。ウエスタンで投げたことはあるが、一軍の顔ぶれを相手にほうったのはこれが初めて、見事な成功だった。「昨年の日本選手権のときより緊張した。調子はよかったが、足がブルブル震えて、自分の体ではないようだった」のが原因かどうか、六回まで投げて3回の四球を出した。だが、許した安打は2本だけ。王と長島には1本も打たれなかった。野村監督は「ローテーション入りは決まった」とタイコ判を押した。中山の成績は過去四年間でたった1勝だが、野村監督は素質を見抜いている。背番号を17から13に変えてやり、1月の美穂夫人との結婚式場では中山に寄せる期待を述べた。この日、マウンドに上がったとき胸にはお守り袋が下げてあったが、これも野村監督がキャンプ中に「はだ身離すなよ」と贈ったものである。中山は監督の励ましにこたえられるまで成長した。「でも、まだ満足はしていない。カーブはよかったが、ストレートが伸びなかった。それに制球はキャンプ中から課題にしていたが、3個も出してしまった。王、長島さんを打ちとったのは気持ちがいい。自信もついた」と喜びと不満を織りまぜてしゃべったが、何勝ぐらいしたいかは何度聞かれても口にしなかった。柳田に二塁打されたことについて「相手がストレートに強いのは知りながら投げてみた」と度胸のよさそうなことを口にしたが、実はそうでもないらしい。野村監督の説明では「彼には不運なところがあった。背番号もそのために変えたのだ。13という数字は気の弱い者に向いていて、17は逆に気の強いのに合うそうだ。だから17は外山にやったのだ」という。こんどの巨人との三連戦、野村監督が投手陣で使えるメドをつけたのは中山と外山の二人だった。
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島田源太郎

2017-02-03 21:22:55 | 日記
1968年

「プロ野球選手の手本」と、大洋の別当監督が手放しにほめる男がいる。島田源太郎、28歳。三十五件に完全試合を演じ、その年は19勝、大洋の初勝利に大きく貢献した投手だ。その後、肩の故障がたたって二軍落ち。プロ入り十年目の昨年暮れの契約更改期には「首になりかかった」(球団関係者の話)が、今シーズン前半を終わったときには、土つかずの9連勝。よみがえった右腕、愛称源さんの苦労のあとを振り返ってみるとー。「あのころは速球とカーブだけ。力で押しまくる投球で面白いように勝てた」-源さんは三十五年の絶頂期をこう語る。宮城県の気仙沼高からテストを受けて大洋に入団してから三年目のことである。「大洋の成績は島田の出来次第」とマスコミにはやされ「球団からは、こわいものにさわるように大切に扱われた」という時代であった。それがどうだろう。翌三十六年は9勝、三十七年は6勝、三十八年は4勝と、成績は急カーブで落ちていった。「プロを甘くみてコンディションの調整に失敗した。開幕からつまづき、すっかり焦って自分のペースを取戻せなかったからだ」という。悪いことは重なるものだ。当時の三原監督(現近鉄)から「変化球を覚えないと勝てないぞ」といわれ、ナックル、フォークボール、シュート・・・と球種を増やすことに没頭したのがいけなかった。野球選手、とくに投手の生命でもある肩を痛めた。三十八年の春のキャンプでは腕もあげられないほど悪化した。それでもなんとかシーズンを乗り切ったところへ別所ヘッドコーチ(現サンケイ監督)が就任。「秋から冬にかけての練習で調子の悪いものは、来年の公式戦では使わない」という方針が打出された。源さんは無理を承知で寒い中で投球練習にはげんだから、肩はますます悪くなるばかり。翌三十九年は僅かに1勝。四十年から二軍に落ちた。完全試合までやりとげた栄光の投手が二軍に落とされる気持。源さんは「まさに奈落の底に落とされたみたいだった。その気持は口ではとてもいい表せない」といった。まわりの人たちから「さっさと足を洗って商売がえしたら・・・」といわれ、一時は真剣に考えたのもこのときだ。源さんは、「肩は回復するか、どうか」の診察を受けるため、病院めぐりした。「大丈夫」と数件目の医師が太鼓判を押してくれた。「よし、もう一度大観衆の前で王、長島と対決してみせるぞ」-それから二年間、泥と汗にまみれる努力がつづく。朝早く病院に行く。その足で多摩川にある二軍の練習場へ。思い切り投げ、打つ若い選手を横目に、黙々と走りまくった。多摩川べりには楽しく遊ぶ若い人の姿がいやでも目につく。一人住まいのアパートへ帰ると、ナイター実況放送の花やいだアナウンサーの声とファンの歓声が耳にはいる。若い頭の中を屈辱感と焦燥感がごちゃまぜになってかけ巡った。「こうまでしてプロ野球にへばりついてるのはみっともないことではないか」と思ったこともあった。そんな源さんを勇気づけたのは当時「大投手の稲尾さん(西鉄)金田さん(巨人)でさえ二軍で苦しんでいる」ことだった。源さんは自分にいいきかせた。「オレは肩が痛くて野球ができないだけではないか。世の中にはもっと苦しんでいる人もいる。たかが野球であっても、努力することが人生の成功なんだ。自暴自棄になってはいけない」と。同僚の松原内野手は「サウナぶろに入った時でも、熱心に体操をやり、投球フォームの研究をする島田さんを見て、ああいう人こそカムバックしてほしいと思った」と、その努力を讃える。数か月後、肩は直った。「俺はもう投げられる」と思わず叫んだ。が、三原監督は使ってくれなかった。はやり気持ちを押えながらの、さらに一年間は二軍生活は一段とまた苦しかった。妻弓子さん(27)との結婚は「投げられるのに投げられないつらさ」を味わっていた昨年の一月。ことしの三月には長男の大(まさる)ちゃんが生まれた。源さんには心の支えができ「野球一筋に生きる決意はさらに固まった」という。それがカムバックの自信につながった。もしここで諦めていたら、完全試合を樹立しながら寂しく球界から消えていった宮地(国鉄)森滝(国鉄)西村(西鉄)と同じ運命をたどったに違いない。待ちに待ったチャンスがきた。五月一日。「納屋からホコリだらけで出てきた男」(別当監督)源さんは見事にサンケイを1点に押え、いきなり完投勝ちを収めた。「逆境を乗り切り、何ものにも動じなくなった」という信念。八年前より球速は落ちたが、別当監督も秋山コーチも「綿密なコントロールと打者の心理を読んでのうまいかけひき」に感嘆し、人間島田の成長と同時に、ピッチングの「変革」をたたえている。「二年間の二軍生活は、今になってつくづく貴重だったと思う。どんな社会に飛び込んでもやれる自信がついた」という源さん。その表情はとても明るい。
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