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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

高橋善正

2016-12-15 00:03:16 | 日記
1967年

これで西鉄には二試合連続の完封、八月二十七日の同じ西鉄戦から数えて二十六イニング無失点だ。七月中旬に右ヒジを痛め、夏場で十日間ばかり休場したブランクも、涼しくなってから一気に取り戻し、すばらしいダッシュで新人王にスパートしている。「大学時代からクセになっている春秋のリーグ戦型がまだ残っているせいかな。大学時代もそうだったが、秋になると勝ち星がふえるんですよ」と笑っていた。試合前、その好調のきっかけをこんなふうに説明した。「外角に落ちる球とスライダーのように流れるシュートが決まりだしたからでしょう。八月の中旬になんとなしにおぼえたんですよ」高知商時代はカーブでならした高橋が、得意の内角にくい込むシュートをおぼえたのも、やはり偶然だったという。両サイドに投げわけられるようになってすっかり自信がついたらしい。登板する前、金山コーチから「あまりたべるなよ」と注意されたが「いや、だいじょうぶですよ」とドライカレーをたらげてゆうゆうとマウンドにあがった。14勝で新人王の最低条件といわれる15勝にあとひとつとなった試合後は「もう確実になった?いや、とてもとても」とけんそんした。「一回裏、白の右翼フライを二塁打にしてくれた相手の青野さんに感謝しなくちゃ。それと三回一死一、三塁でファイン・プレーをした三塁佐野さんにも助けられて勝ったようなものですよ」高橋は勝ったとき、必ずといっていいほどまずバックをほめる。この人柄が報道陣にも好感をもたれ、ますます新人王当確の声に結びついているようだ。大下という同じチームのなかにライバルもいるし、それだけに神経を使っている。最近、自分にまた注文をつけた。それは最低18勝すること。「もし、もらうとするなら、仲のいい大下も納得するような成績を残してからにしたい」ライバルも納得させたいというところがいかにも高橋らしい。最近は髪をのばすため床屋にいっていない。大学時代からのガール・フレンドとことしの暮れ、結婚することが内定したためで、式の日取りも十二月中旬に決めているという。髪をのばしたのは結婚式にきれいに七三にわけたいため。「ひそかにねらう」という言葉を高橋はいやがるが、新人王のタイトルを未来のワイフにプレゼントすることを考えていないといったら、それはウソになるだろう。
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加藤斌

2016-12-11 14:55:36 | 日記
1963年

対国鉄戦で中日のルーキー加藤(斌)投手が五回から初登板した。結果は1回1/3投げて3点とられて散々のでき。もっともそのうち2点は失策がからんだもので加藤には気の毒だったが、最初の1点は高林、豊田に文句ない二塁打を浴びてとられたもの。豊田は「まだコントロールもスピードも甘い。しかし、シュートはなかなかいいからコントロールがよくなれば、先が楽しみだな」といっていた。加藤は「やはり初登板であがっていた。調子は悪くなかったんだが、シュートもスライダーもみなボールひとつはずれてしまって・・・」と頭をかいていた。
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小川健太郎

2016-12-11 14:21:55 | 日記
1967年

最後の打者、代打の西園寺を三振にとったとき小川は思わず白い歯を見せた。22勝目をマークした喜びもそうだが、再三のピンチをのがれ、ようやく勝ったというホッとした気持ちの方が強かったのだろう。三日の対産経戦でも三イニング投げ、自らのサヨナラ安打で勝っている。「ほんとうは五日の先発を予定していたんだが、三日に投げてしまったので一日ずらしたんだ。そのため調子はあまりよくなかったようだ。いまの小川は疲労がたまっているから2、3点の失点は覚悟してやらないといかんからね」近藤コーチは気の毒そうに小川をかばう。オールスター前はリリーフの切り札板東の故障からその代役をつとめ、板東が復調するとともに、また先発グループにカムバック。一人で中日の投手陣を切り回した疲労は中二日あいての登板のこの日も出ていた。とにかくいまの中日投手陣でたよれるのは三十二歳の超ベテラン小川以外にないのだ。「きょうなどは最初からからだがだるく、きつい試合だった。でも六回の無死一、二塁を切り抜けたときに、これは勝たせなくてはいかんと思った。ボールが走らないのでコントロールばかりに気をくばったんだよ。ああバテた」冷えたお茶をごくりとのんだ。最多勝利を目標に一歩一歩階段をのぼっているわけだが、報道陣からそのことを聞かれると「いまは出されたときにひとつひとつ勝つだけのことや。もうこのへんで勝ち星はいいよ」とそっけない。だれもいないベンチにどっかと腰をすえ、質問に答えていた小川は、吉江代表が呼びにきてからやっと重い腰をあげて、バスにむかった。長い通路を通りぬけながら、小川は最後に張り切ってこういった。「あとウチは三十五試合あるが、出番が五つとして、絶対に25勝はするよ」評論家の白石勝巳氏は「とにかくシュートの使い方がうまい。それで外角のスライダー、ストレート、カーブが生きている。今シーズン30勝は残りゲームから見て無理だが、25勝は絶対にいけるだろう」と太鼓判を押していた。
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上田卓三

2016-12-11 13:10:46 | 日記
1966年

新チームの練習に参加して、毎日バッティング投手をかって出ている。一人二十本ぐらい、十七、八人が入れかわりたちかわり打つ。黙々と投げる上田。バッターが打ちそこねて、帽子をとってあやまっても、打球がからだのすぐ横を通り抜けても、声も出さない。まるでピッチング・マシンのようだ。だが球は速く、二年生、一年生は相当苦しんで打っている。速球を内外角あるいは高低にゆさぶるように投げているからだ。「フリー・バッティングのピッチャーができない投手は一人前の投手になれないのではないですか。西鉄の稲尾さんがコントロールをつけるのはバッティング・ピッチャーをやるに限るといってますね。そのとおりだと思って毎日投げているのです」自分でも「コントロールとスピードには自信がある」といい切るのも決して強がりばかりではない。毎日、考え考えて練習をくり返し、力をたくわえていった自信がいわせるのだ。約一時間半をぶっつづけで投げる。胸幅とシリだけは大きいが、ほかに肉らしきものはついていない。ヒョロッとしたからだの、どこにこんな馬力があるのだろうか。上田が馬力のあることを実証したのは昨年二年生の夏だった。60㌔の体重が56㌔まで落ち、ビタミン剤を注射しながら予選を投げぬき野球部創立以来初めて甲子園出場をきめた。そのうえ初出場で初の全国優勝までなしとげてしまった。このとき上田は一人で投げ切った。このタフさに原監督までが「驚いてしもうた」と舌を巻いた話は有名だ。そして昨年の秋からことしの春にかけて自宅(大牟田市歴木=くぬぎ)近くの大開山(標高500㍍、傾斜40度)の片道3㌔の山道を毎朝走った。「一ケ月ぐらいは歩き歩き登ったのですが、二か月ぐらいになると平気で走れるようになりました」という。さらに「からだが一番こわばっている朝早く走る方が効果があると思って」朝ばかり走った。上田の考え方は「自分にプラスになることならなんでもやる」ということだ。原監督は「別に技術的なアドバイスはしなかった。ただランニングだけはやかましくいっていた」が上田はすぐ実行に移したわけだ。「野球は死ぬまでつづけたい」と大まじめでいうほど打ち込んでいる。家庭環境も野球をするにはめぐまれていた。長兄進一郎氏(31)=大牟田市役所勤務=は三池高時代、外野手として大牟田市から初めて甲子園に出たときの選手。父親進氏(55)=三井グリーンランド・ゴルフ場勤務=と母親一子さん(51)は上田の試合にはたとえ練習試合でも弁当持参で応援にかけつけるほどの熱心さだ。父親進氏は「六人兄弟の末っ子だし、甘えて育ったところもあるが、自分がこうと決めたらいちずに打ち込む性格だ。日ごろはおとなしいが、いざとなったとき非常にがんばりを出す男だ」と自慢にしている。「ことしの県大会で小倉工の打たれたのは全部カーブでした。スピードボールには自信があるのですが、できるだけ体力をたくわえようと変にカーブを投げたのが失敗だった」と反省。「これからスピードをつけるため、また山に登る」という。「南海と西鉄が一位にランクしてくれたのが大きな励みになりました」最初は東海大に進学の気持が強かったが、最近「投手は高校から直接プロにはいった方が有利だ」と南海入りの決心をかためた。しかしプロ入りは「一生の問題だから少しでも有利な条件ではいりたいです」変にいじけたところがなく、いいたいことははっきりいい、もらうものはちゃんともらうというちゃっかりした現代っ子でもあるようだ。

三池工・原監督「大学なら一年からでもすぐ通用する。だがプロにいくとなればスピードは心配ないが、カーブにコントロールがないのが気にかかる。どんどん走り込んでもっと下半身を鍛えることが必要だ。からだはまだ細いが、いままで背たけだけ伸びてきたので、これからからだはできてくる」
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中井悦雄

2016-12-11 11:49:30 | 日記
1963年

中井の三十日までの記録はつぎのとおりだ。試合数19、完投7、救援11、13勝1敗、投球回数111、1/3イニング、自責点14、防御率1・13。野武士これは真っ黒に日に焼けたたくましい風ぼうから土井垣コーチがつけたニックネームだがサムライのように負けることがきらいだ。研修期間50試合の山尾、辻(佳)が百試合の中井より先に一軍入りしたときはくやしがった。関大を一年で中退して阪神入りしたのも中途はんぱなことがきらいな性格からだ。「勉強と野球、両方うまくやっていくほどぼくは器用じゃないんです。中途はんぱな状態で野球をやるくらいなら思い切ってプロにはいった方がいいと思ったんです。いまではプロの道を選んでよかったと思っています」シーズンのはじめ山尾、辻(佳)の仲のよいグループは禁酒同盟をつくった。これからどんな逆境に立っても酒に救いを求めないというのがねらいだ。だが三人はその翌日、洋酒のビンを合宿に持ち込んだ。禁酒同盟を結んだが、それまで三人はまだ酒を飲んだことがない。「永久に飲まないんだから一度だけ酒の味を知っておこうと思ったんですよ」

チームのなかのライバルは山尾、辻(佳)だが、チームの祖とのライバルは近鉄の土井だ。大鉄高時代、同じクラスで机をならべ、三十五年甲子園の選抜大会にはともに投手で出場した。近鉄の主軸として活躍する土井をみるだびにむくむくとファイトがわくという。「いつかきっと日本シリーズで対決しようって二人で話しているんですよ」阪急合宿虎風荘の四階、部屋のなかには村山(関大先輩)のピッチング・フォームの写真が何枚もはってある。「村山さんのような投手になることが目標なんです」こういって中井は目を輝かす。入団以来つきっきりでみている土井垣コーチの採点はこうだ。「入団当時はただ速い球を投げるだけで荒っぽいだけだったが、いまは違う。コントロールも見違えるようによくなった。カーブもシャープな切れをみせるようになったし、一軍にあがってもすぐ使えそうだ。だがまだシュートが弱い。これからシュートをマスターすることだ。なにくそという気持ちは人一倍強いし、エースになる素質は十分備えている」一軍入りの日も目の前に迫っている。「早く研修期間があけないかと思っていたんですが、実際に近づいてくるとちょっと心配です。でも打たれてもともとという気持ちでやりますよ。辻(佳)さんが今シーズン五本ホームラン打つのとぼくの1勝とどっちが早いか競争しているんです」やはり強気だ。
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石岡康三

2016-12-11 11:23:00 | 日記
1964年

この日の先発をいわれた十六日の夜、石岡は身のまわりのものをせっせと片付けていた。大倉山の合宿をでて両親と石岡と半々にだして買った調布の新居に移ったのはつぎの日だった。「合宿の食べものがまずいわけじゃないけど自分に合った食いものを食べたくてね」若手三羽ガラスといわれた中で、佐藤進が6勝、半沢が2勝、たったの1勝しかあげていない石岡は、仲間にひとつずつ追いついていく方法を両親の食事に求めた。「四回ごろから、勝てるという気がしてきた。カーブでカウントをかせぎ、速球で勝負したのがよかったのでしょう」王には自信を持っている。十回勝負してホームランを二本打たれているが、三振も五つ。あとの三つは凡打に打ちとっている。「巨人の中で王さんが一番威圧感を感じるけど、どうしてもかなわない相手とは思えない。巨人打線はブリブリ振りまわしてきますからね。低めへ投げればだいじょうぶでしょう」ナインの中でどこにいるのか目立たたないほどじみな男の口から強気な言葉が出た。半沢に追いついたのでつぎは佐藤進を抜きにかかるのだという。勝負をきめた2打点についてはあっさりしていた。「まぐれですよ。内角のシュートだったけど、バットを短く持っていたのがよかった」内気な性格から打者に割り込んでフリー・バッティングをしたことは一度もない。ぶっつけ本番の一発だった。「おふくろがきょうはみにいきたいといったけど、足が神経痛なのでテレビでみてくれっていってきたんです」ただ一度しか寝たことのない家で待つ母親(長子さん)に王を最初に三振にとった球はまっすぐ、二度目はカーブだったとかえって教えるのが最大の楽しみだという。

五割を割った巨人にまた不幸が起こった。二回二死一、三塁で根来のとき、十七日の練習で突き指した伊藤の左親指から血がにじみ出したのだ。根来四球の満塁で巨人はあわてて城之内をリリーフに送る。しかしこの夜の城之内は疫病神にとりつかれていた。ます石岡に1-2からど真ん中への打ちごろのストレートを投げて中前へ先制の2点タイムリー。守っては三回、広岡が杉本の遊ゴロを一塁へ高投した無死二塁で小淵の送りバントを一塁へ暴投した。一塁線へきわどくころがったこの打球を城之内は「きれる」と判断したようだが、ボールはわずかにライン内でとまった。浮き足立っているときだけにこれはショックだ。杉本がかえる。小淵二進のあと豊田にも二塁左を抜かれて国鉄に4点目を与えた。切れのいいスライダーで一回二死後の坂崎から二回王、船田と連続3三振をとった石岡はこれでさらに余裕を持った。三回二死から柴田、塩原に連安打された一、三塁もゆうゆうと切り抜ける。秋天は石岡のプロ入り初のシャットアウトがなるかどうかにしぼられた。回を追ってスローカーブがさえ、低めいっぱいにみごとに決った。巨人は1㍍81の長身から投げおろす球の角度にまどわされた。六回トップの柴田が左中間を抜いた無死二塁も点にならない。石岡が最後のスリルを感じたのは、八回一死後、代打国松が打ちあげた右翼大飛球だ。しかしこのホームラン性の当たりも逆風に押しもどされてヘイぎわで別部のグローブへすいこまれた。国鉄が九回根来の右翼線三塁打でダメを押すと、その裏一塁コーチス・ボックスにもう川上監督の姿はなかった。長島を欠いてから巨人は一度も勝てずに4連敗。石岡は六月二十四日の対阪神戦以来二十四日ぶりの2勝目を完封でかざった。

六回、王がこの試合二度目の三振をしたが、2-1からの内角カーブをから振りしたとき、王のヘルメットは二度もうしろへとんでしまった。ということは、からだの中心線がぐらついて、しかも大振りしている非常に悪い状態だ。新人にひねられてたまるものかという気持ち、これがリキみになり大振りにつながっていた。石岡は金田を右投手にしたように背が高い。しかも純粋のオーバーハンドで球は速い。ボールに角度があり、とくに打者にとっては高めのボールがストライクにみえるタイプの投手だ。そんなことは巨人の選手も全員知っているはずだが、試合終了後まで同じように高めのボールに手を出し、内外野にフライを打ちあげていた(27アウト中フライが15)巨人のダウン・スイングがから回りしていたということである。石岡はまず速球と、ゆるい大きなカーブでカウントをかせぎ、勝負球は速球と、速い小さなカーブで攻めていた。石岡にしてみれば、ストライクをとりにいく大きなカーブをねらわれたら、かなり苦しんだに違いない。ところがそのカーブをほとんど見のがしていたために、次第に調子をあげた。石岡の投球数は百三十四球。そのうちストライクは九十球だった。つまり三球に二球はストライクだったわけ。だからねらい球を各自が決めてかかれば、もっと打てたはずである。
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中井悦雄

2016-12-11 09:35:19 | 日記
1963年

中井は広いスタンドを見わたしてから胸をそらしてマウンドをおりた。やや気どったようなポーズ。「阪神のユニホームを着たばかりのころ、村山先輩に教えてもらったんです。グラウンドに出たら常に胸を張っていなくちゃいかん。大選手になる秘けつはたえず自信を持って胸をそらせることだって。ぼくはこの試合に負けても堂々と胸を張ってマウンドをおりるつもりでした」公式戦二試合目(十八日の大洋二十七回戦)で勝ち星をあげ、三度目の登板で完封勝利。両リーグ研修あけ投手の中で中井だけがすばらしいピッチングをみせている。「公式戦に出たって一つくらいは勝てると思っていました。それでなければプロにはいりませんよ。やれると思ったから阪神にはいった。みんなそうじゃないですか?でもぼくは自分の力をまだ六〇くらいしか出していない。きょうだってカーブがきまらなかったらシュート・オンリーでした。だから2勝したといってほめられてもちょっとピンとこないんです」ピッチングも大胆、しゃべることも不敵。河西スカウトはこのスケールの大きさに目をつけて、強引に関大を一年で中退させたのだという。「きょうは一回を三人でかたづけたとき、三回まではだいじょうぶだと考え、三回が終わったときは六回までいけると思いました。それ以後はもう一点もとられない自信で投げた。大洋?近藤(和)さんを警戒したんだけど、なんだか肩すかしをくった感じだった・・・」中井はとてもルーキーとは思えない口調でしゃべった。中井のからだをよく知っている稲村トレーナーは中井のこれからをこう占う。「はじめて中井のからだにふれたとき、これはいけると思った。優秀な筋肉質で、村山とそっくりのからだなんだね。一日休めば調子が悪く、逆に投げれば投げるほどエンジンがかかっていくタイプだ。来年は村山、中井の二人の投手で阪神はまた強くなるんじゃないかな。まじめな性格だし、人一倍負けずぎらいだし、大投手になる要素はすべて持っているといっていい」三十五年夏の甲子園に大鉄高の投手として出場、近鉄・土井とは同級生。そして、お互いにものすごいライバル意識をもやしている。ウエスタン・リーグでは13勝1敗でハーラー・ダービーのトップだ。
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米田哲也

2016-12-11 09:16:16 | 日記
1966年

「本塁打はカーブやったな。高かったのでやめようかと思ったが、バットがひとりでに出たんや。一掃してからの左中間安打はまっすぐや」すごい汗だ。カメラのフラッシュを浴びて首筋まで流れ落ちる汗が光る。一イニング二安打はプロ入り初めてだ。勝ち投手になったことより、まずバッティングを楽しそうに話した。六回一死一、三塁で足立をリリーフしたときは自信があったそうだ。ブルペンで米田の球を受けた斎藤克は「いまのヨネさんならそう簡単には打ち込めない」と安心して見ていた。「井石、山崎を連続三振させたのはフォークボール。これでプロ入り16号かな」また本塁打の話に変わった。全選手の引き揚げたロッカー。試合が終わってかなりの時間がすぎたが、汗はふいてもふいてもとまらない。米田は汗の出る季節が好きだ。毎シーズンつゆにはいってムシムシしはじめると白星がどんどんふえる。今シーズンもこれまではまだ勝ち星三つ。だがとんと気にしていない。毎年のことなのでスタートでつまずいても自信があるのだろう。「これからですよ」大きな手で汗を何度もはらった。西宮球場にくる前、いつも浩史ちゃん(一つ)見てもらうかかりつけの医者(西宮・北口)に寄った。なんとなくからだがだるかったそうだ。「先生はぼくの顔色を見るなり、なにしにきたというんだ。元気なものが医者に会いにくるわけがないじゃないの。ちょっとだるいんだといったが、はよう球場に行けと見ようともしない」長年病人を見つづけている先生は体臭でからだの調子がわかるそうだ。診察室にはいってきた米田の体臭に圧倒されたそうだ。「えらいもんやな。ぼくのにおいで体調がわかるんだから。イヌじゃなくってなにかにおいをかいで回る動物があったな」と笑いとばした。ユニホームからムンムンする体臭が鼻をつく。いやらしいにおいではなかった。これで4勝6敗。西本監督は米田のこの日のピッチングをほめなかった。「あれぐらい米田がやるのは当然。おそすぎたんだ」試合前全選手にハッパをかけた小林オーナーは「久しぶるにすかっとした試合を見ましたわ。米田はこれから働きそうでんな」と笑顔で球場を出た。
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清俊彦

2016-12-10 22:28:39 | 日記
1966年

これでパーフェクト二回、ノーヒット・ノーランも二回経験した和田捕手は、七回二死後、ボレスの五球目に「記録はできたと確信した」そうだ。「カーブでカウントをとって2-2。つぎは外角直球。サインを出し、清がモーションを起こした瞬間、しまったと思った。ボレスがそこを予想してスタンスをかえてきたからだ。だがそのしまったと思った球をファウル・チップした。つぎ、ミットを高くあげて内角高めを要求すると清が即座にうなずいた。危険なコースのあと、ピタリとバッテリーの呼吸がある。そういうときは必ず記録ができた」清は八回になってやっと無安打を意識したそうだ。「ちっともいいとは思わなかった。第一最後まで投げられるかどうか心配していたらズルズル九回まで終わっていたんだから・・・」ひとごとのように、笑いもしない。「別にいい球もなかった。しいていえば、いつもより直球がきまってたというわけ。ボレス、土井さん、クレス・・みんなこわかった」日ごろから口数の少ないおとなしい男だ。テレビのアナウンサーがいきり立つが、ちょっとも乗ってこない。そんな調子だから、ベンチは七回からムリに清にノーヒットを意識させた。ふつうなら記録達成が近づくと緊張して「そっとしておこう」というところだが、この夜の西鉄は違った。中西監督、高倉らを中心に「あと五人、あと四人・・・」とうるさい。重松コーチもブルペンからベンチに通ずる電話でハッパをかけた。「フラフラするな。直球でドンドン内角をつくんだ」最後の打者伊香が出てくると「清と伊香からセイコー(成功)だ」などと、ダジャレまでとび出す始末。緊張感などまるでない。「和田さんのサインどおりに投げただけです。いまのピッチングではまだだめ。もっと直球のコントロールをつけなくては・・・」昨年好調なスタートを切ったと思ったら流行性肝炎で二か月入院。福岡市内でもっとも美しい公園、大湊公園を一望のもとに見おろす病院で「感ずることが多かった」そうだ。「ただ漠然と、投げていればいつか10勝か15勝くらいできるだろう、なんて考えていた自分の甘さに、気づいたんです」同期の石田投手を誘って自宅(宮崎県高鍋市)付近の山を走りつづけたのはことしの一月から二十日間。重松コーチは「キャンプで見たとき、即座に先発組のローテーションにはいれる」と感じだそうだ。「打ち気にはやる打者の、タイミングをはずしながら投げたのがよかった。清はカーブを多投するから、みんなカーブをねらってくる。そこをシュート、直球、スライダーではずし、カーブをねらわないと見るとカーブばかりで裏をかいた」和田捕手がうれしそうに話す横をのっそり通りすぎた清は、フロにとび込んだとき初めて顔をクシャクシャにして一人で笑っていた。
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松本忍

2016-12-10 22:02:27 | 日記
1967年

中日投手陣の救世主ー左腕・松本投手は、いかにもピッチャーらしいからだつきである。投球モーションを起こしたところを、とくにご覧ねがいたい。「オヤッ?」と気づくことがある。それはこのときの格好だが、実に金田投手(巨人)に似ているという点だ。もちろん、全体のフォームは、金田のソレとはちがうが、上から投げおろした角度のあるカーブには、どことなく共通点がある。打者の手元で、大きく割れながら落ちるカーブは、低めのコースいっぱいに決まる。本紙評論家の大島信雄氏が、この写真を見て「ソツのないフォームだ。とくにいいのは、タマを離す腕の位置が遅いこと。これだけで打者は相当幻惑されるだろう」とうなった。産経打者が、このカーブにマトをしぼったが打ちこめなかった秘密が、こんなところにうかがえる。カーブの制球力は逸品。これで速球にいまひと息のスピードとコントロールがつけば、オニに金棒。とにかく上の写真の投球フォームには、ほとんどケチをつけるところがない。
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松本忍

2016-12-10 21:53:53 | 日記
1967年

若武者の名がふさわしい十九歳の左腕松本が、昨年から産経に地元で通算7連敗とふがいない敗戦をつづけていた中日を救った。これまで、出る投手がすべて産経のホームラン攻勢の前にあえなくお手上げといった現状だった。この夜の松本は8連敗にストップをかけたばかりか、待望のプロ入り初勝利を飾ったのだから、中日にとってはまさに救世主といえる。「小僧、おまえが投げるのか」三回板東が高山に一発をかまされ、四回から松本がマウンドに上がったとき、産経ベンチからこんなヤジがしきりにとんだ。当たりに当りまくっている産経ナインにとって、板東に代わって出てきたのが前日1イニングを投げてはいるが、一見ひ弱な、無名に近い松本だっただけに「なんだ小僧」と思ったのも当然だった。ところが回を追うにつれて、産経ベンチから声が出なくなった。「おや、おかしいぞ」五回ロバーツのタイムリーで同点にしたものの、六回には豊田、徳武、武上がカーブをから振りの連続三振。そして最後までそのカーブが打てない。マウンド上の松本はひょうひょうと投げ、九回あとひとりで初勝利というとき代打別部の三ゴロを権藤が一塁に悪投して、別部は二塁に進み、もし一発出ればすべては無になるという大事な場面でも、顔色ひとつ変えず、最後の打者山本八を三ゴロにしとめた。「よくやった」産経戦に勝ってベンチが大喜びする場面などはかってなかったことだが、西沢監督もわざわざマウンドまでかけ寄ると帽子をとって祝福した。プロ入り初勝利の声は落ち着いていた。「登板は急にいわれました。感想?うれしいが、別にどうってことありません。カーブがよかったので、カーブを投げまくりました」童顔をほころばせながらはっきり答える。公式戦には昨年の対巨人二十回戦に初登板、そのとき2/3イニング投げて王を三振にとった記録はあるが、それにしてもこの夜がプロ入り4試合目の投手とはとうてい思えない。松本はさる三十八年、長崎県諫早市北諫早中学から池田スカウトに見いだされ養成選手として入団。当時池田スカウトはよくこんなことをいっていた。「実に頭がよく、運動神経が発達している。それに父親(定吉氏)も勝ち気な人。いったんプロにはいった以上一人前の選手になるまでは郷里に帰さないでほしいといっていた」と。その松本が翌年からは昼は二軍と一緒に野球に励み、夜は名古屋の中央高校に通って今春卒業した。当時養成担当をした村野コーチは「どんなにつらいことがあっても泣きごとは絶対はかなかった」という。技術面のアドバイスをしてきた大友コーチは興奮のおももちで「きょうの松本の好投は決して偶然ではない。昨年に比べてスピードとタマに刀が出てきた。武器はカーブだが、そのカーブを大小自在に投げ分けるのが強みだ。これも養成中に基本をがっちり身につけたからだ」と満足そう。とにかく中日にとっては待望久しかった本格派左腕の出現である。「今後はもっとからだをつくることだな」と近藤コーチ。現在も1㍍78、70㌔。これからぐんぐん伸びるホープだ。養成といえば西沢監督もかつては名古屋軍の養成選手。この若武者を本紙評論家・吉田正男氏は「産経打者の大振りに助けられた面もあったが」と前置きしながらも「コントロールがいい。ピンチにも動揺せず、カーブには自信を持っている」と文句なくほめ「左投手のいない中日投手陣にとってまことに明るい材料だ」といっていた。
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高島昭夫

2016-12-10 08:42:54 | 日記
1964年

今季プロ入り第一号だった東映のルーキー高島昭夫三塁手(20)=神奈川大中退、1㍍81、80㌔、右投右打=は、十八日の対近鉄戦(神宮)で試合前ナインとともに初練習した。背番号68。背の高い高島はナインの中でひときわノッポが目立った。フリー・バッティングは井上を相手に二、三十本打ったが、振りおくれてほとんどの打球が右翼方面。バットを垂直に立て両足のつま先をやや内側に寄せるフォームで、同チームの捕手鈴木悳に似ていた。「一か月も練習していないのでバットが出ない」と高島はややあがりぎみに弁解していた。藤村コーチは「バック・スイングがまだ小さい。しかし力があるから楽しみ」といっていた。なお高島はベンチ入りはしなかった。
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渡辺泰輔

2016-12-07 20:55:19 | 日記
1966年

渡辺は対西鉄戦に過去二回登板したときより、きょうの方がはるかに球がおそかった。それでいて西鉄を六安打の1点に押え込み、完投勝利を飾れたのは、ちゃんとした技術的な裏付けがあったからだ。スピードに変化をつけた。これが球の走らない渡辺を助けた最大の原因といえよう。打者の手元にきたボールが鋭く縦ゆれしながらスーッと落ちる。パームボールだ。それが実にいいところに決まった。内角にくるとシュートの感じでくい込み、外角にいくとカーブのように曲がって逃げる。西鉄打者が手こずったのは直球でもなければシュートでもない。全部このボールにひっかかって凡ゴロを打たされたのだ。一番から九番まで必ず一球このボールを投げた。とくにクリーンアップ、ピンチのときはほかの球と交互に投げるといったぐあいに多用した。長打力のあるアギー、パーマを一、六回のピンチに迎えたときはその代表的なものである。初回、アギーを見のがしの三振にしとめたときは一球目からパームボールを内角にほうってきた(ファウル)。二球目の外角にシュート(ファウル)2-0と追い込むと、速い球で外角をついた(意識してボールにする)2-1から内角に投げた球は横に大きくゆれながらヒザもとでスーッと沈んだ。バッターが投手の球を選ぶ場合、ボールと思って見のがすと、完全にウラをかかれて見のがしてしまう二つのケースがあるが、この夜の渡辺対西鉄打線は後者といっていいだろう。身上とする速球が思うようにきまらず、苦しい状態にあるとき、それにかわる球をマスターしたのは、こんごの渡辺に大きな強みといえる。一方完全試合を樹立した田中勉は南海に自信を持っていたはずだ。しかし球威がない場合、それを補う球を持たないだけにピッチングが苦しくなる。二回早くも球威のなさをまざまざとみせつけられた。二死一、二塁で杉山にホームランされたボールなど、なんの変化もせずにスーッと内角へはいる絶好球。田中勉とすれば、年をとった杉山には、とにかく内角に速球を、といった気持ちで投げたのだろうが、球威がなければ、こんなみじめな打たれ方をされるのだ。調子が悪ければ、それなりにもっとくふうしたピッチングを会得してもらいたいものだ。
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林健造

2016-12-07 20:28:57 | 日記
1966年

板東が出てきてから三原監督はナインに二つの仕事をなんどもくりかえしていた。①板東は速球でグングン押してきている。それにマトをしぼって気遅れせずに向かっていけ②ゴロは打たずにフライをあげるようにしろ。いい角度でとべば風のあと押しできっとスタンドにはいる。九回、林が放ったサヨナラ・ホーマーは三原監督のこの二つのアドバイスをそのまま生かしたものだった。三試合連続ホーマーというはなれわざをみごとにやってのけた林はいう。「2-0と追い込まれたんで、高めの速球にだけはつられないように注意した。ねらい球はもちろんまっすぐ。きょうの板東さんは気負い込んで速球で押してきましたからね」その速球に、八回から九回にかけて大洋はたてつづけに4三振をとられている。しかもこの林の劇的な一発が出る直前にも、ベテラン近藤和があっさり三振しているのだ。「林という選手は少々のことには動じないず太い神経をもっている。だから、こういう選手はみんながダメなときにとてつもないことをやりうち要素を持っている。松原とともに近い将来必ず大洋の中軸を打つ打者になるでしょう」林の持つプラス・アルファを見込んでこういいつづけてきた三原監督は試合後、会心の笑みを浮かべた。林のもうひとつの特性は二塁、遊撃、三塁、外野とどこでもこなせることだ。そして、この特性が激しくコマを動かす三原監督の好みともまた一致している。「どこが一番自信があるかって?自信はありませんが、どこだって出してもらえれば楽しいですよ」あっさり楽しいというところは、いかにも万事におうような林らしい。昨年は九十八試合に出て打率二割五分九厘、4ホーマー、15打点だったが、大物の片りんだけは示していた。七月八日の札幌での対巨人十四回戦、延長十一回、高橋明から中堅バック・スクリーンに決勝ホーマーをたたいている。しかもこれがプロ入り初ホーマー。そのころからただものではなかったらしい。報道陣にかこまれた林をみて、ナインはただ「たまげた」「たまげた」とくり返していた。
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嵯峨健四郎

2016-12-07 19:47:36 | 日記
1966年

完投勝利には微妙なものがからんでいた。六回、種茂が無死から中前安打したあと、是久の送りバントが失敗、三ゴロで併殺となった。次打者は嵯峨。水原監督は「是久のバントが成功していればもちろん嵯峨にかえて代打坂崎だった」という。もしこんな場面なら南海もすぐ村上のリリーフだったそうだ。しかし是久のバントは失敗。そのために嵯峨は続投。これが完封につながった。三回の対西鉄戦で一イニングに2ホーマーを含む四安打でめった打ちされ、先月もわずか1勝しかしていない。それも一イニング投げて張本のサヨナラ・ホーマーに助けられ、もらったような1勝だった。そういえば嵯峨が登板したとき張本はよく打っている。調子の落ちぎみだった嵯峨にとって完封勝利は四月二十七日以来。「南海戦となると負ける気が全然しない。どうしてか自分でもわからない。ただマウンドに立つと気持ちがものすごく落ちつく」南海に強いという自信のせいだろうか。この夜は得意のスライダーをあまり使わず、内角へストレート、シュートを多用したという。「最近打たれているのはスライダーをねらわれているからだ。きょうよかったのはおそらく真っ向から勝負したためじゃないか」宮沢スコアラーはこんなふうに見ていた。二回の無死満塁というピンチで小池に「やけくそでストレートを投げた」というが、小池は嵯峨を打率六割強でいつもカモにしている打者。それが三ゴロに終わったのも幸運なめぐり合わせだった。だが苦手の村上から貴重な先制の右翼線二塁打をとばした張本は「ケンちゃん(嵯峨のこと)勝つべくして勝ったよな。オレもきょうはものすごく気力が充実していた。打ったのはカーブだったが、投げる前から打てるという予感があった」と話しかけた。張本と嵯峨はいつもヘボ将棋をする好敵手。どちらも首位南海を破った喜びのせいか、いつまでも二人は笑いっぱなしだった。
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