goo blog サービス終了のお知らせ 

プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

村上俊義

2017-03-13 16:59:59 | 日記
1964年

阪神はさる一日から、来シーズンの契約更改をはじめた。問題の人、村上は、初日に球団から呼ばれた。午前十一時から大阪・梅田の阪神電鉄本社三階会議室で岩間常務と話し合った。会議室にはいるまえ、村上はことし12勝、最多勝利投手になった実績があるだけにかなりの昇給を予期していた。だが、岩間常務の口からでたことばは全く意外なものだった。「来シーズンのメンバーにキミははいっていない。トレードの申し入れがあれば出してやるが、ないときは自由契約選手にする」村上はびっくりした。そして返事もそこそこに会議室を出た。どうだったの?いあわせた二、三人の記者が聞いた。ブ然とした表情で村上はこたえた。「ことし12勝もしたのに・・・。ファームではいくらがんばってもいかんのだろうか」そのあと記者は戸沢社長に、村上をトレードか、さもなくば自由契約選手にした理由を聞いた。「ファームでは働けるが、一軍では使いものにならないからだ」村上は、東筑高を出て三十五年の暮れ、ブリジストン・タイヤから阪神入りした。ブリジストン・タイヤでは中日の権藤と同期。入団発表の席でも胸をはっていったものだ。「ぼくはブリジストンでは権藤よりタマがはやかった。速球には自信がある」前半、中日入りした権藤は30勝を記録していた。報道陣は村上の自信の強さに目を丸くした。村上はことばどおりタマはめっぽうはやかった。だが、コントロールがなかった。このため三年間鳴かずとばずに終わった。ことし、藤本監督はこんな村上に目をかけた。タマがはやいところから、巨人戦用のピッチャーにと考えたのだ。キャンプでは杉下コーチがつきっきりで教えた。監督自身が手をとって教えた場面もたびたびみられた。その結果、コントロールもかなりよくなり、一軍では働けなかったが、ファームでは最多勝投手になるまで成長した。「ことし一軍にあげてもらえなかったが、来年はがんばる」と公式戦終了後話していた。十一月十三日の長崎を皮切りに行われた九州の四強オープン戦のメンバーにも村上ははいっていた。村上にとってはオープン戦は一軍にあがる登竜門といってもよかったのだが、結果はかんばしくなかった。十四日の佐世保のゲームで救援に出たが、1回1/3投げて被安打3、自責1。リリーフの役目をはたせなかった。そしてこの日のピッチングが「あいつは一軍では使えない」と球団が考える決定的な動機となった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 村上俊義 | トップ | 村上俊義 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

日記」カテゴリの最新記事