1971年
南海のスタート・メンバーが発表されたとき、一塁側スタンドから「ハヤシ、まだいたのか」とヤジがとんだ。その林に決勝打を打たれたのだから、東映ファンもくやしかったろう。林の名が忘れられてから久しい。四十年だから、もう六年も前になる。17勝3敗の成績を残して、パ・リーグ最優秀勝率投手となり、日本シリーズでは巨人相手に、南海ただ一つの勝ち星をものにした。ただこの年をピークに林の左腕はしぼんでしまった。左ヒジの故障に泣き、球威は落ちる一方。四十一、二年は勝ち星なく、四十三年7勝、四十四年2勝。昨年はついに1試合に登板しただけ。しかも二回投げ、3安打で3点を取られるというさんざんの出来だった。この林が突然復活した。「十日前ぐらい前だった。打者に転向しろよといわれて、無条件でとびついた」ヒジの痛みと戦い続けたこの六年間が、林にはよほどつらかったに違いない。打者転向の指示を待ち構えていたようである。まず右翼の守備から練習を始めたが、二十二日の近鉄戦では、いきなりスタート・メンバーで、しかも未経験の一塁。だが3打数1安打を記録して上々のスタートを切り、この夜と合わせて6打数2安打となった。「守りは心配で心配で。ゴロがとんできたら足が動かない」と嘆く。でもバッティングには「打つ方が気楽でいい。なんとかバットに当るから」といささか自信がわいてきたようだ。もっとも中京商時代には、投手のほか、右翼、一塁もこなし、木俣(現中日)の三番に続いて四、五番を打っていたから、打つ方にも素質があるわけ。しかもスイッチ・ヒッターである。東映が右腕の皆川から、左腕の中原勇にリレーしたから、交代しなければ右打席でも快打を見せたかもしれない。「林がよう打った」と野村監督も祝福した。まだ二十七歳、これからだ。「ハヤシもあるでよう」東映ファンのやけくそのヤジがむなしかった。
南海のスタート・メンバーが発表されたとき、一塁側スタンドから「ハヤシ、まだいたのか」とヤジがとんだ。その林に決勝打を打たれたのだから、東映ファンもくやしかったろう。林の名が忘れられてから久しい。四十年だから、もう六年も前になる。17勝3敗の成績を残して、パ・リーグ最優秀勝率投手となり、日本シリーズでは巨人相手に、南海ただ一つの勝ち星をものにした。ただこの年をピークに林の左腕はしぼんでしまった。左ヒジの故障に泣き、球威は落ちる一方。四十一、二年は勝ち星なく、四十三年7勝、四十四年2勝。昨年はついに1試合に登板しただけ。しかも二回投げ、3安打で3点を取られるというさんざんの出来だった。この林が突然復活した。「十日前ぐらい前だった。打者に転向しろよといわれて、無条件でとびついた」ヒジの痛みと戦い続けたこの六年間が、林にはよほどつらかったに違いない。打者転向の指示を待ち構えていたようである。まず右翼の守備から練習を始めたが、二十二日の近鉄戦では、いきなりスタート・メンバーで、しかも未経験の一塁。だが3打数1安打を記録して上々のスタートを切り、この夜と合わせて6打数2安打となった。「守りは心配で心配で。ゴロがとんできたら足が動かない」と嘆く。でもバッティングには「打つ方が気楽でいい。なんとかバットに当るから」といささか自信がわいてきたようだ。もっとも中京商時代には、投手のほか、右翼、一塁もこなし、木俣(現中日)の三番に続いて四、五番を打っていたから、打つ方にも素質があるわけ。しかもスイッチ・ヒッターである。東映が右腕の皆川から、左腕の中原勇にリレーしたから、交代しなければ右打席でも快打を見せたかもしれない。「林がよう打った」と野村監督も祝福した。まだ二十七歳、これからだ。「ハヤシもあるでよう」東映ファンのやけくそのヤジがむなしかった。
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