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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

石田真

2020-08-08 12:40:58 | 日記

1973年

昨年暮れ、十二月中旬の入団発表で足利から来阪した新幹線の車中のことであった。同行した足利工・樋口監督にこう話しかけた。スポーツ紙を見て、ちょうど仲根(日大桜丘ー近鉄)のことが大きく報道されているのを「東京と僕ら田舎ものの差かもしれませんね」と。人気のことをいったのだ。一見、おとなしそうな裏側に「実力で勝負だ」というひびきがこもっていた。「仲根君や、鈴木君(成東高ー中日)には絶対に先を越されるものか」年末からほとんど休みなしで走り続けているその顔に「初勝利へ一番乗りだ」の心意気が満ちあふれている。自宅の栃木県田沼町自宅の周辺の野山は自然のトレーニング場で、さらにたくましく伸びようとしている。「プロ野球はきびしいところです、キャンプから後れを取っては声援してくれる先生や父、家族にかっこうが悪いですからね」自主トレーニングをめざし、さらに足、腰を強くするため鍛錬に懸命だ。恵まれたからだの中で、もっとも自慢できるのはその足と腰のたくましさ。自宅から学校まで往復22㌔の山道を自転車通学。「最初の一念はやっぱり辛かったです。二、三年にはなれて苦にならなくなりましたけれど…」樋口監督も強調する三年間の無遅刻無休が体力と心の養成に今後もどれほど役立つことだろう。昨夏の甲子園大会では一回戦名護高に5-4で完投勝ち。この試合の八回、一死、一、三塁のピンチのマウンドで終戦記念日の黙とうが行われ、その一分間で自己を取りもどし切り抜けたのが印象に残る思い出の一つ。二回戦では中京高の巧いバント戦法に0-4で敗れたが、投げ降ろす速球の威力は各球団から注目されるのに十分だった。かつて投手王国の阪急も米田の年齢とともにその看板もすっかり薄れてきたいま、久しぶりに入団した本格派の金の卵に球団が描く夢はむろんでっかいものだ。丸尾編成部長の期待と注文はこうだ。「上背もあり、肩も強いし立派な素材です。球が速いのがなんといってもすばらしい魅力。カーブの角度が甘いこと、シュートをマスターすることなど、勉強も多いがその好素質は今季最高だとわたしは思っています」胸幅99㌢という見事なもの。がんばり屋というタイプはなんだか米田に似通っている。第二の米田と球団が力コブを入れているのもうなずけるのである。

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花増幸二

2020-08-08 12:20:05 | 日記

1978年

高校野球監督の夢を捨てエイッとばかり厳しいプロ野球に飛び込んだ青年が日本ハムにいる。花増幸二投手(22)=鹿児島大=。現役のプレーヤーのなかでは唯一の国立大学出身者という変わり種。大沢監督は「いまから野球を覚える段階」とみているが、本人は「プロ野球に耐えられる体力を作って早くマウンドに立ちたい」と大張り切りだ。花増は川内市出身で今春鹿児島大教育学部を卒業見込みの秀才。すでに高校の体育教師の免状を持っており、都道府県教委の教員試験に合格しさえすれば、今春から教壇に立つことができる。本人も少年時代からの夢だった高校野球監督めざして勉強に励んでいた。ところが、ことし鹿児島県は高校の体育教員採用を中止、地元でという第一希望がダメなら教員不足の東京近県の埼玉、千葉、神奈川でもいいと思っていたが、昨年十一月突然日本ハムからお声がかかった。「大学で野球をやっていた以上プロ野球には興味があった。もちろん自分は入るとは夢にも思わなかったですけどね」十一月二十二日にドラフト会議があり、日本ハムは石井邦彦投手(大東文化大)をはじめ六人の有望新人を指名した。しかしその一方では、ドラフト外で目をついた選手を物色、瓜生編成部長が花増の素質を高く買った。最初はとまどった花増も「どうせ東京に出て行って高校野球の監督をやるなら、いっちょ腕試しのつもりでプロに入ってみよう」と決心、十二月九日、川内市内の自宅で契約した。契約金六百万円、年棒百六十万円(推定)は、教師になるより収入は少ないが、花増は「男は金だけじゃない」とたくましい。年が明けてさっそく上京。十六日から始まった若手投手陣の自主トレに参加、二十二日からの合同自主トレでも背番号56の真新しいトレーニングシャツを着てグラウンドを駆け回っている。「やっぱりプロの選手は、並たいていな体力ではついて行けませんね。大学時代は遊んでましたので自分自身にそれほど期待はかけていませんでしたけど、ことしと来年は体力づくりで終わりそうですよ」と笑うが、ドラフト一位指名の石井がたっぷり四時間の猛練習にアゴを出しっ放しなのに比べ、花増は苦しそうな表情は見せながらも食いついて行っている。大学時代は南九州国立大学対抗リーグで五十、五十一年と最優秀投手に輝き、四年間で三十勝近く勝ち星をかせいだという。自分の実力を知っている花増がマウンドに立つ日が楽しみだ。

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浜名敏幸

2020-08-08 11:56:55 | 日記
1975年
 
南海は十四日午後二時から、大阪なんばの大阪球場内会議室で、ドラフト三位指名の臼杵商高、浜名敏幸投手(18)の入団を発表した。背番号は「53」。南海のドラフト入団は同投手で終わった。父親・和男さん(43)につきそわれた浜名投手。発表の席では、森本代表と野村監督の間にはさまれて、ちょっぴり硬くなった様子だが、矢継ぎ早に飛ぶ質問には落ち着いて返事した。騒がれている高校ビッグ4への競争意識を聞かれ「彼らのことを考えるのは邪念。自分がうまくなって追い越せばそれでいい」と言い切ったところなど、良い根性だ。九州男子の心意気か。反骨精神を秘める浜名。こんなエピソードも披露した。高校進学のとき、名門津久見の小嶋監督からしきりに勧誘された。臼杵と津久見は隣接の市、通学距離は問題ないはずだが「臼杵商に入って強い津久見を破りたい」と最後まで誘いにのらなかった。二年のとき、練習試合ながら完投して3対2で津久見に勝って念願を達成。臼杵商創部以来、対津久見の初勝利だった。「早く日本一の捕手の野村監督に球を受けてもらえるようになりたい」と言う浜名について仲人役の石川スカウト(小倉駐在)はこう見ている。「純粋な本格派。野性味たっぷりで、将来が楽しみ。順調に伸びれば定岡君(巨人)に負けないはずだ」高校時代の藤原監督は、陸上競技出身だったので、浜名に細かい指導はしていないとか、だから、今後伸びる可能性が大きいだろう。同スカウトは「性格は向かっていくタイプ。プロの水に合うのではないか」といっている。高校では通算「100試合ほど登板」して、一試合平均の奪三振は13個。失点はおおむね2点以内という。速球派だ。「ファンが求めているのは技巧派より、スピードで押し切る投手と思う。浜名君は幸い天性の強肩の持ち主のようだ。杉浦(現近鉄コーチ)以来速い球を受けていないし早く一人前に育ててみたい投手の一人」と言う野村監督の期待に、浜名は背筋をシャンと伸ばした。短く刈り込んだ頭と、黒い学生服がすがすがしい。
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筧文夫

2020-08-08 11:37:30 | 日記
1975年

日本ハム球団はドラフト指名外の特徴のある有力選手をひそかに物色していたが、このほど福岡六大学野球リーグ戦の福工大・筧文夫外野手=身長173㌢、体重76㌔、右投げ右打ち=を獲得、十日、東京港区六本木の同球団事務所で正式発表する。同選手に目をつけたのは九州駐在の瓜生スカウトで「体は小さいが、俊足、強肩、好打で、第二の弘田(ロッテ)をめざせるだけの好素質」という。福岡六大学からは、すでに長松純明捕手(福工大)がロッテ、川村博昭外野手(九産大)が太平洋ク入りを決めている。筧選手は長松とともに中津工から福工大に進学し、一年生からレギュラーで活躍。百㍍を11秒9で走り、打順は一、三番を打っていた。全国大学選手権には三回出場、四十七年に結成された福岡六大学リーグ戦では三年間(六シーズン)で計246打数、104安打、6本塁打、4割2分2厘の好打率をマークしている。打法はシャープに振り抜き、センター中心の打球が多い。また計68盗塁のリーグ記録をマーク、ベストナインには二回選ばれている。同選手は九日午後、ロッテの自主トレ参加の長松選手と空路上京した。

筧外野手の話 ドラフトでは指名されなかったが、要は自分の力を最大限に発揮して、一流選手になるよう努力することだ。武監督(福工大)の教えを守り、長松、川村らと励まし合って、私たちの夢(スター)を実現させたい。
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岡村佳典

2020-08-08 11:19:17 | 日記
1970年

口をとがらせ、目をギョロつかせて雄弁だ。「ぼく、人間開眼したんですよ。そうしないともうプロ野球でメシを食えなくなってしまいますからね」プロ入り四年目、勝ち星はまだゼロ。「そういつまでもタダメシを食うわけにはいきませんよ」-そこでことしは奮起の年となった。そういえば、昨年暮れから一月十日まで、約一か月間、奈良県の生駒山でひそかに山ごもりをしている。「正月がなかったのは生まれて初めて。平地で柔軟体操をしてはランニング、そして神社の階段を一気にかけあがったり…」の猛トレーニング。古都奈良を遠望しながら座禅も組んだ。体力つくりもさることながら、精神修養が大きな目標だった。「人間、どこまで耐えられるか。そう思いついたら、やみくもにやりたくなった」-これがユースホステルを利用しての山ごもりに結びついたのだ。「山ごもりに比べると、島原キャンプは楽なもの」-いまでは、どんな猛練習でも肉体的な苦痛は全く感じないそうだ。だが、かんじんの精神面は「まだ充実しきれない」という。持って生まれた性格は、そう容易に変わるものではないと、最近はあきらめたようだ。「とにかく寂しがり屋なんですよ。それに見栄っぱり。人もいいほうで…どうも困ったものですよ」と自分でいうのだからまちがいないだろう。ことしの岡村は芽を出すだろうか。「素質はいいのだから、あとは精神面の充実だけ」と、稲尾監督もみている。キャンプの岡村はすばらしいスピードボールを投げている。リストの強さはチームでもトップクラス。「わかっているんです。でも、人と同じタマを投げてもぼくのは打たれる。それはぼくのタマに心がこもっていないからですよ。そうなんです」-集中力の欠如を岡村は反省している。「ぼく、ことしは絶対にやりますよ」キャンプ初日からそっていないアゴひげが1㍉ほどに伸び、強い岡村をしきりに売り込んでいる。
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辻原幸雄

2020-08-08 11:01:08 | 日記
1968年

スピードでは河原に一歩ゆずるが、重いタマを投げて注目されるのが辻原だ。川内高のエース辻原に西鉄スカウト陣が目をつけたのは、南国鹿児島の県予選で炎天下ぐいぐい投げまくって疲れを知らなかったタフな点である。自主トレから島原キャンプと河原、高木らの新人、移籍組が、西鉄のハードトレーニングにネをあげる中で、きつい練習が楽しくてしようがないといったかっこう。いつもニコニコとハードトレーニングをこなしているのが辻原だ。スカウトの目には狂いがなかった。ピッチングフォームは巨人の中村稔のような感じで、オーバースローである。腕の振りは中村稔よりも小さいが、若さとスタミナを誇るだけに、力強さは辻原のほうが上ではなかろうか。これまでの辻原はただ力まかせに投げてきたともいえる。フォームの堅さを指摘され、夜の特訓ではシャドーピッチングに必死で取り組んでいるが、最近ではかなりなめらかさが出てきた。重松コーチは「辻原の利点はあくまでも生かす」という。力感あふれ、打者に威圧感を与えるフォームなので、辻原の特徴を生かすためには、必要以上になめらかさを要求しないという方針のようだ。西鉄のピッチング練習は5-6の力で投げる段階だが「いいタマをほうる」と首脳陣は、辻原の球質の重さとスイフトを高く評価している。変化球の段階にはいってからどんなきれ味を見せるかは未知数。まだまだ基礎から積み上げていかなければならない辻原だが、タマの出が他の投手とはかなり変わっているのが利点だ。「外人ばりの投法とタマの出。打者にとっては打ちにくいタイプだ」というのが西鉄捕手陣の辻原評。だが辻原がかれの持ち味をフルに発揮するには、コンビネーションとコントロールにみがきをかけなければならない。辻原は「コントロールには自信がある」という。入団契約書にサインを終えたとき、大声で「ヨシッ、これで決まった。やるぞ!」と叫んだ辻原のファイトは、ライバル河原に負けるもんかと燃えあがっている。
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